共にあるということ
全力で走ったので息が上がっていたけれど、焦がれた背中を見つけたとたん違う息苦しさで胸がいっぱいになった。
「アラタ!」
荷袋を背負いゲートを閉めようとしていた背中の主は、呼ばれた名前よりもその声に反応したようで、振り返った瞬間は笑ったようにも見えた。けれどすぐに鬼のような形相になってこちらに駆け寄ってくる。
「おまえッ!一人で来たのかッ?何やってんだよ!」
「前にも一人でこられたわ。ああ、それに、朝露がまだ残ってたから、朝も早い時間だろーと思って。論理的でしょう?」
「そういう問題じゃないだろ?なんかあったらどーすんだよッ!」
「だって、早く会いたかったんだもん」
素直に口に出してしまってから、自分の顔が一瞬にして赤くなったことが察せられた。目の前で同じように真っ赤になった顔をミチルに見えないよう慌てて斜め上に反らすのを見るに至って、どもりつつ言葉を付け足した。
「みみ、みんなにね、うん」
「ああ、うん。いや、そりゃそうと、おまえさっき、呪文みたいなこといってなかった?」
うわずったような声に、無理矢理話を反らそうとしているのが伝わってきた。
「……呪文?」
ゲートのところでかけた言葉。
アラタ――A・KURUSHIMA。
「……アラタ?」
もう一度、声に出して呼んでみた。
来島新。それは、あんたの本当の名前なんだよ。
「ああ、そう、それ」
確認のためにミチルが言い直したのだと思っている返答。まさか自分が呼ばれたとは思っていない、本当の名前。
ああ、そうだ――。
そっぽを向いて、赤い顔に何気なく掌で風を送っている、目の前の背の高いこの人は――。
「タケル」
初めて、本人に向かってその名を呼んだ。
呼ばれた方も、その事実に気づいているのだろう、一度ミチルを見て、目があったとたんまたとってつけたように顔を反らしてしまった。今度は耳まで赤くなっている。
そう言えば「ミチル」と名を呼ばれたことないな。その心地の良い声で、呼ばれてみたいな。ああ、でも、本当にそう呼ばれたら、照れずに「なに?」なんて応えることができるかな?
「な、なにッ?」
怒ったような声と横顔。でも怖くない。
「タケル。タケルタケルタケルタケル」
「はッ?だから何だよッ!名前連呼すんなッ!」
「あはは」
笑うつもりでいたのに、顔はちゃんと笑っていたのに、笑い声と一緒に涙がこぼれた。
この人はタケルじゃない。
タケルじゃないけど、タケルなんだ。
だって私が好きになったのは他の誰でもない、目の前のタケルなんだから。
「ちょ、おい」
ミチルの涙に気づいたらしいタケルは一瞬ギョッとしたように身を引いた。が、すぐに歩みよるとシャツの袖を伸ばしてミチルの顔に押しつけ、やや乱暴な仕草で涙を拭う。
「こっちきて」
その涙の理由をどう解釈してか、タケルはミチルの手首を持つと砂地に向かって歩き始めた。 走ってきたばかりで熱を持ったミチルの手首に、ひんやりとしたタケルの掌が心地良く感じられる。そして、全ての意識が手首に集中するかのような甘い緊張感。
鼓動の早さを悟られないよう、前を行くタケルに声をかけた。
「どこか行く途中だった?」
ミチルの問いに少し間をおいて、言い捨てるような口調のタケル。
「なかなか現れない誰かさんを迎えにな。だからそっちはもういい」
前を行くタケルの表情はわからなかったけれど、うっすらと朱に染まった耳がこちらから見えた。
ささやかなことの一つ一つに息が詰まるような幸福を覚える。この背中にずっと付いて行けたら、どれほど素敵なことだろう。
行く道はやがて赤い砂から岩に変わり、やや急な勾配を登りきったところに広がった光景にミチルは息を呑んだ。
周囲を赤い岩で囲まれた、ぽっかりと開いた場所。その岩は普通の岩と違い透明のクリスタルの破片が無数に混ざり込んでいた。空から落ちる淡い光を精一杯受けたクリスタル。それが乱反射を起こして、なんともいえない幻想的な空間を産み出していた。
そしてその中央にミチルの身長ほどの木製の十字架が立てられ、その下の地面には、ハーモニカが置かれていた。
「ここ……に?」
タケルはミチルの簡素すぎる質問に、質問を返すことなく頷いた。
「キレイだね」
トキオはリューシで、リューシには向こうの世界に奥さんがいた。別居していたけれど、それでもリューシの子供が欲しいと言ったルミカさん。全国放送されるお通夜の席で、流れる涙も鼻水も気にせず号泣していた彼女からは深い愛が感じられた。でも、リューシの世界は色々なしがらみがたくさんあって、とても大変そうで……。
TVや雑誌や噂話で聞いたリューシことを思い出すと、「ボクなんてロクな人生送ってなさそう」と笑って言ったトキオの言葉は的を得ていたのかも知れないと思う。リューシは生前、ポワールが売れれれば売れるほど、魂まで一緒に売られているようだと言っていたらしい。自分じゃない自分に振り回されて腐っていくみたいだと。
なら、トキオでいられたとき、彼は本当に幸せだったのだ。そう長くはなかったアヤさんとの日々を、心から愛して。そうして共に、逝ったのだ。
一緒に逝ったあの二人のように寄り添えることができたら、どれほど幸せだろう。
もう帰りたくない。
元の世界には、もう戻りたくない。
ずっとタケルの傍にいたい。
いつ引き戻されるか、いつこられるかもわからないような、そんな日々を過すのはこれ以上耐えられそうもない。
バスケット雑誌に載った記事が、ミチルを不安に陥れる。タケルに言えない真実が胸中に渦巻いて不安を増幅させる。
戻ったとき、居なかったら?そう思うだけで、胸の奥が焦げ付いてしまいそうになる。
「私、ずっとこっちに居るのって、どうすればいいかな?」
こぼれるようなミチルの小さな声。聞こえていたはずのタケルは何も言わず、ミチルの手首を掴んでいた手を掌に滑らせた。手をつながれて、ミチルの心臓がトクリと跳ねた。
好きだという想いが、言葉になって溢れそうになる。
「一緒に居たいの」
タケルと。
「……みんなと」
この期に及んでの防御線。声が震える。
本当はタケル。あんたと一緒に居たいの。そんなミチルの心は、もうこの掌から伝わってしまっているかもしれない。そしてそんな気持ちを迷惑に思うかもしれない。そう思うと、タケルの表情を伺うことはできなかった。
嫌われてはいないのはわかる。でも、あくまで相思相愛のトキオとアヤとは違うのだ。独りよがりな想いでタケルに迷惑をかけるわけにはいかない。
タケルはやはり何も応えず、ミチルの手を引いたまま元来た道を歩き始めた。
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触れたい、抱きしめたい。口づけたい。
その声も、体も、髪も、負けん気の強さも、何もかもが愛しい。
全てを自分のものにできたら。
心の底からわき上がる衝動。朝も昼も夜も、ずっと心を支配する。
名を呼ばれただけで心臓が跳ね上がる。
その口から甘い言葉を、その手から温もりを感じるたび、ささやかな理性が弾けて飛んでしまいそうになる。
離したくない。
共にありたい。
でも…それは望めない。
心とは逆に冷えていく体。
望めない。絶対に―――。




