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夜中のうちに宿を出て、身分を隠してベルヌイユの街を出る。門番の目を掻い潜るのは案外簡単なことで、駆け落ちする男女という設定は役に立った。それらしい、少しばかり大袈裟な演技で恋人として振る舞えばそれで済んだ。門番の良心を利用した形ではあるが、それで通してしまうほうがいけない。
「逆にこうも容易いと国境警備というのが不安になって仕方がないのだが……気が緩んでいるのか? それともどこもこのようなものなのか?」
「確かにそこは不安な点ではありますが、おかげで抜け出せたので良しとしましょう。何、問題点など後から改善させれば良いのです。アルミナ様が権力を得たそのときにね」
「そんなときが来るだろうか。アレクサンドル殿下がいらっしゃるのに」
「来ますとも、いつかは」
人の目につかないよう森へ入ると、手綱を握るルベウスは月と星の位置から方角を確認して、迷いなく進み始めた。
「そなたに方針は任せるが……どこへ向かうつもりだ?」
「まずはキルミツへ向かいます。ここからだと二日ほどもあれば宿のある町に着けるでしょう。馬が一頭しかいないのは心もとないですが、何とかなります」
ベルヌイユより北寄りにある地域だ。炭鉱と鍛冶職人によって栄えている場所で、山林が多く、険しい道のりとなることは予想がついたが、それでも行く価値のある場所だというのはアルミナにもわかる。
「キルミツは……カルブンクルス家の領地であったな。ということは、そなたの兄アクスラクスがいるわけか。結構歳が離れていたんだったか」
「ええ、まあ。我が兄ならば、必ずアルミナ様の力となるでしょう。それに、甥もいます」
「そなたの甥か……会ったことはないが、やはり優れた武人なのであろうか」
カルブンクルスの家は、代々武人を輩出する家系である。特にアルミナと親しくしているルベウスが正しく武人であるので、他もそうなのかと思っていると、ルベウスが否定した。
「いえ、あいつはあまりそちらの才能には恵まれておりません。努力はしているようですからそのうち使い物になるかもしれませんが、今はまだひよっこですよ。あいつの良いところは、頭です」
「ほう、知恵者なのか」
「物識りで、大人も知らぬようなことまで何でも知っているのです。そして先のことを考えるのが得意です。剣を持った手合わせで負けたことは一度もないが、盤面の上のチェスでは一度も勝てた試しがありません」
「天下無双の騎士も形無しというわけか」
ルベウスが相当その甥に入れ込んでいるらしいというのは、何とはなしにアルミナにも伝わった。是非会ってみたいと思うが、果たしてその甥とやらはアルミナの目を恐れずにいてくれるだろうか。期待と不安が入り混じるのを密かに呑み込んで、ただ「楽しみだ」とだけ言うと、ルベウスは「きっとご期待に沿えるはずです」と返事をくれた。
「さあ、参りましょう。辺境の地ではありますが、その分王都からの目も届きにくいはずだ」
いずれは王都に行かねばならぬ。されど今はまだ、準備が必要な時である。
◆◆◆
アルミナたちがベルヌイユから抜け出したのと同じ頃――ベルゼア王都アルピレスにて、第一王子ベルトランと、第二王子アレクサンドルが決闘を行い、ベルトランが破れたその五日後にあたる夜である。
人々が寝静まり、灯りもない夜闇の街を駆ける影があった。
彼の名は、アルマンダイン・カルブンクルス。歴史ある武人の家系であり辺境の地キルミツの領主一族であるカルブンクルス家の世継ぎである。歳は十三を迎えて半年。若いというよりはまだ幼いといったほうが適切な年頃で、武術においては未熟ではあるが、年の割に物腰穏やかで落ち着きがあり、物覚えもよく将来を期待されている。少なくとも平時であれば暗闇に紛れて人目を避けなければならないような人間ではないことは確かであった。
そんな彼が、わざわざ夜闇を駆けるわけは、偏にカルブンクルス家がベルトランの派閥に属していたからである。
そもそも、何故田舎のキルミツで暮らしているはずのアルマンダインがこのアルピレスにいるかといえば、父アクスラクスに連れてこられたからである。アクスラクスは国王ホルンフェルスの見舞いのためにアルピレスを訪れたのだが、いずれはアルマンダインがアクスラクスの仕事を引き継ぐのだからと、見聞を広めるために同行することになったのである。
ここで不運というべきであったのは、カルブンクルス親子が王都アルピレスに到着したとき、既にアルミナたちが盗賊の討伐の任務のため王都を発っていたことである。アクスラクスは弟であるルベウスに宛てた手紙を事前に出していたが、それも読まれぬまま、完全にすれ違いになってしまったため、情報交換というものができなかった。結果として、アクスラクスは王都に着き王城へ行って初めて王子二人の確執が取り返しのつかぬところまで来ていることを知ったのである。
カルブンクルス家は代々王家に仕えてきたが、天下無双と謳われるほどの戦士ルベウスが第二王子アレクサンドルと不仲であることから、自然と第一王子ベルトランの派閥に与することとなっていた。ベルトランは温厚な気質で戦いのことには疎い部分があったが、疎いという自覚があり才能を持つものを取り立てる人間だったので、カルブンクルス一族にとってはむしろやりやすい相手であったということもある。そもそも、ベルトラン王子は正妃の息子であるから、順当にいけば彼こそが王となるべき男なのだ。
そのベルトラン王子が陥れられたとあっては、黙っていられるはずもない。
アルマンダインの父アクスラクスは決闘が行われるという噂を聞きつけると、すぐにベルトラン王子のもとへ参じた。その際、アルマンダインは初めて王子と対面した。
「そなたがアクスラクスの子か。あまり似ておらぬな」
「どうやら愚息は母親に似たようです。戦士としてはまだ未熟です」
「だが賢そうな顔だ。これからの世を生き抜くには知恵のあるほうがよい」
王子が父と親しげに会話しているのを、アルマンダインはただ傍で聞いていただけであったが、どうやら決闘はもう避けられぬことで、ベルトランは不利であることを悟っていながら逃げるつもりもないらしいとわかった。
「かねてより我が異母弟アレクサンドルは、私を疎んでいたのであろう。アルミナにも気を付けるようにとよく言われていたのに、後手に回ってしまったのがいけなかったな。この私が父への反逆を疑われることになろうとは」
「明日の決闘に勝つ算段は」
「勝たねば濡れ衣を着せられたまま死ぬことになる。だが正直に言えば、勝てる見込みはあまりないのだ。アレクサンドルは勇者だが、私は武芸は不得手なのだ。ただで死ぬ気はないが、生きていられるかわからぬから、そなたらに後のことを頼みたい」
「後のこと……でございますか」
不吉なことを言うものではない、と本来ならば進言すべきであったかもしれないが、実際にベルトランが勝ち残ることはあまり期待できないことだった。決闘は当人同士で行われなければならぬ。予め代理人を立てることはできるが、後から代理を立てることは許されていない。アクスラクスは間に合わなかったのだ。
「私が死んだ場合、アレクサンドルが王位に就こうとするだろうが、やつを王と認めてはならぬ。やつは危険だ」
「危険、と申しますと、何か怪しいことでもあるのでしょうか」
「うむ。どうもやつはアストラムとの同盟に意欲的だが、そこには両国の和平以外に何か目的があるようだ。腹の底が見えぬが、だからこそ恐ろしく、よい未来が想像できぬ。私のことを真に思うてくれるのならば、妹のアルミナにつけ。アルミナを女王にするのだ」
「アルミナ殿下にございますか」
アクスラクスが驚いた顔をした。カルブンクルス家としてはアレクサンドルを仰ぐよりは良い相手だという認識はあるが、女王にせよとまで言われるとは父は想像していなかったのだろう。
末の王女――アルミナのことを、アルマンダインは噂でしか知らぬが、自分と歳が近いこと、珍しい青い目をしているということは聞いている。青い目は魔眼であるというから、王城では冷遇されているとも聞くが、青い目さえなければ王女として相応しい器量の持ち主だという話もある。叔父にあたるルベウスは彼女を大層気に入っているようだけれど、そのように王女に接するのは少数派だ。だがベルトランは、彼女の名を出した。
「さよう。皆青い目に気を取られて気づいておらぬが、妹は私よりよほど優秀だ。あれは自分が上に立つことなど考えもしておらぬだろうが、アレクサンドルが王となるよりはよほど良い。私が死んだと知れば、恐らくは王都へは戻らずそなたらを頼ってキルミツへ行くか、私の母の実家を訪ねるはずだ。きっとアルミナであれば、私にかけられた疑いを晴らしてくれるだろう……そしてアレクサンドルの危うさをわかってくれる」
ベルトランの言葉には、妹への深い信頼が見て取れた。ベルトランはわざわざ少しかがんでアルマンダインに目線を合わせ、耳元で「妹をよく支えてやってほしい」と囁き、事前に用意していたらしい遺書を握らせた。アルミナ王女を次代の王にせよという、本来の王たるべき者の遺言状は、アルマンダインには随分重く感じられた。
翌日、決闘にてベルトランは命を落とした。単純に剣術でアレクサンドルに負けていたこともあるが、致命的だったのは、ベルトランの剣が途中で折れてしまったことだった。
その折れた剣というのが、金属同士ぶつかって曲がってしまうというのではなく、綺麗に切断されたように分離したため、武器に何か細工がされていたのではないかという疑惑が浮上した。
ただでさえベルトランはありもしない罪を責め立てられ、決闘に持ち込まれてしまったのだから、そこに何一つ細工がなかったとは考え難い。抗議の声を上げたのは何もアクスラクスばかりではなく、ベルトラン派の貴族たちや騎士たちがこぞってアレクサンドルを追求しようとしたが、勝者である彼が怯むはずもない。逆にアレクサンドル側についている者たちが反撃し、ベルトラン派の者たちはすべからく王族に楯突く反逆者として粛清されることとなった。無論、アクスラクスも。何せ唯一それを止めることのできるホルンフェルス王は病床に臥せっているのである。
アルマンダインは父にアレクサンドル派であるよう見せかけよと言い含められていた。その作戦は正解で、アレクサンドルの前で父と派手な口論をしてみせたことから粛清を免れたが、それはつまり、父を見捨てて逃げよということでもあった。
「おれは賢明な若人は嫌いではないぞ。旧くから仕えてくれている家柄の者を潰してしまうのは惜しいからな――老いぼれの命と自分の未来、どちらが大事か賢いお前ならばわかるであろう。おれに従うのであれば、いらぬものは捨てよ」
くつくつと嗤うその王子の前で、アルマンダインは、その男のために膝を折らねばならなかった。そうしなければ、カルブンクルス家の跡取りがいなくなる。叔父のルベウスはまだ結婚もしておらず子がいないのだ――ここでアルマンダインが死ぬわけにはいかない。アルマンダインが死ねば、辺境とはいえ広大なキルミツの領地が全て奪われることになりかねない。
王子の手前、泣くこともできず、父の処刑を見せつけられた後、キルミツの安堵を認められて、アルマンダインは王都の屋敷へ帰された。それが今日の昼の話であり、アルマンダインは屋敷でひとしきり泣いた後、速やかに使用人たちに暇を出した。アレクサンドルがいつ気まぐれを起こすかわからない。それならば監視の目がきつくならないうちに、逃げ出してしまったほうがよいのだ。そしてその危険に、使用人たちまで巻き込む理由はない。
「わたくしたちはこれからどうすれば良いのでしょう」
「きみたちなら、どこへいっても働き口はある。僕が無事にキルミツへ戻れたら、退職金を出そう。きみたちも危険な目に逢うかもしれないから、拘りがないのであればすぐ荷物をまとめて去るんだ」
「若様……」
「やめてくれ。もう若様って呼ばれるわけにはいかなくなってしまったよ。不甲斐ない跡取りですまないね」
出立の準備が整ったのは深夜だった。よく尽くしてくれた使用人たちと別れ、城門を守る門番に賄賂を握らせて、アルマンダインは王都を抜け出す――そうして今に至る。
一刻も早く、追手が来る前にキルミツまで行く。遣いを送るまでもなく、自らキルミツへ父の死を報せに行くのだ。あまり走りやすい道ではないから、父が愛した馬を酷使することになる――最悪乗り潰してしまうことになるが、その気になれば二日もあれば広いキルミツ領の端にくらいは辿り着けるはずだ。既にベルトランの死は国中に報せが届いているか、そろそろ届くような頃だから、ベルヌイユへ向かったアルミナ王女たちの耳にも届いている可能性が高い。アルミナ王女とルベウスに何としても接触せねばならない。それが亡きベルトラン王子の望みであり、父の希望であった。
亡きベルトラン王子の想像が正しいのであれば、王女たちはベルヌイユからより近いキルミツへ向かおうとしてくれるはずだ。