第一の殺人
翌朝。
昨晩さんざん夜更かしをした僕を漆黒の眠りから現実に引き戻したのは、当然ながら自分の意志ではなく、扉が破られるんじゃないかと思うくらいの激しいノックの音だった。入浴時以外は常に身に付けている腕時計を確認すると、時刻は六時十三分。何もこんな早くから騒々しい音を立てなくてもいいだろうに。
ともあれ、外で誰か(まあおそらく白音さんだろう)が呼んでいるのを無視するわけにもいかないので、ベッドから降りて入口に向かい、チェーンとロックを解除してからドアを開ける。
やっぱりというか予想通りというか、そこにいたのは白音紅音さんその人だった。ただ奇妙なのはその服装。昨日と違って制服ではないものの、長袖長ズボンというまだこの季節には暑いのではないかと思えるようなものだった。
「あの白音さ……」
「おはようございます」
そう言えば朝の挨拶をしてなかった。仕切り直し。
「おはようございます。……で、白音さん。その格好暑くないですか?」
「まあはっきり言いますと、やっぱり暑いですね」
じゃあもっと涼しそうな服を着ればいいのに。僕がそう思ったのを敏感に感じ取ったのか何なのか、白音さんはこう続けた。
「しかしそうもいっていられない事情があるのですよ比嘉さん。……そうだ、比嘉さん手袋持ってきてますか?」
「いえ、持ってきてないですが……?」
何故だ。まだ九月だぞ。それとも何だろうか、僕が気づいてないだけで今はひょっとして冬の真っ最中なのか? 眠っている間に南半球へ連れてこられたとか。
「では私のを貸して差し上げます。服は……そのままで問題なさそうですね。着替えなかったんですか?」
「え? あ、はい。昨夜は夜遅くまで図書室で最上さんとボードゲームをしてまして」
「そうですか。じゃ、ついて来て下さい」
妙に淡々としゃべると思ったら、いきなりくるりと背を向けてすたすたと歩き始めた。思わず呼び止める。
「あの、白音さん。何かあったんですか?」
次の瞬間。
僕は、いままでとは全く違う世界に足を踏み入れたことを知る。
「塔野さんが、殺されています」
「うわぁ……」
塔野さんの部屋――南西の塔の一番上だ――に着くと、そこには既に桐生さんがいた。聞けば、他の人たちにはいったん食堂で待機してもらっているとのこと。
「十五分前、桐生さんが塔野さんを起こしに来た時に発見されました。何度ノックしても返事がなく、不審に思った桐生さんがドアを開けると……あとは自分の目で見てください。ちなみに、ドアに鍵はかかってませんでした」
そう前置いて、白音さんはドアをガチャリと開けた。途端、濃く立ちこめていた血の匂いが鼻を刺す。
塔の一角という設計上さほど広いわけでもない部屋には、本棚やベッドが整然と設置されていて、主人の性格同様の生真面目さをうかがわせた。ただしその調和を乱すかのように、血を撒き散らして床に倒れている、その部屋の主人――塔野昭一を除いては。
猟奇的な赤黒い血の広がりが彼の身体を覆い尽くすのみならず、同心円状に広がり部屋の半分ほどを埋め尽くしていたが、それ以上に僕を慄かせたのは彼の様相だった。
頭と胴体が、首を境に分断されている――いや、切断されているのだった。
「白音さん、これはいったいどういう……」
思わず疑問を投げかけると、返事代わりに白い手袋が放ってよこされた。まあ、いくら探偵とはいえこの段階で意見を求められても困るだけだろう。至極合理的である。
一度塔野さんに手を合わせ黙とうしてから、受け取った手袋を両手にはめ、現場の検分を開始する。まずは、塔野さんから。どうしても首が切断されているという異常な状況に目が行きがちだが、それが直接の死因である確証はないので全身をくまなく観察する。犯人がいきなり首に刃物を振り下ろしたという仮説は突飛に過ぎるからだ。
頭は胴体から完全に離れていて、切断面を上にして転がっていた。さすがにもう止まっている、もののかなりの流血だったらしく(当然か)顔の大半は赤く染まっていた。切断面は、腹側から背側へ重量に任せて切り下ろしたのか斜めになっていた。何度も刃を入れた跡なのか、ずたずたになっていて犯人が苦労したことをうかがわせる。人体を切断するというのは口で言うよりも重労働なのだ。
しばらく眺めているうちに、ある部分に目が留まった。
「あの、白音さん。これじゃないですか?」
僕が指差したのは、頭頂部。ちょうど下になっていたので分かりにくかったが、微妙に陥没しているようだ。
「どこです?」
「ほら、これ……」
「ああ、確かに。形状からして何かで殴られた跡のようですね――おそらくあれでしょう」
白音さんが指差したのは、部屋の隅に転がっていた電気スタンドだった。立ち上がって拾いに行くと、確かに側面に血痕が付着している。念のため傷口に合わせてみるも、ぴたりと一致した。
「桐生さーん」
白音さんが部屋の外に向かって呼びかけると、桐生さんが入ってきた。
「あの電気スタンドは、この部屋にあったものですか?」
「……はい。塔野様が読書の際に使われていたものです」
「ありがとうございます。また質問することがあるかもしれませんが、ひとまず食堂に戻って皆さんに紅茶でも出してあげてください」
「かしこまりました」
足早に出ていく桐生さん。無表情を装っていてはいたが、変わり果てた主人の姿を見て動揺しているのは確かなようだ。
「さて、まだデータ不足ながら一応分析してみますと……犯人は昨晩、塔野さんに部屋に入れてもらった後、隙をついてその場にあった電気スタンドで殴りつけ、その後首を切断したといったところのようですね。私は検死の専門家ではありませんが、死後硬直の状態から見るに死亡推定時刻は昨日の二十一時から今日の一時といったところでしょう」
「白音さん、検死とかできるんですか」
「知り合いに教えてもらって、少し。ただ素人であることには変わりがありませんので、少し長めに幅をとっています」
僕なんか要らなかったのでは。ああ、ボディーガードだったか。
しかし動揺が収まってきたので、新たな疑問が首をもたげてきた。
「けど白音さん。なんで犯人は、塔野さんの首を切ったんでしょうね」
「そう、そこなんですよ」
人差し指を一本立てる白音さん。
「奇妙な館で、主人が首を斬られて殺された……こういう事例は枚挙にいとまがありませんが、国内で真っ先に思い浮かぶのはやっぱりあれでしょうかね。八十年代後半、廊下が迷路状になっている館で起きた第一の殺人――あれは確か、被害者の推理作家が書いていたといわれた推理小説と同じ状況で首を斬られていました。ただ、あの状況が今回の事件にも当てはまるかと言われると何とも言えません」
「……その事件では、犯人はなぜ首を切ったんです?」
「すみませんね比嘉さん。あの事件、ある作家の手で小説化もされていまして。比嘉さんが読んでいるとは思えませんから、ここで理由を言うとネタバレになってしまいます」
「しかし」
「まあ私は真相を知っていますから、それを念頭に置いた捜査ができますよ。比嘉さんが知らなくても問題はありません」
……まあ、推理するのはあくまで僕ではなく白音さんなのだから問題はないか。
「では白音さん、この段階で首切りの理由について言えることなどありますか」
「そうですね……ほかに目立った要素もないですし、さっきの話ではありませんが見立て殺人という可能性は除外できそうです。ただ、それ以上のことは何とも……首を斬ること自体が目的だったのか、首を斬ることによって発生する副次的な事象が目的だったのか、それとも何らかの物理トリックによるもので首切りは目的ではなく手段だったのか。他にも可能性はいくつかありますが、肝心の切断に使われた凶器が発見されていない段階で言えるのはここまでですね」
「そうですか。いや、ありがとうございます」
僕はそのうちのほとんどが思いつかなかったし。さすがは探偵というべきか。
「しかし白音さん、この事件、僕らの手には余りますよ。せめて地元県警の協力を仰がないと」
「分かってます。そう思ってさっき、緋桂さんに電話をかけに行ってもらいました。そしたら……」
「そしたら?」
「電話線が切れてました――いえ、切られてました。毎度のことなので驚きはしませんが、困ったものです」
毎度のことって何だ。
「携帯は? 白音さん、確か昔ながらのガラケーを持ってたでしょ。スマホだと画面が割れたら何にもならないとか言って」
「確かに持ってますが、今時ありえないことに、ここ圏外なんですよ」
「え……それ本当ですか」
「はい。最近はクローズドサークルからも助けが呼びやすくなったんですがね……今度から衛星電話に変えましょうか」
「是非そうしてください」
……ん? でも待てよ。
「白音さん白音さん」
「何ですか」
「僕らが来た道がありますよね。少し時間はかかりますが、あそこから麓のT**村に降りれば――」
「……そうか。さては比嘉さん、今の天気を知りませんね?」
天気がどうしたというのだろう。よっぽどの台風でもない限り外へ出れないということはないと思うのだが。
「この部屋は窓がないので分かりにくいと思いますが、今は雨が降っています」
「……それが何か?」
「こういう事態は以前にもあったそうで、桐生さんが朝一番に確認に行きました。途中の道が崩れているそうです」
……何てことだ。
「ただ数年に一度はあることなので、大雨が降った日はいつもT**村の人達が確認に来てくれるそうです。今までの経験から言うと、明後日の昼頃に通れるようになるはずだと桐生さんは言っていました」
「そうですか。……なら、それまではここは……」
「はい。外界から隔絶された状況ですね」