私が異世界に置いてきた(はずの)恋について
「ただいま」
玄関先でそう口にすると。崩れるように、私はその場に座り込んでしまった。
「お帰りなさい。遅かったわね。って、どうしたの? 片栗粉は? エコバックも無いみたいだけど?」
出迎えた母が怪訝そうにこちらを見ている。
私は説明しようと口を開きかけ……。何も言えないまま、泣きじゃくるだけだった。
それは、母にとってはたった三時間振りの、私には三年と七ヵ月ぶりの、諦めかけていた、再会だった。
「どうしたの?」
「…………」
「また、髪や目の色のことで、何か言われた?」
「……ち、違……っ……」
聞かれても、答えられないままに泣き。
夕飯の、母の手料理に泣き、温かいお風呂に泣き、夜寝る時の柔らかいベッドにも、涙が零れてきて仕方なかった。
異世界トリップ、などとラノベやマンガの世界では、軽く取り上げられ、ネタにもなっているけど。実際に自分の身にふりかかってみると、全く、少しも笑い事ではなかった。
ーー実は、なんて簡単に話せることでもなかった。
私の時間では、三年と七ヵ月前。
春先の暖かい日に、近所のスーパーまで、薄着で買い物に出て。ーー気付いたら、真冬の路地裏で凍えかけていた。
舗装もされていない道路も、でこぼこした塀も、明らかに日本のものではなかった。
持っていたのは、小銭の入った財布と、ケイタイとエコバックだけ。
訳もわからず、ただ途方にくれるしかなかった。
異世界に迷いこんだ落ち人たちの中では、それでも恵まれた方だったというのは、後で知った。
私を拾ってくれた薬師のおじいちゃんが、めったにいないようないい人だったこと。落ちた場所が、交易で栄えた都市国家で。都市を覆う翻訳魔術のおかげで、言葉が通じたこと。
そして、魔女の適性があって、戦で功績を上げられたこと。それがなければ、こうして戻ることも叶わなかっただろう。
帰還のための、界渡りの魔術は確立されていた。ただ、使える人は限られていて。そして、とても高価だった。
異世界に落ちる直前の場所と時間に戻してもらうためには、さらに代価が必要で。体の時間を戻してもらうのにも、プラス。落ちた後の記憶を消してもらうのにも、プラス。
オプションみたいに、代価が加算されるしくみだった。
私が、すべてのオプションを使えることになったのも、「翠波の魔女」として、幾多の敵船を沈めて来た報奨金があったからだった。
そのうちの「記憶を消してもらう」オプションだけは、移動先で出会った落ち人の女性に譲ることにした。そのことを、後悔はしていない。
日本では普通の中学生だったのに、落ちた先で娼館に売られて。客を取らされて、戻るためのお金を、命を削るように必死で貯めた彼女にこそ、そのオプションは必要だったと思うから。
ただ。思い出すことがある。あの時沈めた船の中にいたであろう人たちのこと。
炎と怒号と、死と恐怖が満ちていた戦場の記憶。
そして--異世界に置いてきてしまった、恋ともいえないような恋のことを。
* * *
「似合うじゃない。その制服」
「そうかなぁ。ちょっと、スカート丈長すぎない?」
「そのくらいでちょうどいいのよ。まだ背も伸びるでしょう?」
「どうかなぁ」
異世界にいた三年以上の間、背はたぶん伸びていなかった、と思う。
体の時間を、異世界に落ちた時と同じに戻してもらっているから、正確にはわからないけれど。
こうして、高校の入学式に間に合うように戻ってこれるなんて、あの頃はとても思えなかった。でも、戻れないなんて、思いたくなかった。
--ずっとずっと、帰りたかった。
それが、いざ帰れるとわかった時には。気持ちが揺れるようになっていた。
会えないのがつらいと、思う人ができてしまっていたから。
「せっかくだから、写真撮らないと。お父さぁん、カメラ見つかった?」
「もう、ケイタイでいいじゃん」
「そうはいかないわよ。今回みたいに、無くすこともあるでしょう?」
「…………そう、だよね……」
「もう、無くしたって早く言わないから。不便だったでしょう? 今日の入学式終わったら、一緒に買いに行こう?」
「うん。お母さん、ありがとう」
ケイタイは、異世界に置いてきてしまいました。
--なんて、言えないなぁ……。
ケイタイは、無くさないようにずっと身に着けていたから。
あの世界にあって、私が私だと確認できる、唯一のもの。
手元にあることをずっと確認していたから。
たぶん、あの夜。シーヴァとの別れを惜しんだあの夜に、落としてきてしまったのだと思う。
奇しくも、彼もあの日、あの国を離れようとしていた。
田舎でやり残してしまったことがあると言っていたから。
「続きは、次に会うときにな」と、口づけだけで離してくれたのは、私が怖がっていると、気づいていたからなんだと思う。
--次に会うことなんか、無いのに。彼には、そう言えないままだった。
母と二人で高校に向かう途中。懐かしさからか、ついきょろきょろしてしまって、母に笑われた。
気分が少し、浮き立っているのかもしれない。
トリップの前に、受験が終わっていて本当によかった。トリップから戻った後だと、間違いなく落ちていたと思う。三年七か月のブランクはかなりきつい。
--私、勉強、大丈夫かなぁ?
「玲奈ーっ、おはよーっ!」
振り返ると、夏葉が手を振って走ってきていた。
「おはよう、夏葉。久しぶり」
「? 久しぶりって? この前会ったじゃん」
「……あははは。そうだよねえ」
夏葉が母とあいさつを交わしている間、私は一人で地味に慌てていた。
いけないいけない。私の中でだけ、一人浦島太郎状態だわ……。
「あれ? 夏葉のお母さんは?」
「それがさぁ。急患だって呼び出されて。たぶん今頃、手術室じゃないかなぁ」
「うわ……っ」
「仕事だもん。しょうがないよ」
「有難いお仕事だよ。私、お医者様がいない世界とか、考えられないもん」
……あの世界には、いないも同然だった。
日本のような、高度な医療がなく、清潔な病院もない世界。
病気になったらどうしよう。怪我をしたらどうしよう、って。あの世界で子供を産むとか、育てるとか、とても考えらなかった。
私は臆病で、怖がりだ。
校門をくぐると、私は母と別れ、夏葉と二人で新入生用の掲示板に向かった。
「一年三組だって。よかった、私たち同じクラスじゃん」
「ほんと、よかったあ。浮いちゃうの、私だけじゃなかった」
「えー。何よ、それ!」
冗談めかして言い合ったが、本音も含まれていた。
褐色の肌のエキゾチック美女の夏葉と、髪も目の色も日本人ぽくない私は、中学でも最初のうちは、浮いていたように思う。
なれちゃえば、そうでもないんだけどね。
こういう点では、交易都市だったあの町の方が、居心地はよかったかもしれない。
行きかう人の、髪も目も肌の色もまちまちで、服装もさまざま、文化もさまざまで、外見で注目されるようなこともなかった。
薬師のおじいちゃんは、黒い肌に髪もひげも真っ白。私に魔術を教えてくれた「炎獄の魔女」は、あちらに残った落ち人の子孫で、いわゆる日本人に近い感じ。
シーヴァは私と近い、こちらでいう西洋風の顔立ちだった。
金色に近い薄茶の髪と、琥珀のような色の目と。翻訳魔術のせいで、その口から日本語が出て来るのに少し違和感があった。口の動きが言葉に合っているように見えていたから、特に。
……夏葉に話したら、”あんたが言うな”って言われそうだな。
さすがに、異世界のことは彼女にも話せそうになかった。
などと、思い出して切なくなっていたとき、だった。
「一年三組、出席番号一番、阿比留玲奈!」
急に、後ろから声をかけられて。「はいっ!」と思わず気を付けして、いい返事で体ごと振り返って。
私は、そのままその場にフリーズしてしまった。
だ、だって……ええっ!
「嘘。だって、……シーヴァ?」
「椎葉先生、だ。落し物を預かっている。君のだろう、これは。入学式とHRが終わったら、社会科準備室に取りに来るように」
などと、あの日忘れたはずのケイタイを手に、もっともらしく言うのは。
薄茶の髪に、琥珀の目。色気ダダ漏れの無精ヒゲがなくなって、いやにすっきりしたーーというか、若返った様子でスーツに身を包んではいるけれど。
まぎれもなくあの日、異世界に残してきたはずの、私の思い人だった。
嘘でしょおっ!?
* * *
「まさか、『翠波の魔女』レイナ・アビルが、日本からの落ち人だったとはな」
社会科準備室に入るなり、妙にしみじみと言われて、何だかカチンときた。
「私も、名の知れた傭兵で、二つ名まである人が、担任の先生とは知りませんでした」
シーヴァ・リヒトが『椎葉 理人』……。HRでの自己紹介で、黒板に名前を書かれたときには、違和感に眩暈を覚えましたが、何か?
「……言うな」シーヴァが、妙に疲れたように頭を抱える。
「一応、聞いてはいたんだ。今度担任を持つ生徒の中に、赤毛で緑の目の子がいるけど、生まれつきだから変な指導はしないように、ってのはな。クラス名簿も見て、全員の名前も覚えてたんだよ、ちゃんと。でも、でもなっ!」シーヴァ……椎葉先生は、かっと目を見開いて、こちらを見る。
「俺があの世界に落ちてから、七年と半年後だぞ? 薬師のじいさんとこで、初めにお前に会ったのが。そんなに長いこと、日本での細かいことまで、覚えてられるかっての! 必死だったからな、生きるのにっ!」
え? なんでそこで、キレるの?
「そんなときに目の前に現れた、どう見ても成人しているボン・キュッ・ボンの赤毛の美女が、今度担任するはずの生徒だなんて、分かるわけがないだろっ! なんて罠だよ。誰だよ、異世界なんだからちょっとぐらい羽目をはずしても、とか言いやがったの。畜生、俺の理性よ、ありがとう、だ。危うく、生徒に手を出す淫行教師になるとこだよ。よかったよ。セーフだよ、セーフっ!」
……何それ。何なのよ、それっ!
「セーフじゃないじゃん。アウトじゃん。何よ、ベロチューしたくせにっ!」
「……なっ!」
「今度会ったら、続きをするって言ってたくせにっ。嘘つきっ」
「……おまえなぁ」先生は、深々とため息をついて。
「できるわけないだろ。こっちは、ふられてるってのに」
「え……」
私が置き忘れたのが、携帯電話だったので。私もまた落ち人だったと知ったシーヴァは、あわてて、私の後を追ったのだという。
そして、界渡りの魔術師に、私が日本に帰ったことを聞いて。自分もそのまま日本に戻ることにしたのだそうだ。
「ちょうど、田舎で土地を買うつもりで、有り金全部身に着けてたからな」
「……え? 田舎に用事、っていうのは?」
「傭兵をやめて、家と畑を買って落ち着くつもりだった。おまえがあっちの人間だって、信じ込んでたからなぁ……。てっきり、おまえも俺を憎からず思ってくれていると思い込んでたし」
「そ、それは……っ」
「でもまぁ、こっちに戻ってこれてよかったよ。自動車ローンも残ってたしなぁ。あのまま失踪したんじゃ、保証人やってくれた弟が怒り心頭だもんな」
なんて、軽い口調で言われたけれど。
……私にとっては、恋にもならないような恋、だった。でも、彼にとっては?
もともと日本人なのに。戻れるのに戻らず、あっちで暮らす決心までしてくれてた、ってこと?
そんなことって。
「そんな顔するなって。今日入学ってことは、気持ちは中学生、だったんだもんなぁ。あっちにいたのが、せいぜい二、三年くらいか? あっちじゃもう大人の年でも、一生の決断をするには、まだ早いよな」
「…………」
「生徒と教師で、これからいやでも顔を合わせることになるからな。気にしなくていいって、話をしておきたかったんだ」
「先生……」
「日本の学生には、あっちの生活はハード・モードだったよな。お疲れさん、よく頑張ったな。えらいえらい」
そう言って、ぽんぽん、と頭をたたいてくれて。
私はそのまま先生にしがみ付いて、ぽろぽろ涙をこぼしてしまった。
「わわっ。ちょっと待て。落ち着け。泣くな、阿比留。入学早々、俺が泣かせたみたいじゃん。……って、泣かせたのか? 俺のせいなのか? 落ち着け、俺。大丈夫だ、俺。
--ちくしょう、三年間は俺の生徒のままなのかよ。長いぞ、長すぎるぞ。がんばれ、俺。負けるな、俺っ」
最後の方は、ぶつぶつと声が小さすぎて、何だか聞き取れなかったけれど。先生はそのまま、泣き止むまで私を泣かせてくれた。
--こうして私は、同じ人に、二度目の恋をしたのだった。
補足といいますか。一応、あちらでの先生の謎行動を説明しておきますと。
二人がいた異世界では、告白するというのは求婚するのとイコールで。生活基盤が整っていない状態での求婚はありえないのでした。
危険な傭兵稼業をやめて、田舎で生活基盤を整えて、異世界風に求婚するはずが。彼女が日本人(しかも子供)だったために空回りしてしまったのでした。お疲れ。