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飛び蹴りという名の暴挙

 余命宣告モロモロ及び失礼な言い草について何か言いかえそうとしたミチルだったが、自分の血で汚れたタケルのシャツを見て、それを借りた礼もまだ言っていないことに気づく。

「……あの、シャツ、ありがと」

 少し遠くなった背中に、渋々ではあるが礼をいったミチルに、振り返ることさえせず片手だけ挙げた。

「オレには血垂れ流して自分を餌にする釣りを楽しむ趣味はないからな。それと、話しかけるなっていっただろ」

 ありがたいと思う気持ちをいっぺんに霧消させる。

 くぅーッ!重ね重ねムカツク奴ッ!

「洗って返すから、やっぱりもう少し貸しといて!」

 駆け寄って肩にかけたシャツを引っ張るミチルをタケルはうるさそうに振りかえると、シャツを強引に引っ張ってミチルの手を引きはがす。

「離れてろ、面倒くさい。あんた日本語判るんだろ?」

 背の高い、整った面差しの人間に睨まれると、かなりの威圧感がある。ミチルはひるみそうになりながらも意地になってシャツに手を伸ばした。

「だからッ!こんなもん持ってノンキに歩いてたら……ッ」

 タケルは強い語調でそこまで口にしたかと思うと、急に黙って動きを止め、足下に目をむけた。そしていきなりミチルをタックルするようにして抱きかかえると、砂の上にダイブする。

 直後、さっきまでタケルの立っていた場所の砂がグゴゴーッと盛り上がったかと思うと、周囲の砂を巻き上げ、ものすごい勢いで何かが現れた。タケルの方に向いていたミチルは真っ正面にその姿を目にすることとなり、その驚愕の事態に地面に思いっきり尻餅をついた痛みや覆い被さったタケルの重みを感じる余裕すらも失う。

 5枚の花弁―――。

 一瞬、花弁に棘のある大きな花が砂から出てきたのかと錯覚したが、地表に現れたとたんにその花弁は蕾のように閉じられ、それが巨大生物の口にあたるのだとわかった。口を閉じたその姿は例えればミミズのようであったが、肌の質感はまるでゴムのように厚みを感じさせる。大木のような太さのその体は、地表に出ている部分だけでもゆうに3mはあるだろう。

 さっきの攻撃で獲物を捕らえ損なったことに気づいた化け物は、即座にこちらに向き直る。まだ倒れ込んだままのタケルとミチルに、まるで蛇が鎌首をもたげるようにして狙いを定めた。化け物の頭部が二人を捕食する為に割れ、鋭いキバをもつ開かれた5枚の花弁が鋭いほどの速度で二人に迫る。ラフレシアのような、毒々しい色合いが目の前になったときミチルは強く目を閉じた。

 次の瞬間、ミチルの体に強い衝撃が加わってはね飛ばされたかと思うと、キーンと金属と金属のぶつかるような音が響いた。

 ミチルは砂に手をつき体を起こして目を開ける。そこには地面に倒れたまま、刀で襲いくる化け物の歯を防いでいるタケルの姿があった。受ける体勢に無理があるのは一目瞭然で、刀で防ぎきれない2枚の花弁がタケルの刀を奪おうとして身をよじる。

「岩場まで全力で走れッ!」

 倒れたままのタケルが、化け物から目を離すことなく叫ぶ。

 そうするうちにも化け物とタケルの距離はどんどん縮まっていく。食いしばるタケルの白い歯が、場違いにミチルの目にやきついた。

 その時ミチルがとった行動。

 後になって考えてみたが、ミチル自身にもその時の心境はよくわからなかった。

 なぜ自分があんなことをしたのか。

 ジリジリ押されるタケルを見て、とにかく何とかしなければと思ったのには違いない。

 とはいえ現実の世界なら、きっとあんなことはしなかっただろう。いや、しないのではなくてできなかったに違いない。まさか―――化け物に跳び蹴りをするなどと。

 ミチルは砂の上に立ち上がると、口に入った砂を噛みしめ、助走をつけて幅跳びの要領で飛び上がった。中空で揃えた足を渾身の力を込めてゴワついた黄土色の体にめり込ませる。老朽化したトランポリンのような弾力を欠いた反動で、ミチルは体ごと地面に跳ね落ちた。

 ミチルの攻撃そのものは化け物にしてみればなんのこともない、それこそ肩を叩かれた程度のものでしかなかっただろう。しかしタケルへの攻撃から、一瞬でも意識をそらすという効果はあった。タケルはその隙を逃さず即座に身を起こすと、側面から化け物の花弁に斬りつけた。花弁の内側―――口腔内は硬く鋭い刃で埋まっていて刀ですら傷をつけることはかなわなかったが、外側からの攻撃は有効であったらしく、分厚い花弁が一枚、茶色い体液をまき散らしながら地面に落ちた。

 化け物は4枚の花弁を縮め、体を際限まで丸める。しかし次の瞬間には残った4枚の花弁を全開にして、体を震わせ、その長い体を大きく振り回した。化け物に声を出す器官がないことは、ミチルにとっての幸いだったであろう。地の底に響くような咆哮でも聴かされようものなら、完全にパニックに陥っていたに違いない。砂と風の動く音しか聞こえないその光景は、まるで臨場感のない映画かゲームのようだった。

 怒り狂ったように上体を振り回す化け物。その傷口からほとばしる体液が、ミチルの顔や体をべっとりと濡らす。タケルの方を見ると、そちらもそこやかしを濡らしながら、果敢に間隙を縫って化け物の2枚目の花弁を切り落とすところだった。

 タケルが3枚目の花弁に狙いを定めて刀を握りそうとしたときだった。

 体液に手が滑ったのか一瞬動きに乱れが生じた。そこへ化け物の振り回す頭の一部がぶつかり、刀はタケルの手から離れて空を舞った。そこを逃さず化け物の口がタケルに迫る。

 ここまでか!

 地面に倒れ込んだまま、今度こそ目を閉じてしまったミチルであったが、フッと周囲を威圧するような空気がなくなり、砂の舞う音と風の切れる音が消えた。いきなり世界が変わってしまったような感覚。

 ひょっとして……現実に戻った……の?

 恐る恐る目を開けたミチルの目に映ったもの。それは―――変わらぬ赤い砂。

 化け物が今までそこで暴れていた名残を残す乱れた砂と体液の飛び散った跡と、足を砂地に投げ出し、後ろ手をついて肩で大きく息をしているタケルの姿だった。

 ……助かった……。

 言葉もなく座り込んだミチルの耳に、砂を蹴る足音が耳に入ってきた。タケルが足音のする方向に小さく手を挙げる。振り返ると見慣れた薄い金髪。トキオが大弓を手にこちらに向かって走ってきているところであった。どうやらトキオの加勢によって、すんでのところで化け物は退散したらしい。

「おーい、しっかり生きてるう?」

「なんとかね」

「なんとか」

 タケルとミチルがほぼ同時に答えた。

「いやいや、トミくんとちびっ子が先帰ってきたからさ。夕方がけてタケル一人にしとくのもいけないと思ってきてみたんだけど、何、タケル、新しい釣りの模索?まあ、新しいことへチャレンジするその精神は買うけど、自分を餌にするのはどうだろうか」

 トキオは地面に落ちていた、ミチルの血にまみれたシャツをつまんで目の前に持ち上げる。すると、シャツに隠れていたチョウチンアンコウもどきが姿を現した。

「うるせーよ」

 タケルは砂を払いながら立ち上がり、少し離れたところに落ちていた刀に向かって歩き出す。

 トキオはチョウチンアンコウもどきからミチルの手元に視線を移すと片眉を少しあげた。ほんの短い時間、思案するように腕を組んで人差し指を口元にあてる。だがすぐに肩をすくめると、その唇が小さく「なるほど」と形を作った。

 トキオは血の付いたシャツを地面に放り出すと、ミチルの傍にやってきてミチルの手をとった。

「手に噛みつかれたんだね。痛かったでしょ?」

「うん。毒があったって聞いてあせった」

 引き起こしてもらって始めて、自分の足がカクカクと小さく震えているのがわかった。

「跳び蹴りお見事」

「アホだろ。完全な」

 脱力してしまい、タケルの言葉に言い返す気力もない。

 すっかり息を整え、腕や手についたミミズの化け物の体液を砂でこすり落とすタケルの体には、あちこちに擦り傷が見えた。

「跳び蹴りに助けてもらったくせに」

 肩越しに笑顔を向けるトキオに、タケルは眉をひそめただけで何も言い返さず歩き始めた。

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