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数々の仕掛けを駆使して、アルミナはひたすらに進んだ。前方に敵の兵士が見え、姿を隠すためにすぐ傍の扉を開けてそこへ入った。いちかばちかの賭けでもあったが、幸いにもこの部屋に敵兵はいなかった。元いた賊の首領らしき男の死体は転がっていたけれど。これも血が渇いているだけで、まだ腐っていない死体だ。
アルミナの記憶では、この部屋は砦の主が私室として使う場所だった。盗賊たちもそのように使っていたのだろう、家具は古く朽ちかけたものばかりであったが、酒瓶や食器が転がっている辺り普段からここに人がいたのは明白であった。
その他にも、豪奢な金の盃や絢爛な絹の布、数々の煌めく宝石が勲章のように並べられている。盗賊にとっては手柄そのものであり、権威を示すものでもあったのだろうか。これら全ては、アルミナが取り戻せと命令されている品だ。取り戻すか、亡き者にされるかの二択。後者は選びたくなかった。
部屋中に、さまざまな宝物がある。その中でも、一際目を引く石があった。それは青いようにも緑色にも、他の色にも見えた。扉の隙間から僅かに差し込む光に照らされて、それは七色に輝いている――スピライチウムだ。
ベルゼア王国の財政を支え、アレクサンドル王子の権力を増長する、美しき魔性の宝石。人差し指の爪くらいの大きさはあるだろうか、随分と大粒のそれが指輪として、金の台座で輝いている。これだけの代物なら大金に化けるだろうが、どこかで換金しようとしても足がつきやすいからと躊躇ったのだろうか。あるいは盗賊ですらもこの美に惑わされて手放せなかったか。
スピライチウムは希少な石で、アルミナはアレクサンドルが身に着けているのを遠目に見たことがあるだけだったが、高値がつくのも納得だと思った。それはあまりにも綺麗だ。石に魅了されるようにしてそれに触れると、一瞬、ぴりっとした痛みを感じた。
指輪に棘のような部分はなく、指に傷がついたわけでもなかった。だが、先程の小さな痛みの感覚がずっと消えず、しまいには頭痛までする。奇妙な感覚にアルミナが首を傾げていると、部屋の扉が開かれた。アルミナは剣を取り、敵の攻撃に備える。
現れた人物の姿を見て、アルミナは驚いた。
「な、なんだ、そなた――」
先程から追ってきていた、あの男。顔を見る限り間違いないが、先程とは決定的に違っていることがある。
――男に、糸が絡みついていた。赤と黒の、二色の糸だ。男を雁字搦めにするように、複雑に絡み合った糸。
そんなものは先程までなかったはずだし、そんなものがあればろくに身動きもとれないのではないかと思われるほどの絡み方をしている。それなのに、男は何でもないように、先程と同じようにアルミナに襲い掛かってくる。否、一つ違うことがある――男が笑っているのだ。
「やはり青の目は本物の魔眼のようだ。果たして何が見えているのやら。クク……」
「何を言って……」
「あなたを連れてゆけば、クライビア陛下もお喜びになる。目さえ見えれば手足はなくともよいですね」
クライビア、とはアストラムの皇帝だ。彼らはアルミナを皇帝に引き合わせたいようだが、理由が全くわからない。誰からも忌み嫌われるような青い目に執着しているのは一体どうしたことなのか。
容赦なく襲い来る敵の剣は、勢いが衰えない。部屋の中には多くの宝物が並べられているせいで、アルミナはいまひとつ動きづらく感じていた。取り戻せといわれている品々に無用に傷をつけるわけにいかないが、かといってこうしたものを全く利用しなければアルミナは押されるだけだった。少しでも迷いを見せれば敵の剣がアルミナの剣を弾き飛ばそうとしてくる。
壁際に追い詰められる前に、少しでも有利な間合いをとらなければ――アルミナは男の剣を避けるときに、反撃を試みた。アルミナの剣は残念ながら男を掠めただけであったが、そのとき彼に絡みついた赤い糸がぶつりと切れたのが見えた。
男はそれに気が付いていないようだった。彼は大きな怪我をしたわけでもなく、糸はアルミナにしか見えていない。それで何が変わったわけでもない――そのはずだった。けれど次の瞬間、奇妙なことが起きた。
部屋に飾られていた宝物が、それが山積みにされていたところが急に崩れて、男に振りかかった。
「なっ何だ!」
男はわけがわからないといった様子であったが、上から杯や首飾りといった金属が降ってくれば痛みに呻くしかなく、やがて足を滑らせて財宝の山に倒れ込む。そのうえ絹の布が彼の視界を覆い隠し、彼が暴れるほど彼の体は財宝に沈んだ。そこからまだ、彼の体に絡みつく赤い糸がたゆんでいるのが、アルミナには見えていた。
――まさか、とは思う。けれど、もしかしたら。
にわかには信じがたいことだけれども、この糸は、特別なものなのではないか。その予想は、何故か、アルミナの心にしっくりとくる感覚があった。
男が体勢を立て直すより先に、アルミナはその赤い糸を斬った。反撃を恐れてすぐに男から離れる。それから間もなくして、すぐ傍にあった金の像が男のほうへ倒れる。布の下でくぐもった悲鳴が聞こえた。像は手に剣を持っていて、その金に輝く刃は、下敷きにした男の首を布ごと切り裂いていた。
◆◆◆
砦の煩わしい罠や、くだらない連中を斬り捨て、あるいは拳で黙らせ、ルベウスはようやく砦の一番奥、主たる者がいるべき部屋へ辿りついた。想定していたより随分と時間がかかってしまったが、果たして守るべき人は無事であろうか。
開け放された扉の前に、死体が転がっている。部屋の中を覗き込むと、幾つかの死体に囲まれながら、座りこんで震えている少女の姿があった。状況だけ見れば何も知らぬうら若き乙女が怯えているだけとも取れるが、そこにいるのは生死をかけてここへやってきた、人の死に慣れた戦士となった王女だ。
「アルミナ様」
声をかけても、彼女は顔をあげようとしなかった。膝を抱きかかえて、下を向いているから表情が見えない。様子がおかしい。何か怪我でもしているのかとルベウスが膝をつき、顔を覗き込もうとすると、彼女はルベウスを拒んだ。
「そなたの顔を見たくない」
「……遅くなって申し訳ありません。役立たずはお好みではないやもしれませぬが、そう嫌われるのはつらい」
せめて此処から出て落ち着ける状況になるまでは、とルベウスが言おうとすると、アルミナはそのままの体勢で首を横に振った。
「嫌ってなど、おらぬ。すまぬ、言葉が足りなかった。しかしそなたの顔を見るわけにはいかぬ」
「何故」
アルミナは沈黙したが、そんなことでルベウスが納得できるはずはなかった。ルベウスは槍を置き、彼女の腕をそっと外して、顔を上げさせた。
不安に曇っているとはいえ、それでもなお美しい王女の顔。すっかり見慣れた白金の髪と、それよりずっと白い肌はいつもどおり。多少埃で汚れてはいるけれど、傷などは見当たらない。だが一つだけいつもと違うものがあった――目だ。ルベウスはどきりとした。
「アルミナ様、その瞳は……」
決して目を合わせてはくれなかったが、彼女の青い目が、光り輝いているのはわかった。光の反射などでは説明がしきれないような、不思議な輝きだった。
「……そなたに、糸が見えるのだ」
アルミナは、呟くように言った。
「たぶん、きっと、運命の糸というやつだ。私はそれに触れるんだ。運命に触って、糸を引き千切って、人に呪いを与える。不運を呼びこんで死に至らしめる呪いだ」
「こいつらをそうやって殺したと仰るのですか。呪いをかけて、死なせたと」
「そうだ。皆私を魔眼だと、連れていくとばかり言うのだ。わけがわからなくて、誰か一人くらい生かしておこうと思っていたはずなのに、近寄る者全て死なせた。そなたに触れたら、そなたの糸も切ってしまったら……怖い」
普段の、逞しくならざるをえなかった彼女とは比べようもなく弱々しく、か細い声をしていた。
運命の糸が見えるなどと、信じがたい。まるでお伽噺のように現実感がない話だ。けれどルベウスには、アルミナが嘘をついているようにも、幻影を見ているとも思えなかった。
何故ならば、辺りに転がる死体の様子がおかしいのだ。重い財宝に潰されている者、倒れた家具に体を挟まれた者、味方の剣が刺さっている者、どれもこれもアルミナが斬り捨てた者ではなかった。何らかの不運で自滅してしまったかのような、敵の死体。
――その不運が、偶然ではなく、アルミナの言う呪いによって作りだされたものだというのか。
「いつから、そのようなものが見えるように……?」
ルベウスは努めて平静に、アルミナを威圧しないように気を付けながら問いかけた。アルミナは暫し逡巡していたが、ルベウスに背中をさすられて落ち着きを取り戻したらしい。ゆっくりとだが、自らの状況を整理するように語り始める。
「こんなことは……その、初めてだ。さっきスピライチウムの指輪に触ってから……何かおかしくなってしまったみたいだ」
「スピライチウムの指輪、ですか」
「それまでは何ともなかった。自分でも信じられないけれど、今は確かに見えて、触れるようになった。人に絡みつく運命の糸が……これでは、本当の魔眼そのものだ――今、私の目はどうなっている?」
そこでようやく、アルミナはルベウスと目を合わせた。
「星彩が見えます」
彼女の青の瞳に、六芒星に似た六条の煌めきが、確かにルベウスには見えた。光って見えたのはこれだったのだ。それは例えるならば高貴な宝石のように蠱惑的で、けれど高潔さを感じさせるような澄んだ色をしている。
「美しい――高貴なる青だ」
アルミナは魔眼だというが、ルベウスはその瞳の輝きに恍惚として言った。本当に伝承の魔眼なのだとしても、恐ろしさなど欠片も感じなかった。ルベウスにとっては、ただ仕えるべき王女の、吸いこまれるような魅力を持つ瞳がそこにあるというだけだった。
「……そなたは、私のことを怖がらないね」
王女の瞳は、相変わらずルベウスを映している。触れることにはまだ躊躇いがあるようだったが、ルベウスは気にせず彼女の手を取った。剣を握るために決して柔らかくはない、されど女性らしい細さのある手。これがルベウスに害をなすとは、彼には到底思えなかった。
「ルベウス、その」
「私から触れるぶんには、私の糸が切れることもないでしょう」
そう言い切ってしまえば、アルミナからそれ以上反論はなかった。目はまだ光を放っていたけれど、ぎこちなく、アルミナはルベウスの手を握り返す。強く握った手を引いて立ちあがる。死体だらけのこのような場所にいつまでもいたくはない。
「さあ、参りましょう。ことの次第を報告しなければ……あまり気乗りしませんがね。我々の役目は賊の討伐だったはずが、蓋を開けてみればアストラムの兵士どもが賊のふりをしていたとは。何かきな臭い感じがする」
アルミナたちの訪れを待っていたかのように、彼らは襲い掛かってきた。武器でアストラムの手の者だとわかったけれど、それを見落としていれば賊と見分けがつかなかっただろう。そのまま気を抜いて殺されでもしていたら、アルミナたちは任務に失敗して賊に殺されたということになっていたはずだ。
アストラムの者たちが何らかの目的を持って此処へ来たというのはわかるが、最初からそういう風に手を回されていたかのような感覚もある。アルミナやルベウスの立場も決して良いものではないから、此処で始末をつけようという算段でアレクサンドル王子が手を回したのではないかとすら思えてくる。
アルミナは思い出したかのようにそういえばと言った。
「やつらは、私の目を魔眼と呼び、私を連れていくと言っていた。私が……魔眼の私が、ベルゼアとアストラムの同盟に必要だと。そんなこと、私は聞いていない」
それが本当のことならば、ますます怪しい話である。そのような話はルベウスも噂ですら聞いたことがないし、同盟のために必要だというならアルミナを派遣するより手元に置いておくほうが自然だ。アルミナ自身も心当りがないのだからあからさまに危険の臭いがする。少なくとも、王宮で円満にアルミナに使者になれと言わなかった時点で、怪しさしかないのだ。
「……我々には情報が足りないようですね。王都へ戻るのは後だ。このままあなたを城へ返して無事で済む気がしない」
「私もそう思う。彼らは私の手足を落としてでも連れていくつもりだったようだし……」
「ならばお命じください。御身をお守りせよと一言」
ルベウスの言っていることは、一歩間違えば国家への反逆と捉えられてもおかしくないことだった。ルベウスはそれでも良いと思っていた。国家といってもアレクサンドル王子が牛耳るだけの国には愛着がない。ルベウスにとって一番守りたいものは、自ら認めた王女アルミナなのだから。
アルミナはそなたが嫌でないのならと前置きして「私と共に」と言った。それだけでルベウスには充分だった。