#005
◆
人間がもくろみ、神が始末する。
◆
にわかには信じ難い幽霊の存在や、科学的に証明の難しい不可解な現象を信じるか否か、或いは肯定か否定か――そういった場面でこんな言葉をよく聞くだろう。
『不可解な現象は幾つも存在するが、自分の目で見たものは全て信じてきた』。
いかにも決まり文句のようなその台詞を吐くには僕の羞恥心が邪魔をする。
けれど、噂話や怪談話、耳を疑う都市伝説や冗談のような街談巷説が確かに存在し、自らの目でそれを確認できたのならば、僕は一切の疑いや勘ぐりを止めて、心の底からそれを信用することだろう。
例え、世間がそれを認めなくとも。
科学者がそれを証明できなかったとしても。
僕はそんな人間だ。
自分の目に見えることは全て信じてきた、と言うにはいささか不似合いで釣り合いのない台詞だけれど、少なくとも僕はそれを現実だと認識してきた。
信じるに値するかどうかは一先ず置いて、視認したものが紛れもない現実だと、そう理解してきた。
しかしどうだろうか、その言葉が通用するのは――キメ顔で吐くその台詞が適当するのは、少なくとも過去に不可解な現象を目の当たりにして、尚且つ、それを信じてきた場合ではないだろうか。
冗談のような、話半分噂半分の都市伝説染みた不可解な現象を目の当たりにすること自体が稀だと言うのに、それを複数回経験して、そしてようやくキメ顔で言い放つことが許されるのではないだろうか。
僕の場合。
過去にそんな経験――目の前で轢かれたはずの女性の姿が突如消失する、なんてあるはずもなく。
理解不能で状況の把握すらままならないそれが、勿論、初めての経験だということは言うまでもなく。
その僕が「不可解な現象は幾つも存在するが、自分の目で見たものは全て信じてきた」などとおいそれと発言するわけにもいかないだろう。
けれど、それでも。
今まさに目の前で起きた理解不能のわけのわからない事故は僕の目で確かに視認した現実だ。
その観測者のような台詞がどうとういうわけではないけれど、それが現実である以上、眼でそれを視認した以上、嫌が応でも呑み込まなければいけない。
『自分の目に見えることは全て信じてきた』、言い換えれば『自分の目に見えることは全て現実である』、そういうことなのだろう。
どちらも似たようなニュアンスを秘めているけれど、しかし埋まらない確かな差異がそこにはあるのかもしれなかった。
「あ、すまん。そこのお兄さん、ちょっと訊きたいことがあるんやけど――」
不可解な事故現場の横断歩道を対岸へと渡り、住宅街のど真ん中で、そんな風に背後から声を掛けられた。
振り返って見ると――背後にいたのは赤や白、明るい彩を基調とした和服を着た女性だった。
なで肩で腰周りの細い、しとやかで慎ましい印象だったけれど、それとは逆の切れ長な細い瞳がどこか剣呑な雰囲気を醸し出していた。
彼女の後方で赤を映す信号がちらりと覗かせる。
「あの、えっと……」
僕は曖昧に返答しつつ、彼女が見ず知らずの会ったことない女性であることを確認する。
この人は誰だろう……。
見覚えがあるわけではないし、関西弁を使う知り合いが存在するという記憶もないし。
「ん?何や、その顔は。ウチの顔に何か悪いもんでも見たんか?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど――どこかでお会いしましたか?」
「あぁ、いや、ないで。あるわけないやろ。ウチとお兄さんがどっかで会った言うんやったら、それは前世とかちゃうけ?」
「はぁ……」
僕はそこで溜息にも似た相槌を打った。
綺麗に結われた黒髪を留める銀色の簪がちらりと光を反射したかのように見えた。
「そんなことはどうでもええねん。ホンマどうでもいいわ。ウチはお兄さんに訊きたい事があんねんから」
切れ長の瞳をより一層細くして、白い歯を見せる彼女。
確かにそれは笑顔なのだろうが、しかしどうしてか不器用な不似合いな印象を受けた。
顔が笑っているだけで心は笑っていない――そう感じさせた。
「お兄さん、さっきあそこで事故が起きたんやけど、見たやんな?」
と、彼女は親指で後方を指した。
そこは僕が事故を目撃した、横断歩道だった。
近隣の住民が昼夜問わず日常的に利用し、交通量の多い三叉路の一端を担う横断歩道。
「あぁ、確かに見たような、見ていないような……」
自分の目で見た現実、あれは確かにそうだった。
僕以外の人間がまるでそれに気付かず、そして何より、轢いた車の運転手すらそれに気付かなかったように走り去ったその事故を、僕は見た。
確かに、見たのだ。
しかし、僕の目が節穴だったかどうかはともかく、轢かれたはずの女性の姿はそこにはなかった。
理解不能で、難解で、それ以上に気味の悪い不可解な事故だった。
眼前で事故が起きたというのに誰も慌てふためいていなかった様子を思い出すと余計に混乱する。
いかなる言葉を用いてその事故を説明しようにも、誰も信じないだろう。
誰も信じない。
例えそうだとしても、僕自身、鵜呑みにできない疑わしい事故だったと心のどこかで思っているけれど、あれは間違いなく僕の目に飛び込んできた現実の光景だった。
「はっ、まぁせやろうな。あんなわけわからん事故を目撃して、簡単に説明なんてできひんよな」
「……え、あなたも、見たんですか?」
「見たで、しっかりこの目で。衝突の瞬間に女の体が有り得へん方向に曲がって、そんで吹き飛ばされて――でも、その姿はどこにもなかった、せやろ?」
「そうです。もう、何が起きてるのかさっぱりですね……」
彼女がどうして見ず知らずの僕に声を掛けてきたのか、その理由はそれにあったのかと理解する。
「でもな、あれは錯覚でも幻覚でも、ましてや妄想でもない。歪みのない現実や。いや、ちゃうな、それを言えば歪みまくっとるわ」
僕は彼女の言葉の半分も理解できないまま、適当な相槌を打った。
「せや、ウチは神楽坂 美耶子や。一緒に変な事故を目撃してしまった者同士、仲良くやろうな」
「あぁ、はい……」
「何やねん、ウチが名乗ってるって言うのにお兄さんは自分の名前すら言わんのかい」
神楽坂 美耶子は露骨に怪訝な表情をする。
その彼女の姿は姉の幟季を彷彿とさせた。
外見とはそぐわない口調だったり、一見おしとやかな物腰であろうと先入観を持たせる容姿だけれど、内面は真逆で、それらとは裏腹で。
神楽坂 美耶子は幟季と似ている。
「そうですね、すいません。僕は二条 名木です――」
そう、確かに神楽坂 美耶子は姉に似ていた。
「それは確かにお前の名前やけど、今はもう違うやろ?それはお前が人間やった時の名前やろ?」
そんな風に、幟季のように見透かしたような、しかしどこか適当なことを言うのだった。
僕は理解できず、沈黙する。
それでも神楽坂 美耶子は畳み掛けるように言うのだった。
「お前の本当の名前は何や?」
「のぉ――ウチの『敵』?仲良くしようや」
けらけらと不気味に笑う神楽坂 美耶子を見て、外見と内面の不一致を指摘したことはやはり間違いではなかったと、そう確信した。