#001
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およそ神のなしえざるものなし。
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その冗談のような地獄がどのような経緯を辿り、どういった契機を経て始まったのか、或いは終わったのか、振り返ったところでその疑問を解く的確な解答を得ることはできなかった。
絵空事のようで、にわかには信じがたいその地獄が始まったきっかけとなったものなど、いくら探したところで見つかるはずがないのかもしれない。
けれど。
唯一つ、その絵に描いたような地獄がいつから始まり、いつ終わったのか、それだけは知っている。
夏休みを目前にした一学期の終業式である七月二十一日からおよそ一ヶ月間――高校生活の中で最も有意義であり、愉悦に浸ることのできる夏休み期間の丸々一ヶ月、僕はそんな地獄を体験した。
間違っても天国とは言えない、誤っても極楽とは言えない、しかし穿った目で見れば、僕の体験したそれはある意味天国、ある意味極楽と言えるものなのかもしれないけれど、少なくとも僕自身どう転んだとしても地獄と呼ぶに相応しい体験だった。
水陸両用車が悠然と街中を走行し、挙句の果てに、空を飛ぶ車でさえ一般的に実用化されたご時世に、僕は『神』になってしまった。
成り上がってしまった。
自分でも思う。
発展した科学が蔓延する時代、科学的に証明できないものなどこの世にないと言える時代で、『神』という不確かで疑わしい曖昧な存在になってしまった、なんて馬鹿げていると。
しかし、どれだけ馬鹿げていようが、どれほど信じ難い話だろうと、不運にも『神』とやらに成り上がってしまい、そのせいで人生を投げ捨てたくなるような地獄を体験する羽目になってしまったのだから、「馬鹿げている」と簡単に済ますのはよくないだろう。
例え本当に馬鹿げていたとしても、適当だったとしても、僕の体験したそれはそんな言葉で済むほどの軽いものではなかった。
『神』。
『神様』。
そう言えば、聞こえは良いと思う。
それは誰もが羨むであろう響きを保有している。
しかし一方で、ついつい鼻で笑ってしまうような意味合いも含んでいる。
その中、僕が行き遭ってしまった『神』とは誰もが羨み、敬い、憧れ、手を合わせる『神様』ではなく――
『悪魔』
『悪魔様』
そう言えば、聞こえは悪いと思う。
地獄を体験したと言うからにはそれを『悪魔』とした方が相応しいだろう。
僕にとって『彼女』が『神』だろうと『悪魔』だろうと、崇拝の対象として扱ってきた『神』がもたらした地獄はそれと関係なく僕を襲ったのだ。
『神』とは本来、尊び、敬うべき対象ではないのかもしれない。
敬意を払い、崇拝するべき対象ではないのかもしれない。
僕たちが神前で気に掛ける礼儀や作法、望みを込めた黙祷だったり感謝の意を表す御辞儀だったり――地獄を体験した僕からすれば、それは何の意味もない人間が勝手に作り上げたものだ。
崇めるべき上位の存在に対して、下等な人間が行う身勝手な行為だ。
『神』とは敬い、尊び、奉り、畏怖すべき存在である――
しかし少なくとも、僕が出遭った『神』とは、誰もがそう考える『神』とは違うものだった。
『神』が人格化され、そして偶像化されたのは、人間が崇拝対象として身勝手に形にした故なのだろう。
宗教が付き纏い、矛盾のない定理や理論は『神』の存在を彷彿とさせ、『神』こそが天地を開闢し『僕たち』を創造した。
なんて。
それこそ、馬鹿げた話だと言える。
『神』に出遭ってしまった僕のような不運な人間がこの世にどれほど存在するのか、多少気になるけれど、そうでない人――『神』を尊敬し、奉り、崇拝するおよそ圧倒的多数の信者に対して、これだけは言える。
『神』とはそんな存在ではないと。
『神』とはそんな対象ではないと。
しかし、よく考えてみれば、この僕の発言は日本人の大半を占める仏教徒、そして海外ではキリスト教やイスラム教、或いはヒンドゥー教やその他の宗教徒を敵に回すものだっただろう。
だからこれは、『神』と出遭うことによって地獄を体験することになった僕の個人的な『神』に対する感想であり、感情だということをここで公言しておこう。
大体、『神』と出遭った、なんて曖昧にして冗談のような、にわかには信じ難いそんな話が本当に実在するのか。
いや、実際、それを目の当たりにし、僕の存在も連なって上位へと成り上がってしまったのだから紛れもない真実であると言える。
しかし。
それが紛れもない、歪みも淀みもない真実であったとしても、僕は未だに心のどこかでは嘘偽りの話だと思い込み、例えるなら夢の中のような、そんなものではないかと疑っている。
疑惑。
疑念。
それを言えば、そもそも僕が出遭った『それ』は本当に『神』だったのか、ということになってしまうけれど。
神産巣日神――確か、彼女はそんな風に名乗ったと思う。
そう、聞こえたと思う。
思う、と曖昧な表現になってしまっているのも、はっきりと彼女の声を僕は聞くことができなかった。
彼女の存在を確かにこの目で視認したものの、誰にも聞こえない独り言を呟いただけのように思える彼女の細い声は、耳を劈くような轟音と共に掻き消されたのだった。
そう。
赤信号の中、悠然と闊歩して横断する彼女を捉えた僕は次の瞬間、唖然とする。
何の躊躇いもなく、ブレーキを掛けるわけでもなく、速度を落とさずに視界の外から走行してきた大型車に、彼女は真横から襲われた。
人体と車が衝突する聞いたことのない轟音は僕の鼓膜をわずかに破らなかったものの、心臓を破るには十分なものだった。
真っ白な彼女は。
服も、髪も、肌も、何もかもが白透明な彼女は。
車との衝突の瞬間、有り得ない角度で折り曲がった体で飛ばされた彼女は。
どこにもいなかった――
何もなかったかのように大型車が通り過ぎ、何もなかったかのように血痕すらその場に残っていなかった。
彼女は。
赤信号の中、横断の途中で轢かれたであろう彼女の姿は、どこにもなかったのである。
目を疑い、空いた口が塞がらず、体中の穴という穴から嫌な汗が噴き出し、心臓が爆ぜるほどの鼓動を感じながら、僕はその場に暫くの間、立ち尽くした。
真っ白になった頭で。
蒼白な面持ちで。
そう――
これはそんな物語。
御伽噺。
怪談噺。
――神様の物語。
その日、僕は学校を欠席した。
一学期を終え、有意義な夏休みを迎える節目の終業式で、僕は無断欠席をした。
不運にも『神』に成り上がってしまったせいで。
高校二年、有意義な夏休みはもう戻ってこない――
日常にすら、僕は帰って来れないのかもしれない。