ことの始まり
―――夢かうつつか。
夢と現が、同じ根幹にありながら違う色をもって、交わることのない螺旋の中を渦巻いている。
さながら砂時計の砂のように二つの螺旋を流れるそれらが混ぜ合わされたとき、そこに新しい色は生まれるのだろうか。
ふと、目が覚めた。
いつもなら携帯のアラームか、母親のモーニングコールを耳にする、もしくは体感するまでは基本的に目を覚ますことはない。
うっすらとした肌寒さを感じてからようやく「ああ、布団被ってないからか」と覚醒の理由にぼんやりと納得した。
……なんか、木の匂いがする……。ベッドの匂い?いや、これは生木の濃ゆい……。
直後、意識に遅れて訪れた鈍い痛みと、手や体に触れる尋常ならざる質感に、ミチルは慌てて体を起こした。
「……は、……はい?」
目を開けた途端木々の間を抜けて広がる赤茶けた景色に、思わず間抜けな声がこぼれる。
3回の瞬きの後、小さな子供がするように両手の甲で目をこすってみる。若干視界が明瞭になりはすれ、目の前の光景が劇的に変化することはなかった。
ここ……どこ?
自分が今下肢を横たえている、本来ベッドがあるべきその場所。そこには肌に馴染んだシーツの質感はなく、ササクレだった樹皮と生木特有の湿気があった。上部や背後に目をやると、すぐ間近にねじくれたような木の表皮が目に入る。
……は、……はい?
ミチルは何とか現状の把握に努めるが、屋外、しかも今まで見たこともない場所に寝ていたというあまりの状況にパニックに陥ることさえできない。
枕が変わったから眠れないというデリケートな人間ではないつもりだが、とはいえ意味不明にどこででも寝るかといえば決してそうではなく……。
ミチルは恐る恐る木の縁から半身を出すと、周囲を見渡し、森の切れ間の木々や木の葉の敷き詰められた地面に、とりあえずの危険がなさそうなことを確認してからゆっくりと足をおろした。
そのおろした足を見て自分が靴を履いていることに思い至る。それは通学用の革靴だった。
あらためて自分の体を見ると、身につけていたのはいつも就寝時に着ているジャージではなくミチルの通う高校のセーラー服で、あつかいにくいセミロングのクセ毛は、学校へ行くときのように三つ編みに結っていた。
……何でこんな山ん中にいるんだろ。考えたくはないけど、夜中に親に捨てられたのか?え?姥捨て山……、いやいや、そりゃ言っちゃなんだけど順序が違うだろ。家で私が一番若いんだし……。はッ!まさかの口減らしッ?うち、そんなに困ってたのッ?それにしたって制服って何なのよ。山に捨てるならせめてもっとこう、肌の露出の少ない服の選択もあったろうに……ん?……制服……?待てよ、私さっきまで家で寝てたっけか?
今まで寝ていた場所を振り返ると、そこにはテレビや本でしか見たことのないような巨樹が倒れていて、その巨樹の中央には奥行きこそ余りないものの、ミチルが横たわってもまだ余裕のあるほど幅を持つウロがポッカリとした空間を作っていた。
倒れた巨樹の周囲には高い木があまりなく、覆い被さった枝の間からも柔らかい光を受けていたが、その向こう側は木々がうっそうと生い茂り、光は高い木々に阻まれて、奥に行くほど緑は黒く深くなるようだった。さすがに奥行きもしれないその深い森に足を踏み入れる気にならず、ミチルはきびすをかえすと、枯れ葉をならし、森の切れた光の方へ足を進めた。
足を進めるにつれ、ミチルの丸い目がこれ以上ないほどに見開かれる。
「何、これ……」
森の終点から向こうにはミチルの知る文明的な景色は全く見られず、見渡す限りの赤い砂と岩山の世界が広がっていた。
乾燥した広い大地にはそれこそ一本の木もなく、あちこちに点在するいかにも鉄分を多く含んでいそうな赤茶けた岩山が無ければ、どこまでもその先を見渡せそうだった。赤い大地の素となる砂は、その岩が風化したものなのだろう。
途方に暮れるという言葉は、こういう時の為にあるのだと実感した。
砂の上を歩き進んでいくと、小さく見えた小山もそびえるような高さがあり、見る角度が変わることにより、滑らかに見えた山肌は赤と茶の断層が所々入り乱れ歪な形をしていることがわかった。
何かに似ていると思い、しばらく腕組をして小山を眺める。
「あ、でっかいクルミだ」
だからといって現状何が変わるというわけではない空しさに、ミチルはため息をついた。
「なんつーかなー」
目の前に広がる赤い砂。
地表の砂を靴先ですくいあげると、きめの細かい赤い砂は、かすかな音を立てて滑らかにすべり落ちた。
「ん?」
足下へとやったミチルの目線の先、赤い砂の上に、黒いシミがプツリと浮かぶ。
その黒いシミはみるみるうちに広がり、やがてミチルの体を覆う影となった。
ミチルは何の気なしに首を上げ、そして予想外のモノを目にする。上空を舞うあり得ない何かと目があった瞬間、声はおろか体の動きまで奪われてしまった。
感情のない黒い目。裂けた口からのぞく不自然な程に赤い舌は蛇のように細い。
ミチルの体を覆ってあまりある大きな影は、こちらにむかって鋭いカギ爪の生えた両足を伸ばしている、そのグロテスクな生物の背中から生えた膜状の羽根によるものだった。
羽の生えた巨大なトカゲのようなそれの羽音が間近となった時ようやく、ミチルは自分が獲物として狙われ、とらえられようとしていることを悟った。
逃げなければならないという思考に体がついていけない。
一なぎでミチルの体を引き裂けそうなカギ爪が目前になったその時だった。
「バジュッッ!」
音と共に風圧を感じたかと思うと、化け物の姿が横っ飛びにミチルの視界から消えた。