第五章 雪の降る日の[4]
久々更新です。
すみません。
ケーキを食べた後、ノリと別れた。
もう夕方近い。病院に行くかどうか、ちょっと迷う。だって家と反対方向だし。
暗いのは平気だ。でも家の近所は田舎で、外灯が少なくて真っ暗になるから、ずっと歩いていると、歩道がどこにあるか時折判らなくなる。
車が通らないなら、あまり気にならないけど時折車が通るから、僕はその度にドキリとする。
僕は車が恐いのかな。それとも、それ以外のものが恐いのかな。
良く判らない。
だいたい僕は、自分が怖がっているのか、緊張しているだけなのかすら、判らない。
先輩に会いたいな、と思った。杉原先輩はどう思うだろう。
先輩は僕が判らない事や知らない事を知っている。僕に判りやすいように教えてくれる。先輩の言ってる事全て判るわけじゃないけど、そこいらの教師とかよりは断然判りやすい。時折意地悪で冷たいけど、僕が理解できなくてマゴマゴしても、先輩は怒って放置したりせずに、時間をかけて、僕が判るまで教えてくれたりするから。
ノリに聞いたら困って哀しそうな顔をする質問でも、いつもの調子で付き合ってくれるから。
先輩は優しい。とても優しい。ぶっきらぼうで時折ひどいこと言うけど、でも優しい。
先輩は誰にでも優しくて親切なわけじゃない。それは知ってる。だけど特別ってわけじゃないと思う。
バレンタインデー。そんなこと考えもしなかった。僕には関係ない日だと思ってたし。
ノリだって僕が知る限り、バレンタインデーだからと言って、何かしていた記憶はない。
だから、皆が騒いでいても関係ないと思っていた。必要ないと思ってたけど。
先輩は本当に欲しいのかな。甘いものが好きそうには見えないけど。
バレンタインデーは今年は平日だ。そして、三年生の登校日でもある。だから、渡すのは難しくないと思う。
問題なのは、先輩が欲しいと思うかどうかだ。
ぼんやり歩いていたら、暗くなってきた。公衆電話を探して、祖父ちゃんに電話した。
『彩花か』
「うん。一緒に買いに行くって言ったのに、遅くなっちゃった」
『そうか、今からそっちへ行くよ。そうだ、久しぶりに外食しようか。携帯販売店のある通りにあるレストランで食事をしよう』
「良いの?」
『勿論だとも。わしが行くまで、喫茶店でお茶か何か飲んで待っててくれ』
そう言って店の名前を告げられる。
「うん、判った」
僕は頷く。
『なるべく早く行くよ』
「ゆっくりで良いよ」
僕は慌てて言った。
「急がなくて良いよ。僕は待つの平気だから」
『そうだな。安全運転で行くよ。だから、心配しなくて良い。ごめんよ、彩花』
「なんで謝るの?」
判らなかった。
『わしが謝りたかったからだよ。じゃあ、待っててくれ』
「うん」
電話を切った。
受話器から手を離し、言われた喫茶店へゆっくり向かった。たぶん家から、駐車場に停める時間入れて30〜40分はかかる筈だから。だから、急がなくて良い。
「やぁ、奇遇だね」
突然すぐ脇から声が聞こえて、びっくりした。慌てて辺りを見回すけど、誰もいない。
「こっちだよ」
苦笑するように言われた。
声がした方を見ると、信号待ちなのか、道路に停車中の車の窓が開いていて、男の人が顔を覗かせていた。
誰だろう。なんとなく見覚えあるような。
大人の男の人。にこにこ親しげに笑っている。栗色の柔らかそうな髪。
サラリーマンみたいな感じの、スーツ着た人。ネクタイは弛めている。
持っていた煙草の火を消して、ウィンカーを表示した。それを見て後ろの車の人がクラクションを鳴らしたけど、気にしないでギアを一番上に入れて、サイドブレーキを引いた。
それから窓を全開にして、窓枠に肘をついて両手を組むようにして、中央に自分の顎を落とし、僕を見上げるように、にっこり笑った。
「今、暇?」
「暇じゃない」
僕がそう答えると、彼はにやりと笑った。
「でも、急いでないでしょ。家まで送るから、ドライブしない?」
随分慣れ慣れしい人だなと思う。こんな人、知り合いにいたかな。
なんとなく、柳沢、だったかな、さっきの針ネズミ。あの人みたいだ。
「迎えが来るから」
そう言ったけど。
「そう。それじゃ、迎えが来るまでお茶でも飲もうよ。奢るよ」
全然気にしてない。何故か、鼓動が速くなる。
「別に良い」
きっぱり言う。
なんだか嫌な予感がした。
「いらないから」
はっきり言わないと駄目だ、と思った。
理由は不明。
相変わらず思い出せない。
だけど危険信号。
嫌な予兆。
なんとなく既視感。
知ってる。
たぶん僕は知ってる、この感覚。
まるで、杉原先輩が怒って恐かった時みたいな……。
「ねぇ、ちょっとで良いから」
ぐい、と腕を引かれた。
「え?」
バランス崩しかけると、もう一方の腕が伸びてきて、顎をすくうように、指が滑り込んで、引き寄せられて。
「何やってんだ!!」
聞き間違える筈がない。嬉しくて、だけど困ってしまう。
悲鳴のような、怒声のような、杉原先輩の声。
あ、と思った。
唇にはまだ触れられてない。
だけど先輩を見て思い出した。
この人、僕にキスした人だ。
杉原先輩に殴られた医者の人。
「いったい何をやってんだよ!!」
先輩はそう怒鳴りながら近付いてきて、僕の肩を掴み、医者のなんとか原さんの腕を振り払うと、僕を引き寄せた。
僕は先輩の胸にぶつかり、抱きしめられた。
「せ、先輩?」
驚いた。
心臓が跳ね上がる。
僕は先輩の匂いに包まれる。
微かな甘いフローラルの香りはたぶんシャンプー。
僅かに汗の匂い。
先輩にキスされた事を思い出して、何故か顔が熱くなった。
「あんた、何をやってるんだよ」
先輩の声が身体に響くように聞こえた。
「あんたのやってること、ほとんど犯罪なんだよ。何を考えてんだよ。警察呼ぶぞ」
「警察呼ばれるような事はまだしてないけどね」
「……殴るぞ」
先輩は唸るような低い声で言った。
「むしろ君の言動の方が犯罪じゃないか?」
明るく屈託ない笑顔。
「前回は暴行、今日は恐喝?」
「うるさい」
先輩は吐き捨てるように言った。
「気持ちがないのに、キスなんかしちゃ駄目なんだよ。あんた、大人のくせにそんなことも判らないのか!」
「ロマンチストだねぇ」
なんとか原さんが感心したように言うと、先輩の熱が上がった。
「ふざけんな!!」
掴みかかりそうな先輩に、僕は慌ててしがみついた。
「ダメだよ、先輩!!」
「……っ!!」
先輩の身体が一瞬固くなった。
ぶるりと身を震わせ、握りかけた拳を、開こうとして、だけどほとんど開かない内にギュッと握りしめた。
「…………」
僕は先輩を見上げた。
先輩は真っ赤な顔で、悔しそうに、眉間に皺を寄せ、だけどちょっぴり泣きそうな困った顔で、うつ向いている。
忍び笑いが聞こえてきた。
「いやぁ、本当に微笑ましいな」
なんとか原さんの言葉に、先輩は青筋立てて気色ばむ。
「ふざけんな」
なんとか原さんは笑う。
「ふざけてないよ。本気で言ってる」
「尚更質が悪いんだよ。あんたは最悪だ。第一印象から本当最悪だけど、心底最悪なんだよ。胸クソ悪くなる」
「そんなに気に障ることしたかな」
「あんた何を言ってるんだ。徹頭徹尾人の気分逆撫でしておいて、ふざけるなよ。だいたい、手術後バックレようとしただろうが。知らないとでも思ってるのか。あの病院の看護師、声が大きくて丸聞こえなんだよ」
「それは失礼したね」
「他人事のように言うのはやめろ。俺はいい加減な奴と不真面目な奴が大嫌いなんだよ」
「いや、でもさ」
なんとか原さんはクスクス笑う。
「そういうのって人それぞれだし。君の主観押し付けられても困るなぁ」
「あんたのせいで俺を含めて皆、迷惑被ってんだよ! 大人なら、給料貰ってるくせに仕事サボるな!!」
「別に俺がいなくても大丈夫だったんだよ。それにあれはやってもやらなくても給料変わらないし、むしろボランティアで最終的には顔を出したでしょ」
「あんたが捕まるまで、無駄に待たされた俺の身になれよ! 俺は暇じゃないんだぞ」
「杉原道場のお孫さん」
楽しそうな口調で、なんとか原さんは言った。
「君はお祖父さんのおかげで、何の取り柄も実績なくても、ちやほやされて丁重に扱って貰えて幸せだねぇ」
歌うようになんとか原さんが言うと、先輩は硬直した。
「ま、道場は従兄弟が継いでくれるから、もうやらなくて良いんだっけ、剣道」
「……っ!」
先輩は泣きそうな顔になった。
「……先輩?」
「確かにうちの病院の看護師はラウドスピーカーだよね」
なんとか原さんは楽しそうに言った。
「自分達の不満は勿論、客や教授の声から何でも伝えてくれる。そのくせ、本人達は秘密のつもりでいる。本当に困ったものだよ。だけど僕は残念ながら、日本での実績や権限はほとんどなくてね。嫌な仕事や気乗りしない雑用を引き受けて教授のご機嫌取らないと、いつ失業させられるか判らないんだ。しかも院内は完全に禁煙だし、つまんない手術には立ち会わされるし。たまには息抜きしたくなるよね」
「…………」
先輩は、なんとか原さんを睨み上げた。
「消えろよ」
杉原先輩は、低い声で言った。
「篠原に手を出すな。じゃなけりゃ、どんな手を使ってでもあんたを失業させてやる」
「それは恐いな」
なんとか原さんは肩をすくめた。
「ま、良いさ。ここは君の顔に免じて引き下がるよ。それで良いかい、杉原克明くん」
そう言って、なんとか原さんは笑った。
「だったらすぐ行けよ」
先輩の腕の力が強くなる。ぎゅっと抱きしめられて、どきどきする。呼吸が苦しい。
「じゃあね、バイバイ」
そう言って、なんとか原さんは車を発進させた。その車が遠くなってから、ようやく杉原先輩の腕から解放された。僕は一息ついた。
「大丈夫か?」
先輩の言葉に、僕は頷いた。
「うん」
僕の答えに安心したように、先輩がにっこり微笑む。
「そうか、良かった」
嬉しそうに。
僕の心臓が大きく跳ねた。
「!」
「……篠原?」
不思議そうに先輩が僕の顔を覗き込む。思わず顔が赤くなってしまう。
「だ、大丈夫。祖父ちゃんと待ち合わせだから!」
僕が言うと、先輩は優しい笑みを浮かべて言った。
「じゃあ、待ち合わせ場所まで送るよ」




