プロローグ
何事もない平和な生活を謳歌している人もいれば、戦火に晒されいつ死ぬかも分からない生活を送っている人もいる。
世界には常に色々なことが起こり、人は何度でも過ちを繰り返す。そして、過ちを繰り返しながらも人は一歩ずつ前へと進んでいく。何も変わらない、いつも通りの世界。そんな世界を、人間を震撼させる事件が突如として起こった。
2016年2月29日。一人の赤ん坊がこの世に誕生した。見た目は何の変哲もないただの赤ん坊だ。だが、成長するにつれ、赤ん坊は他の人間とは決定的に違うあるものを持っていた。
人は自分達の知識では分かりようのないものを"魔法"や"奇跡"という名で片付ける。赤ん坊の"視界に入った無機物を消滅させることができる"力は間違いなくその類のものだった。名のある科学者達がいくら調べても原理はおろか、何が起こっているのかすら分からなかった。やがて、赤ん坊は神童と呼ばれたり、ある場所では悪魔の子などと呼ばれるようになった。
それだけなら全世界を震撼させる事件にはならない。その赤ん坊だけならまだよかったのだ。2016年2月29日を境に力を持つ赤ん坊が世界各地で次々と生まれ始めた。個々に能力の詳細は違えど、普通の人には持ち得ない絶対的な力をだ。
ある者は言った。これは人類の進化だと。
ある者は言った。これは人間に与えられた神々の恵みなのだと。
好意的に捉える者は決して少なくはなかったのだ。だが、人類の進化だとして、神々の恵みだとして、それを与えられていない大人達は旧人類や神々の恵みを与えられなかった者になりはしないか。
恐怖の根本はそこだった。赤ん坊達が成長しきってしまえば、自分達が淘汰されてしまうのではないか。いや、きっとそうに違いない。そんな不安から、大人達は一番やってはいけないことを実行してしまった。
全ての赤ん坊が力を持っているわけではない。力を持っている赤ん坊達を大人達は"忌むべき赤子""悪魔の子"などと呼んで親から取り上げ、とある島へと廃棄を始めた。
島に収容された子供達は軟禁され、死ぬこともできず、ただ研究されるが為に生かされるだけの存在となった。
そんな仕打ちをしたが故に、大人達は子供達を自分達が一番恐怖を抱いていた方向へと歪ませていった。
子供達は成長し、大人達へ反旗を翻したのだ。私達は選ばれし者、古い大人達は選ばれなかった者なのだと。
能力によって島を制圧した選ばれし者達は自分達の国家、アヴァロンを作り上げた。それは、選ばれなかった者を底辺とする能力重視の格差社会。
こうして、このどうしようもないほどに狂った国は出来上がったのだった。
-------------------------------------------------
「歴史の授業はここまでだ。何か思い出せたか、お嬢さん?」
ここはそんな事件から20年後のとある町のよろず屋。人探し、物品調達、金を積んで頼まれれば何だってする、そんな店だ。
その店主である男、ザイド・カーティスはゆっくりとコーヒーを啜って、虚空へと語りかけた。
身体は服の上からは細く見えるが筋肉質のがっちりとした身体で、かなり鍛えている様子を受ける。顔は大きな古傷がおでこからまぶたを通って頬まで来ており、かなり人相が悪い。
「聞いた覚えがある、というだけ。」
何もないはずの場所、何故か空中から女性の返事が返ってくる。
「全く、何も手掛かりはねえのか?お前が記憶を全て失って幽霊になった手掛かりはよ?」
「分からない。」
そう、彼女は俗に言う幽霊なのだ。ザイド以外の人間には目視もできず声も聞くことができない。
何故ザイドにだけ見えるのか、何故彼女が幽霊となってしまったのか、いや、そもそも幽霊なのかさえ分からない。彼女には記憶がないのだ。覚えているのは彼女の名前がカレンだということだけだ。
「はぁ...分からないって言われてもどうしようもねえぞ。まぁお前がこのイカれた国の成り立ちについて知ってるならお前は少なくとも大昔から生きてるババアにならな...おい、フォークを投げるな!殺す気か!」
カレンが棚から取り出したフォークを素早く何個もザイドへと投げつけるが、間一髪で避ける。フォークはザイドが座っているソファーに無残にも刺さった。
幽霊だが、物は触ることができるらしい。なんて都合の良い幽霊なんだ、とザイドは悪態をつく。
年齢は見た目10代半ば。黒髪と黄色の肌を見る限りでは東洋人、覚えているものは名前だけ。そこから自分が誰か調べろなんて無理にも程がある。
コンコン
不意に店の扉を叩く音がする。
かなり丁寧で上品な叩き方だ。常連なら雑に叩いてくるし、よく見知った知り合いなら叩きもしない。つまり、客が来たということだろう。
「おい、客が来たぞ。そのフォークは片付けとけよ。全く、またソファーが穴だらけに...」
ザイドはぼやきながら扉をほうへと歩いていき、営業スマイルをしながら扉を開けた。無駄に怖い顔をしているので、笑うともっと怖い顔になるのだが、誰も指摘しない。
「どうも、何の御用ですか?」
「あのー...すいません、ここなら身分問わず何でもしてくれるって聞いたのですが....?」
選ばれなかった者用の服、一番身分の低い者専用の粗末な服を着た女性が扉の前に立っていた。
アヴァロンの影響下では厳しい身分制度を設けてられている。選ばれなかった者というだけで、取り合ってくれない商店も多い。
だが、ザイドのよろず屋は金さえ積んでくれれば何でもするがモットーだ。身分など関係はない。
「依頼ですか?詳細を聞きますので、どうぞ中へ。」
ザイドは女性を店の中の応接室へ案内し、ソファーに座らせた。カレンもすっと部屋の中に入ってザイドの隣に座る。勿論、彼女の姿は女性には見えていない。
「で、今回はどのようなご依頼でしょうか?人探しですか?」
こういう女性の客は8割方人探しの依頼だ。理由は色々あれど。
「いえ、人ではなく猫を探して欲しいのです。」
「猫」
「はい、こういった感じの猫なのですが...」
女性から1枚の写真を手渡される。写真には大きな鈴がついた首輪が特徴の黒猫が写っていた。
「可愛いね。」
「...」
カレンが空気の読めないことを言っているが無視し、ザイドは写真の表裏をよく確認した後、女性に写真を返した。
「この猫を探して捕まえればいいんですね?」
「はい。この猫はご主人の大事な猫なんです...どの猫かは首輪ですぐに分かると思います。」
「ええ、分かりました。ですが、報酬は相応の分をしっかりと頂きますよ。」
「承知しております。あ、その、このメモをどうぞ。」
女性は一礼して1枚のメモを机の上に置いた。メモには電話番号とターゲットが最近目撃されたという場所が3箇所書いてあった。
「捕まえたらこの番号にお願いします。で、では、お願いします。」
女性は少しおどおどしながら一礼し、店を出て行った。
ザイドは女性が置いたメモをポケットの中に入れ、身支度を始めた。防刃も兼ねたジャケットと道具の入ったアタッシュケース。そして愛用の拳銃をホルスターに入れる。
「ただの猫探しなのに、やけに重装備だね。」
「はっ、猫を舐めちゃいけないぜ。今回の依頼は長くなりそうだ...!」
現在の時刻は午後5時。ザイドとカレンの長い長い夜が始まろうとしていた。