不遜大王
首だけで振り返ると、猫科の笑みを浮かべるトキオと巨漢のセン、二人の姿があった。
「……っても、もうお下げでもセーラー服でもないのね。ざーんねん」
センはミチルの前を過ぎて、ヒロキに取り残された二人の方へ歩いていった。二人はこちらを見ていたようでミチルと目が合うとかすかに頭を下げたが、別段何を言うでもなくセンと話し始めた。
「ここは彼に任せて、お下げちゃんはこっち来て」
肩を持たれたまま方向転換をさせられ、さっき入れられた小屋へと連れて行かれた。
たださっきとは違い、机の上には室内を照らすランプが置かれていた。片手にあまるサイズの岩の器に油をため、差し入れたこより紐に火をつけただけの簡易的なものであったが、狭い小屋の中ではそれなりの光源となっている。
「まあ座って。ドアは開けといていいよー」
小屋の奥側の椅子をミチルに示しながら自分はドアの近くに腰を下ろした。机に肘をつき、組んだ両手の上にアゴを乗せると、ミチルが座るのを待って口を開く。
「聞きたいことたくさんあると思うけど、まずこっちの質問に応えて欲しい」
真剣な目でまっすぐ見つめられ、ミチルは思わず頷いてしまった。
「君は自分の名前を覚えてる。でしょ?」
「あ、ええ、まあ」
何故こんな当たり前のことを聞かれるのか、トキオの質問の意図を図りかねる。
「年は幾つ?あとはー、例えば家族の名前。血液型でも星座でも趣味でも。パーソナルデータをどれくらい挙げることができる?」
遠回しに自己紹介をしろと言われているのだろうかと思いつつ、当然のように知っている、当たり前の個人情報を口にし始める。
「年は15歳で、父は香坂……、あれ?え?」
ミチルは当然のように知っているはずの父の名を口に出そうとして、その、さっきまで当然知っていると思っていたはずの名がどうしても出てこないことに気づいた。
「あれ?えと、母さんは……」
父の名も母の名も出てこない。確かに存在するはずの父と母の名はおろか、その顔すらもポッカリと抜け落ちたように思い出せない。しかも思い出せないのは親の名前だけでなく、自分の血液型も、星座も、趣味も、ミチルの中にあるはずの当然の情報が自分の名前以外何も出てこなかった。
「なんで?……気持ち悪い……」
わからなくなってしまった自分のこと。
実際、人に聞かれなければ改めて自分の情報を振り返ることなどなく、今の今まで当たり前すぎることがわからなくなってしまったという事実に全く気付かなかった。
記憶喪失?え、なに?いつの間に?
最初にこの世界に来たときは、確かに家族のことや、それ以外のことも覚えていた気がするのに、今はまるで記憶という氷が溶けてしまったようだ。
「ふんふん、じゃあ、覚えてるのは名前と年だけ、かぁ」
トキオは成る程というように頭を揺らす。
「これ、何なの?そうよ!そもそもなんで女の人が砂になるのッ?」
「ごめんねー。こっちの質問がさぁーき」
机に身を乗り出して問うミチルに、トキオは片肘をついてアゴをのせると、空いた方の手でミチルの言葉を遮った。
「この間、君はボクらの目の前で忽然と姿を消してしまった。砂になったわけでもなく、急に……」
トキオは乾いた音をたてて指をならす。
「パチンだ」
「ああ、目が覚めたから」
ミチルの即答にトキオは少し首を傾けた。
「目が覚めた?」
「うん。目が覚めたから、現実に戻ったの。夢から覚めたのよ」
これが夢で、トキオの言う「この間」も夢から覚めて現実に戻ったのだという実感はあるのだが、目が覚めたあとのことがどうにもおぼろげで浮かんでこない。
「あの時は君の目が覚めたから、ここから消えたってこと?」
「そうよ。今だって、寝たらここにて、こんなわけのわからないことになって。早く目が覚めないかと思って、化け物に喰われてみようかとも思ったわよっ!」
夢だと思っている今がとてもリアルで、本当の自分を失ってしまいそうな状況にミチルの語気が荒くなる。
「じゃあ、オレたちはあんたの夢の産物か?」
低い声とともに、光の差すドアの前にひときわ長い影がのびた。逆光とドアの縁のせいで顔が見えなかったが、それでもその影が誰のものかはミチルにもすぐにわかった。
「それならさっさと目、覚ましてくれよ。こんなとこから解放してくれ」
氷のように冷たいタケルの声。さっき問答無用で化け物の首を斬った時の姿がミチルの脳裏に蘇った。緑色の返り血が拭われていたことが、せめてもの救いだろう。
「わけもわからず放置されて、親とも離れて過してるガキどもをさっさと解放してやってくれ」
「ターケールちゃーん、そういう言い方はダメって、いっつも言ってるでしょー」
タケルは高い身長を持てあますように頭をさげてドアをくぐると、すぐ傍の壁に背をもたせかけ、腕組をしながらミチルに強い視線を投げてよこした。
「そういうことだろ。こいつが目を覚ましたら、オレたちはこんな生活しなくていいんだから、さっさと目覚まして二度と夢見ないでくれればいい話だ」
「そーんな意地悪言わないのー。お下げちゃんだって混乱してるんだから」
「砂に落ちなかったことにしろ、急に姿が消えてまた戻ってきたことにしろ、怪しすぎだろ。それを夢だなんだと、人を馬鹿にするにも程度ってもんがある」
色々な感情がゴチャ混ぜになっていたミチルは、タケルの一方的な物言いに頭の中の血管がスパークするような感覚を覚えた。
「ばっ、馬鹿にしてるのはそっちでしょッ?何よ、さんざん無視したかと思ったら、訳のわからない言いがかりでつっかかってくるなんて!大人気ないことこの上ないわよッ!こっちだってねえ、好きであんたみたいな陰険な人にグチグチ言われてるわけじゃないわッッ!目が覚めたらこんな状況だったんだから仕方ないじゃない!覚まそうと思って覚ませるもんなら、さっさと覚ますわよッ!そもそも何ッ?あんたなんか私の夢の産物のくせにッ!なんでそんなにエラそうなのよッッッ!」
一気に言い終えたミチル。タケルが反撃してくるかと思いきや、タケルは小さく鼻で笑うと小綺麗な顔に冷笑を浮かべた。
「なんだ、ただの頭の弱い奴か」
背中でよりかかっていた壁から軽く反動をつけて身をおこすと、それだけ言って小屋から出て行ってしまった。
「……っはあああぁーッ?何様なのあいつッ!ホンットにムカツクーッッッッ!」
トキオは、仁王立ちになってワナワナとこぶしを握りしめるミチルを見て、薄い色調の金髪をかきながら、あはは、と笑った。
「ほんとゴメンね。悪い子じゃないんだけど、友好的な言葉のチョイスが苦手でさ」
どうも取り繕った言葉としか思えない。
「苦手も何も、あいつの辞書には、そもそも戦闘的な言葉以外の項目ないんじゃないのッ?しかも言葉抜きでも十二分に嫌みなんだけど!フンって笑ったぁ!フンってッ!」
「ね。でもまあ、こういう環境だからね。タケルも混乱してるんだ。まだ子供だから大目に見てあげて」
「どこがッ!」
「いやほんとに。あーんなナリだけど、お下げちゃんとそんな変わらないよ。多分16か17才」
トキオの言葉にタケルを思い浮かべたミチルは、力一杯横に首を振った。
「ないない。絶対ない!」
「まあ、多分なんだけどね。ここへ来ると、みんな殆ど過去のことを忘れてるから、確実な年齢かって追求されると困るんだけど。タケルの着てたジャージに芝崎高校一年って書いてたんだよ。口惜しいけど、お肌の張りが僕と違うもの。10代には違いないね」
「でも、高校一年は15か16才でしょ」
パーソナルデータは失っていても、一般的なことはちゃんと覚えているようだった。
「うん。ここへ来たときはそうだったんだ」
静かなトキオの言葉にミチルは戸惑ってしまった。
「ここでの生活は結構厳しいからね。ああ、お下げちゃんが夢だと思いたい気持ちは十分に解るんだよ。それはタケルだって、ああ言っててもちゃんと解ってると思う。でも……、やっぱり簡単に切り離せるものでもないからね。ここと、ここは」
トキオは、微笑んで自分の頭と胸を示した。
「この生活を、苦労を、夢で片づけられたらいたたまれないって心境なんだよ。でも、それはこっちの勝手な都合で、混乱してる女の子に何も説明しないで、あんな風に言うのは間違ってる。本当はタケルの弁解なんかしてあげる義理はないんだけど、ほら、お下げちゃんがオトナゲナイ!って怒ってたから、タケルが大人じゃないって知ったらさ、少しは怒りも安らぐかなあって。
いや、実際タケルは態度悪いんだよね。この温厚なボクでさえ、たまにあのほっぺを思いっきり引っ張りたくなるもん」
タケルよりも小柄なトキオがあの不遜大王の頬を引っ張る姿を想像してみたが、想像の中ですら態度の大きいタケルは、頬を引っ張られてもなお無表情で「それで?」と聞き返しそうだった。
「今度、本当に引っ張ってみて」
「うん。命を捨てる覚悟ができたときにねー」
トキオは笑って言ったが、日本刀を振り下ろすタケルを見ているミチルは結構笑えない冗談だと思った。