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  作者: 深水晶
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第四章 雨の日も風の日も(前)

ものすごく長いです。すみません。

この章から恋愛要素ありますが、ラブコメを期待すると、期待外れかもしれません。

神経質で不器用なヘタレ少年×超天然少女なので、展開遅いです。

篠原(しのはら)、お前いっそ中学からやり直したらどうだ?」

 真顔で言われて、僕は一瞬絶句した。

「お前、受験ナメてるだろう?」

 きっぱりと杉原克明(すぎはらかつあき)先輩は言い切った。

 それはひどい。

 普通、そこまで言うかな?

「……先輩、友達いないでしょ?」

 思った事すらりと言ったら、先輩は顔を真っ赤にして「なっ……!?」と叫んで絶句した。

 ……あ。もしや図星?

 先輩はリトマス紙みたいに顔を赤くしたり青くしたりする。

 うん、相変わらず面白い人だ。

「……篠原」

 絞り出すような声で先輩は言った。

 左手でずり上げた眼鏡のレンズがきらりと光った。

「はい?」

「……悪い事言わない。高校一年までの数学の参考書、今からでもあと三回くらいずつやり直せ」

「えっ……ええっ!?」

 僕はびっくりした。

「他の教科は……まだ良い。やりようによっちゃどうにかなるだろう。けど、数学だけは手の施しようが無い。お前は基本中の基本が理解できてない。よって俺が幾ら解法を教えても時間の無駄だ。身体で慣れろ。これ以上は口で言っても意味が無い」

「えええええっ!?」

「篠原。一言言わせて貰うぞ」

 一言どころかいっぱい言ってるじゃないか!! 先輩!!

「俺はお前みたいな医者に診て貰いたくない」

 ええっ!? ……そっ……それって……!!

 だって先輩、『なりたかったらなれば良い』って言ったじゃないか!!

 その後で『協力してやる』って言ってくれたのに!!

「……何故か判るか?」

 その声が妙に耳に響いた。

 僕は困って先輩を見上げた。

 ……判らない。

 しょんぼりした僕を見て、先輩は苦笑してぽんと僕の頭に手を置いた。

「……単純な事なんだ。とにかくお前はもうちょっと考えろ。数学は解き方を身体が覚えるまで何度もやれ。数学なんて医学に関係ないとか言い出すなよ?……あとは努力と気持ち次第だ。ちゃんと応援してやるから」

 そう言って立ち上がる。

「先輩、帰るの?」

 すると先輩は唇歪めてにやりと笑った。

「……一度は投げたけど悪あがき。……やれるだけやる事にした。ま、お前も頑張れ。たぶん無駄な努力にはならないと思う。って言うか無駄な努力にはしないよう頑張れ」

 どうやら慰めてくれてるらしい。

「……うん。ありがとう、先輩」

 そう言うと、一瞬眩しそうな顔になって、それからにっこり笑った。

「じゃあな」

「うん、またね」

 手を振った。先輩は笑うと幼くなる。……言ったら絶対怒りそうだけど。

 先輩の背中を見送った。

「……色気無いわねぇ」

 背後から降ってきた声に、僕は振り向いた。

「……ノリ?」

 いつからいたんだろう? 気付かなかった。

「……今日バイトじゃなかったの?」

「その予定だったんだけど、実は昨日急遽ローテーション変更になって今日は休み。でもあんたが杉原と会うって言ってたから、影から覗いてたんだけど。……本当つまんない男よね、奴。何かありそうなら思い切り邪魔してやろうと思って、期待してたんだけど」

「……期待?」

 僕はきょとんとした。意味が判らない。

「まあ良いけど」

 にやりとノリは唇歪めた。

「じゃあノリ暇なんだ?」

「まあね。……で、サイは?」

「ううん……暇、なのかな?」

 たぶん。取り敢えず。……先輩の言った事今すぐ実行しなければ。

 って言うか、先輩はさらっと言ったけど、それって実行するのものすごく大変なんじゃないだろうか。

 本気でやったら寝る時間も遊ぶ時間もぼうっとする暇も無いよね。うん。

「んじゃ遊びに行こうか」

「うん!」

 僕は大きく頷いた。



「ごめんね、そういう訳だから、今日はノリと外で食べるから」

『気にしなくて良いよ、彩花(あやか)。ゆっくりしておいで』

「なるべく早く帰るよ」

 そう言って、電話切った。ノリはにっこり笑った。

「サイ、何食べたい?」

「何でも」

「……そう言うのが一番質悪いのよ、サイ」

「質悪い?」

「そんな事言うとあたしの趣味で決めるわよ」

「別に良いよ」

「……そういう事言うから、余計、何か希望聞きたいんだけどね」

「そうなの?」

「まあ、聞くだけ無駄って気もしないじゃないけど、聞くのやめたらそこでお終いって感じだし」

「ふうん」

「……あんたってつくづく他人事みたいに言うのね?」

「そう?」

「そんな風にね」

 ノリはにやりと笑った。

「僕って他人事みたいに言うんだ?」

 感心して言ったら、苦笑された。

「本当、あんたって変な子」

 くすり、と。僕はどう反応したら良いか判らなくて、取り敢えず肩をすくめた。

「ん、じゃあさ、今度出来たばかりのファミレス、行こうか?」

「ファミレス、出来たんだ?」

「そ。アジアンレストラン。ど?」

「うん、おいしそうだね」

 言うと、ノリは嬉しそうに笑った。

「じゃあ、行こうか」

 僕は立ち上がった。



 まだ夕飯前なのに、開店翌日のその店は行列でごった返してた。

 僕たちが到着したのは、まだ五時前だったのに、順番待ちの客が五人いた。

 でも、まだそれは良い方だったらしい。

 僕達の後に来て、店員さんに一時間半とか二時間待ちって言われて帰る人もいたから。

 二十分程並んで中に入る事が出来た。

「アジアンって言うから、何かと思ったら中国と韓国とタイをごたまぜにしただけね。案外つまんないわ」

 さらっとノリが言うと、おしぼりを出してくれたウェイトレスの人の眉間に微かに皺が寄った。

 僕は曖昧に笑った。

「でも、ま。問題は味よね。値段はお手頃だけど。……どうする?サイ。何食べたい?」

「……今考えてるとこ」

「そ。……あたし、これにするわ。トムヤムクンAコース」

「じゃあ、餃子バラエティセット」

「『餃子』!? ここまで来て餃子食べるの!? あんた!!」

「……え? 僕、変な事言った?」

「あのね!! 餃子食べたかったら、ラーメン屋でも中華料理店でも食べられるでしょう!? 何故よりによって餃子!?」

「……あ、じゃあ、ノリと同じで良いや」

「そんな投げやりな事言わないでよ!!もっとちゃんと決めたらどう!?」

「ええっ? だって……」

 その時、背後でくすり、という笑い声が聞こえた。

 ノリの眉間に皺が寄った。

 僕の背後の席に座ってた人が、くすくすと笑い声を上げ始めた。

「ちょっと!! あんた、文句あるっての!?」

 今更ながら、ノリは短気だ。

「……くっくく…………失礼。聞くつもりはなかったけど、つい聞こえてしまったのでね」

 その人がこちらに話し掛けて来たから、僕はようやくその人を振り返った。

 栗色の柔らかい髪。薄いグレーのスーツを着てネクタイ締めた人。

 ……サラリーマン、かな?

 二十代後半くらいの人。すらりとした。切れ長の目の。

「……それじゃ、そこの可愛い彼女が困るだけだよ。君は少し言葉が足りない人のようだね」

 くすくすと彼は笑った。

「なっ……何ですってぇ!?」

「……あまり大声は上げない方が良いよ。人迷惑になるから」

「あんたの方が人迷惑でしょうが!!」

「……そうかな? この場合、僕の方がずっと良識的だと思うけど。たぶん、この場の皆の意見を総合したらそうだと思うよ?」

「きぃっ!! アッタマきた!! ……行こ! サイ。出るよ!」

「えっ? だってまだ食べてないよ? 注文もしてないし」

「こんなトコで食べられるかってのよ!! さあ、行こう!! サイ!!」

 えええっ!? そっ……そうなの!?

 そうなっちゃうの!?

 だって二十分も待ったのに!!

 サラリーマンの人の笑い声。

 僕はノリに腕を取られて、皆の注目浴びながら店の外に出た。

 ノリはぷりぷりしていた。

「ったく、あの男!! 一体何考えてるのかしら!! 失礼だとは思わないのかしら!! ねぇ!? サイ!!」

「え、えぇ?」

 ……そこで僕の意見求めるかな?

「ああ!! 本当、ムカつく!! 殴ってやれば良かった!!」

「それはさすがにマズイよ」

「ちょっとばかし顔と頭が良く見えるからって、人バカにしてんのよっ!! 性格悪くて、女に相手して貰えなくて、だから見知らぬ女子高生なんかに平気で声掛けるのよっ!! 冗っ談じゃないわ!!」

 ……それは決めつけじゃないかな?

「サイ、あんた何食べたい?」

 けろりとした顔でノリは言った。

 切り替え早いなぁ。

 僕は笑った。

「……何でも良い」

「あんた、そればっかりね」

 僕は困って、苦笑した。



 翌朝。生徒玄関の入り口で、見覚えのある背中を見つけた。

「おはよう!」

 声を掛けると、彼女はびくりとした風に背中震わせた。

 ウサギ少女。

 あ、名前。名前、忘れた。

 ……何とかなるかな?

 うん。とにかく。

「あのね、聞きたい事あるんだ。良い?」

「ななな何よっ!! 私に喧嘩売ろうっての!? 何よっ!! 何なのよっっ!!」

 全身の毛逆立てて警戒してる。

「いや、そうじゃなくてね。ほら、前に僕の靴泥だらけになってたでしょ?」

「だだだだから何よっ!!」

「あれってどうやったの?」

「……は?」

 ウサギ少女は眉を顰めた。

「僕の靴だけ泥だらけになってたでしょ? どうやってやったの? あれ泥だけだったよね? 僕の靴箱以外はキレイだったよね? 靴箱の外には付いてなかったし」

 凄く気になってたんだよね。一度聞いてみたいと思ってた。

 けど、いつも話す暇なんて無かったしね。

 何だかタイミング悪くて。

「……あっ……あれはっ……本当は下水にでも突っ込んでやろうと思ったけど、そんなコトしたら私まで汚れちゃうから、陶芸部の部室から土粘土持ってきてバケツで水に溶いてどろどろにして、そこへ突っ込んだのよっ!!」

「ああ、成程。土粘土だったんだ? 道理で妙に綺麗だと思った」

 僕は感心した。

 というか彼女、妙にマメだよね?

「って事はバケツ、玄関まで持って来たんだ? 見咎められなかったの?」

「授業中にわざわざ玄関見回るバカもいないから楽勝だったわよっ!!」

「へぇ? わざわざ授業休んだんだ?」

「当ったり前でしょ!! 病原菌を倒す為なら、一週間だって学校休んで厭がらせくらいするわよっ!! そんな覚悟も無しに、杉原さんに近付こうなんて女許すもんですかっ!!」

「……そうなんだ? でも君は全然、杉原先輩に近付こうとしないよね? どうして?」

「ううううるさいわねっっ!! トロくさい顔して核心突くんじゃないわよっ!! うるさいわねっっ!! ここここれからなんだからっっ構うんじゃないわよっ!! いいい今は杉原さん、私の魅力に気付かないけど、そそそそのうち振り向かせてみせるんだから、よよよ余計な事言うんじゃないわよっっ!!」

「……そうなんだ?」

「あんたっそれわざとっ!? 厭味!? 厭がらせ!? 何なの!? 私になんか文句あるのっ!?」

「……え? 何が?」

 きょとん、とする。

 憤然としてウサギ少女は怒鳴った。

「おおお覚えてらっしゃい!! イイ気になってられるのもいいい今のうちだけなんだからっっ!!」

 ウサギ少女は駆け走って行った。

 ……いつもながら、良く判らないコだ。

 僕には理解不能。

 でもまあ、見てて飽きないよね?

 うん。面白い。

 僕は靴箱の中を覗いた。靴の中に紙が折り畳んで入ってる。


『ブース!! バーカ!!

 杉原さんは面倒見良いだけなんだからねっ!!

 勘違いすんじゃないわよっ!!

 あと、あの暴力女にコレ見せんじゃないわよっ!!

 見せたりしたら家に毎日菊送りつけてやるんだからっ!!

 脅しじゃないわよ!!

 本気なんだからねっ!!

 一年C組 串田 響子』


 あ、そうか。そういう名前だったね。

 というか名前わざわざ書くなんて、彼女すごい律儀だよね。

 僕は感心した。

 それにしても本当に菊を毎日送り届けてくれるのかな?

 それはそれで楽しみなような気が。

 思わず笑った。



 僕は図書室へ向かった。

 最近、朝と昼と放課後、杉原先輩に勉強見て貰ってる。

 もっとも、先輩の都合の悪い日とかは、お休みなのだけど。

「おはよう、先輩」

 分厚い参考書と睨めっこしてた杉原先輩に声を掛けた。

「ん、ああ。おはよう」

 そう言って、僕の方を見る。

「どうだ? 数学言われた通りやったか?」

 僕は思わず硬直した。

 呆れたように先輩は僕を見た。

「……まさか、やってないのか? 一問も? お前やる気無いのか? 篠原」

「えっ……だって」

「だってもクソもない。ちゃんとやれ。……俺に泣きついたって、俺にはどうしてやる事も出来ないぞ。……お前自身の事なんだからな。やる気があるって言うなら行動で見せろ。今日やれる事は明日に伸ばすな。……明日からやろうって言ってたら、一生その『明日』はすぐ来ないぞ。今すぐやれ」

「ええっ!? 今すぐ!? 無茶だよ!!」

「無茶でもやれ。為せば成る」

「ひどいよ!! 先輩!!」

「……篠原」

 真顔で僕を見た。

「お前、何か勘違いしてないか ?……お前が勉強するのって何のためだ?」

「お医者さんになるため」

 即答すると、杉原先輩は溜息をついた。

「小学生じゃないんだからな、高校でそれを言うってのは普通それ相応の医学部へ行く気があるんだよな?」

 僕はこくん、と頷いた。すると更に深い溜息をついた。

「……何科をやりたいのか、なんて事は今は聞かないでおいてやるよ。……まあ、ともかくな……お前はちゃんと大学行く心づもりくらいはあるんだろ? 他の誰でもない、お前自身がそう決めたんだよな? だったら、そのための最低限の努力はちゃんとしろ。いつまでも遊んでたら、医師免許どころか、大学にだって受からないぞ。医学部行くつもりで、理数系の成績駄目だなんてどうにもならない。……幸い、理科部門に関してはどうにかなりそうだが、数学がこれ程駄目だなんて、酷すぎるぞ。言っておくがな、この程度の数学レベルじゃ、お前は何処の大学も受からないぞ。名前だけの超三流大学ならともかくな自分で決めた事なら、自分でちゃんと責任持て。やりたい、行きたいとか言って努力しない奴は、ただのバカだ。バカより最低だ。そんなのは戯言だ。努力しないで、望みを達成できる奴なんてこの世にいない。いるかも知れないが、少なくともそういう奴は医者になんかならないし、もしそんな医者がいたとしても、その医者にだけは俺は一生診て貰いたくない。……判ったか?」

「…………つまり、先輩はちゃんと努力しない僕が、医者になっても一生診て貰いたくないって……そういう事?」

「判ってるじゃないか。全くその通りだ。……そういう訳だから、とにかく数学の参考書、一年までの分もう一度やり直せ。それで理解出来たら、高校二年以降の数学を教えてやる。……判らない事があるなら、教えてやっても良いけど、まず自力でやる事。その後でなら力になってやる」

 先輩はぎろりと睨んだ。

 仕方が無いから、数学の参考書取り出す。小さく溜息ついて。

「……そうだ。中学の頃使ってた参考書だ」

 ぽん、と目の前に三冊参考書を積み上げた。全部数学。

「……使いやすかったからやってみろ。所々書き込みあるけど、気にするな」

 そう言った先輩の頬は少し赤かった。

「判った。有り難う、先輩」

「……別に。取り敢えずは他の教科見てやろう。何か聞きたい事あるか?」

「……って言われてもあとは暗記物ばっかりだし……ああ、そうだ。古文だけど、どうして同じ言葉で時代によって意味違うかな?」

「……考えてみろ。時代が違えば、同じ言葉でも使う人間が異なってくるだろ?」

「うん」

「今だってそうだ。年々新しい言葉ってのは増えるし、使わなくなる言葉も出てくる。今だって、少しずつ言葉は変化してる。同じ言葉でも、少しずつ意味が変わっていったり、用法が変わってしまったり。……同じ言葉でも、時代が違えば意味も異なるのは当然の事だ。言葉が同じでも、使う人間は変わっていく。使う状況や時代、背景が変わっていく。変わるのは仕方ないんだ」

「……でも、試験に出るのは困るよね」

 杉原先輩は唇歪めて笑った。

「……困るけど……それを困るとか言ってたら話にならないだろう。習うより慣れろ、だな。頭で丸暗記しようとしてもなかなか覚えきれない。何度も訳して、何度も繰り返し読め。原文に慣れろ。数学だってそうだ。数をこなせば、そのうち慣れる。最初は判らなくたって、そのうち判ってくる。繰り返しは意味のない事のように思うかも知れないけど、人間の脳って奴は、反復することによりシナプスの繋がりを太くしていくものなんだ。運動にしろ、知識にしろ、繰り返す事により、知識を、記憶を強化していく。そういう風に出来ているから、繰り返し反復する事によって、どんなバカでもどんな運動音痴でも、努力さえすればいずれ身に付くようになっている。……もっとも、個人差がある事だけは否めないが」

「……つまり、やれば出来るって事?」

「基本的にはそうだな。それ以上は俺の言ってやれる事じゃない。あとはまあ、集中してやれる精神力と体力を維持する事、睡眠をしっかり必要なだけ取る事、適度な運動でリフレッシュをする事……くらいかな」

「……運動、するんだ?」

「……いや、運動ったって、朝軽くジョギングするのと素振りするのくらいで……」

「『素振り』?」

「……剣道をやってるんだ。五歳の頃から」

「ああ、剣道。……でも、先輩猫背だよね?」

「……うるさい」

 そう言って眼鏡のフレームを押し上げた。僕がじっと見てると、小さく溜息をついた。

「……座高が……ほら」

「え?」

「……高い……だろ?」

 僕は目をぱちくりさせた。

「えぇ? だって先輩背高いでしょ? そりゃその分自然と座高も増えるんじゃない? ……普通だと思うけど?」

「……そ……そうか?」

「……そんな事、気にしてたの?」

「……いや、だって……前に『座高高い』って言われて……」

「……そんな事気にするんだ?」

 すると先輩は真っ赤になった。

「いや! 別に気にした訳じゃなく!! ……その……高いんだったら……人迷惑かなと……」

「……『迷惑』って言ったんだ?その人」

 更に先輩は耳までカッと赤くなった。

「っていうか!! な!! ……その……何て言うか……あの……」

「別に背が高くたって、座高が高くたって、そんなの先輩の自由だよね。気にする事あるかな?だって先輩は選んでそうなったんじゃないし、それに文句付ける人の方がずっと変だよね? その人、ものすごく変な人だよね?」

「…………」

 先輩はマジマジと僕を見た。

「……何? 先輩」

「……いや」

 そう言って、先輩はにこりと笑った。

 あ、この笑顔、凄くイイ。

 いつも、面白くなさそうに笑うんだけど、この笑顔は本当に楽しそうで、嬉しそうでイイ感じ。

 僕は先輩のこの笑顔見るの、結構好きだな。

 いつもどことなく不機嫌そうな顔が、一瞬にしてくしゃくしゃっとなって、明るくなるんだ。

「お前は時折正しい事言うよな、篠原」

「……時折?」

「言葉のあやだ。気にするな」

「気にするなって」

「あ、もうこんな時間か。教室へ戻るか。……じゃあな、篠原」

「うん。また放課後」

 先輩は席を立った。

 僕も立ち上がろうと、椅子を引いた。

 その時、頭にこつんと何か当たった。

 ……何だろう?

 振り返ると、五センチ四方くらいの紙飛行機が落ちていた。

 拾い上げて広げてみる。


『調子こいてんじゃないわよ!!

 バーカ!! ブース!!

 杉原さんは親切なだけなんだから!!

 一年C組 串田響子』


「……………………」

 つくづく面白い人だ。すごくマメ。

 ひどく感心した。

 ……ていうか、何処にいるんだろう?

 それとももう行っちゃったかな?

 ……すごいなぁ。

「……サイ、何やってんの?」

「これ、すごいんだよ!! ほら、ほら、見て!!こんなに小さいのにちゃんと紙飛行機!!」

 嬉しくなってもう一度折り畳んでノリに見せたら、ノリは眉間に皺寄せてそれ見て、それからおもむろにそれを広げた。

「…………あのクソガキ」

「……ノリ……?」

「……まぁだ、懲りてなかったのね」

 ノリは口元を歪めて笑った。

「……シメる」

「……駄目だよ、ノリ。彼女も彼女なりに一生懸命なんだから」

「一生懸命だぁ!? 一生懸命だったらそれが何よ!! 免罪符にでもなるっての!? 甘い甘い甘いっ!! 甘過ぎ!!サイ!! ……ああいうバカ娘は一発ガツンとやって懲らしめないと、いつまで経っても学習しないのよ!! あたしの熱いムチを味合わせてやるわっっ!!」

「……暴力は駄目だよ、ノリ。悪いクセだよ」

「暴力は第二の言語よ!! 言葉より雄弁なのよ!! あのバカ娘に口で言って理解出来る筈ある訳無いでしょ!! 言うだけ時間の無駄!! 言語に訴えるより、暴力に訴える方が、即刻解決!! 判り易いわ!! あのバカ娘にも!!」

「……それはどうかと思うけど」

 僕は小さく溜息をついた。

「ところで、あんた達って相変わらず面白くない会話してんのね」

「面白くない会話?」

 きょとん、とした。

「サイはともかく、杉原がどういうつもりなんだか、それが知りたいわね。まあ良いけど。奴の勝手だし」

「何かあるの?」

「……あんたはそういう子よね」

 にっこり笑って、ノリは僕の頭を撫でた。

 気持ち良くて、目を閉じる。

 ノリは優しく僕を撫でる。

「大好きよ、サイ」

「僕も」

 言うと、ノリはくすりと笑った。

「……やっぱ、あんたって良いわ」

 くすくすと笑う。僕は良く判らない。首を傾げた。ノリは楽しそうに笑った。

「ずっとそのままでいてね、サイ」

「……変なノリ」

 くすくすとノリは笑った。



「篠原!」

 後ろから声掛けられて、振り返ったら案の定、原だった。

 息せき切って走ってくる。

 どうしてこの人、いつもこんなに焦ってるのかな? 忙しいのかなぁ。

「……し、篠原」

「はい?」

 ぜぇ、ぜぇ、と息を切らし、呼吸整えながら、ゆっくりと前傾姿勢から起き上がり、原は僕の目を見た。

「……やっと捕まった。……あの、な? 篠原。あの……進路志望……あれ……本気か?」

「本気ですけど?」

 そう言ったら、原は今にも泣き出しそうな、情けない顔になって、顔色悪くなった。

「……書き間違いとか、勘違いとか、悪ふざけじゃなくて……?」

「そうですけど」

 そう言ったら、原は本当に泣き出しそうに顔をくしゃくしゃに歪めて、その場にうずくまるようにしゃがみ込んだ。

「先生?」

 どうしたんだろう? お腹でも痛いのかな?

 一生懸命胃を押さえてるみたい。

「先生、お腹痛いなら保健室行った方が良いですよ? 無理すると余計悪くなりますから」

 そう言ったら、今度は頭痛そうに抱え込んだ。

 ……大変そうだ。

「……つまり……本気で城南大学の医学部へ行きたいと思ってるんだな……?」

 うずくまったまま、呻くように原は言った。

「……その通りです」

 一体何だって言うんだろう?

「……それは俺が進路志望書けと急がせたからでもなく、自棄を起こして適当に書いた訳でもなく、つまりは本当に本気でそこへ行こうと思って書いたんだな?」

 ……良い加減しつこい人だな。

「そうです」

 そう言ったら、ますます頭痛そうに、両手で抱え込んだ。

「……そ……そうか……。それで……今のお前の成績じゃ絶対無理だって言ったらどうする……?」

「大丈夫。死ぬ気でやれば大抵の事はやれます」

「…………やっぱり本気なんだな……?」

 呻くように、先生は言った。

「あの……もう、行っても良いですか?」

「……ああ……そうか……ヤな予感はしてたけどやっぱりか……!!」

 先生は自分の世界へトリップしたらしい。

 僕は肩をすくめて立ち去った。

 先生は一人でぶつぶつと呟いてる。

「やっぱり俺は貧乏くじ引かされたんだ……絶対そうじゃないかと思ってたけど……っ!!」

 先生って大変だな。と言うか大丈夫なのかな?

 僕はそっと振り返った。

 先生は一通り何やらぼそぼそと言って、満足したのかすっくと自力で立ち上がり、階段の方へ向かった。下へ降りるらしい。

 ……きっと保健室へ行くんだね。自力で歩けるなら問題無いよね。

 僕は安心して、先生に背を向けた。

「あ!! サイ!!」

 ノリに、腕を掴まれてぐいと引き寄せられた。

「え? 何? どうしたの?」

「あのね、さっき授業中、杉原が怪我したって!」

「ええっ!? 先輩が怪我!? ……って、どうしてノリが知ってるの?」

「さっき、保健室へ痛み止め貰いに行ったのよね」

「ああ、うん」

 女の子の事情ってやつだ。

「……そしたら、その話してて。体育でサッカーしてて、揉み合いになって、押し飛ばされてゴールで頭切ったんだって!」

「ええっ!? 頭切ったの!?」

「いや、命に別状とかは無いけどさ。傷を縫うのに城南大学付属病院行ったってさ」

「城南附属?」

「そ。この辺じゃ一番近いからね」

 本当は一番近いのは、母さんのいる月ヶ原病院なんだけど。そこは外科は無いから。

「判った。有り難う、ノリ」

「い〜え」

 ノリはにっこり笑った。

「面白そうだから、あたしも一緒に行くわ。……って奴がいつまで病院にいるか判らないのが難だけど。奴の携帯とか知ってる?」

「知らない。……ノリは?」

「どうしてあたしが知ってる訳あるのよ」

「それもそうだね」

 ノリの方から番号知らないか聞かれたのに、ノリが知ってるわけないね。もっともだ。

「しっかしさ、本当、あんたと杉原ってどうなってんの?」

「どうって何が?」

「サイ、あんたさ、杉原に迫られた事無い訳? 本当に?」

「迫られるって、何を?」

 ノリは呆れた顔をした。

「……本当訳判んないわね、杉原」

 わけの判らないのはこっちの方だよ、ノリ。

「ま、番犬としては役に立ってくれてるかしら。主人に噛み付かない犬なら安心だわね。……もっとも、犬がいつ狼に変身するかは判らないけど」

「犬が狼?変身するの?」

「……あんたって本当面白い子ね、サイ」

 そう言ってノリは僕の頭を撫でた。

「……意味が良く判らないよ、ノリ」

「カワイイなぁ、サイ。カワイクって本当、舐めちゃいたいくらい」

 ノリはそう言ってにっこり笑った。

 絶品物の笑顔で。

 ……ノリって美人だなぁ。

 僕は今更ながら感心した。

 ノリはよしよしと僕の頭を撫でて、それからぎゅうっと抱きしめる。

「……痛いよ、ノリ」

「うんうん、判ってる」

 判ってるって、ノリ。僕は呆れた。

「どうする? 授業受ける? それとも自主休講?」

「……ええと、授業は受ける。……じゃないと杉原先輩に怒られるから」

 まじまじとノリは僕を見た。

「……何?」

 ノリは小さく溜息をついた。

「……これで何もないってどういう事かしら。それはそれで、安心ではあるけど、同時にとてもつまらない気もするわ。……複雑ね……」

「……ノリ?」

「ま、何かあったら教えてね、サイ。特に杉原をからかえそうなネタ仕入れたら是非一番に教えて頂戴」

「先輩からかうと可哀相だよ。ノリ、いつもイジメてるでしょう?」

「あんたには言われたくないもんだけど」

「ええっ!? 僕、先輩のこと、イジメてる?」

「どうかしら? ……ただ単に、杉原自身がマゾなんじゃないかって気がするけど」

「……そうなの?」

「さあね」

 にやりとノリは笑った。

「判ってるのは、見ていてまどろっこしいけど楽しいってのだけは確かね」

「何が楽しいの?」

「色々」

 にっこりと魅力的に、ノリは笑った。

「特に杉原の心情を考えると、面白いわ。一番楽しいのはサイだけど」

「楽しいの? 僕って」

「いつまでもあたしだけのサイでいて欲しいけど、それ言ってちゃ始まらないから、あんたが杉原慕うのは別に構わないけど、杉原がサイをどうこうするのだけは許せないのよね。コレが娘を嫁に出す父の心境なのかしら」

「……娘を嫁に出す父……?」

 想像してみた。

 ノリがハゲヅラを被って、変な鼻眼鏡(髭付き)を付けて、広げた新聞紙越しに花嫁姿の僕を見る姿。

「……変なの」

 眉をひそめて言ったら、ノリはきょとんとした。

「何が変なの?」

「だから、ノリがハゲヅラ被って鼻眼鏡掛けたら」

「はぁっ!?」

 すっとんきょうな声上げられた。

「何言ってんの!? サイ!! ……あんた何変な想像してんの!?」

「ええ? だってノリが……」

「……っかしいったら!!」

 ノリは大爆笑した。それこそ、文字通り腹を抱えて、転げ回った。

「……ノリ……」

 そこまで笑う事ないじゃないか。そこまで行くと、ショックだよ?

 ノリは人目はばからず、けたけた笑い転げてる。

 僕は溜息をついた。

「……本当、あんたの考える事って訳判らないわね!」

 くっくっと笑い噛み殺しながら、ノリは言った。

「……判らないのはノリの方だよ」

 僕は憮然として言った。

「う〜ん、たぶん世間一般の基準で言えば、あたしの方が普通よね。普通の基準ってのもまた難しいけど」

「……それはつまり……世間一般の基準で言えば、僕はノリより普通じゃないって事?」

「それ以外の何でもないわよね」

「……ひどいよ、ノリ」

 抗議すると、ノリはぺこりと頭を下げた。

「ごめん。……でも、そういうあんたが好きだから。大好きよ、サイ」

 鮮やかに笑う。

 ……そう言われたら、何だか僕も笑っちゃうな。

「『普通』なんてものに意味なんかないのよ。ま、たぶんあたしも厳密には弾かれるんだろうけど。そんなの知ったこっちゃないわ」

 にやりとノリは笑った。

「じゃ、放課後城南附属、決定ね」

「うん」

 先輩の怪我、あまり大した事なければ良いけど。



 城南大学付属病院。

 特に外科が良いって有名。

 県内でも指折りの外科医がいるからだって。そういう噂。

 ええと近所のおばさんか誰かがそう言ってたのかな?

 確か、何とか原先生って人。

 ……そう言えば、僕の周りには『原』って付く人多いよね?

 ……担任は原だし。

 何か縁があるのかも。

 ノリのバイクの後ろに乗せて貰って到着した。

「駐輪場へ止めてくるから、少し待ってて。ロビー入ってて良いから」

「うん、判った」

 そう言うと、ノリは僕を正面玄関前で下ろして、駐輪場方面へ行ってしまった。

 それをぼんやり見送って、中へ入ろうとしたら、背後から声掛けられた。

「やぁ、君は昨日の」

 振り返ると、昨日アジアンレストランとかいうところで会った、サラリーマンの人だ。

 何だかワイシャツとネクタイの上に白衣を着ている。

 何処かの研究所の職員の人みたいだ。

「……あ、どうも」

 何だかこの人、良く判らない人だなぁ。

「……もしかして、あのバイク、昨日の気の強い彼女?」

 ……それってノリの事?

「あぁっ!!」

 背後で、すっとんきょうな声を上げた人がいた。

 びっくりして飛び上がる。

 険しい顔した看護婦さんが、つかつかと歩み寄って来た。

「もう!! 栗原(くりはら)先生!! 何処行ってらしたんですか!! 捜したんですよ!!」

「……いや、病院内は禁煙だから、外へ煙草を吸いに……」

 その白衣を着たサラリーマンの人は、いいわけ口調で看護婦さんに返答してる。

「手術が終わったからって呑気過ぎますよ!! 先生が主治医なんですからね!!」

「……って僕が診る必要のある患者だとは、とても思えないけど? 平木(ひらき)先生の恩師の息子さんだって言うなら、平木先生が担当すれば良い。……それが筋って奴じゃ無いの? どうして関係無い僕が、それに従わなくちゃならない?」

「平木先生の顔だってあるんですよ!! 平木先生が、主治医は栗原先生をお世話するっておっしゃった手前、あなたがそういう事なさると、非常に困る事になるんです!!」

「……だって、勝手にそう言ったのは平木先生でしょ? 平木先生が勝手に困っていれば良いじゃない? ……どうせ、オペは僕じゃなくて平木先生でしょ? 問題無いじゃないか」

「栗原先生の立ち会いがあるのと無いのじゃ随分違うんですよ!!」

「……僕はつまり、宣伝用のマスコット?」

 くすり、と彼は笑った。

「……そうだねぇ。これ程までに二枚目のマスコットはなかなか他にいないよねぇ? っていうかね、患者がせめてカワイイ年頃のお嬢さんだったならともかく、可愛げの無い男の子じゃあねぇ。潤いが無いでしょう? ……例えばこの子みたいにカワイイんなら実益兼ねてて良いんだけどさ」

「……どうしてそういうふざけた事ばっかりおっしゃるんです?」

 看護婦さんが彼を睨み付けた。

 彼は肩をすくめた。

 それから僕ににっこり微笑み掛ける。

 ……何だか、作り物っぽい笑顔で。

「ねえ、君。何処に行くの? 案内してあげようか?」

「栗原先生!! おふざけもそこまでにして下さい!! さ、行きますよ!!」

 大仰に、肩をすくめて笑った。

 その後で、白衣の内側から、名刺を取り出した。

「はい、これ。僕の名前とか携帯とか書いてあるから。……電話して。じゃあね」

 そう言って、彼は立ち去った。

「ごめんなさいね? あれは質の悪い冗談だから、全然気にしなくて良いから」

 看護婦さんがそう言って謝った。

「……はぁ」

「あの人のことは気にしないでね、じゃあ」

 そう言って看護婦さんは白衣の背中を追い掛けた。

「ちょっと先生!! そっちじゃありませんよ!! こっちです!!」

 ……もしかして、ものすごく質の悪い人なのかな?

 僕はぼんやり見送りながらそう思った。

「お待たせ、サイ。……何かあった?」

「……ええと、コレ」

 名刺をノリに渡した。

「……え? 何? 『城南大学付属病院第一外科所属 栗原一樹 二十九歳 独身 彼女募集中 よろしくね!』?」

 読み終えると、即座にノリは名刺を粉々に引きちぎった。

「……サイ、あんたよそ見してると、本当ろくでもない男にばっかり見初められるわね?」

「……昨日のサラリーマンの人だよ」

「昨日? ……サラリーマン? ……ってあのっ……!!」

 見る間にノリの顔に血の気が昇った。

「あの、もっっの凄い失礼な物言いした、あの無礼な男!?」 

「そう。……白衣着てたけど」

「うっわ最低!! それであいつ、このふざけた名刺寄越しやがったの!? 何考えてんの!? あンのすっとこどっこい!! 良くもまあ恥ずかしげ無くこんな物渡せるもんね!! 神経疑うわ!! 冗っ談じゃないわっっ!!」

「いや、もう会わないと思うよ?」

「そうあって欲しいけど……今更ながら思うけど、あんたの志望大学って『城南』じゃなかったっけ?」

「……あ、そうだったかも」

「『かも』じゃないわよ。もしかしたら、会っちゃうかもでしょ? 研修とかで!!」

「外科へ行かなきゃ良いんだよね?」

「バカね。研修期間は普通全部回るんじゃないの?」

「そうなんだ?」

「……知らずに受けようって人間も、あんたくらいよね……」

「そう?」

「志望校変えなさい」

「え?」

「変えた方が良いわ」

「ええ? だって……他に医学部って言ったら家から遠いし……」

「遠くても良いわ。……変えなさい」

「だって……城南、杉原先輩も行くから『どうせなら城南来れば?』って。先に入って色々教えてくれるって言ってくれたし」

「……ああ、そうね。入学そのものが出来ないかもだし、問題無いか」

「入学出来なかったら困るよ!!」

「あんたが入ったら入ったで、あたしは物凄く不安だわ……」

「え? 何で?」

「……複雑な気分ね」

「どうして?」

 なおも尋ねると、ノリは溜息をついた。

「……サイがもう少し自覚あるならねぇ……」

「……何を?」

「……ううん、説明して判るかな?」

「え?」

「……サイ、今、あの軽薄男があんたに何言ったかきちんと把握してる?」

 ノリはサラリーマンの人を『軽薄男』と呼ぶことにしたらしい。

「携帯に電話してって」

「……それがどういう意味か判ってる?」

「だから、携帯に電話しろって事でしょう? 違うの?」

「……つまり、あんたに気がある訳よ。単なる好奇心か興味か、遊びかは知らないけど」

「……何それ?」

「要するに誘われたのよ」

「何を?」

「ちなみにそういうのにほいほい連れていくと、何処か部屋に押し込められたりして、酷い目に遭わされるからね」

「そうなんだ? それはひどいね」

「……そうね」

 ノリは深い溜息をついた。

「とにかく、相手にしない事ね。それであんたは本当、杉原の事どう思ってるの?」

「どうって……口悪いけど、良い先輩だよね? 面倒味良くて、文句言いながら勉強見てくれるし」

「それってただの好意とか思ってないわよね?」

「え? 好意じゃないの?」

「……それは『好意』には間違いないかも知れないけど、『下心』ある『好意』よ」

 ノリはきっぱり言った。

「……『下心』ある『好意』……?」

「基本的にね、人には『純粋』な『好意』なんて奴は存在しないのよ。皆、何らかの見返りを求めてる訳。それは相手からの『好意』のお返しだったり、お礼の『金品』だったり、『欲望』だったりする訳だけど」

「そうなんだ?」

「ちなみにね、杉原はどう見てもあんたに気があるわよ」

「……それって、あのサラリーマンの人みたいな事考えてるって事? 僕、何かひどい事されるの?」

「……杉原は、あの『軽薄男』と全く同じ真似はキャラじゃないからしないでしょうけど、まあ考えてる事はどうせ似たりよったりよ。男なんて生き物はね。……愛情も欲情もどうせ似たようなもんよ」

「ええっ!? そうなんだ!?」

 びっくりした。

 本当、びっくりした。

 だって、杉原先輩、そんな事一度も言ったりしたりした事ないのに!!

 するとノリは苦笑した。

「……杉原はね、たぶん無茶な事しないと思うのよね。と言うか、そう信じてやりたいけど。あんたが望まない事はたぶんしないでしょう? どうせああいう性格だから、見えない場所では悶々としてるんでしょうけど。たぶん、そういう面では少しは信じてやっても良さそうだとは思うのよね。きっと、他の狂犬からはあんたを守ってくれるでしょうけど。……どのくらい頼りになるんだかは知らないけどね」

「…………」

「サイをむやみやたら脅えさせる気は無いんだけどね? 杉原がどう考えてるかってのは本当不思議で、あたしには訳判らないんだけど、そういう事だからちょっとは考えた方が良いと思うのよね? ……サイは無防備だから」

「……先輩ってそんな恐い事考えてるの?」

 ノリは困った顔になった。

「いや、だからサイが困る事はたぶんしないわよ。……そういう」

「じゃあ、一体どういう事?」

 ノリはう〜んと唸った。

「つまり、サイがイヤだったら物凄くヤな事で、サイが良ければ凄く良い事だって、つまりはそういう事なのよ」

「……それってごく当たり前の事な気がするけど?」

「……ごく当たり前ってそれが……一番問題なんだけどね」

 ノリは深々とした溜息をついて、そう言った。

 知らなかった。

 ……先輩って恐い事考えてたんだ? 僕が気付かなかっただけで。

 でも、いまいちその『恐い事』と『杉原先輩』が結びつかない。

「……思うんだけどね? ノリ」

「何? サイ」

「やっぱり良く判らないんだ。ノリの言ってる事。意味が」

「……だろうと思った」

 ノリは溜息ついた。

「『恐い事』って何?」

 聞いたら、ノリは深い溜息を更についた。

「……そうね。サイが、もし相手の事好きでそうしたいって望むんなら恐くも何とも無い自然な事なのよね?」

「したい事をされたら恐くないのは当たり前だよね? という事は『恐い事』ってされたくない事なの?」

「そうね。ぶっちゃけちゃえばそういう事だけど……問題はその『内容』よね?」

「『内容』って何?」

「……最初に一応確認しておきたいんだけど、サイ、どうやって子供が出来るか知ってる?」

「それくらい知ってるよ。保健体育で習うじゃない」

「……それで、それってどのくらいの知識な訳?」

「だから、精子が卵子に付着して、受精したら着床して、それでもって子宮へ移動して育って胎児になるんだよね?それくらい子供だって知ってるよ」

「……それでどうやってそうなるかは判ってるの?」

「え? どういう意味?」

「だから何をどうしたら、そうなるかは知ってる訳?」

「何をどうしたらって……」

 不思議な事を聞くよね?ノリ。

「男性性器を女性性器に挿入するんだよね? ……って……え? どうやって?」

 ……あれ? 判らないや。

 ……て言うか、知らない。

 ノリは更に深い長い溜息をついた。

「……何となくそんな気はしてたのよね…………」

 嘆息して。

「……ノリは知ってるの?」

 聞いたら、ノリは更に溜息をついた。

「ま、何となく成り行きで知ってるけど? それをあんたに教えたらひっくり返りそうな気がして、何となくヤな感じなんだけど、でも教えないとマズイ気もするし、かと言って正直に教えたら、ただでさえ杉原に恨まれそうなのに、もっと恨まれる羽目になりそうだしね……」

「……何言ってるの? ノリ」

「まあ、それは横に置いといて。『キス』の意味くらいは知ってる?」

「知ってるよ、それくらい。ノリ、僕の事バカにしてない?」

「……ちなみにあんたの知識ではどんなのがキスなの?」

「唇で触れるのって全部そうでしょ? 小さい頃父さん母さんが良くやってたよ。僕にもしてくれたけど」

「……つまりね、『そういう事』を杉原はたぶんあんたにしたがってると思うのよね」

「……キス?」

 僕はびっくりした。

 ノリをまじまじと見上げる。

「……杉原先輩が?」

 そんな事、考えた事も無かった。

「……で、サイ。あんたはそういう事したい? 杉原と」

「……ええっ!? そんなの良く判らないよ!! だって……杉原先輩の事、僕はとても好きだけど、一緒にいて楽しいけど、そんな事考えた事無かったし!!」

 って言うか、キスって普通、恋人同士や夫婦とか家族でやるもんじゃないの!?

「……つまり、杉原は問題外?」

「……何? その『問題外』って」

「つまり『恋愛』対象外?」

「ええっ!? 『恋愛』!?」

 って恋愛って、恋愛って、杉原先輩が恋愛対象外ってそれって!!

「『恋愛』なの!?」

 そう叫んだら、がっくりとノリは肩を落とした。

「……そうだと思ったけどね」

「え?」

 全然判らないよ。ノリ。

「……つまり、杉原はあんたを『恋愛』対象として見てるのよ」

「だって先輩、結構酷い事言うよ!? 『中学からやり直したらどうだ』とか僕に教えても『時間の無駄だ』とかって!!」

「って、それ、杉原のキャラでしょ? 何だかんだ言って甘いじゃん、杉原。サイに。判ってんでしょ? 他の人間に対するより、あんたに対しての方が杉原のガード緩いって。それに文句言いながら、面倒見てんじゃん。余計な事まで」

 ……確かに、僕に無防備な笑顔見せてくれたりするけど。

「杉原先輩って『恋愛』なんだ?」

「……あんたが『恋愛』の意味くらい判ってくれて良かったわ。本当に判ってるかは謎だけど、まぁこんなもんよね」

「って何が?」

「ま、気にする事ないわ」

 あっさりぽん、とノリは言った。

「世の中何でも『なるようになる』もんだから」

「……何言いたいの?」

 良く判らないよ。

 本当良く判らないよ。

 全然判らない。

 判らないんだよ、ノリ。

「今はまぁ、杉原手ェ出す気ないみたいだけど、たぶんそのうちサイに本格的に言い寄って来ると思うわ。その時、サイ自身がどうしたいかって事、今のうちに考えておきなさいよ。どうせ、杉原の事だから自分かあんたの受験が終わるまでは、とかって枷付けてんだろうから。ま、それも他にライバルが現れたらどうなるか判らないけど」

「……僕は、『恋愛』って良く判らないんだ」

 本当、困って。

「……僕には良く判らないんだ。……父さんの事は好き。母さんの事も好き。……だけど、僕は父さんが死んだのを悲しいとか、祖母ちゃんが死んだ事が悲しいとか、思ったけど、僕は母さんみたいになれないんだ。僕は母さんほど悲しいとは思えないんだ。僕、ひどく冷たい人間で、何も判ってないような気がする。僕は……世界が壊れるほど、人を愛せそうにないよ。……世界が壊れるほど人を好きになるなんて、僕にはきっと無理だよ。だって僕は……」

 生きてるのが楽しい。

 呼吸するのが、歌うのが、大声で叫ぶのが。

 ノリといる事が。

 杉原先輩と顔付き合わせて勉強とかするのが。

 祖父ちゃんと縁側で月や星を見たりするのが。

 のんびりぼうっと、うとうとするのが好き。

 『恋愛』は良く判らない。

 母さんを壊した『恋愛』。

 母さんの世界が僕と違ってしまったきっかけ。

 母さんの世界に僕が居なくなった原因。

 父さんの事、すごくすごく、好きだった。

 大好きだった。

 父さんが死んだなんて信じられなかった。

 信じたくなかった。

 それでも、毎日家に帰っても、父さんは帰って来なくて。

 僕はいつの間にかそういう状態に慣れてしまって。それがただの『日常』になってしまって。

 父さんの事は覚えてる。

 だけど記憶は不確かになっていく。

 僕が本当に悲しかったのかどうかさえ、ひどく疑わしいんだ。

 物凄くショックだった筈なのに、父さんの事思い出しても、痛みがない。苦しくない。

 それどころか、僕から母さんを奪った父さんの事、悔しいとか思ったりするんだ。

 僕は本当酷い子供だ。

 だから母さんは僕を見ない。

 僕を聞かない。

 僕を感じない。

 父さんを恨んだりするような僕の事は、きっと一生気付かないんだ。

 僕だって大好きだった父さんの事なんて、恨みたくなんかない。

 だって好きだったんだ。

 大好きだったんだ。

 恨みたい筈がない。

 だけど、父さんは僕に母さんを返してくれない。

 母さんは僕の知らない世界に行ったまま、帰って来ない。

 僕には母さんが見えるのに。

 母さんは僕にちっとも気付かない。

 それはきっと僕がひどく悪い子だからだ。

 そうと判っていても、僕はやめられない。

 ……僕は、父さんを恨みたい訳じゃない。

 母さんを取り戻したいだけなんだ。

 母さんの温かい腕。

 もう記憶にしかないもの。

 父さんの腕の記憶と共に、ひどく不確かで。

 求めれば求めるほど、それは遠くなる。

 幻みたいに。

 逃げ水。……天気の良い日に現れる、幻の水。

 追い掛けても追い掛けても、それは遠くて。ひどく遠くて。

 僕はひどく泣きたくなったりするけど、一度逃してしまったそれには、二度と触れることが出来ない。

 僕は、そこへ辿り着く方法を失くした。

 見えなくなった。

 判らなくなったんだ。

 いつだってそれがあるのが当たり前で。

 そうじゃない世界がある事なんて知らなくて。

 僕は全然、自分が幸せだった事に気付かなくて。

 自分がそれを失いつつある事に、それを失ってしまうような行動に出た事なんて全く何も判らなくて。

 知らなかったんだ。

 そんな事、知らなかったんだ。

 そんな事言っても、もはや何の弁明にもならない。

 どんなに嘆いても、悔やんでも、失ったものは二度と甦らない。

 父さんは死に、母さんは僕の知らない世界へ行ってしまった。

 いっそのこと、僕の目にも母さんが映らなければ良かった。

 そうしたらきっと、僕はもっと楽になれただろう。

 母さんの住む世界には行けないけど、それでも母さんが僕を見ないのよりは良かった。

 結局、それは同じ結果になるだけだとしても。『見えない幽霊』にされるくらいなら、僕にとっての母さんも、存在しない方が良かった。

 ……そんな事、祖父ちゃんにもノリにも誰にも言えないけど。

 それでも僕は母さんが好きだから──だから、母さんをこの世から抹消する事なんて出来ない。

 母さんに僕が見えなくても。僕が母さんを失えないから。

 悲しくても、痛くても、それは仕方ないから。

 僕が、それだけの事をされる理由が、ちゃんとあるから。

 だから僕は誰にも文句を言えない。

 だってそれは僕のせいだから。

 全部僕のせいだから。

 母さんに僕が見えないのも、父さんが死んでしまったのも。

 全部、全部、僕のせいで、それ以外の誰のせいでも有り得ないから。

 僕を母さんの世界から消してしまった『恋愛』。

 僕はきっと『恋愛』を憎んでる。

 この上なく、憎み恨んでる。

 だって『恋愛』が僕を母さんの世界から消してしまったから。

 母さんが好きなのは父さんで。

 僕より絶対的に父さんが上で。

 父さんを失くすくらいなら、僕を失くした方が、母さんには楽だったんだ。

 そう認めるのは悲しい。

 とても悔しい。

 僕は母さんが好きなのに。

 僕はとても母さんが必要なのに。

 母さんには僕は要らないんだ。

 母さんは僕が見えなくても平気なんだ。

 母さんには父さんがいるから、僕なんて要らないんだ。

 ……そう考えたりしてしまう僕は、きっととてもイヤな子供で。

 だからきっと母さんは僕を見ない。

 母さんは悪くない。

 母さんは悪くないんだ。

 悪いのは全部僕。

 母さんの大切な父さんを殺してしまった僕のせい。

 全部、全部、僕のせい。

「……『恋愛』は恐いよ」

 言うと、ノリは淋しげに苦笑した。

「バカね」

 そう言って、ぎゅうっと僕を抱きしめた。

 ノリの匂い。

 化粧品と、香水。何だか甘い香り。

 ノリの腕に、胸に抱きしめられて包まれて、何だかひどく気持ち良くて。

 僕は目を閉じた。

 苦しいくらい強い力だったけど、なんだかそれが心地良かった。

 ふわふわしてなくて、しっかりしてて、意志の力がこもっていて。

「……『世界』が壊れる程、好きになる必要なんて無いのよ」

 ノリが、耳元で優しく言う。

「そんな不器用なやり方、しなくて良いの」

 言い聞かせるような口調で。

「……そんなのはね、ドラマか小説だけの『世界』で十分。……じゃなかったら、本当命が幾つあっても足りないわ。そんなものは必要ないの」

「……だって……!」

「……人を不幸にしかしない『恋愛』なんか、あたしは認めない。……『恋愛』はね、人を幸福にしなくちゃ、意味が無いのよ。互いの他は全て否定しなくちゃならなかったら、人は何故集団で生きるの?自分の、相手の、『最良の存在』を探すため? そんなもんじゃないわ。人を不幸にする『恋愛』は、結局自分自身も不幸にするだけなのよ。そんなものに巻き込まれた方は、本当たまったもんじゃないわ」

「……ノリ……」

「あたしは、自分も人も不幸にするような生き方なんかしたくない。そんなのはごめんよ。冗談じゃないわ。あたしはあたしが一番大切。あたしを不幸にするような生き方なんか絶対しない。あたしは、それで何か大切なものを失っても、絶対やり方変えないわ。あたしじゃなくて、『世界』の方を変えてやる。壊すなんてバカよ。ほんの少し変われば良いの。望む通りの『世界』になるかどうかは、自分次第よ。壊すくらいなら変えてやる。変えてやれば良いのよ。ほんの少しの事で、『世界』は大きく変わるんだから」

「……『世界』を変えるの?」

 僕はびっくりした。

「そんなこと、本当に出来るの?」

「『やる』のよ。……て言うか、本当に世界の方を変える必要ないのよ。自分の見方、考え方よ。あたしは誰かが勝手に決めたルールなんてどうだって良い。あたしのルールはあたしが作るのよ。他の誰にも邪魔させない。我慢なんかしない。あたしはあたしの好きなようにやるわ。あたしの望むままに行動する。……自分勝手なんて言われたって良い。だって後悔だけはしたくないもの。一度しか無い人生なんだから、大いに楽しまないと損よ、損。絶対ね。……サイもね、我慢したりしないでさ、もう、思い切り弾けちゃいなよ?」

「……はじけるって……」

 うぅん。僕、自分では我慢してるつもり、ないんだけどな?

「何も考えなくて良いのよ。心の赴くままに、本能の指し示すままに、自由に生きれば良いのよ。その方がずっと楽。人生苦しむか楽しむかは、本人次第なのよ。あたしはキリギリスで良いわ。いつか何処か道ばたで野垂れ死んでも、それでもアリのように苦労して生きたいとは思わない。自分を燃焼し尽くして、燃え尽きるのなんて最高じゃない。やりたい事はやるわ。我慢なんかできない。そんなものしてたら、それこそ死んじゃう。身体の中がそれでいっぱいになって、溢れて零れてはみ出して。爆発して死んじゃう。それこそ冗談じゃないわ。今を生きるのに精一杯。十年先二十年先の事まで考えてたら、あっと言う間におばあちゃんになっちゃうわ。そんなのイヤ。我が儘でも身勝手でも何でも良い。あたしの人生だもん。あたしの好きにするわ。……だって他の誰も、あたしにはなり得ないのよ? あたしの代わりには誰にもなれないの。だったら、あたしがあたしの為に、あたしの好きな事望む事をするのは、理にかなってるわよね?」

「……うん、そうだね」

「……サイはね、色々余計なこと抱え込みすぎ。もっと楽に生きて良いの。両手でいっぱいものを抱え込んでたら歩くのは大変だけど、ぱっと両手広げて全部放り出したら、両手が空くからいつでも何処でも好きな時間、好きな場所に走っていけるのよ」

「僕は、余計なこと抱え込んでる?」

「……あたしには、そう見えるわ」

 ノリはきっぱり言った。

「サイはね、自分一人ではどうにも処理できそうにないものばかり、抱えてる」

「……自分一人ではどうにも処理できそうにないもの……?」

 ノリは頷いた。

「そうよ」

 怒ったようにも聞こえる口調で。

「誰かの助けが欲しい時は『助けて』って言えば良いのよ。一人で悩んだって絶対答えなんか出ないんだから。誰かに何か本当にされる必要は無いけど、『共有』する事で、痛みは哀しみは、傷は癒せるわ。自分一人で考え出した『考え』なんて奴は、大抵ろくでもないって決まってんだから」

「僕は助けなんて欲しいと思ってないよ?」

 言うと、ノリは淋しそうに笑った。

「だって僕は十分幸せだから」

 今の幸せが壊れるのはイヤだ。

 『今』の暖かさが消えてしまうのはイヤだ。

 僕はもう、何も失くしたくない。

 これ以上、何かを誰かを失うのはもうイヤなんだ。

「ノリが傍にいてくれれば、良いよ」

「……サイ……」

「僕はノリがとても好きだし、一緒にいて楽しいと思うし。僕は十分に幸せだよ?」

 これ以上のものなんて、今以上のものなんて、何もいらない。

 いらないよ。

 変わってしまうのは恐い。

 物凄く恐い。

 変わってしまったら、何がどうなるのか判らない。

 判らないのは困る。困るし、恐いんだ。

 僕は日溜まりの中にいる。

 微睡みの中。優しい光の中にいる。

 僕はとても幸せだ。

 とてもとても幸せだ。

 ……だから、この場所から何処かへ行くだなんて、本当に恐いんだ。

 何処かへ行ってしまうだなんて、本当恐いんだ。

 だって、今の居場所が居心地良いのに。

「……『今』がずっと永遠に続けば良い」

 僕は言った。

「ずっと『今』のまんま、変わらなければ良い。変わりたくないよ。変わらなくて良い。ずっとこのまんまが良いんだ」

「……バカね、サイ」

 ノリが笑った。

「もっと今より、幸せになれば良いのよ。そういうことなの」

「……今より、幸せ?」

 きょとん、として言うと、ノリは困ったように笑った。

「『変わる』事は恐くないわ。なんだって誰だって変わるのよ。変化は止められない。誰にも何にも止められない。『今』より良い方に変われば良いのよ。『今』より良い方に変わろうとすれば良いの。……それだけで、違うんだから」

「……出来るかな?」

「出来るわよ。自分がそう望み、そうしようと思う限りは。諦めなければ何だって出来るわ。時間は掛かるかも知れないけど、それは絶対よ。諦めた時がいつだって『終わり』なの。諦めない限りは、時間は『未来』へと続いていくんだから」

 どうだろう?

 僕はそう思えるかな?

 ……何か、ノリみたいには思えない気がするな。

 ノリみたいな考え方って出来ない気がする。

「……難しいよ」

 言うと、ノリは笑った。

「大丈夫。あたしがついているから」

 何の根拠も理由も意味もない台詞。

 でも、ノリが言うと、『絶対』に聞こえるんだ。

 ノリは凄い。

 本当凄い。

 ……何の脈絡もない、訳の判らない言葉でも、僕はいつも安心するんだ。

 何だか良く判らない理由と根拠で。

 何だか圧倒的に納得させられるんだ。

 意味も理由も判らないけど。

 判らない事とか、共感できない部分はあるけど。

「ノリは凄いね?」

 そう言ったら、ノリは苦笑した。

「本当に凄いのはサイよ」

「……僕?」

 僕は目を見開いた。

「でも、あたしはサイを救いたいのよ。サイを幸せにしたいの。……だって、サイはあたしに暖かさをくれたんだもの」

「……僕は……僕は、何もしてないよ……?」

 何も出来てない。

 僕は誰の何の役にも立ててない。

 ……それに僕を救いたいだって?

 何故?

 ……僕は幸せなのに。物凄く幸せなのに。

「……サイは、本当猫みたいだね」

 ぽつり、とノリが言った。

「背中撫でてても、いつも身を縮み込ませて、ぶるぶる震えてる。リラックスしてるように見えても警戒してて、ちょっと足を踏み込むとすぐ逃げ去ってしまう。恐がりで、臆病で、そのくせひどく飢えてる」

「……ノリ?」

「あたしはサイが好きなのよ」

 そう言ってノリは僕の頭をそっと撫でる。

「あたしはサイが大好きなの。……だから、サイを傷付けるもの、傷付けようとするもの全部ムカつくし嫌いだし、凄くイヤだし。あたしは我慢しない性格だから、排除できるものは全部排除してやるけど。……でも、どうしても踏み込めない部分があるのよ。それがひどく悔しい。あたしに何も出来ないなんて絶対悔しい。……あたしはサイが好きで、幸せになって欲しいだけなのよ。幸せになってよ? サイ。誰よりも何よりも、幸せになろうよ、ねえ。幸せになるのなんて簡単だよ。自分が幸せだって思うだけで良いの。痛みなんか後生大事に抱えてる必要ないのよ。苦しい事は忘れて良いの。悲しい事は忘れなさいよ。誰にも何にも文句なんて言わせないわ。サイは十分に苦しんでる。もう、解放されたって良いのよ。自由になって良いの。自分の為に生きれば良いのよ。自分の事だけ考えれば良いのよ。他の誰かなんてどうだって良いわよ! あたしは、サイが幸せなら、それ以外の誰が不幸になろうが全然構わないもの!!」

 力強く、ノリは言った。

「……僕は十分幸せだよ?」

 そう言ったら、ノリは何だか泣きそうな顔になった。

「僕は本当に幸せだよ?」

 ノリは僕の肩先に、顔を埋めた。

「僕は本当に幸せなんだ。本当だよ?」

 ノリはぎゅうぅっと僕を強く抱きしめた。

「雨の日も、風の日も、ノリがいてくれるから、僕は本当幸せだよ?」

 僕が好きなのは日溜まりの中。

 本当は晴れている方が好きだけど。

 雨の日も、風の日も、一人じゃないから。

 ……雨風の日に、一人でいるのはとても恐い。

 物凄く恐い。

 だけど、僕は一人じゃないから。

 全然一人じゃないから。

 だから、とてもとても、幸せなんだよ?

「僕は本当幸せなんだ」

 そう、言ったら。

「……本当……バカね」

 泣き声みたいな掠れた声で、ノリが言った。


「あれ? 篠原?」

 ロビーにノリと並んで座ってたら、頭に包帯巻いた杉原先輩が現れた。右腕や顔にもガーゼが付いてる。

「どうした? 何処か具合でも悪いのか? 何で?」

 と、心配そうに駆け寄って来てくれた。

「あ、いや。そうじゃなくて」

 杉原先輩は慌てたように僕の額に手を当てて。

「……熱はないな?」

「そうじゃなくて、先輩が怪我したって言うから」

 杉原先輩は目を見開いた。

「先輩、痛くない?」

 そう聞いたら、ほころぶようにぱあっと鮮やかな笑顔で、杉原先輩は笑った。

「俺は平気」

 子供みたいな笑顔で。

 顔をくしゃくしゃにして。

 うん、凄く好きだなぁ。この顔。

 滅多に見られないけど。

 凄く嬉しそうで楽しそう。可愛い。

「……それより……」

 ちらり、とノリの方を見た。

「……あれ、どうした?」

 小声で真顔になって、僕に聞いた。

 ノリは少しやつれた顔してぐっすりと眠り込んでる。

「疲れてるんだよ」

 僕は言った。

「……ふうん?」

 眼鏡のフレームを押し上げながら、先輩は言った。

 つまらなそうな顔で。

「それより、いつ来たんだ?」

「放課後、すぐに。……ずっとここにいたよ」

「そうか。……そりゃ悪かったな。……何かこっちの……病院の方で何か不手際かあったみたいで……手術とか治療そのものはすぐ終わったし、その後の検査なんかも順調だったんだけど……その後で妙に待たされて」

「手術って何かしたの!?」

 びっくりして言うと、先輩はくすりと笑った。

「いや、そんな麻酔かけて手術室へ行ったりするような代物じゃなくて、頭を三針ばかり縫っただけだよ。ほんの数十分で済む奴だ」

「本当に痛くない? 痛いでしょう?」

「平気。全然平気。大袈裟に騒ぐ事無い」

 ぶっきらぼうにそう言って。またフレームに触れた。

 眼鏡のレンズが、蛍光灯の明かりで、一瞬きらりと反射した。

 眩しくて僕は目を細めた。

「……え?」

 不思議そうに、先輩は僕を見つめた。

「あ、その……眩しかったから」

「あ、すまん。……眼鏡か」

 そう言って、外した。

「え? 先輩大丈夫?」

「……いや、俺は大丈夫だけど」

 そう言って苦笑した。

「眼鏡無いと顔ぼやけるけど、ま、いいさ。眩しいよりはな」

「ごめん、そういうつもりで言ったんじゃないんだ」

「良いよ。どうせ今、必要ないし」

 そう言って唇歪めて笑った。

 ……眼鏡のない先輩の顔は、何だか不思議な感じだ。

 知ってる人なのに、知らない人みたい。

 何だか不思議だ。

 何となく物足りないような、何処か遠い人みたいな、誰だか知らない人みたいな、だけど何処か既視感。

「……あんまり人の顔、じろじろ見るなよ?」

「あ、ごめん。先輩」

 そう言ったら、先輩はふっと柔らかく笑った。

 唇に淡い笑みを浮かべて。

 目がひどく優しく笑った。

 なんだかそれがびっくりして、ひどく印象的で、僕はまじまじと見つめてしまった。

 そうしたら、先輩が困ったように目線逸らした。

「……だから、見るなって」

「……ごめんなさい……」

 僕はしゅんとして言った。

 悪気、ないんだけどなぁ。

 悪気ないだけじゃ駄目かな。

 何となく見たかったんだ。

 でも見たら困るんだよね?

 困るのはいやだよね?

 困られるのは凄くいやだよね?

 僕は先輩を困らせる気はないのに。

 先輩はぷっと吹き出した。

 ……びっくりした。

「え? 何?」

「……何か、飲み物買って来る。篠原、何飲みたい? 奢るぞ?」

「え? ……飲み物? ……え……ええと……そしたら、ココア。良いの? 先輩」

「俺が買ってやるって言ってんだ。良いもクソも無いだろ? 有り難く先輩の言う事は聞いておけ」

「でも、先輩怪我してるのに」

「怪我はもうどうでも良いんだよ。……じゃあ、ココアだな。ちょっと待ってろ。すぐ戻るから」

「うん。有り難う、先輩」

 笑って、先輩は自販機コーナーの方へ歩いて行った。

 そういえば…………ノリは、先輩が『恋愛』なんだって……。

 僕は先輩の背中を見送った。

 ……良く判らない。

 先輩が何をどう思ってるかなんて、良く判らない。

 先輩は優しい。

 ぶっきらぼうで冷たいけど、でもちゃんと優しい。

 突き放すような言い方するけど、暖かい。

 目が悪いのに、眼鏡外したりするし。って……眼鏡!?

「先輩!! 眼鏡してないけど平気!?」

 そう大声で叫んだら、先輩はカップ取り出し口の処でごつん、と勢い良く頭ぶつけた。

 ……うわ、痛そう。

 慌てて駆け寄る。

「大丈夫!?先輩!!ねぇ大丈夫!?」

「……っ……し……のはら……っ」

「え? 何? どうしたの? ねぇ大丈夫? 先輩!!」

「……お前の大声に、驚いた……」

「へ?」

 僕は目を丸くした。

「……何かと思うだろう? いきなり素っ頓狂な声で叫んで。……動揺しただろうが、思わず」

 そう言って、涙滲みかけた目で、僕を軽く睨んだ。

「ええっ!? 僕のせい!?」

 びっくりした。

「お前な」

 先輩は眉間に皺寄せて、溜息ついた。

「……別に俺はどうもしないから。眼鏡無しなんて家ではしょっちゅうだから、病人か腫れ物みたいに扱うなよ。ほら、ココア。手ェ出せ」

「あ、ごめん……なさい」

 先輩の手からココアのカップ受け取った。

 先輩は隣の自販機で缶コーヒーを選んだ。

 がしゃんと音がして取り出し口に青と緑の缶が転がり落ちる。

 先輩はそれをひょいと拾い上げた。

「……良いか?」

 ぽん、と宙に缶を放り投げた。

 それからたん、と手の平で受け止める。

「これくらいの事は出来るんだ。……従って心配必要無し。……判ったな?」

「……うん、判った」

 僕は頷いた。

 先輩はよしよし、と僕の頭を撫でた。

 ……『恋愛』?

 僕は頭を傾げた。

 やっぱり良く判らない。

 見上げてると、先輩は苦笑した。

「お前、人の顔じろじろ見るの、癖だろ?」

「……違うよ」

 僕は反論した。

「別にそういう訳じゃないよ」

「じゃあ、何?」

 え? 理由?

「……う〜ん……やっぱり、先輩が面白いから、かな?」

 先輩はがっくりした顔した。

「……お前にだけは言われたくない……」

「ええ!? 何で!? 先輩面白い人じゃない!!」

「俺は普通だ。……お前の方がよっぽど……」

 その時、声が割り込んできた。

「やあ、また会ったね」

 僕は振り返った。

 後ろで先輩が、ぴくり、と身じろぎした。

 そこに立っていたのは例のサラリーマン……もとい、外科の先生。なんとか原って人。

「へええ? 偶然だねぇ?」

 僕に笑い掛けてから、彼は後ろの先輩を見た。

 先輩が身を固くした気配がした。

「……何故、篠原を知ってるんですか?」

 挑むような、苛々とした、声で。

 びっくりした。

 先輩の顔を見上げる。

 先輩はぴりぴりした表情で、なんとか原さんを睨んでる。

「そんな恐い顔するなよ? ……僕ら、知り合いなんだよね?」

 そう、僕に言ってくる。

 ……昨日今日会ったばかりの人を『知り合い』って言うだろうか?

 それも、ほんの数十秒声掛けられた人。

「篠原は違うって顔してますよ」

「篠原って言うんだ? さっきは忙しくて名前聞けなかったよね? ……下の名前何て言うの?」

 そしたら、先輩は僕を背中に庇うように、前へ出た。

「あなた、本当ふざけた人ですね?」

 凍るような、苛々した、聞いたこと無いくらい冷たい恐い声で。

「……仕事中でしょ? こんな処で油売ってる暇無いんじゃないですか?」

 冷たく強張った声で。

 僕はびっくりして、途方に暮れて先輩の背中を見上げた。

 いつも猫背がちな背中が、ぴんと真っ直ぐ伸びて、威圧するように大きく見えて。

 先輩より数cmばかり低い身長の、なんとか原さんが苦笑するように、大きく笑った。

「親猫と、子猫……か。いや、猫じゃないかな? それに普通子猫を守るのは母猫だな。うん、うん。……楽しい光景だ」

「楽しいだと!?」

 先輩は激昂した。

 びくり、とした。

 びっくりした。大きな声。

 ロビーに響き渡って、幾人か、驚いたようにこっち見る。

「ふざけるのにも程が無いか!? あんた、本当にそれで医者か!? 分別ある大人かよ!!」

 火山が噴き出すような勢いで、先輩は早口に捲し立て、叫んだ。

 ……恐くて、背中に触れない。

 ぶるぶると、先輩は怒りに震えてる。

 ……知らない人。知らない人みたいだ。

 僕に怒った時だって、こんなには恐くなかった。

 びりびりと空気が震える。

 ……ああ、この感じには覚えがある。

 確か、ウサギ少女を怒鳴った時。

 あの時もこんな感じで……でも……それ以上に……何だか……恐い感じで。

 拳傷付けたりするより、何もしてない今の方が、凄く恐いと思った。

 何故だか凄く恐いと思った。

 先輩は歩み出て、なんとか原さんの白衣の襟元をぐいと掴んだ。

 僕はびっくりして目を丸くした。

「……乱暴だな」

 くすり、となんとか原さんは笑った。

「……さっさと戻れよ。仕事しろ。……あんた、立派な『大人』なんだろ?」

「……そう思うなら、腕を放しなよ? これじゃ何も出来ないだろう?」

 先輩は乱暴に、腕を放した。

 その瞬間、すっと、なんとか原さんの腕が伸びてきた。

「!?」

 びっくりして、僕は両目を大きく見開いた。

 唇に触れる、ひどく温かな柔らかい感触。ぷにぷにした。

 ……それが何か、僕は判ったけど、びっくりして頭が真っ白になった。

 形が良く判らないくらい、間近にある人の顔。

 ちゅっと音を立てて、なんとか原さんの唇が離れていった。

「貴様!!」

 その途端、先輩が激昂した。

 僕が床に下ろされるのとほぼ同時くらいに、先輩がなんとか原さんに殴りかかった。

「!?」

 僕の目の前で、なんとか原さんが吹っ飛ばされる。

 壁際に背中から、物凄い音と共に叩き付けられ、崩れ込んだ彼を、先輩は更に襟元引き掴んで、殴った。

「せっ……先輩!! 先輩!! 駄目だよ!! マズイよ!! マズイったら!!」

 慌てて背中へ飛びついた。

 ぴくり、と小刻みに震えながら、先輩の手が止まった。

 なんとか原さんの唇の端から血が流れてる。

 先輩はぜぇ、ぜぇと息を切らして。

「……先輩……」

 先輩の手の平がゆっくりと開かれていく。

 先輩が完全に腕を離すと、なんとか原さんは緩んでしまったネクタイを気にするように締め直した。

「……恐いんだな?」

 なんとか原さんはにやりと笑った。

 僕はびくびくしていた。何だか恐い。

「……誰のせいだと……っ!!」

 そう言って、拳握り締めて。

「……退散するよ。……これ以上、殴られたくないし」

 そう言って、なんとか原さんは立ち上がった。

「じゃあ……またね」

 そう言って、ひらりと片手上げて、白衣ひるがえして、背中向けた。先輩はぶるぶると震えてる。

「……せ……先輩?」

 何処か、痛いんだろうか? 痛みを堪えるような顔、して。

「……篠原……」

 そう言って、先輩はぎゅうっと僕にしがみついてきた。

「えっ!? 何!? 何なの!? 先輩!! どうしたの!? 何処か痛いの!?」

 僕の肩先、と言うか首筋に顔を埋めるようにして、抱きつく、というよりはしがみつく、って感じで。

 助け求めるように。膝を床に落として。

 呼吸が苦しくなる、寸前くらいの強い力で。

 右肩からと腰からとに腕が回されて、背中の後ろで交差した。

 先輩の背中が、ぶるぶると震えてる。

「……篠原……お前……っ」

 冷たいものが、首筋に触れた。

 びっくりした。

 涙?

「……先輩……?」

 先輩は更にぎゅうっとしがみついてきた。

「……篠原……お前……大丈……夫……?」

「僕は、大丈夫。……大丈夫じゃないの……先輩じゃないか……」

 どうして……泣いてるんだろう?

 痛い……のかな? 何処か。

「先輩、痛いの?」

 先輩は答えない。

 ……僕は困って、仕方ないから、いつもノリがやってくれるみたいに、そっと先輩の頭を撫でた。

 最初、ぴくり、とかしたけど、先輩はそのまま僕に身体を委ねるように、ゆっくりと体重掛けてきた。僕が負担に感じる、ギリギリ一歩手前、まで。

 ……温かい。て言うか、熱い。熱を持ってる。

 先輩の熱が、僕の身体に伝わってくる。

 先輩の熱が、例えば僕の指先から、染み込んで、僕の身体に伝わってくる。

 ぴりぴりと痺れるような、感覚。

 不思議な一体感。

 先輩の髪が、背中が、僕の指を通して伝わってくる。

 硬い、黒髪。

 犬の毛みたい。

 秋田犬。

 短い髪が、僕の手の平からゆっくりと零れる。

 先輩の唇が、吐息が、僕の首の根元近くにある。

 先輩の唇から、小さな呟きが洩れたけど、僕の耳はそれを拾い損ねた。

「……なぁに? 先輩」

 僕は尋ねた。

「……ごめん」

 もう一度、先輩は、さっきよりほんの少し大きい声で、だけど僕にちゃんと聞こえる大きさで、そう言った。

「どうして先輩が謝るの?」

「……だって……俺が一番近くにいた……」

「先輩が謝ること、ないよ」

 先輩の顔がゆっくりと上がる。真顔で、僕の目を見た。

「……篠原は良いのか?」

「……え?」

 僕はきょとんとした。

「……さっきの……あれ……平気……なのか? ……篠原は全然構わないのか? あの……」

「ああ、びっくりするよね? ……っていうか、びっくりした」

 僕が笑うと、先輩は変な顔をした。

 笑うような、悲しむような、困ったような、苦しむような、怒ってるような、とにかく思いつく限りの全ての感情を一つの顔に収めたらこういう感じ。

 苦笑いにも顔をしかめるようにも泣きそうにも見える。

「……『びっくり』って……他に……何か……」

 そう、何か言いかけて。

 ふう、と大きな溜息をついた。

「……そうか、他に無いのか……」

「何が?」

 僕は聞き返した。

「……念のため、聞くけど……篠原はあれ、嬉しかった?」

「え? 何で嬉しいの?」

 僕は目を丸くした。

 先輩は深い溜息をついた。

「じゃあ、俺とああいうのしたらどうだ?」

 つまらなそうな顔で、つまらなそうに言った。

「どうって……先輩……もしかして『したい』の?」

 がっくりした表情になった。

「……俺が……許せないだけなんだな。結局」

「……先輩……?」

「篠原、悪い。ちょっと……」

「え?」

 えっ……ええぇ!?

 僕はびっくりして、固まった。

 先輩は僕の両頬を大きな手の平で包んで、僕の唇に自分の唇を押し付けた。

 すぐ、逃げるように離れたけど。

「…………」

 先輩は真っ赤な顔で、僕から目を逸らしてる。

「……やっぱり……納得行かない……」

 ぼやくように。

「……せ……先輩……?」

 僕は物凄く動揺してた。

 先輩がそういう事するなんて全然思ってもみなかったから、心臓が動揺でばくばくしてる。

 いや、確かにノリはそういう事を言ってたんだけど、でもまさかそれが『今』だなんて、普通思わないじゃないか!

「……こんなのじゃ……意味無いんだ」

 真顔で、先輩は僕を見上げた。

「……先輩……あの……?」

「ごめん。……殴って良いから」

 そう言って、先輩は目を閉じた。

「せ……先輩……なっ……!!」

 僕は動揺してた。

 もう訳判らなくてぐちゃぐちゃだった。

「……殴ってくれ。思い切り。……頼む。……頭、冷やしたいから」

 先輩はそう言った。

「……面白い事言うわね?」

 不機嫌そうな声が降ってきた。

 僕はびっくりして見上げた。

 先輩もぎょっとした顔で振り仰ぐ。

 そこに立っていたのは、寝起きでひどく機嫌の悪そうな顔したノリだった。

「……しっかり見せて貰ったわよ。……どういう事か良く判らないけど、覚悟は出来てんでしょうね?」

「……は……萩原……っ!?」

 先輩の声が裏返った。

「百発百中ぅっ!! はぁぁっ!! 天誅!!」

 ノリの訳判らないかけ声と共に、ひどく形の良い長い脚が、半円形を描いて、杉原先輩の顔面にヒットした。

「がっ!!」

「ぅわ!! ノリ!! 先輩!!」

 先輩の身体は、僕の腕を引きちぎらんばかりの勢いですっ飛んで、そこにあったベンチに背中から激突した。

 ガッとか言う物凄い音がして、先輩が腰から崩れ込んだ。僕は慌てて駆け寄った。

「せっ……先輩!! 大丈夫!? ねぇ、平気!?」

「……ぅっ……!!」

 先輩は眩暈がするのか、額を押さえて、苦しそうに呻いた。

 そのままの格好で動かない。

「……さ、帰るわよ、サイ」

「ノリ!! 先輩が!!」

「大丈夫、大丈夫。死にはしないわよ。ちゃんと手加減したもの。怪我してたってここは病院だから問題ない、問題ない。さ、あんなの放っといて何かおいしいもの食べに行きましょ。ああ、そうだ。先週オープンしたばかりの喫茶店があるのよ。そこ行きましょ!」

「えええっ!? だって先輩がまだっ……!!」

「良いから、良いから。平気、平気。死んでないから」

「ああっ!! 先輩!! ねぇっ!! 大丈夫!? 大丈夫なの!?」

 僕の声にも、先輩は反応しない。

 う、とかあ、とか呻いてるだけだ。

 ノリは僕を抱え上げて、さっさと玄関へ歩いて行く。

「ねぇ!! 先輩が心配だよ!! ねぇ、ノリ!! ちょっと待ってよ!!」

「……あたしはね」

 ノリが不機嫌な声で言った。

「今、寝起きで物凄く機嫌が悪いのよ」

「……ノリ……?」

「杉原の事は心配しなくて良いの。……とにかく放っときなさい」

「ええっ!? だって……!!」

「だってもクソもないの。あたしを冒涜してるとしか思えないわ。売られた喧嘩は買うのが礼儀よ。そんでもって怒りの鉄拳は三倍返し」

「……ノ……ノリ……訳判らないよ?」

「サイ、あの場合殴っても蹴っても良いのよ。女の心情としたらそういうもんよ。叩き殺されたって文句は言えない筈よ。相手がソレを『悪い』と思ってるなら尚更じゃん。そこで甘い顔して許したりしたら、後が質悪いわ。大体、どうかしてるじゃない」

「あの……ね? ノリ……」

「サイは甘いのよ。甘すぎるの。絶対的に。お行儀の悪い犬には厳しくなさい。悪い事したらちゃんと叱るの。じゃなきゃ、自分が何やってるかも良く判らないでしょ? ああいう、良い人ぶって殊勝な顔してとんでもない所業する奴が一番質悪いわ! 謝りさえすれば、許して貰えるとでも思ってるみたい。最っ低ね!! 杉原!!」

「え? ……だから……あの……ノリ……?」

「サイが怒らないからって本当、信じらんない所業ね!! 見損なったわ!!」

「ねぇ、ノリ、聞いてよ……」

「サイ、あんた奴と暫く口利いちゃ駄目よ? 勉強だったら、一人でなさい。その方が集中できるわよ、きっと。……あんな男だとは思わなかった!!」

「ねぇ、ノリ……!!」

「良い? サイ」

 ギッとノリは僕を睨んだ。

「ああいう男に甘い顔しちゃ駄目!!」

「…………」

 ノリの剣幕に、僕は何も言えなかった。

 駐輪場へ連れて行かれた。

「……ノリ、あのね?」

「はい、ヘルメット」

 ヘルメット被せられる。

「さ、とっととまたがって!!」

 僕を後ろに乗せてノリもまたがる。

「話は後でゆっくり聞くから。……取り敢えずは、移動」

 有無を言わせない口調、だった。



── 第四章 前編 終 (後編へ続く) ──

前後編に分割します。

申し訳ありません。

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