#002
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人間が互いに愛情を示し合うところに、神は近くにある。
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「起きろ!このクズ――野郎っ!」
「――うおぉ!?」
七月二十一日。
高校二年一学期の終了を迎える節目の日であり、また明日からおよそ一ヶ月に亘る長期休暇――夏休みの始まりを告げる日でもある。
節目の日だろうと関係なく、自室で熟睡する僕に向けたその怒声は毎朝聞くことができた。
祝日平日を問わず、まるで毎朝の日課のように、そして、それが自分の背負う使命だ言わんばかりに姉の幟季は僕を睡眠から覚醒させる。
二条 幟季。
大学二回生、二十歳。
大人しくもの静かな印象を与える外見とは裏腹な男勝りで強気な性格がたまに傷だが、面倒見の良さもあって隣人には勿論、大学内ではそこそこ人気があるらしい。
逆に言えば、お節介。
そして、これは素直にたちの悪いことに非常に思い込みの激しい人間でもあった。
「ちっ!避けたか、狸寝入りとは中々弟にしては天晴れだ」
仰向けの状態の僕に跨るように乗る姉から視線を横に逸らして見ると、天井を向いて高々と枕に突き刺さったアイスピックが視界に入った。
アイスピック。
その名の通り、氷塊を砕くために用いられる先端が細い針のような形状をした道具である。
凶器として扱われた殺人事件は幾つかあるが、間違ってもそのような用途はない。
言うまでもなく、アイスピックは凶器のために作られたものではない。
どう転んでも、そのような用途で使用してはいけない。
ダメ、絶対。
「おい!?お前、何してんだ!殺す気か!」
「死ななかったじゃないか」
「それは結果論だろ!?」
幟季はそう言って、僕の腹に体重を掛けたまま嬉しそうに笑った。
いや、暢気に姉の笑顔に見蕩れている場合ではない。
今まさに、僕の自室で凶悪な殺人未遂事件が発生しているのだ。
「ほら、今日の友は明日の敵と言うだろう?」
「僕たちは家族だろ!それに、はっきりとした口調で誤用するな!」
今日の友は明日の敵、一体どんな関係だよ。
かなり殺伐、かなりギスギスしてそうだ……。
「いやさ、でも、本当によく避けれたものだね。かなり本気で殺しにいったと言うのに。さすが私の弟だよ、私の弟だよ」
「弟というワードを強調してる中悪いけど、お前、実の弟を殺そうとしてるんだからな」
「何言ってるんだ、こいつ。早く死なないかな」
「実の弟の死を気軽に望むな。姉なら姉らしく、弟を可愛がれ」
「よし、わかった。あんたがそう言うなら愛でよう、可愛がってあげよう。そして、最後に恐怖のどん底に突き落としてあげよう」
「…………」
今まさに、僕の自室で猟奇的殺人事件が発生しようとしていた。
「と言うか、幟季、重い。いい加減、そこをどけ……」
「あぁ、そうだね、ごめんごめん。さすがに私もあんたの下腹部にずっと尻を宛がうのは苦痛でしかないからね。今すぐ避けるよ、すぐにでも避けるよ、あんたの下腹部から。隆々猛々しいとはまさにこのことさ」
「下腹部に尻を宛がうとか、隆々猛々しいとか、もはや姉がしていい発言じゃないな。家族とは言え、さすがの僕でも許容し切れないぞ」
「いやだなぁ、もうあんたも十七歳なんだ、大人としての対応の一つや二つ学んだ方がいいぞ?子供がするような発言を逐一気にしていたらモテないぞ?」
そう言いながら、幟季は薄っすらと鼻につく笑みを浮かべながら静かに僕の下腹部(?)から降りた。
何も悪いことはしていないというのに、どうしてだろう、姉の含みのある笑みを見ていると罪悪感に駆られてしまう。
何もしていないのに。
いや、そうでもないのか……?
「まぁでも、何だかんだ言いつつ、こうして姉弟がコミュニケーションを図れるということは良いことだね。今の世の中、姉弟不仲ってよく聞くしね。あぁ、いや、『妹』の場合は別なのかな?」
「それは妹のいない男子が抱く理想の妹像であり、妄想だ。けどまぁ、確かにそうだよな。世間に比べれば、僕たちはどっちかと言うと良好な関係なのかもしれない」
殺されそうになったけれど。
間一髪、危機一髪逃れることはできたけれど。
しかし、果たしてこれは良好な姉弟関係と言えるのだろうか。
いずれにせよ、只ならぬ関係ではありそうだった。
そう言ってしまうと、語弊を生みかねないか。
「それを言うなら、友達とのコミュニケーションの方がもっと重要だと思わないかい?家族ならいくら関係に軋轢を生じようが大抵、一時的なものに過ぎないからね。いや、一概にそうは言えないけれど。だとしても、取り返しがつくっていう意味なら、やはり友達とのコミュニケーションより家族だ」
「……ふぅん?」
僕はベッドから体を起こして、覚醒した頭で幟季の言葉に耳を傾ける。
真剣な話なのだろうが、どうしてか薄ら笑みを浮かべる彼女を見ると、何だか話半分冗談半分に聞こえた。
「友人関係なんて、壊れやすい。脆い上に、修復も困難なものだ。だからこそ大切にするべきは友達であって、家族ではないのだよ」
「家族も大切だと思うぞ?」
「家族が大切なのは当たり前さ。言うまでもなく、ね。たまに親が子供に良くしたことを自慢げに語る輩がいるが、そんなの、私に言わせれば極々当然のことさ。子供の面倒を見て当たり前、子供の世話をして当たり前、それを親孝行して返せというのも奇妙な話だとは思わないかい?」
幟季は勉強机の椅子に腰を掛けて、背もたれに下顎を乗せてつまらなそうに言う。
くるくると、音もなく静かに椅子を半回転させた。
「友達のいないあんたにこんなこと言っても意味がないけどね。まぁ、長い人生だ、今後どんな展開があるか誰にもわからないし、気長に待てばいいと思うよ」
「友達くらい僕にだっているわ!」
突如、僕を襲った幟季の辛辣な言葉に戸惑いを覚えつつ、しかし否定し切れない彼女の言葉につい見栄を張って言ってしまった。
友達……。
いや、それくらいいる。
一人や二人、両手で数えることができる程度だけれど、友達くらいいる。
「友達ってのは、数え切れないくらいにいるから友『達』なんだよ。あんたのそれは友達って言わないわけ。だから、友『達』じゃなくて、『友』だ」
「僕の友達になんてこと言うんだよ!何も知らないだろ!」
まぁ。
悪口ではないけれど、良い気はしない。
「大体、数ある友達の中に親友なんて特別な枠を作るってことをおかしいと思わないかい?確かに頻繁に遊ぶ子とそうでない子がいるから多少差が生じるのは当然だけれど、例えば、あまり大きな声で言えない悩みを相談する時に、親友だからそうするってのは間違ってると思うんだよ。友達なら皆平等にするものだろう?それができないってことはそいつはもう友達じゃない。親友にしか悩みを相談できないとかプライベートを明かしたくないとか、そんなことでは建設的な人間関係は築けないしね。その人にとって私が友達でも、私がそう思わなかったら無価値の関係になるだろう?一方通行では駄目、ちゃんとお互いが相思しないと立派な友達とは呼べないよね。親友とか無意味な枠作ってそれに当てはめてる輩って大抵の場合、その『親友』しか友達と呼べる存在がいないやつなのだよ」
幟季は一呼吸さえ吐かず、滔々と語った。
間髪入れず、次から次へと、よくもまぁそんな言葉が出てくるものだ。
「お前は誰に訴えかけてんだ!?初期の段階でそんなに壮大で含蓄ある話だとは思わなかったよ!と言うか、僕以上に友達のいない分際で何偉そうなこと言ってるんだよ、この姉は」
確かに含蓄のある話ではあるけれど、何より、薄っぺらかった。
知的な外見を見ただけなら、それは釣り合いのある似合った台詞なのだろうが、僕は彼女の偏った性格を知っている。
性格に少々の難あり、それが二条 幟季だ。
飄々な彼女が語っていいことではない。
それでも、飄然で飄逸な、軽妙でもある彼女だが、しかし、威圧感がないというわけではない。
一言で幟季の印象を表すには非常に難しい。
「人間関係に関して優劣なんてないよ。それに、年上年下、年功も関係ない。大人がより良い人間関係を築けているとは限らないだろう?むしろ、大人の方が偏っているさ。会社の付き合いとか同僚とか上司のご機嫌取りばかりだ。そう考えれば、私たちの方がよっぽど未来に繋がる人間関係を築けている。それでも、就職でもしたら確かに友達とか言ってる場合じゃなくなるってことは理解しているつもりだけどね。だから私は未来永劫永久に、間断なく継続する友達を作っているのさ」
「結局何の話だったんだ!?悪いけど、意味がわからない!」
要するに、僕より友達が少ない幟季が負けず嫌いで放った言い訳だった。
そもそも、頭脳明晰とは言えないものの、容姿端麗で大学内で人気もそこそこ、それなのに僕より友達が少ないってどういうことだよ。
つまり、人気があるからと言って、幅広い人間関係が築けるとは限らないということなのだろうが、それにしても僕より友達が少ないとは驚きだ。
いや、まぁこれは。
考えるまでもなく、人を惹きつけるほどの外見を持つ一方で、人を遠ざけるには十分な難しい内面のせいなのだろう。
全く。
偉そうなことを言う前に、自分の性格を見直して友達を作ればいいのに――なんて、間違ってもそんなことは面を合わせて言えない。
言ってしまえば、後々、どんな反撃が待っているのか……。
考えるだけでおぞましい。
ぞっとする。
「だから――」
と、幟季は含みを持たせるには十分な間を空けて言う。
大人しくもの静かな外見には似合わない、天真爛漫な笑みで言う。
「友達になってあげるよ、名木」
「だから僕たちは家族だろ!?」
そんな、七月二十一日の朝だった。
そんな、七月二十二日からの有意義な夏休みを迎えるための前日だった。
この後、およそ一ヶ月にも及ぶ夏休みが地獄のそれへと変貌するなんて、露ほど知らず。