#007
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なぁに、かまいやしない。
人間、一度しか死ぬことはできない。
命は神様から借りたものだ。
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人は現実逃避をする際、『夢であって欲しい』と願ったり、『夢なのではないか』と疑ったり、『夢に違いない』と身勝手に断定したりする。
現実とは対照的な夢の存在。
だからこそ、それを持ち出して自己を抑制するのだろう。
これは一種のマインドコントロールと言ってもいいのかもしれない、けれど、そんな身勝手な断定をして現実から逃れようとする大半の人間は理解しているはずのだ。
それが『夢』でなく、紛れもない『現実』だと。
そもそも、現実逃避する人間の思考なのだから、それが現実でないと矛盾することになってしまう。
夢というのはおよそファンタジーだろうと思う。
現実では有り得ない出来事があって、不可解で、起承転結などなく紆余曲折があって――だからこそ夢であり、それを都合の良いものと解釈してしまう。
現実から目を背けるということは。
現実から逃亡するということは。
つまり、都合の良い夢を一時的に利用して思考を放棄しているのと同様だ。
思考停止して、曖昧な存在に委ねているのと同じだ。
しかし。
夢に縋るという誰にもありがちな現実逃避の根底にあるのは、誰しもまさか本当にそれが夢などと思ってもいないということではないだろうか。
皆、理解はしているのだ。
夢に逃れることが一時的なものでしかないことを。
そして、いずれ現実を直視しなくてはならないことを。
およそ大半が辛い現実に立ち向かわなければいけないことを。
誰も夢なんて信じない。
ファンタジーや御伽噺にありがちな夢の世界など有り得ない。
常人の思考ならば、誰もがそう考えているはずだろう。
まさか、現実と夢の区別ができない人間を常人と呼ぶわけにもいくまい。
そう考えれば、現実逃避の先に夢があったり、心の縋る場所として架空の夢の世界を創造したり――それはある意味、宗教的ではないだろうか。
『救われる』と信じて止まない教徒が確かに存在し、天地を創造し僕たちを創ったと言われる神を崇め、そして一人では生きていけない弱い人間の心の拠り所である宗教。
宗教の自由や、思想の自由、そして表現の自由などから、世界には多種多様な宗教が蔓延っているけれど、共通して言える唯一のことは『神の存在を信じ、崇拝する』という点ではないだろうか。
勿論、日本を出たことのない高校二年の僕のような若造が数え切れないほど存在するそれの全てを知っているわけではないけれど、まさか、神を信じない宗教があるとは思えない。
いや、もしかすれば、『神こそが我々である』なんて自己陶酔も甚だしいそれがあるのかもしれない。
宗教と夢をイコールで結ぶことは難しいだろう。
加え、宗教と現実をイコールで繋ぐことも難しいだろう。
けれど、宗教は夢のようなものであるのと同様に、現実的であるとも言える。
現実が夢なのか。
夢が現実なのか。
或いは、夢のような現実なのか――
「く、くそ……」
神楽坂が上空から舞い降り、再度、躊躇なく僕の右腕を切り落とした後、僕はわけもわからず走っていた。
走り出していた。
その場に、比賣 咲夜と神産巣日神とかいう謎の神様を置き去りにして、住宅街を駆けていた。
右腕を切り取られたまま。
肘から下を切断されたまま。
出血が酷く、僕が走る経路を指し示すように血痕が後を追う中、僕は考える。
どう現実逃避しようとしたところで、これは揺ぎ無い現実であると。
夢であって欲しいし、夢なのではないかと疑いたい。
しかし、頬をつねるまでもなく、右腕から全身を伝うリアルな激痛が紛れもない現実だと知らせる。
現実。
リアル。
本当に、これが現実なのだろうか。
こんなことが、現実で起きていいのだろうか。
自分の目で見てきたものを全てが現実である――僕は自分自身をそんな思考の人間だと思っていた。
けれど、どうも間違っていたのかもしれない。
僕は今まさに、現実から目を背けようとしている。
現実逃避して、拠り所に夢を選択して、都合の良いように自己解釈しようとしている。
「…………」
それにしても、どうしてだろうか。
一度目に切られた時に比べて、遥かに楽な痛み。
そして、現実だとか夢だとか、そんな下らない思考をすることができる脳。
さっきと同じように、すぐにでも意識を失っていいほどの多量失血。
確かに頭がぼぉっとする感覚はあるけれど、思考できないほどでもなく、ましてや気絶するほどでもない。
それに。
先ほどまでシャワーのように噴き出していた血が止まりつつあった。
おびただしい量の出血が今では絞った蛇口のように、ぽつぽつと傷口から垂れるだけだった。
これは何だ。
自分の身体であるのに理解ができない。
肘の位置で輪切りにされた傷口、処置をしていない状態で出血が簡単に止まるはずがない。
はずがないのだ。
はずがないのに、どうして――
僕は衰えた足で住宅街を抜け、車の気配すらない大通りを目の前にして驚愕する。
走行車どころか、人っ子一人としていなかった。
誰もいない。
僕以外の人間がまるで絶滅したように、生活音すら聞こえない。
それに、人間が生活する上で必要な『光』がないのだ。
辺りを見回して、住宅や店、ビルディングから一切の光が灯っていないことが確認できる。
何だろうか。
確かに色はそこに存在するというのに、まるで白黒の世界だ。
モノクロの夢のような世界に来てしまったかのような感覚だった。
信号も同様、機能を停止していた。
「常夜、死後の世界、誰にも侵されることのない神域。死者の国、死人が彷徨う黄泉の国――」
「!」
僕は動揺したまま、背後からの声に飛び跳ねた。
背後に立っていたのは、神産巣日神と名乗った彼女だった。
「お前、いつの間に!」
「神とは何時なれどそこに存在するし、何時なれどもそこに存在しない。何処でもおるし、何処にもおらぬ、そんな存在だろうに。何だ御主、知らなかったのか?」
「同意を求めているところ悪いが、僕はそんなこと知らない」
「神とは曖昧な存在のようで、しかし、確固たる存在でもあるのだ。我らは人が創り出した虚像、だが、人を創り出した我らの中に人はおらぬ。人の心に神がおっても、我らの中にはそれがおらぬ」
「……はぁ?何が言いたいんだよ」
「神が人を創造したというのなら、人は神を創造したという話だ」
脈絡のない話をする彼女。
突然、姿を現して理解不能な言葉を畳み掛ける彼女。
「神が人に等しいとは言えぬ、だが、人は神に近しいと言えなくはない」
「だから僕はこんな大怪我をしても生きているってことなのか?」
彼女の言葉が遠回しな表現のせいか、会話の内容を把握することが難しい。
何を伝えたくて、何が言いたいのか、どうして聞き手がこんなにも話し手の気持ちになって推測しなくちゃいけないんだよ。
僕は素直にそう思った。
「いや、そうではない――」
「そうではない?お前の言い方だと、僕が人だってことは神に近い存在ということじゃないのか?」
「やはり、気付いていなかったか。まぁそうだろうとは思っておったが、まぁよい。御主に説明するのもまた一興である」
「説明?」
「御主、走り回ってる最中に考えたか?『どうして切られたはずの右腕がそこに存在するのか』を」
僕はそこで沈黙する。
そうだ。
そうなのだ。
確かに僕の右腕は神楽坂に切り落とされた。
調理するように、食材を切るように肘の位置から輪切りにされて、切り落とされた。
それがどうして元に戻っていたのだ。
僕はない右腕を確認する。
それこそまるで夢のようだ。
まるで、切り落とされたことが夢のようで、架空の出来事のようで、錯覚だったのではないかと疑えるほどだ。
けれど、そうではない。
切られた瞬間の激痛、悲鳴、多量の失血。
徐々に薄れていく意識、霞む目。
どれもこれも鮮明に思い出せるのだ、それが夢なんて錯覚があっていいものか。
現実。
リアル。
夢のような――現実。
「そう、夢ではない、現実。御主の場合、言葉で説明するより己の眼で確認した方が早いだろう」
「……?」
「復唱せよ!!」
突如、彼女は声を荒げて言う。
「神の名、カミムスビの名の下に、流る血を代償とし奮起を揮え!何人にも侵されぬ神域を超越した天の結界!獰猛な神の治癒!蚶貝と蛤貝の双姫に願い出ん!刮げを集め、持ち承け、母に乳汁を塗りて御子神の命を果たせ!闇を穿つ閃光、天駆ける癒しの刃!我の名は、神産巣日神!」
「呪文を詠唱しただと!?」
何の前触れもなく、突如、呪文を唱えだした彼女。
いや、もう何が何かわけがわらない……。
「ほら、御主、復唱せい」
「できるか!長いし意味わからないし、お前は何の呪いをかけるつもりなんだよ!」
「ほら、早くしろ。急がないと効果がなくなるではないか」
「だからできるかって……」
恥ずかし過ぎるだろ、その呪文。
ゲームでもそんな詠唱聞いたことないし。
必殺技にしても、詠唱が長すぎる。
「ほら、いちにのさん、はい!」
「さんはい、じゃねぇよ!一言一句としてすでに覚えてないよ!」
「そのさんはい、っていう我の声真似、全く似ておらんぞ。我の声はもっとか弱くて、細くて、儚いものだ」
「知るか!お前の声がどうとか知るか!って言うか、声真似って何でわかったんだよ!」
「ふふ、まぁよい。ではもう一度いくぞ。輪唱ならば、御主にもできるじゃろうて」
「ごめん、もういいや。輪唱でもできそうにない……」
主に僕の精神状態が。
「できないとなると、御主の右腕は治らん」
「え!?その呪文って右腕を元に戻すものなのか!?」
「おいおい、さっきと随分違う食いつきではないか……」
彼女はそこで肩を竦めた。
「よし、ならやってやるよ。右腕が治るっていうなら――」
えっと……。
呪文、どんなだっけ。
「か、か、か――神の名、カミムスビの名の下に、流る血を代償とし奮起を揮え!何人にも侵されぬ神域を超越した天の結界!獰猛な神の治癒!蚶貝と蛤貝の双姫に願い出ん!刮げを集め、持ち承け、母に乳汁を塗りて御子神の命を果たせ!闇を穿つ閃光、天駆ける癒しの刃!我の名は、神産巣日神!」
あれ?
どうしてだ、全く覚えていないと思っていた呪文がすらすらと言える。
これも、彼女の力が及ぼす影響なのだろうか。
そう思いながら、右腕を見る。
右腕は変わらず、切り落とされたままだった。
「……?」
僕はその視線を彼女に送り。
送って。
「ぷぷっ、よもや本当にこんな恥ずかしい呪文を詠唱するとは思わなかったぞ!あははは、愉快愉快!こんな呪文、ただのお遊びだと言うのに。あはははははははっ」
「ふざけんな!お前の呪文だろうが!!」
一体、こいつは何がしたいのだろうか。
全く、ふざけんな……。
「さぁ、冗談はさて置き。お前の右腕を取り戻す方法は、ある。確かに、存在する。」
「おい!今までの件を冗談はさて置き、で流すつもりか!僕の恥ずかしい詠唱を返せ!」
「それを返して困るのは御主じゃないか?」
「真面目な顔で言われた!?」
こいつ、完全に僕を弄んでやがる。
「さぁ、御主の力の源は何じゃ。御主の生きる力とは何じゃ――」
何事もなかったかのように、今までの会話を無視して薄い声で問う彼女。
僕の右肩を軽く撫でて、彼女は続ける。
「思い出すがよい、御主は二条 名木ではない――御主の名は、一体何じゃ――」
彼女もまた、わけのわからないことを言って、二条 名木という人間を否定するのだった。
しかし、その否定は的確なものとなる。
二条 名木という人間の否定。
僕という人間の否定。
切り落とされたはずの右腕が、傷口からではなく、有り得ないことに指先から再生したのである。
まるでデータ化してバックアップを取っていた右腕をコピーアンドペーストしたかのように。
「……え?え?」
これが人間でない力の所業だと、僕はそう確信した。
僕の力なのか。
或いは、彼女の力なのか。
いずれにせよ、僕は普通の人間生活には戻れないようだ。