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王都アルピレスの宮殿では、深夜、密かにアレクサンドルを訪ねた者がある。
近衛騎士の鎧を着た、長髪の美しい、ともすれば女性と見紛うような美貌の男である。名を、トライト・ジルコンという。元は一介の騎士に過ぎない存在であったが、天文学や医学、薬学などさまざまな学問に精通しており、各界の知識人たちとも対等に会話する知性と、他の将軍たちにも引けを取らない優れた武芸を気に入ったアレクサンドルが、男爵の位を与えて特別の側近として重用している。
「こんな夜更けに何用か。お前でなければ許していないぞ」
「無礼を承知で申し上げたきことが」
「言ってみろ」
アレクサンドルが促すと、トライトは恭しく臣下の礼を取り「カルブンクルスを放置するのはまずいと思われます。早急に始末をつけねばなりません」と言った。
「なんだ。あれは我がエメリー王家に代々仕える家系だから、特別に許してやったのだぞ」
「しかし、殿下に楯突いたアクスラクス・カルブンクルスを殺しました。許すのならば、アクスラクスも許すべきであったのです。それは後に禍根となり、国を焼き焦がす火種となります」
「おれが王となるのは最早明白なことであるというのに、うるさいことをぬかすからだ。本当ならば一族郎党皆殺しにするところだった」
「今からでも遅くありません。あのカルブンクルスの跡取りは放置すれば、いずれ殿下に牙を剥く危険因子となるでしょう」
「あの小僧は賢くおれの命令に従ったのに、本当に危険だというのか?」
「腹の中に恨みを隠すのが上手かったのです。そうでなかったなら、実の父親が殺されるのを、命乞いもせず黙って見ていた不忠者ということになります。どちらにせよ、殿下に領地の安堵を許された恩などすぐに忘れてしまうに違いありません。信用ならぬ者を大切にしては、国が傾く原因となりましょう」
トライトの言葉を聞いて、アレクサンドルは「なるほど、お前の言うことはもっともだ」と頷いた。
「だがどうするのだ。おれは公に罪を許したのだぞ。それを今更蒸し返すことはできぬ」
「殿下の未来を曇らせるものは、それだけで罪を犯しているのと変わりませぬ。理由付けなど後からいかようにも」
「そこまで言うのなら、お前に任せよう。おれには他に優先すべきことがあるからな……」
「アストラムの使者が来るのですね」
「さよう。予定よりも早く来ることになると手紙がきていた。明日、明後日には王都に着くであろう。有意義な話ができるよう準備しておかねばならぬ。アルミナのこともあるからな。――早く片付けろ」
こうして、夜が明けるかどうかという、まだ月が空に輝いている時間に、トライト率いる騎士隊がカルブンクルス邸を襲撃する。
それよりも少し早いうちに、密やかに王都を抜け出したアルマンダインであったが、彼の予想は当たっていたということになる。使用人たちも皆荷物をまとめて屋敷を去った後であったため、騎士隊の襲撃で命を奪われる者はいなかった。
しかし、アルマンダインが脱出したのは後ろ暗いところがあるからだとして、この後朝を迎えてから彼を追跡する部隊が編制される。アルマンダインは死を先延ばしにはできたが、討伐の理由を与えてしまったのである。
◆◆◆
アルマンダイン追跡にあたり、その追跡部隊の隊長として任ぜられたのは、オニキス・サードニクスという騎士である。幾度も戦場へ出て功を挙げている分、体中に沢山の傷があり、特に顔の大きな傷痕が目立つので、スカー・フェイスと呼ばれている。
今回、彼が選ばれたのは、手段を択ばない冷徹さゆえである。相手が反逆者の一族といえど、名家であるのも事実だ。未だ成人として扱われる歳にすら到達していない子供のアルマンダインに手心を加えることなく、任務を忠実にこなせる者が必要だった――そこで、闇討ちや暗殺は勿論、必要とあらば女子供を人質にしてでも敵を屠ってきたオニキス・サードニクスであれば適任であろうとトライトがアレクサンドル王子に勧めたのである。アレクサンドルはトライトの言うとおりにして、オニキスに部下として数名の騎士をつかせ、追跡部隊を作った。
命令を受けたスカー・フェイスことオニキスは、すぐに支度を整えて、与えられた部下たちと共にアルマンダインを追う。そこに迷いは一切なく、馬蹄の音は止まる気配もない。
「サードニクス卿はアルマンダインがどこへ向かっているかおわかりなのですか?」
「ふん、そんなもの考えるまでもない。キルミツに決まっている。あの小僧が何かしようとしたところで、金や兵士を調達できる場所は限られている」
表向きにはアレクサンドルに対して平常の顔をして服従を誓ってみせたアルマンダインだが、実際に王都から逃げ出している以上、アレクサンドルに対して抱いているのは忠誠ではない。
父を目の前で殺されながら眉ひとつ動かさず膝を折って忠臣のように振る舞えるとは、大層な役者ぶりだ。そうしてまで生き延びたあの子供は、既にキルミツの領主である。未だ体も出来上がっていない未熟な若者であっても、キルミツに戻った瞬間から、あの子供にはその地位に相応しいだけの――腕力を超える権力が与えられるのだ。
「そうは言っても相手は子供です。全て投げ出してどこか国の外へ逃げるかもしれません」
「それはない。腐ってもあのカルブンクルスの男ならな」
オニキスはカルブンクルス家の連中がどういう性格をしているか把握している。かつては共に前線で戦ったこともあった。アレクサンドル王子に反抗して処刑されたアクスラクスは勇猛な戦士であったし、その弟であるルベウスも戦場では敵なしと言われるほどの勇士であるというのは、充分に承知している。彼らの先代も苛烈な性格をした戦士であったと話が伝わっているほどだから、若きアルマンダインがそうした気質を全く受け継いでいないとは考えられない。使える力が目の前にあって、それを振るわぬはずがない。
「いかに子供といえど、強かなカルブンクルスの血を引く子供だ。もしかすれば、死んだ親父から何か策でも与えられているかもしれない。ゆめゆめ油断はするなよ」
予想が正しければ、アルマンダインは必ずキルミツへと向かう。父を殺された後の彼がどういう選択を取るにせよ、財産も従ってくれる兵士も全てはキルミツという拠点へ戻らなければ使えないものなのだから。
「行くぞ。早急にやつの首をとり、アレクサンドル殿下に献上するのだ。遅れるな!」
オニキスの予測というのは、アルマンダインがキルミツを目指しているという点においては当たっている。
アルマンダインは少しでも早くキルミツに辿り着かねばならぬと思い、必死に馬を走らせている最中である。石榴号と名付けられたその黒鹿毛の馬は、アルマンダインの亡き父アクスラクスの愛馬であるが、追手から逃れるため悪路でも構わず夜通し走らされて、その呼吸には若干の疲弊の色が窺える。
「もう少しだから、もう少しだけ頑張ってくれ、石榴号」
酷使している自覚はある。もしかしたら乗り潰してしまうかもしれないとも思っている。勿論そうならないのが一番だが、急がねばならない状況は変わらない。キルミツ城塞には遠くとも、その手前の町にくらいは着かなくては。そこでなら少しは休めるはずだ。
宥めるように首の辺りを撫でてやると、石榴号は低く鳴いて返事をした。逆に気を遣われているような感じがして、アルマンダインは苦笑する。まるでアルマンダインを庇護すべき子供とでも思っているかのようだ。侮られている、というわけではないのだろうが。
さて、キルミツという地は、炭鉱によって――そしてそこで採れる石炭を利用する鍛冶職人たちによって発展を遂げた。
城塞都市キルミツの周囲は山林が多く、慣れぬ者の行軍を阻む。こうした自然の城塞はベルゼア北の国境を守るのに役立っているが、同時にベルゼアの他の街との交流を少なくする原因ともなっている。キルミツの領地は広大であるが、広い地域に点在する村々も、互いに細々とした関係を持つ程度である。
ベルゼアの他の地域からキルミツ城塞へ向かおうとすると、鬱蒼と茂る森を抜けるか、あるいは崖下の街道を通る他ない。大抵の場合、旅人は森で迷うよりは安全度が高い街道を選ぶ。街道は一本道であり、都市から石炭や職人たちが鍛え上げた鋼が運び出されるときはここを通るし、都市へ向かう者たちも皆ここで合流することになる。道中にあるグロシュラという村が中継地点となっており、皆ここで宿をとる。
ただし、この街道にも問題がある。これが唯一の道であるから、ここを通る商人や旅人たちを狙って、山賊が襲ってくることがあるのだ。
そういう連中が現れているというのは、報告に上がってきていたのをアルマンダインは知っている。治安の悪化は商売に悪影響を及ぼすので早急に対策すべきであると父に進言していたものの、父は国境を侵そうとする外敵への対処を優先させていたため、なかなか都合がつかないままこれといった策をとれていない。
所詮山賊であるので大した武器を持っているわけでもなく、烏合の衆であるので統率力もさほどではない。ゆえに護衛を沢山連れているのであれば問題ないが、今のアルマンダインは一人きりだ。
そこが不安である。武勇を誇った父はいない。最低限の護身術として剣は習ってきたけれど、山賊たちが束になって襲いかかってきた場合にそれを完璧に跳ね除けられる自信はなかった。それならば、人が通らない森の中を行くほうが、多少はましなように感じられる。グロシュラはまだ遠いが、キルミツ領へは入った。森へは獣の狩りで訪れるので、アルマンダインにとっては広い庭のようなものだ。
だが、ここで思わぬ事態が行く手を遮る。森のほうへ向かう分かれ道が、大きな岩と土砂で塞がれていたのである。
原因は、三日前の大雨で地盤が緩くなったことによる落石、そして土砂崩れである。山林の多いキルミツ地方の天気は移ろいやすい。アクスラクスと共にキルミツから王都へ向かう道中は偶然晴れていたけれども、その後一気に天候は不安定な状態へ変わり、旧く朽ちかけたような木くらいは容易く薙ぎ倒してしまうほどの大雨が降った。今はからりと晴れているが、木々の生い茂る森の中は、未だ雨の名残で地面がぬかるんでいることだろう。
無理に森の中を行こうとするのなら、大きな岩をよじ登ってでも超えていけばよい。しかしそれは、石榴号を置いていくことと同義だ。それはできない――決して若い馬ではないが、よく鍛えられた逞しい脚の軍馬だ。同じくらい優れた馬を手に入れようとしてもそう上手くゆくことはまずないと言える。数々の戦場を生き抜いてきた、アルマンダインなど足元にも及ばぬ勇者の馬を置いてまで、森の中をいってどうなるというのだろう――頼りない子供の足で走ったところで、グロシュラは遠すぎる。ましてやキルミツ城塞など辿り着ける気がしない。
石榴号に替えはきかぬ。追ってくる者どもに追い抜かされて城塞を奪われるわけにもいかぬ。アルマンダインに課せられた最大の任務は、亡きベルトラン王子と父の遺志を継ぎ、アルミナの味方になることだ。そのために必要なものを、敵にかすめ取られてはならぬ。
仕方がない。他に道がないのなら、街道をゆくしかない。良いところを考えるのなら、道そのものは平坦で舗装されている部分も多いので、馬への負担は少なくなるはずだ。