Prologue
『緋桂さーん。原稿上がりましたかー?』
推理小説家、緋桂柊の三鷹の自宅に担当編集者からの電話がかかってきたのは、2014年も四分の三を過ぎた十月の上旬のことだった。
「さすがにまだですよ太田さん。いつもはもう少し待ってくれるじゃありませんか」
『しかし今回はプロットや話の展開を考えなくていいはずです。ですから締め切りはいつもより短めに設定したと打ち合わせで言ったはずですが』
「そうでしたっけ」
『はい。だいたい世間の関心が高まっているいま売り出すのがベストなんですよ、あと一ヶ月もすれば裁判も終わって売り上げが期待できなくなります。今週中に書きあげてくださいね』
「了解です。……しかし、まさか私が、実際に起こった殺人事件のノベライズをすることになるとはねぇ……」
ふぅ、とため息をつき、椅子にもたれかかる緋桂。しばらくしてから頬をパシンと叩き、立ち上がってキッチンへ向かった。どうやら眠気覚ましのコーヒーを淹れるつもりらしい。
『……あ、そうだ緋桂さん。緋桂さんが締め切りをきちんと守れば本は予定通りに出せますが、いつも通り一冊ご実家に送られますか?』
湯気の立つマグカップを片手に戻ってくる緋桂。
『もしもーし』
「そうですね、いつも通りで。北海道札幌市Y**町、〇〇‐〇〇‐〇〇、緋桂椿宛てでお願いします」
『分かりました。他はよろしいですか?』
「家族は喜んで読んでくれますけど、友達は送られても迷惑するだけでしょう」
ずずずとコーヒーをすする緋桂。苦すぎて砂糖を取りにキッチンへ戻る。
『緋桂さん。緋桂さん?』
容器を持って帰ってくる緋桂。ふたをあけて、角砂糖を四つ投入する。
「はいはい。何ですか?」
『これは担当編集者としての意見ですが、今回のは実際に起こった事件で、なおかつ即時解決されてますから結末を知っている読者も多いと思うんですよ。そこでですね、なにかオリジナルな要素を……』
「だめです」
ピシャリとはねつける緋桂。
「大家の先生の言葉を借りるなら、あくまでこれは、実際に起こった事件の『推理小説的再現』を目的としたものです。オリジナル要素を付け加えるのは趣旨に反します」
『しかし……』
「――しかし、完全にそれだけというのも味気がない話ですので、本筋とは関係ない部分で遊びます。これはあの事件が起こってからの私――緋桂柊の最新作です」
『……ああ。そういうことですか』
「事情を知らない人はびっくりするでしょうね」
『それはもう』
「じゃあ、そういう方向で。いまからがーっと書くので、邪魔しないでくださいね。いやもういっそのこと今日中に書きあげますよ」
『言いましたね。明日の朝になって泣きごと言わないでくださいよ』
「大丈夫ですって。それでは」
『失礼します』
プツッと通話が切れる。ツー、ツーという切断音を鬱陶しく思いながら固定電話を低位置に戻し、マウスを操作する緋桂。ファイルを一つ選択し、ダブルクリックする。
ファイルの名前は、『尖塔館の殺人』。