待ち人、来る
今年の正月は、とてもぽかぽかした陽気で、まるで冬の大地をお日様が覗き込んで、ふう、と暖かな息吹を零しているような、そんな肌の冷たさを全く感じられない珍しい気候となった。それは僕の沈んだ心を少しだけ癒してくれたけれど、同時に少しだけ傷の痛みを思い出させることとなった。彼女と一緒に初詣に来ることはなく、一人でその神社へと向かって列に並んでいたのだった。
今年の正月は散々だな。そう思いながら、僕は少しムカムカした気分でスマートフォンを弄っていたけれど、列は神社の周りをぐるりと囲っていて、遥か後ろまで続いていた。実家に帰って正月を迎えることも考えたけれど、彼女と別れたこの惨めな気持ちで実家に帰って、一緒に賑やかな正月を過ごす気にはなれなかった。
元旦は一人で物思いに耽りながら、今後のことを考えて、一人になりたかったのだ。心はどこか遠くへと飛んでいるのに、体はいつまでもその街から離れられなかった。魂の向かう先は、やはり彼女のすぐ傍だった。それは認めるしかなかったけれど、今更もう引き返せないし、僕はただ冬の暖かさを噛み締めて、その矛盾した事実に心をぬかるみにまどろませるしかなかった。
そうして今日何度目かの溜息を吐いたけれど、僕は彼女のメールアドレスに何かメールを送りたくて堪らなかったのだ。やり直そう、なんて今更言う気にはなれないけれど、ただ「せいぜい自分のアホさに身悶えした人生を送るんだな」と悪戯に書き込んで、その文面を何度も見て時間を持て余していた。
絶対に送ろうとは思わなかったけれど、ただそうして彼女への罵倒の言葉を書いていれば、この未練が怒りへと変わって、すっぱりアドレスを削除して忘れられるんじゃないのか――そう思っていたのだ。そもそもアドレスは変えてしまっただろうし、僕の男の癖に思い切りのないうじうじした性格がどれほど滑稽かを自身で実感するのだった。
そうして僕が悶々とスマートフォンを覗き込んでいると、ふと前方で若い男女の話し声が聞こえた。先程まで黙っていたのだけれど、二人とも本殿へと近づくにつれてぽつぽつと言葉を交わし始めていた。
「そいつ、本当に嫌な男だったのか?」
若い男の声は、どこか女性を気遣う慈しみに溢れていて、ゆっくりと背中を叩いているのが視界の端に見えた。彼女もその男に身を寄せてうなずき、どこか自嘲げな声でつぶやいた。
「その時は本当に嫌な男だなって思ったけどさ、今思うと、そんなに悪い奴じゃなかったような気もするのよね。一途だし、芯はしっかりしてるし。でも、ちょっと頑固なところがあったわね」
「別れて正解だよ。お前のことを何度も怒ったんだろ? 一緒にいて気分が悪くなる男となんて、付き合わない方がいいよ」
「そうね。私も、なんか色んなことを引きずる性分をしてるのね」
僕はそこで胸の奥で、何かがおかしい、と思ったのだ。その声があまりに聞き覚えがあって、心の奥に疼く何かを今にも解き放って、叫び出しそうな、そんな衝動を湧き起こさせた。僕はゆっくりとスマートフォンから顔を上げて、その前の二人を見遣った。そして――。
ブッ、と噴き出しそうになった。
その女性は、間違いなく僕の別れた彼女――時山沙友里だった。彼女はその背の高い男の腕に手を掛けながら、僕には一度だって見せたことのない、柔らかな純粋な笑顔で、その男の端正な顔を見上げている。その眼差しは、かけがえのない人に向けるまっすぐな心が溢れるように籠められていて、僕は思わず喉を震わせて、スマートフォンを振り落しそうになってしまった。
嘘だろ、何でこんなタイミングで沙友里と会うんだよ……気まずすぎるだろ、これ。僕は思わずダウンジャケットのポケットからマスクを取り出して掛け、帽子を深く被った。その列から抜け出そうと思ったけれど、今沙友里がどんな男と付き合って、どんな状況にいるのか、知りたかったのだ。
ゆっくりと顔を上げて彼女達の様子を窺う。その男は僕より五歳ぐらい年上で、二十半ばぐらいだろうか。沙友里は彼といると本当によく笑って、会話を弾ませていた。けれど、その会話が僕との逸話に関するもので、本当に苦々しい痛みが胸を内側から突き破ろうとした。
「だけど、もう彼とは終わっちゃったから。仕方ないの。もう私には縁のない人だし。でも、これだけは言えるけど――私、本当に彼のこと、好きだったから」
僕の喉が痺れて、空気の塊が舌を突き破って、吐息となって零れた。彼女のそのつらそうな笑顔は、僕が彼女と付き合っている時に何度も目にしてきた、彼女が本音を語る時に見せる表情だった。僕は彼女の顔を思わず食い入るように見つめて、何か言葉を零しかけたけれど、ぐっと堪えた。
駄目だ……今僕がここで声を掛けても、この男と言い合いになるだけだ。それに、そんなショックを彼女には与えたくない――そう思って、僕は今でも彼女のことを心の底では気遣っていることに、苦笑した。しかし、そのスマートフォンを握る手に力が入った時、有り得ないことに、その指が送信ボタンに触れた。
画面に、メールを送信しました、と表示が出た。僕は思わず、嘘だろ、と呆然と心の中でつぶやいてしまった。今度こそその場を離れようと思ったけれど、彼女はふと鳴った着信音にポケットをまさぐり、スマートフォンを取り出して操作した。そして――。
視線を伏せ、俯いてしまった。どうしたんだ? と男がその画面を覗き込み、そして、「こいつ……」と怒気を滲ませた声を零して歯を噛み締めたのがわかった。
僕は自分がしてしまったことに、手が震えて、スマートフォンを落としてしまった。しかしそれは、自分のポケットの中で柔らかく着地し、今度こそ僕の心に決着が付いた瞬間だった。彼女との心の糸が、確かにぷつりと切れたのが、無意識にわかったのだ。
僕の方こそ、本当に――アホさを噛み締めなくちゃな。そう思った。
「こいつ、本当に最低な奴だな。お前もお前だよ。何で、着信拒否とかアドレス変えていなかったんだよ」
「ごめん……私もね、本当に決断ができない女なの」
そう零し、彼女はスマートフォンをコートに仕舞うと、すぐに男を見上げて言った。
「でもね、私――こんなこと言われても、絶対に……」
嫌いになれないの。
その棘が突き刺さったささくれだった言葉の一つ一つが、彼女の掠れた喉を突き刺して、僕の心を深く貫いた。そこには痛みしかなかったけれど、僕らの本当の想いが確かに心の糸ではなく、心の繋がりを引き寄せて、見えないところで確かめ合ったのがわかった。
彼女は今でも、僕のことを好きでいてくれたのだ。それは、僕も同じことなのだ。でも、今の僕はもう、彼女を受け止める資格はないし、彼女も新しい恋に踏み出そうとしているのだ。だから、もう全ては終わってしまった後だったのかもしれない。
「沙友里も、本当に……」
「馬鹿だけど、許してね。こんな女でしかいられないから」
沙友里が泣き笑いのような弱弱しい表情を浮かべると、男はふっと笑って、そんな彼女でも受け止めて、肩を叩いてあげたのだった。僕はそれを見て、この男なら、沙友里を絶対に不幸にはしないだろうな、と思った。本当に二人の結びつきは強くて、それは空気でお互いを理解しているような、そんな心で通い合う共感のようなものがあるように感じた。
「お、そろそろ順番が来たみたいだぞ。硬貨は持っているか?」
「持ってるわよ。自分のお財布から出さないと、意味ないでしょ」
彼らはそんな自然な会話をしながら、賽銭箱へと進み出て、硬貨を投げ放った。それは自分の抱いていた過去への未練を解き放って、未来へと繋げるような、そんな小気味良い音をしていた。だから僕は、少し頬を緩ませて二人の穏やかな様子を見守った。
沙友里と男は同時に拍手をして、目を閉じ、何かを深く祈ったようだった。随分長く彼らは祈り、そして目をそっと開くと、微笑みを交換し合って、一緒に歩き出した。僕は賽銭箱に百円を投げ込むと、何を願ったのかよくわからないまま瞼を開き、二人の後に続いた。
彼らは盛んに笑い声を上げながら、おみくじのところへと歩いていき、二人でくじを引いて見せ合っていた。その笑顔は本当に幸せそうな恋人そのもので、いやそれは恋人というより、もう家族のようなものに近かった。そう、家族だ……あんなに心を開いて語り合う関係は、僕では築けなかったのだから。
そうして沙友里が「あ、大吉だ」と声を零し、嬉しそうにおみくじを結んでいるのが見えた。その横に男も結びながら、ゆっくりと彼らは出口へと向かって歩き出す。そうして僕は今度こそ彼らを見送り、ふっと笑って心の中でさよならを告げようとした。
そこで、彼女が男へ、悪戯っぽい笑顔で語り掛けたのだ。
「私、何を願ったと思う?」
「当ててみようか」
「いいよ、そんなの。“好きな人が幸せでいられますように”って」
彼女の言葉に、僕は少しだけ唇を引き結んで、歯を噛み締めた。そして、ゆっくりと唇を柔らかく微笑ませ、その優しい感情を最後に噛み締めた。それらは相反する感情のようでいて、どちらも沙友里を想う本心から来る、真実の想いだった。
沙友里、幸せになれよ。
僕はそう零し、彼女に柔らかな眼差しを送った。
しかし、そこで――。
「あ、ミツルと沙友里、こんなところにいたのか!」
出口から逆に入ってくる年輩の男女の姿が目に付いた。その皺の深くなった顔を笑みでより皺だらけにし、彼らは彼女達へと近づいていく。僕はふっと想いの綱が緩み、何か大切な想いが沙友里へと流れていくのがわかった。沙友里がその年輩の二人に近寄り、そう零したのだ。
「お父さんとお母さん、ごめん。もう初詣は済ませたから」
「せっかくだから、家族四人で並べば良かったのに。さあ、行くわよ。ミツル、沙友里と何の話をしていたの?」
「そうだな。沙友里の最低な彼氏のことを、最高の貶し文句で語っていたんだよ」
「ちょっと余計なこと言わないでよ、」
そうして沙友里がその若い男へと放った言葉が、僕の胸を穿った。
「余計なこと言わないでよ、――“お兄ちゃん”!」
……お兄ちゃん。僕はその言葉を確かめて、ただ頭が真っ白なペンキに塗りたくられたように、思考が溶け落ちていくのがわかった。何だよ、それ。なら、さっきの二人の屈託のない笑顔は――。
「それじゃ、行こう。母さん、私は昼ごはん、和食がいいな。せっかく家族で集まったんだから、豪勢なもの食べようよ!」
僕はすぐに遠ざかっていく沙友里の姿を見つめながら、手足が震えて、今にも崩れ落ちそうになるのを堪えた。そして、先程沙友里が祈った言葉を思い出し、胸から張り詰めた想いが溢れ出しそうになった。
――“好きな人が幸せでいられますように”
「沙友里ッ!」
僕の叫びが神社の乾いた空気を引き裂いて、風となって沙友里の長い髪を吹き上げた。そして、彼女は肩を震わせてこちらへと振り返った。
目を丸くしてぐるりと辺りを見渡し、そしてすぐに苦笑すると、前へと向き直り、歩き出した。
「どうしたの、沙友里?」
「いや、ちょっと――なんか、声が聞こえた気がしただけ」
彼女はそう言って、僕へと最後まで気付くことなく、神社を出て行く。僕は何もできずにそこに佇み、彼女の細い背中を見守ることしかできなかった。僕の勘繰りすぎかもしれない。でも、僕のことを、彼女が想ってくれていたとしたら、それは本当に、今この瞬間の決まりきった運命の秘め事に違いなかった。
僕はそっと彼女の結んだそのおみくじを見つめ、自分の引いたくじと重ね合わせた。
“待ち人、来る”
僕はぐっと自分のおみくじを力を篭めて握り、そして、彼女のおみくじにそれを結び付けた。離れ離れになった僕らが、心の中ではしっかりと――いつまでも結び付いていられるように。そんな願いを籠めて。
そうして僕は歩き出す。彼女が遠ざかっていった方向とは真逆の、冷たい風が吹く細道へと。そっとスマートフォンを取り出し、僕はそのアドレスを引き出した。そして――。
ふわりと風が舞って、僕と彼女が触れ合った掌の温もりが、淡い桜色を描いて消え失せたのだった。
了