#009
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宗教の課題は神性と共感することである。
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神楽坂 美耶子が一体どんな思考をし、どんな意図があって僕を襲うのか。
その疑問を解決するより先に、どうにしかして彼女を撃退しなくてはいけない。
全く、災難だ……。
ほんの数時間前まで、日常を生きる普通の人間だったと言うのに。
いつものように姉の幟季に起こされ、内容のない会話をし、普段通りの決まった時刻に家を出て登校し、いつも通う通学路の横断歩道でいつものように信号を待ち――長年に亘って続けてきた、惰性になりつつあるそんな日常が轟音を立てて崩れ去ってしまった。
どうしてこんなことになってしまったのか。
どうしてこんな目に遭わなければならないのか。
そんな考えが頭の中を渦巻く。
本日、僕が取った全ての行いを悔いる気持ちになるし、省みたくなる。
できることなら幟季に起こされたあの時からやり直したい。
切実に、そんなことを願ってしまう。
けれど、この日僕が取った行動はいつもと何ら変わらないルーティンの集合なのだ、省みたくとも、その余地はどこにもない。
変わり映えしない日常を嫌い、刺激を求めて日々新たな挑戦を試みる者がこの世にどれだけいるのかわからないけれど、少なくとも僕は平凡な日常を好んで生きてきたのだ。
いや、それは違うか。
別に好んではいなかったのかもしれない。
それが当たり前で、当然のようで、それこそ惰性で生活していたに過ぎないのだろう。
だからこれは。
後悔というより、懺悔。
赦されるのであれば、僕は神に願いたい。
僕もまた神なのだけれど、願いたい。
『もしできるのなら、もう一度、朝からやり直したい』と。
まぁしかし、例え何らかの力が働いて、その願いが実現したとしても、きっと僕はまた同じ羽目に陥るのだろうと思う。
僕がこうして知らず知らずの間に神へと成り上がってしまったことが運命なのだとしたら、その強制力もまた同じように働くのかもしれない。
その点を掘り下げれば、摩訶不思議なことにこの世には『見えない力』を彷彿とさせる偶然だったり、奇跡が数多く見られる。
運命もまたそうなのだろうし、奇跡もまたそうなのだろうと思う。
運命の強制力や偶然の奇跡、稀有な現象の背後に『見えない力』があるのだとすれば、それはきっとそういうことなのだろう。
見えない力と言えば。
それはきっと、神の力なのだから。
神様の、力なのだから。
「ちぃ!どんだけ刺しても瞬間的に傷が回復するってのは案外やっかいやなぁ!」
神楽坂は僕の両側から小刀を抜いて、距離を取った。
正面で僕と対峙するように。
間違い探しをしようにも寸分なく狂いのない二人の神楽座 美耶子。
どちらが本物の彼女で、どちらが偽物なのか。
或いはどちらも本物なのか、それとも偽物なのか。
僕はそんなことを考えながら、正面に二人を見据えて蹲った。
痛ぇ……。
出血はするみたいだけれど、それも一瞬で傷も刹那癒えてしまう。
いや、癒えると言うより、やはりこれは再生に近い。
とは言っても、全身を駆け巡る激痛だけはどうしようもない。
死ぬことはないだろうと白い彼女は言っていたが、このままだと痛みでショック死しかねない。
僕は意識が飛びそうなほどの激痛を耐えながら思考する。
神楽坂 美耶子。
神に仕える、神に身を費やす、巫女。
彼女を如何に撃退するか。
他にも色々な疑問点があるし、訊きたいことは山ほどあるし、積もる話も塵ほどあるのだけれど、それより先ず第一に考えるべきはこの場の対処法だ。
先ずはそこから考えよう。
さすがにショック死なんて無残な死に方はしたくない。
「「ぎゃははっ、考えとるんか?どっちが本物で、どっちが偽者かを。そんなこと考える意味なんかないで。そんなこと考えてる猶予なんて毛ほどもないで。必死に考えたところで、お兄さんが死ぬオチは変わらへんわ」」
正面の神楽坂は二人同時に言った。
狂いなく重なる声がより一層、高圧を感じさせる。
声だけで気落ちしそうなほどに。
威圧感を肌で感じ取ることができる。
「神楽坂 美耶子――お前は一体何だよ」
「「おぉ、年上のお姉さんにタメ口吐いて、挙句の果てに『お前』呼ばわりか」」
「僕はお前の『敵』なんだろう?」
「「せや、だから別にそんなことでいちいち文句言うつもりはあらへんわ。敵対関係ははっきりさせとかんとあかん。己の立場はわからんとな」」
神楽坂は僕のことを敵と言った。
それは一体どういうことなのだろう。
神職である彼女が崇拝対象に当たるであろう僕のことを敵視しているわけは一体何だ。
「「何や、ウチがお前のことを『敵』って言ったわけが聞きたいんか?」」
神楽坂は僕の心中を察したかのように言う。
見透かしたかのように、言う。
「「巫女であるウチが神様相手に殺しをやろうとしてるってのが理解できへんようやけど、そもそも、お前は勘違いしてるで」」
「勘違い……?」
「「巫女ってのは何もアルバイト気分でやっとるわけちゃうねん。いつからか巫女が神職の補佐みたいな立場になったけどな、本来の役割は神和ぎや。『巫』と書いて『かんなぎ』って呼む」」
「…………」
僕は神楽坂の言葉に耳を傾けつつ、彼女の言葉を心中で反復する。
反復して。
理解できないことを知る。
「「神和ぎ――つまり、神を和ぎるって意味や。荒魂を和ぎる、それがウチの仕事や」」
「……僕が荒魂だから、殺すってことか?」
「「せや、理解が早いやんけ。荒んだ神の御魂は世界に災厄を呼ぶもんや。自然災害のほとんどがそれに当たる。ウチはな、別にサイコパスでもトリガーハッピーでもない。ウチがするべきことは、ウチら人の子を守ることや」」
だから――
頼むから殺されてくれ――
神楽坂は表情を緩めて、哀しい目つきで僕を見つめた。
そんな目で。
痛々しい視線を僕に突きつける。
「「本当のこと言えば、お前はまだ荒魂ではない。けどな、『成り立て』ってのはどうしようもなく不安定や。ブレブレでいつ傾くかわからへん。均衡を保ってた天秤がいつ傾くかわからへんねん。それが傾いたら最後、日本だけやなく、世界そのものが危険に晒されることになる。それを未然に防ぐためにも、ウチはお前を殺さんとあかん……」」
「…………」
「「なぁ、お前がどんな経緯を辿ってそんな身体になってしまったんかはわからへんけどな、お前にだって大事なもんはあるやろ。お前の存在がそれを壊すことになるかもしれへんのや。お前の存在が大切な人を巻き込むんや」」
僕の存在が……。
大切な人を巻き込む――
「「お前の大切な人の大切な人までもが死ぬかもしれん。それくらい神の力ってのは強大で凶悪なんや。世界の創造主であるお前の名は特に獰猛や」」
沈黙する僕に神楽坂は続ける。
ぺらぺらと流暢に語る。
「「知っとるか、お前のその名。神産巣日神――天地開闢、つまり、世界を創造した造化の三神の内の一柱や。神の中でも上位中の上位、最上位クラスの名や。究極神とも言われてる。そんな神が荒魂でも背負うもんになってみ、どうなるかわからへんねんぞ」」
世界の終わりや、と神楽坂は小さく加えた。
「世界の終わり……?それは本当なのか?」
「「嘘じゃない、全部ホンマのことや。別にお前を言い包めようとしてるわけやない」」
「いやでも……、別にまだその荒魂ってのになったわけじゃないんだろ――なら……」
「「なってからやと遅いねん!その頃にはもう取り返しのつかんことになってまうやろ!」」
神楽坂はそこで声を荒げて僕の言葉を遮った。
彼女の喧騒が無音の光のない世界で響く。
「おい、今のは本当のことなのか……?」
僕は問う。
神楽坂にではなく、隣で苦虫を噛み潰したような表情をする白い彼女に。
答えを聞くまでもなく、彼女の面持ちを伺うに思った通りの返答だった。
「真のことだ――」
「……そっか」
あぁ。
あぁ……。
心の中でそんな嘆き声が幾つもこだまする。
どうしてこんなことになったんだろう。
どうしてこんな目に遭わなければいけないのだろう。
どうして僕は突然、こんな羽目に陥ってしまったのだろう。
どうして。
どうして――
どんな経緯があって、どんな契機を辿って僕が神に成り上がってしまのかわからない。
彼女に責任を求めることもできるだろう。
概ね、彼女に非があるのは事実だろう。
けれど、僕が無関係のただの被害者だとは言えない。
僕もまた、紙一重で両者の狭間を浮遊している。
少しの風で煽られれば、一瞬で偏るほど不安定に浮遊している。
加害者にも、被害者にもなれる。
事の発端としてはやはり、彼女の身勝手な行為だと言えよう。
僕を得体の知れない存在に成り上げたのも、彼女の仕業なのだから。
しかしそれを言えば、僕が彼女を見たりしなければ――自然摂理の如く当たり前のように訪れる毎日を過ごしてきた僕が惰性であの横断歩道を渡らなければ、こんなことにはなっていなかったのかもしれない。
全ての責任が彼女にあるとは言い難い。
そして、全ての責任が僕であるともまた言い難い。
だからこれは。
別に誰かに責任を求めることでもないのかもしれない。
神楽坂が言うように、『成り立て』が不安定なのだとしたら、僕と同じように信じ難い事実を突きつけられ、どうしようもなく困惑する人もいるのかもしれない。
けれど、どうだ。
思考を転換すれば。
僕の存在が罪と言うのなら。
それは神の存在を罪と断定することになるのではないだろうか。
僕の存在が罪であり罰であるのなら――
「なるほど、罪な男というわけね」
いつからそこにいたのか。
いつからそこに存在し、いつから僕たちの会話を聞いていたのか。
そして、いつから僕の困惑する心中を察し、いつから見透かしていたのか。
そこには。
比賣 咲夜と名乗った一人の少女が僕と神楽坂の間に割って入るような形で、車道と歩道を隔てる腰までの高さの柵に座っていた。
清潔感のあるワンピースに、それを相乗させる短めの髪。
左耳に揺れる三連ピアス。
血を啜ったような赤い唇に肉を削いだかのような細い体躯。
ただ細いのではなく、痩せこけた印象を与える彼女の身体が溢れ出る清潔感を殺していた。
「「お前はいつからそこに――」」
神楽坂が表情を変え、剣呑な目つきで比賣を睨んだ。
比賣は構わず、神楽坂に背を向けながら、そして僕の方に向かってゆっくり歩きながら続ける。
「『自分の目で見てきたものは全て信じてきた』、なるほど確かに含蓄ある深い言葉だと思うわ。けれど、唸らせるほどではないし、的確とも言えないわね――」
一歩。
一歩。
一歩。
さらに近づいてくる。
「自分の目で見たものが真実とは限らない、真実は表裏のコインのようなものなのよ。他者によって大きく異なるもので、差異もある。なら、現実はどうかしら――」
さらに一歩。
一歩。
一歩。
「自分の目で見たもの全てが現実だと言うなら、あなたはよほどの現実主義者なのね。でもそのリアルって、一体誰のリアルなのかしら。リアルは人の数存在するわ――」
一歩。
一歩。
そして、初対面の時と同じように、僕の鼻頭と比賣のそれが当たる寸前まで近づいて言う。
吐息のかかる距離。
お互いの呼吸を感じ取れる距離。
至近距離。
「自分の目を疑わないと言うならよく聞きなさい。あなたの耳は理想主義?それとも、虚無主義なのかしら?」
彼女の目の片側が常人の黒から、赤へと変色したのがわかった。
その目で。
僕の心を見透かす彼女――比賣 咲夜。