Epilogue
「――感謝してもいいかもしれませんね」
そう言って白音は、コーヒーを一口含んだ。しかし苦過ぎたのか、一秒後に大仰に顔をしかめる。
恐る恐る尋ねる緋桂。
「ねえ、白音さん」
「はいなんでしょう」
「そのブラックなジョーク、ほんとにその場で言ったんですか?」
何だそんなことか、という顔をする白音。
「もちろん言いましたとも。それにジョークではありませんよ……私、進んで誰かに敵意を向けることはありませんけど、向こうから向けてきた場合はまた別です。あなただってそうじゃないですか、緋桂さん?」
「……まあ、それは」
渋々うなずいてコーヒーカップに視線を落とす緋桂。しかし、すぐに顔を上げてこう言った。
「しかし白音さん、さっきから私が結構気にしてることがあるんですが、何だと思います?」
「さて、何でしょうねぇ」
微笑みながら首をかしげる白音。
「絶対分かってるでしょ。……以前お会いした時も言いましたよね、あまり本名で呼ばないでほしいと」
「しかし、去年の八月に四国で起きた事件の時は、本名でいらしてたじゃないですか」
「あれは、推理作家としての私――糸杜冬木としてではなく、ただの一個人としての私――緋桂柊として行ったからです。先方にもそのつもりで招待して頂いたようでしたし」
「しかし、あの時は大変でしたねえ。何せ建物が吹き飛びましたもの」
「半分はあなたのせいですよ、白音さん……」
「そうでした。ははははは」
朗らかに笑う白音とは対照的に、思い出したくないといった表情で首を振る緋桂。
一通り笑い終えた白音は、そこでその笑みを意地の悪そうなものに変え、
「でも、『尖塔館の殺人』は、本名の緋桂柊名義で出すんでしょう?」
と尋ねた。
「まあ、それは私だってミステリ作家ですから。大どんでん返し、とはいかなくても、事件の詳細を知らない読者さんをびっくりさせたいじゃないですか」
「ついでに犯人も隠してしまおう、というわけですか」
「はい。幸い、緋桂さんは報道でも終始一貫して本名で扱われていましたから、ニュースなんかで万が一『冬木平子』の名前を目にした方がいても、すぐには気づきませんよ。まして登場人物の一人と作者の名前がいっしょなんですから、誰でも『ああ、この作者はこの事件を体験してそれを本にしたんだな』と思うでしょう。そう信じ込んで読み進めていったら、作者本人だと思っていた登場人物が犯人だった、という」
「なかなか愉快です。私好みでもありますし」
そう言った白音は、ふと何かを思い出したように制服の内ポケットから何かを取り出す。テーブルの上にていねいに置かれたそれは、水色の表紙のメモ帳だった。
「……これは、何ですか?」
不思議そうに尋ねる緋桂。
「見ての通りです。ああ、ペンもお付けしますね」
そう言って、さらに黒いサインペンを隣に置く白音。
「あちらの緋桂柊さんにはこの間尖塔館でサインを頂きましたので、こちらの緋桂柊さんにもサインをお願いしようかと。何せ八月の事件の時は、ごたごたしていてサインどころではありませんでしたからね」
複雑そうな顔をして、メモ帳とサインペンを受け取る緋桂。ページをいくらかめくり、キャップを外してサインペンを近づける。しかし、ふと迷うような表情を見せた。
「――あの、白音さん。私は本名とペンネームが別ですけど、どっちでサインした方がいいですか?」
その問いはおそらく、自らが開いたページの右側に書かれた『緋桂柊』というサインを見たことによるものだろう。
小首を傾げる白音。
「もちろん、ミステリ作家のあなたとしては充分に分かっていらっしゃるはずですが」
そう言って白音は再びコーヒーカップに口をつけ、目を閉じた。ふふっと微笑み、サインペンを握り直す緋桂。素早く、しかし丁寧に一角一角を刻むように書きつけてゆく。
数秒後。
白音の手元に返されたメモ帳には、二つの『緋桂柊』という文字が並んでいた。




