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フレームアウト

作者: ラムネ・シガレット

「あんたなんか、消えちゃえばいいのに」

 そこには、いるはずのない人がいた。

 ここにいてはいけない人がいた。

 あの頃と少しも変わらない姿で。膝を抱えて。

 私は目を伏せて、彼女の顔を見ないように、見ないようにと、必死だった。

 けれど、直接見なくとも、私には彼女がどんな顔をしているのか、はっきりと分かった。

 心に浮かぶそのへたくそな笑顔を、彼女が今ここにいるという事実を、どう受け止めればいいのか、分からなくて、両の頬を、涙が伝った。



 

 終わりだ。

 今朝目覚めたとき、何の根拠もなくただ漠然と、そう思った。

 私の中の何かが、終わる。

いつも予感はあったけれど、確信できないもの。掴みどころの無い、靄みたいな不安。その正体が今日、確かな輪郭を持って私の元に届けられる。

「水村真白」

「はい」

 私はいつものように、あからさまに優等生を演じた返答をする。

「三年間、よく頑張りました。大学でも元気でな」慢心を宿した瞳で、先生は言う。

「ありがとうございます。先生も、お元気で」私は、気付いていないフリをする。

 小さく礼をして、まっすぐ席へ戻る。

 受け取った卒業証書を見て、思うことは何も無かった。ただ、今朝目覚めたときと同じで、知らない街にひとり取り残されたような、行く宛の無い空っぽの悲しみだけが、私の心を静かに浸していた。

 そんな私とは裏腹に、クラスメートは皆、思い思いに、離れ離れとなる友人たちとの最後の思い出作りに勤しんでいた。

 ……友達なんて、一時的に心の隙間を埋めてくれるだけの存在だ。私は十八年間生きて、友達というものを、その程度のものとしか理解していなかった。いくら仲良くなったって、結局は一人だ。二人が一人になるなんてことはありえない。誰もが誰かに代替可能で、真に代わりのいない人間なんて、この世には存在しない。代わりなんていないと信じられる人が見つかったとしても、そんなのはただの思い込みで、きっと世界中を探し回れば、代わりになる人がいるに違いない。

 クラスのあちこちに屯するクラスメートの輪を無気力に見つめる。なんだか見ていられなくて、目を細める。

「でも、だったら……」

 私の中で、誰かがつぶやく。

「だったら、私が得たものって、なんだったんだろう……」

 誰かの無価値な独り言は、私の耳にしか届かなかった。


 行事がある度必ずやっていたクラスでの写真撮影。その最後が終わって、ようやく解散となった。とは言ったものの、この後は部活の集まりがあるので、家にはまだ帰れない。   

 部室へ行く前にもう一度、教室を振り返る。普通の高校生なら、こうすると感慨深くなったりするのだろうか。両手の人差し指と親指でフレームを作って、最後の景色を閉じ込めてみる。

「水村」

 不意に担任に声をかけられた。きっとまた、あのことだろう。

「はい。なんですか?」

「これ、高篠に届けてやってくれ」

 そ言って担任が手渡してきたのは、今日の配布プリントや卒業証書、各種記念品などだった。

「わかりました」

「よろしくな」

 それだけの短い会話を交わして、担任は去っていった。

 三年になってから学校を休みがちになったと思ったら、卒業式にも出席しないなんて。呆れるというよりむしろ腹立たしかった。

 高篠とは、高篠彩のことだ。彩は私の高校生活で一番の友達と言える。それくらい一緒にいる時間は長かったし、仲も良かった。けれど、三年になってすぐの頃から、彩はほとんど学校に来なくなった。なんとか必要な出席日数は確保していたらしく、卒業はできたみたいだけれど。そうやって適当に学校をサボっている彩と受験勉強で忙しい私は、必然的に交流が少なくなり、関係も希薄になっていった。

 彩のことは、嫌いじゃなかった。学校内でもどこでも、いつもカメラを持ち歩いているせいで、クラスでは浮いていたけれど。それに加えて、不自然なくらい明るい性格だし。浮いてしまうのも仕方ないと思う。でも、私は彩のそういう変なところを気に入っていた。退屈な私の人生を少しでも面白くしてくれると思ったからだ。名前の通り、真っ白な私を、彩ってくれると。入学後しばらくすると、彩は私に声を掛けてきた。私はいつも教室で一人きりだったから、同じくクラスの輪からあぶれていた彩からすると、自然とそうなったんだと思う。私が特に気にかけないでいると、一人で勝手に写真の話とか、カメラの話とかをぺらぺらとしゃべり始めた。最初は鬱陶しかったけれど、あまりにしつこい彩に私が折れると、次第に私たちはお互いを知って打ち解けていった。


 部室のドアを開けると、私以外の写真部員と顧問の先生が揃っていた。

「水村、お疲れ」

「水村先輩、卒業おめでとうございます」

「ありがとう」

「それじゃあ水村も来たことだし、写真撮影するぞー」

 ここでもまた写真。

 私はみんなと列に並びながら、空間が隙間なく詰められていく様子を、静かに見ていた。

「はい、みんなもっと寄ってー、はーい、動かないでねー」

 慣れた感じで顧問の先生がカメラ越しに指示をする。しばらくして、タイマーをセットすると、先生は元部長である滝瀬の隣の席に着いた。

 その様子をなんとなく目で追いながら、フラッシュで目を閉じてしまわないよう注意して、私はじっと座っていた。

 ピカッ。と、白い光が瞬間を切り取った。

 その後も何枚か同じような写真をとって、あとは部員同士で自由に、とのことだった。

 ……やっぱり。と、私は思う。やっぱり、誰も彩の話をしなかった。それは部室だけのことじゃない。教室でだってそうだ。まるで彩が死んだみたいに、そう扱うことが当然であるかのように、みんなは振舞う。こうして集合写真を撮る度、彩はみんなに含まれないんだと、感じる。みんなの笑顔が憎たらしくなる。

「水村!」

 黙って帰ろうとする私を、滝瀬が切実な感情を伴った声で呼び止めた。振り向くと、滝瀬は笑っていた。そして当たり前のように。

「高篠によろしくな!」

 と言った。息が詰まった。

「……うん」

 私は動揺を隠すため、なんとか部長のような笑顔を作ろうとしたけれど、半端な笑顔しかできなかった。素直になれない私の姿が滑稽で仕方ないと思った。

 

 常日ごろから綺麗に整備されていることが窺える、一つの営みが入っているだけとは思えないほど大きな家が立ち並ぶ高級住宅街。そこに私の家はある。

「ただいま」

「おかえり」

 迎えの挨拶をしながら、母がキッチンを出て玄関までやってきた。

「卒業おめでとう」

「うん、ありがとう」

「高校を卒業できたのは良いことだけれど、名門校に受かったからって呆けていたらいけませんよ」

「うん。分かってる」

「それじゃあ、今日もちゃんと勉強しなさいね」

「ごめん、お母さん、私これから友達に届け物をしなくちゃいけなくて」

 そう言って私は、鞄の中から彩の分の卒業証書を取り出す。

 母のさっきまでの張り付けたような表情が、一瞬ピクリと動いた。

「誰のお家?」

「彩」私は、機械的に発音する。

 この名前を口に出すと母が不機嫌になることを、私は知っていた。彩は不真面目だし、学校にはちゃんと来ないし、クラスでは浮いている存在だと、母も知っている。私がカメラを始めたのが彩の影響だということも。今まで自分に従順に生きてきた私を汚すような存在を、母は許せないのだ。

「……その子とは、今日限りで関係を断つこと。いい?」

 もちろん、こうなることも予想できていた。私に拒否権など無かった。

「分かったよ。じゃあ、荷物置きたいから」

 そう言って母の横をすり抜けて、自分の部屋がある二階へ向かった。二階に上がるまで、母の鋭利な視線を背中で受け止めていたが、知ったことではなかった。

 荷物を置いて、再び一階に降りる。母の姿は既に無く、がらんどうの玄関では、キッチンで流れる水の音が、冷たい温度を伝えているだけだった。


 彩の家までの道を、俯きながら歩く。

 私は、出来損ないだ。生まれた時から今までの人生を両親に決められた、一人では何もできないクズだ。そして、その生き方を受け入れている、どうしようもない人間だ。

 受け入れたつもりでいても、時々無性に腹立たしくて、自分を見失う。そんな自分をコントロールするため、いつからか、そんな時には真っ白な世界をイメージするようになった。真っ白な世界にどこからともなく色が滲み出して、波になったり、風になったり、雨になったりして、混ざり合って、段々世界は汚い色に染まっていく。そして最後には一面の真っ黒になるのだ。

 私は名前の通り真っ白。純白なのだ。イメージの中の世界のように、他人の好きなように汚され、好きなように染められる。それでいい。それが私の唯一の生き方だから。

 アスファルトを、濡らすような影が覆い始めた。空を見上げると、あらゆる不幸を孕んでいるかのような肥えた雨雲たちが、ゆっくりと風に流されていた。傘を持っていない私は、歩調を速めた。

 彩の家は、十階建てマンションの一室、六○三号室である。遊びに来たことは無いが、何度もこうして荷物を届けに訪れているので、マンションの場所も号室もすっかり覚えてしまった。

 鞄から荷物を取り出し、六○三号室のポストに荷物を入れようとしたが、記念品の瓦煎餅が入口につっかえて入らなかった。

「だと思ったけどさ……」

 瓦煎餅、美味しいけれど、今だけはお前を恨みたい……。

 深いため息を吐きながら、自動ドアの隣に取り付けられたインターホンに六○三と入力し、呼びだしボタンを押した。

 ピーンポーン……。

 ……。

 いくら待っても、スピーカーから声が聞こえてくることは無かった。六○三の表示が消えてしまったので、もう一度六○三と入力しボタンを押した。

 ……。

 二回目もまた同じだった。次で最後にしようと思いながら、もう一度ボタンを押す。

 ピーンポーン……。

 ……やっぱり、嫌なのかもしれない。薄々思っていたことが真実性を帯び始めた。私だって同じ立場だったら、きっと嫌だと思う。彩の立場に立ったときのことを想像するだけで、水村真白がここにいることが間違ったことだと感じる。なんでわざわざ呼び出したりするの、と。私はただ、彩に届け物をしに来ただけなのに。このことが不安だったから、ポストに入れるだけで済ませたかったのだ。

 私は、曇り空を眺めた。雨が降らないか心配だったし、私を息苦しくする静寂を少しでも紛らわせたかった。

「はい」

 唐突に空気を揺らしたその声が彩のものであると、すぐに分かった。視線をインターホンへ戻し、驚きで呆気にとられた頭をどうにか回転させ、現実に追い付かせた。

「あ、あの、卒業証書。届けに来た」

「わぁ、わざわざありがとー、ポストに入らなかったの?」

「そう、記念品の瓦煎餅がね……」苦笑しながら、それをインターホンのカメラに映す。

「瓦煎餅のためにわざわざ呼び出したの? 真白ってほんと真面目だね。私なら黙って持って帰っちゃうよ」

「いや、持って帰るなよ」

「あはは。じゃあ、そこで待ってて。すぐ降りるから」そう言って、彩は通話を切った。

 彩とこうして気兼ねなく話すの、久しぶりだな。と思った。こんな短い会話でも、さっきまでは煩わしかった曇り空が、くだらないものに思えることが不思議だった。

 しばらくすると、彩が部屋着姿で降りてきた。最後に彩に会ったのは二か月前だ。ショートヘアだった髪が伸びていて、ヘアゴムで後ろ髪を束ねていた。そして以前より少し痩せていた。

「真白、久しぶり」

「うん、久しぶり」

 あまりにも彩が何のきまずさも感じさせないので、私はどう振舞えばいいのか分からなかった。

「はい、これ」私は担任から預かった荷物を手渡す。

「ありがとー、わざわざすみません……」

「いいよ別に、いつものことだし」

「いつもわざわざすみません……」

「いいって」

 私も彩も、こうしてへらへら笑っているけれど、多分、これが私と彩の最後の会話になる。彩はそんなこと思っていないのかもしれないけれど、きっとそうなる。別に、母に言われたからじゃない。これまでも、母からは彩とはあまり関わらないようにと言われていたからだ。それでも彩と関わり続けたのは、私の運命に対するささやかな抵抗のようなもの。子供の我儘だった。でも、今日でそれも終わりだ。私たちは、大人になる。

 だから、私は彩のこれまでのこと、これからのことを一切聞こうとはしなかった。

 それからは、お互いよく一緒にいた頃のことを思い出しながら、飽きるまでくだらない話を続けた。それだけだった。

 そうしている内、空を埋めていた鈍色の雲が、いよいよ雨を降らし始めた。

「雨、降ってきたね」

「うん。私、傘持ってきてない」

 私は、彩から目を逸らす。

「そうなの? じゃあ、傘貸してあげるよ」

「いや、いいよ」

 私は、真っ白な世界をイメージする。

「でも、濡れちゃうよ」

「いいんだよ、それで」

 私の言葉が、彩の心にナイフを刺したのが分かった。

 いいんだよ、それで。私に染み付いた色を洗い流せるような、そんな雨だから。

「だってさ、傘借りても、返せないから」

 刺さったナイフを通じて、私と彩が繋がるのが分かった。私が彩との関係を断ち切ろうとしていることが、痛いくらいはっきりと、彩に伝わるのが分かった。

 ナイフが硬質な輝きと共に、冷たい沈黙を放っていた。

「真白と私は……」

 一言。

「真白と私は……親友だよね?」

 たった一言。

 たった一言、私が返事をすれば、すべてが変わってしまう。そう確信できた。

 傷口から溢れる鮮やかな血の赤が、刃を伝って私の手に届こうとした、その時。

 私はナイフを手放した。

「いや、違うよ」

 残酷だと思う。そうだ、私は残酷なのだ。

「だいたい親友って、もっと高尚なものだと思うよ。私と彩なんて、まだまだ、及ばないくらいの。だから……」

 こんな私だから、捨ててほしい。

「だから、私たちは今日で終わりにしよう」

 彩がどんな顔をしているのか、分からなかった。分かりたくもなかった。

 私は彩に視線を戻せないまま、彩が何か言うのを待っていた。

「そっか。……でもさ、返してもらえなくてもいいから、傘は持って行ってよ」

 そう言って彩は私の肩を叩き、階段をのぼって行った。

 私は俯いて、後ろを振り返らないで、雨の中を走った。


「真白ちゃん、起きて、真白ちゃん」

 誰かが私の肩を叩いている。

「起きてくんないと、部室閉められないよー」

 聞き慣れた声だ。私は突っ伏していたテーブルから、頭を持ち上げる。

「おっ、起きたー」

 見ると、彩が私の顔を見て笑っていた。

「私、いつの間に寝てたの……」

「知らないよー、私が来た時からずっと寝てたもん。さぞかし良い夢を見ていたんでしょうなあ」

「夢……?」

 そうだ、夢を見ていた。痛くて、大切で、苦しくて、冷たい夢。

 そこまでは分かるけれど、内容は思い出せなかった。

 窓の外はすっかり暗くなっていて、時計を見ると、時刻は既に八時を回っていた。

「うわ、もうこんな時間。……って、彩、いつもはもっと早く帰ってるのに、いいの?」

「いいの。真白ちゃんと一緒に帰りたいから」

「……そっか。ごめんね、ちょっと待ってね」

 私はそそくさと帰る支度をする。 

「お待たせ、帰ろっか」

「うん」

 私は部室を出て、鍵を閉める彩の後ろ姿をなんとなく眺めていた。

 大学に入って二年。私はまた、写真部に入っていた。母曰く、あの子との関係が絶てたのなら、写真は続けてもいいということだったからだ。

「真白ちゃん、どうしたのぼーっとして、まだ寝ぼけてる?」

 彩は指でフレームを作って、私の方をじっと見ていた。

「あ、いや、大丈夫」

「よーし、じゃあ、帰ろー!」

「相変わらずテンション高いなー」

 彩は、あの子と少し似ている。底抜けに明るいところとか、私にべったりなところとか。それと、指でフレームを作る癖も。

「真白と私は……親友だよね?」

 だから私は時々、あの子が呟いたあの言葉が、いつかこの子の口からも聞こえてくるんじゃないかって、不安になる。

 夏の匂いが少し残る九月の帰り道を、二人で歩く。

「心霊写真がね、撮れたらしいんだー」

 彩が突然言い出した。

「いきなりなに、怖いなー」

「私の知り合い、真白ちゃんもご存じの滝瀬くんがね、地元で写真を撮ってたらね、写ってたらしいの」

「へー、撮影者は滝瀬ですか」

 滝瀬も私と同じように、大学では写真部に入っていた。彩と滝瀬は、他校の写真部との交流会の時にいつの間にか知り合っていたらしい。世間は思った以上に狭いものだと思う。

「うん。でね、その幽霊がどうも滝瀬くんの好きだった人に似ているらしくて、滝瀬くんめっちゃ落ち込んでた」彩は、あははー、と気の抜けるように笑った。

「いや、笑うところじゃないよそれ……でも、心霊写真なんて嘘でしょ。滝瀬が加工した写真に決まってるじゃん」

「えー、でもこれがまた本物っぽいんだよねー」

 そう言って彩はポケットからスマホを取り出して、滝瀬から送られてきたという写真を私に見せてきた。

「え……?」

 そこに写っていたのは、紛れもない、高篠彩の姿だった。

 私と彩が通っていた高校の中庭にあるベンチの上に、制服姿で、いつものようにカメラをぶら下げて、膝を抱えて座っていた。

 私の胸を、何かが強く締め付けた。心臓が、息が、思考が、空気が、時間が、止まるのが分かった。時間が蘇るのと同時に、涙が滲んできた。

「どうしたの?」 

「これって……彩だ」

「え、私?」

「違う、高校の時の、なんていうか……友達」

「へぇー、私と同じ名前だー」

 私はあの日のことを思い出していた。彩から逃げるように、雨の中を走ったあの日。彩の変わっていなかった笑顔を思い出した。

「真白と私は……親友だよね?」

 そう言った彩のいじらしい表情、その奥にあった、世界の何もかもを諦めたような瞳の色を思い出した。ナイフを伝う血の色を思い出した。

 あの日以来、私は彩には会っていない。会っていないどころか、連絡すら取っていない。彩の今までもこれからも、知らないまま別れようと、そう決めていたから。

 だから私は、あの日の翌日、私と一緒に卒業した同級生の一人が自殺したというニュースにも、動じないでいた。きっと、私の真っ白な人生とは違う、色づいた人生を歩んでいてくれるだろうと、根拠もなく、そう思っていた。根拠もなく、そう思いたかったのだ。

 ナイフを手放した時に感じた、ほんの少しの予感。

 このナイフが、いつか彩を殺してしまうんじゃないかという、最悪の、けれど、確かにあったはずの予感。最悪だからこそ、目を背けていた予感。

 その予感が、私の中で音もなく膨れあがっていくのが分かった。

「真白ちゃん、大丈夫?」

 彩の声で、感覚が現実へと引き戻された。

「あぁ……うん、大丈夫……」

「ごめんね、真白ちゃんにとってそんなに嫌な写真だとは思ってなくて……」

「いいの、ありがとう……あ……」

「あ……?」

「いや、なんでもない……」

 目の前のこの子を、彩と呼ぶことが出来なかった。

 この気持ちが片付く前にそう呼ぶと、私の心が泣いてしまいそうだったから。


 私は、少し懐かしくなった高校までの通学路を歩いていた。あの写真に写った、二年前と同じ姿をした彩に会いに行くためだ。

 会って、どうしたいのかは分からないけれど……、それでも、放っておくことはできないと思った。

 それにしても、滝瀬が彩のことを好きだったなんて、意外だった。確かに、今思い返せばそういう素振りはあったかもしれない。けれど、彩は変わり者だったから、そういう恋愛とか、縁が無いような人だと思っていた。彩みたいな人を好きな人もいるんだ。なんだか、彩を少し遠くに感じる。

 高校に着いても、その風景は二年前とまったく変わっていなくて、ここが彩の自殺した場所だなんて、とても信じられなかった。

 今でも、信じたくないと思っている。嘘であってほしいと思っている。中庭に彩がいないことを、早く確かめたいと思っている。早く私の中から消えてほしいと、思っている。

 私は中庭への道をまっすぐ進む。

 一歩一歩、地面を踏みしめる感覚が、普段よりも鮮明に感じられる。

 鼓動が、一歩を踏みしめる度、少しずつ早くなる。

 校舎と校舎の間を抜けて、目の前に見慣れた風景が広がる。

「あんたなんか、消えちゃえばいいのに」

 そこには、写真のように膝を抱えてベンチに座る彩がいた。

 あの頃と何も変わらない姿で。まるでそこに生きているみたいに。

 私が黙って入口で佇んでいると、彩はすぐに私に気付いて、私のもとへ走ってきた。

 私は目を伏せて、彼女の顔を見ないように、見ないようにと、必死だった。けれど、直接見なくとも、彼女がどんな顔をしているのか、はっきりと分かった。心に浮かぶそのへたくそな笑顔を、彼女が今ここにいるという事実を、どう受け止めればいいのか、分からなくて、両の頬を、涙が伝った。

「真白!」

 ああ、そうか。

「ずっと待ってた!」

 私もずっと、待っていたんだ。

「馬鹿みたい……」

「え?」

「こんな人に振り回されるなんて、ほんと、馬鹿みたい」

「え、ええー? こんな人って、感動の再会の最初の台詞がそれー?」

「うるさい、勝手に死んだやつにとやかく言う権利はない」

「うっ、ごもっともです……」

 馬鹿みたい。本当に、馬鹿みたいだ。

 自殺したのなら、もっと悲しそうにすればいいのに。生きている内に、私に相談してくれたらよかったのに。そう思いながらも、なんで私たちは、こうして笑いあっているんだろう。

 彩のことを、殴ってあげたかった。抱きしめてあげたかった。手を握ってあげたかった。でも、もう遅い。

 いくら私たちがあの頃のように笑いあったって、彩が生き返るわけじゃない。

 いくら彩が自殺した理由を聞いたからって、彩が生き返るわけじゃない。

 だからせめて、私が殺してしまったこの人は私の手で眠らせてあげたいと、そう思った。

 私は顔をあげて、彩の目を見る。瞳の奥の色を見つめる。

「……あんたは絶対、私が殺してあげるから」

 彩は何も言わず、ただ、微笑んでいた。


 学校を出て、私の家まで彩を連れて帰った。彩を成仏させるには、本人の未練を断ち切るしかない。そのための望みを叶えるため、彩とはこれから常に一緒にいる方がなにかと都合が良いのだ。

「真白の家って、大きいねー!」

「まあ、平均的な家と比べると、そうだね」

「いいなー、羨ましいよ」

「そんなに良いものでもないよ」

「そうかなー?」

「そうだよ」

 何気なくドアを開けようとしたところで、確認していないことがあることに気が付いた。

「そういえば、私は彩のこと、肉眼で見えるのに、滝瀬は肉眼では見えないの?」

「うん、そうだと思うよ」

「じゃあ、お母さんにも見えないよね?」

「うん」

「……なんで?」

「えっ、なんでと言われても……真白の霊能力者としての才能が開花した! とか?」

「嘘つくの下手くそすぎるでしょ……」

 嘘じゃないもん、と騒ぎ立てている彩を無視して、私は自分の部屋へ向かった。

 彩を家に連れてくるのは初めてだ。母がそんなこと許さないから当たり前だけれど。彩だけじゃない。私が家に呼んでいい人なんて、母の友人の子供くらいだった。私の友達が来たことは一度もなかった。

 だから私は、ワクワクしていた。普通に、何のしがらみもなく、友達を家にあげられることが、嬉しかった。

「真白、なに笑ってるの?」

「へっ?」意識すると、確かに口元がほつれているのが分かった。

「真白の珍しい表情、発見!」彩はそう言って、指でフレームを作る。

「もう、ふざけるのはいいから!」

「へへー、真白は可愛いねー」

首にぶら下げたカメラに、彩が手をかけた。

「……」

 けれど、すぐに離してしまった。

 私にはその意味が分からなかったけれど、彩の痛みは少しだけ分かったような気がした。

 それから彩は、まっすぐ私の方を見つめた。

「私のお願いはただひとつ」

 私は、まっすぐ彩の瞳を見つめた。一言だって聞き逃さない。

「私の代わりに、写真を撮って欲しいの」


「写真を撮るって言っても、何をどれだけ撮ればいいのー?」

 私は自転車を漕ぎながら、後ろに乗せた彩に問いかける。二人乗りなんて初めてだけれど、幽霊だからだろうか、彩にはなんの重さもないから、不思議な感じだ。

「私が良いと思ったものを、私の好きなだけ!」

「それ本気で言ってる?」

「本気だよー、とことん付き合ってもらうから!」

「写真バカの彩のことだから、挙句の果てには全国一周なんてことにならないでしょうね……」

「あっ、それ楽しそう!」

「今の発言は忘れてください……」

 私たちはそれから何日間も、いろんな所へ行って、いろんな写真を撮った。赤と青のグラデーションを映した夕暮れ時の空、不意に目に留まった落ち着いた雰囲気の雑貨屋さん、道端に落ちていたビー玉、並んで電線にとまる雀たち。彩のご要望で、私のカメラを使って。

 生まれてきて、今が、一番楽しいかもしれない。そう思った。

「ねえ、真白」

「ん?」

「私、生まれてきて、今が一番楽しい!」

 私の後ろで、彩が叫んだ。

 私はただ、遠くの空を眺めていた。

「あんたはもう死んでるでしょ」

「……そうだね」

 温度の無い涙が、私の背を濡らしていた。


 真白の家に来て、もうすぐ二週間だ。

 私は、ふかふかのベッドで眠る真白の寝顔を眺めて、それを指フレームに収める。

 分かっていたけれど、やっぱり、私にはもうこの人の人生に干渉する権利なんて無いんだと、思う。

「いつまでも、一緒にいるわけにはいかないよね」

 このまま一緒にい続けたら、いっそ真白が目覚めないで、私と一緒に来てくれたら……なんて、思ってしまう。どうしても、思ってしまうから。

「だから、今度こそ、本当の本当に、お別れしよう」

 私は真白に背を向けた。

「私のわがままに付き合ってくれて、ありがとう」

 だんだんと、意識が遠のいていく。感覚が遠のいていく。

 息の仕方を、忘れていく。生きていたことを、忘れていく。

 何が好きだったか、何が嫌いだったか、全部、全部、忘れていく。

 辛いことばっかりの人生だった。

 けれど、楽しいこともあった。

 それは、ほんの少しだけ。

 ほんの少しだけの、大切だったけれど。

 それでも、私は――。

「忘れたくないなぁ」

 私の名前を、忘れていく。

「忘れてほしくないなぁ」

 あの人の名前を、忘れていく。

 もう戻れない。やり直せない。

「最期まで、生きていてほしいなぁ」

 私の色を、忘れていく。

 さよなら、大嫌いだった世界。

 私は微笑んで、後ろを振り返らないで、光の中へ消えた。


 終わりだ。

 目覚めた時、そう思った。

 あの日と同じように。今日、私の中で何かが終わりそうな、そんな予感があった。

「……彩?」

 部屋のどこを見渡しても、どこにも彩がいないことに、すぐに気が付いた。

 ああ、やっぱり。

 やっぱりあなたは、何も言わずに私の前から消えて行ってしまうんだ。

 私だって、何も言わずにあなたの前から消えて行ってしまった。お互い様だと思う。

 こうなるんじゃないかって、思ってた。私たちの関係は、そういうものなのだと、心のどこかで割り切っていた。一緒に笑いあっていた時でさえ。いつだって、こうなることは分かっていた。

「ああ……」

 いくら私たちが笑いあったって、あなたが生き返るわけじゃない。

「私は、連れて行って欲しかったんだ……」

 あなたが生きていて、私も生きていた、その時に。

 私の中で、誰かがつぶやく。

「分かっていたはずなのに、こんなの、あんまりだよ……」

 誰かの無価値な独り言は、私の耳にしか届かなかった。

 

 彩がいなくなってから、数週間が経った。

 私は自室で、彩と一緒に撮った写真を一枚一枚、その時のことを思い出しながら眺めていた。

 彩が私にしたお願いの真意が分かったのは、最近になってからだった。

 いくら私たちが近づいても、本当の気持ちなんてものは伝わらない。真意が分かった、と言っても、私の推測に過ぎないし、私の思う真意は、彩にとっての真意じゃないかもしれない。

 けれど、私はこう思う。

「私を忘れないで」

 私と一緒に撮った写真を見て、いつまでも私のことを忘れないで。と、彩はそう言いたかったんだと思う。

 今となっては確かめようもないけれど。

 すべての写真を見終えた時、誰かがつぶやいた。

「一緒に写真、撮っておけばよかったな……」

 窓の外に見える空には、今にも消えそうな飛行機雲があった。

 私はベランダへ出て、声の主に向かって言った。

「じゃあさ、一緒に写真、撮ろうよ」

 私がそう言うと、その人は微笑んで、私の隣に並んだ。

「ねぇ」

 一言。

「ん?」

 たった一言。

「私たち、親友だよね!」

たった一言で、私たちはこんなにも救われる。

「そうかもね」

 シャッターを切ると、何もかもを染めてしまうような白の光が、私たちを包んだ。

 光の後で隣を見ても、そこにはもう、誰もいなかった。

 これからは、誰かに染められることを受け入れる白じゃない。誰かがそこに生きていたことを、誰かが私を想ってくれているということを、刻むための白になろうと、思った。

 見上げた空は、雲ひとつなく晴れ渡っていた。





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