#008
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人間は神と悪魔との間に浮遊する。
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気が遠くなるほどの長い歳月を経て進化を繰り返してきた人間がさらなる進化を遂げ、進歩する可能性は誰にも否定することはできないだろう。
人間を遥かに超越し、神秘的な『何か』を備えた人間がこの世にいてもいいはずなのだ。
現在に至るまで、人は幾度となく進化し、環境に適応してきた――さらなる人間の躍進だって有り得ない話ではない。
それが『人間の進化』の果てなのか、最終の形なのか、或いは未完成で発展途上に過ぎないのか、それは誰にもわからないだろう。
人間がさらなる進化を秘める可能性について、肯定することは容易ではないだろう。
けれど、否定もまた同じように容易ではないと思う。
そう。
もし、これが人間の進化の形なのだとしたら――切り落とされたはずの右腕がまるでデータを復旧するかのように、いとも簡単に再生したのはそれ故なのかもしれない。
再生。
右腕の再生。
言えば、まるでそれこそ録画テープの逆再生のように、巻き戻したかのように僕の右腕は一瞬で蘇ったのだ。
或いは、最初から何もなかったかのように、それが当たり前のようにあるのだった。
しかし、果たしてこれが人間の進化の形であるのだろうか。
再起することがないはずの右腕がこうして再生し、そして自分の意思のまま思い通りに動かすことができる現状を果たしてどう説明すればいいのだろうか。
『人間の進化』などと、身勝手な自己解釈を鵜呑みにしていいのだろうか。
それは奇跡と呼ぶに相応しいかもしれない。
いや、それすらも凌駕している。
奇跡なんて言葉では足りないのだ、僕はその奇跡の上位を表現する言葉を持たないが――言うなれば、これは神の力だ。
例え、どれほどの偶然が重なり、どれだけ強大な奇跡が起きようと、再起不能になった右腕を施術することなく、且つ指先から復元させるなんてことができるはずがない。
奇跡でも何でもなく。
偶然でもなく。
勿論、人類の進化の果てでもなく。
そう、これは。
神の力――とでも言うのだろうか。
「何だ、不服そうな顔をしておるな。折角、右腕が戻ったというのに」
彼女は言う。
僕の反応が気に入らなかったらしく、声を一段低くした。
「説明しろ、お前は一体僕の身体に何をしたんだ」
「何もしておらぬ、人聞きの悪いことを言うでない。ほんの少し、きっかけを与えたまでのことよ」
「……きっかけ?」
「御主の内にある『力』を少しばかり用いた。ほんの、少しだがの」
「力って、何だよ」
問うまでもなく、彼女の答えを聞くまでもなく、僕は理解する。
人間の持つものではない『力』。
人を超越した『力』。
人類から遥かに遠ざかった『力』。
その正体が神のものだということを。
復元した右腕。
再生した右腕。
どう考えたって、それが奇跡という都合の良い言葉で片付くはずがない。
「僕に神を信じろって言うのか?」
「ふむ、御主の目の前にいる我こそ、そうなのだが……」
「それを信じろって?」
「己の眼にて見たものは全て現実であると同時に、信じるに値する確固たる情報だと言うが――御主はそうではないのか?」
「…………」
自分の目で見たもの――
そうだ。
これまでに色々と見てきたじゃないか。
現実では有り得ない出来事、信じ難い冗談のような出来事を疑いながら目にしてきたじゃないか。
車に轢かれたはずの彼女。
昼夜が逆転したかのような夜空。
躊躇なく切り裂かれた右腕。
再生した右腕。
人気のまるでない閑散とした光景。
全部、全部、全部――紛うことなき現実だ。
全身を襲った激痛も体験したのだ、あれが夢だとは到底思えない。
「神の存在を肯定することは難しいかもしれん、しかし、同じように神の存在を否定することも難しい。神とは本来そういうもので、曖昧なのだ。だが、確かに人の心の中に、神はいる――存在する」
人間のさらなる進化の肯定が難しいように、否定も同様に難しい――か。
そういうことなのだろう。
確かに、神の存在なんて曖昧なものだ。
有耶無耶だし、煙のようで、掴もうとして掴めるものではないだろう。
しかし、彼女の言う通り。
確かに人の中に神はいる、心の中に確かに存在する。
誰だって神に頼りたい時があるだろう、神に縋りたい時があるだろう。
そんな時、確かに神は人の内に存在するのかもしれない。
「だからの、神の力もまた同じように存在するのだ。偶然の産物である奇跡を一般的にそう呼ぶのかもしれんが、果たして、必然的に故意的に起こした奇跡を奇跡と呼べるのだろうか」
「まぁ、うん、そうだろうけど」
「偶然を奇跡と呼ぶ、不思議を奇跡と呼ぶ、幸運を奇跡と呼ぶ、不運を奇跡と呼ぶ。なら、御主の力は何と呼べばよい?」
「…………」
そう言われれば、『神の力』以外にない。
奇跡を否定されてしまっては、ぐぅの音も出ない。
奇跡以外の言葉で表現するなら、それは魔法とか呪術とか、そういうことになってしまう。
「まぁ、現場に置いて来たはずであろう右腕を一瞬で復元することを奇跡と呼べんわな」
「これも、お前の力ってことか……」
「はぁ?何を言っておる、間違いなく御主の力だぞ?」
「……ん?」
僕は思考を一度停止して、首を傾げる。
頭上には数え切れないほどのクエスチョンマークが浮かんだ。
「だから、御主の秘めた力を目覚めさせるきっかけを与えたに過ぎんと言ったであろう」
「……はぁ?え?ちょっと待って、僕の力って何だ?目覚めた?」
「いやだから、神の力とさっきから言っておろう」
「うん、それはわかる。神の力が僕の右腕を再生したってことはわかる。で、どうしてその力が僕のものなんだよ。そもそも、お前がその『神』なんだろう?」
「最初に言ったはずだ、我に力はもう残っておらぬと。神産巣日神の名が持つ役割は既に終えたと――」
「あぁ、言った。言ってた、覚えてる。で、役割が終わったからどうしたって?」
「御主にやった」
彼女は際立った赤さの唇から軽く舌先を出して片目を瞑った。
可愛らしいポーズまで決めていた。
「え!?」
「だから、御主に継承しただろう。式も無事に終わったではないか」
「あー……ごめん、ちょっと整理させてくれ」
有り得ないことに、右腕が一瞬で再生したのは神の力によるもの。
そして、それが僕の力であり、僕の内に秘めた力である――と言うことは、僕には神の力があって――神の名であるカミムスビが僕に継承されて――
だめだ。
わけがわからない……。
「無理もない、誰でも『成り立て』はそうだからの。理解力がどうとか、そういう次元の話ではあるまい」
「えっと……質問、いいか?」
「良かろう、答えることのできるものには誠意を持って応じよう」
僕は頭の整理をするべく、彼女に問う。
「僕の名前は?」
「人の名は二条 名木、神の名はカミムスビ」
「右腕が再生したのはどういうことだ?」
「蚶貝姫と蛤貝姫による治癒能力。言わば、カミムスビの使い神のようなものかの」
「…………」
あれ。
えっと……。
僕は本当に神様になってしまったのか?
そう言えば、神楽坂 美耶子や比賣 咲夜も僕のことをそんな名前で呼んでたか。
なら僕は既にその時点で神に成り上がってしまっていたということなのか。
「僕はいつからそんな身に……?」
「いつからって、あの継承式の時からに決まっておろう」
「そうだよ、それ。継承式って何だよ、そんなことをした記憶が一切ないぞ」
「覚えておらぬのか?ふぅ……まぁよい、説明してやろう。我という神が一度死ぬことによって、新たなる神が任意で継承されるのだ。それが、御主である」
御主である?
いや、御主である、って言われても。
全然理解できないのだが。
「えっと、もしかして、あの事故のことを言ってるのか?」
「ふふ、事故か。まぁそういうことだ、あの時点で我というカミムスビは死んだ。勿論、本当に死んだわけではないのだが、とにかく死んだことになった。形の上で、だがの。そして、御主がカミムスビを継承したということだ」
「待て、話が飛びすぎだろ。何でお前が死んで、僕がその後継者になってるんだよ」
そう言えば、僕のことを後見人とか言っていたような。
それも、そういうことなのだろうか。
「我を見ることのできる人間だったからの。それで御主を選んだわけだ」
「お前を見ることのできる人間――」
そうだ。
あの事故が起きた直後、誰もそれに気付いていないようだった。
横断歩道で待機していた人も、車の運転手でさえ何事もなかったかのように通り過ぎたのだ。
それは気付いていないというわけではなく、見えていなかったのだ。
彼女の姿など、最初から見えていなかったのだ。
曖昧で、有耶無耶で、煙のような存在か。
「なら、少なくともその時点でまだお前は神様だったってことだろう?どうして僕が神様を見ることができるんだよ。どうして神様なんて存在が簡単に見えるんだよ」
「神を見ることは別に難しいことではないぞ」
「あれ、そうなの?」
「幽霊を見ることができる人間がいるように、神様を見ることができる人間もおる。ほら、霊感とか言うだろう?それと似たようなものだ。例えば、神職の者がそれに当たるの」
「へぇ……」
僕は驚きつつ、曖昧な相槌を打った。
「神職とはそもそも神と交信する身であるからの。それに、見えない神のために――本当に存在するかどうかも疑わしい神のために一生を費やすなんて馬鹿げておろう。心身共に神を奉る精神には頭が上がらないが、信じるだけでは報われないこともあるものだ。救われないことも同様にの」
頭先から足先まで、上から下まで真っ白の彼女は続ける。
透き通った白い素肌の中で際立つ林檎色の口元が開く。
それに――と。
「御主の腕を切ったあやつ――神楽坂 美耶子も神に仕える身、巫女をやっておる」
「巫女?って言うことは、神に仕える身、神職でありながら、神様である僕を襲っているということかよ。それって、どうなんだよ……」
「さぁ?その辺の事情は詳しく知らぬ」
噂話をすれば。
視線の先、大通りを間に挟んだ対岸でこちらに向かってくる人影があった。
モノクロだと錯覚してしまうような世界の中で、一際目立つ紅白の和服。
血色の鼻緒に暗闇を裂く白銀の簪。
僕の右腕を二度切り落とした彼女――神楽坂 美耶子の再登場だった。
「おいおい……」
僕は神楽坂の姿を遠目で確認して嘆息する。
恐怖感を抱くというより、彼女のしつこさについつい肩を竦めてしまう。
「また右腕を差し出したらどうだ?」
「馬鹿なこと言うな。死ぬほど痛いんだぞ、あれ。何で笑い話になりつつあるんだよ」
「すまんすまん、冗談ぞ。まぁ、あの程度で死ぬことはないであろうから安心せい。御主の治癒力はその気になれば切られたことすら感じさせんほどだ。痛みは伴うがの」
「全く意味ないよ!」
痛みで死にそうだって言うのに、それがあるなら結局同じことだよ。
しかし、どうして神楽坂はこうも執拗に僕を追ってくるのだろうか。
いくらなんでも、付き纏い過ぎ。
しつこ過ぎ。
神楽坂が使用する方言――関西地方の県民性の表れなのだとしたら、僕は黙って目を瞑る他にないわけだが、しかし、彼女は違う。
恐らく、何か理由があって、何か目的があって、何か使命感を背負って僕を狙っているに違いない。
それに、仮にもし彼女の言うように、神楽坂が本当に神職なのだとしたら、それこそ一体全体どうしてだ。
間違っても神職。
間違っても神に仕える身。
神のために身を費やす者。
神楽坂はそれとは違うのだろうか。
いずれにせよ、対話を図らないとわからない。
「さてさて、人の子と神の子、どちらが優れておるのかのう」
彼女は暢気に言う。
僕の顔を見て、鼻につく笑みを見せた。
「と言うか、僕って完全に被害者だよな。何でこんな目に遭わなくちゃいけないんだよ……」
「我のせいではないぞ」
「いや、どう考えてもお前のせいだろ!そもそも、僕がお前の姿を見ることができたって、それだけで神の名を継承するな!」
「それだけで十分なのだ」
「そんな簡単に神の名って継承していいものなのか?なら僕は再度お前に継承したいのだけれど」
「拒否する!」
「何でだよ!いらないよ、神の名!」
「断固、拒否する」
継承式、それはそもそも僕の知らないところで行われていたものだ。
僕の覚えのないところで、意識の外側で、勝手に事が運ばれていたのだ。
どんな紆余曲折があったところで、完全に被害者だろ……。
「継承式は場が整わない限りできん。そんな易々と神が入れ替わっていいわけがあるまい」
「じゃ……僕は暫く神のままってことなのか?」
「そういうことになるの」
僕は――
僕は、このままなのか?
僕は――
「僕は人間に戻れるのか?」
「戻る方法はある――が、多分は御主は戻らんよ。自分の意思でそれを拒否するだろう」
「……?」
「御主、それより先ず、あやつをどうにかした方がいいのでは?」
「あ、あぁ……そうだった」
神楽坂 美耶子。
悠然と闊歩する様を見る限り、神職にはとてもじゃないが見えない。
いや、神職だからこそ、なのか?
「これから、御主とあやつのバトルパートが始まるのだな!わくわくするではないか!思う存分、神の力を揮ってやれ!」
「まかせろ!」
僕は柄にもなく、軽いノリで意気込んだ。
徐々に近づいて来る神楽坂の姿を注意深く視界に捉えてつつ、彼女の一挙一動に注視して――
次の瞬間。
僕の右腕は再度、切られることになる。
一度目、二度目。
再々度、三度目。
三度目の正直。
仏の顔も二度までと言う。
正面に据えていた視線を右に逸らして見れば。
そこには神楽坂 美耶子が引き攣った笑みを僕に向けていたのだった。
「!」
右?
正面に神楽坂が確かにいたのに。
右側に瞬間移動した?
いや、待て。
正面、正面には――
神楽坂 美耶子の姿をはっきりと捉えることができる。
正面からこちらに近づく彼女の姿がはっきり視認できる。
右。
右側には――
「おぉ!?こやつ、二人がかりとはなんと卑怯な!」
白い彼女が暢気に的外れな突っ込みを入れた。
いや、確かに言っていることは正しいけれど。
そうじゃなくて。
どうして。
どうして、神楽坂の姿を二つ確認することができるのか、だ。
「ウチが卑怯やて?それ言うんやったら、お前らの力の方がよっぽど卑怯やろが。異次元で構築された右腕を瞬間的にコピーしてんちゃうわ、ホンマに。お前の体はデータか、パソコンか」
僕の右腕を切った、右側に突如現れた神楽坂が言った。
「パソコンでも何でも構わへん。それやったらゴミ箱がオーバーフローするまでデータ消したるわ」
「僕の身体をパソコンで例えるな……」
そうだ。
今の僕の身体は人間のそれとは程遠い。
切られた右腕も、いつの間にか復元している。
一瞬の痛みとほとんど同時に、再生したのだろう。
治癒能力。
神の治癒。
「治癒能力は使いこなせるようになったんか、『成り立て』さん。面白くなってきたやんけ」
「僕は何一つ、面白くない」
「それも今だけや、すぐ楽しなる。さぁさぁ、胸アツなバトルパート始めようや!」
右側の神楽坂に気を取られていたせいか、正面から来るもう一人の彼女の姿を見失ってしまう。
見失って。
「「ほんなら、さいなら」」
両耳から囁かれるその言葉に一瞬の身震いを感じた後、僕の身体は反応することも許されないまま、両側から小刀で突き刺されたのだった。
まるでどこかの玩具のように、両側から瞬時に複数回、全身を刺される。
「さっきまでの威勢は何だったのかのう。まったく、『まかせろ!』とか抜かしおって……ほら、飛び出せ!飛び出せ!危機一髪、飛び出さんか!」
白い彼女が大きく体を動かして言う。
「――ま、先ずはお前とのバトルパートから始めるべきかも、だ……」
全身を襲う激痛は確かに感じるのに、傷は瞬時に癒えてしまう。
その違和感はかなり気持ち悪いものだった。
「ウチが人の子やと思ったらあかんで。例え、人の子やったとしても、人とは本来、神と悪魔の狭間に存在するもんや。神を裁くのも、悪魔を裁くのも、人にしかできひんことや」
そんな風に、知ったようなことを言う神楽坂。
見透かしたように、僕の知らないことを全て知っているように言うのだった。