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  作者: 深水晶
3/16

第三章 空が青い理由

 僕は机の上でうたた寝している。

 窓際の席だからとても気持ち良い。

 夏は暑くて嫌い。

 秋の日差しは柔らかくて良い。

 冬の小春日和はもっと好き。

 寒いの嫌い。

 だけど暖房は好き。

 空は青い方が良い。

 天気が良いに越した事はない。

 ぽかぽかとした日差し浴びながら僕はうとうとする。

 微睡むのは好きだ。

 眠りそうで眠らない、こういう瞬間が一番好き。

 眠いのだけど、寝たいのだけど、もう少しこの微睡みを味わっていたい。

 それは大好きなデザートを一番最後に残す気分に似ている。

 気持ちが良いのは好き。

 大好き。

 とろとろ、うとうとと僕は机の上で首を前後に振っている。

「……眠いなら寝れば? 昼休みだし」

 有り難いノリの申し出。

 嬉しいけど、僕はもうしばらくこの状況を楽しみたいから、うとうとと頭を揺らす。

「……本当、あんたって見てて退屈しないわね」

 どういう意味?

 微睡みながら、半分瞑った目で、ノリを見た。

「……猫みたい」

 猫。

 僕は飼った事無い。

 ノリの家では猫を飼っている。

 正確には飼ってるわけじゃない。

 その猫は半分ノラで、ノリの家には食事時しか立ち寄らない。

 ねぐらはどこか別にあるらしい。

『いつまで経ってもエサが欲しい時以外は馴れ合おうとしないんだよ。警戒心が強いんだ』

 とノリは言った。

 ……警戒心?

 それって何?

 意味は知ってるけど、僕には良く判らない。

 エサが欲しいからその為に媚びる。

 そこまでは判る。

 だけど、警戒してるから触らせない。

 その辺が良く判らない。

 触られるのは気持ち良いのに。

 髪とか背中とか撫でられると、ものすごく気持ち良いのに。

 どうしてだろう?

 一人じゃ淋しくないのかな? 猫。

 ……そう言えば昔、何かテレビで、犬は集団で生活し、猫は単独で生活するって言ってたっけ。

 猫は一人でも平気なのかな?

 どうして平気なんだろう?

 独りは淋しいのに。

 独りはつまらないのに。

 僕は独りでいたくない。

 独りはいやだ。

 今はノリがいてくれる。

 だから幸せ。

 とても幸せ。

 すごく幸せ。

 僕はうとうととしながら、ノリに言う。

「大好きだよ」

「……あ〜、はいはい。良いから寝なさい。時間になったら起こしたげるから。あんた放っとくと、休み時間に寝ないで授業中に寝るんだもん」

 僕は抗議したけど、口が上手く回らなくて、声にならなかった。

 そんなんじゃないよ。

 眠いけど寝ないのが気持ち良いんだ。

 ノリは経験ないのかな?

 起きてるのと寝てるのの境目辺りが良いんだ。

 凄く気持ち良い。

 とても気持ち良いから、僕はいつまでもこの日溜まりの中にいる。

 ずっとこのままでいれたら良いのに。

 ずっと眠ってるのと起きてるのの中間辺りにいられたら良いのに。

 ……だってその方がずっと気持ち良いんだ。



「……篠原、進路何か決まったか?」

 担任の原。

 ……本当は先生の事呼び捨てにするくせなかったんだけど、ノリにつられて最近呼び捨て。

 何だかその方が自然な感じ。

「まだです」

「……まだですって……あのなぁ、篠原」

 呻くように原は言った。

「……何でも良いから無いのか? お前来年三年なんだぞ? 今から目標決めておかないと、苦労するのは自分だぞ?」

「でも判らないので」

「……判らないって……篠原……」

「大丈夫。心配しなくても平気です」

「……篠原……お前絶対後悔するぞ?」

 僕は原をまじまじと見た。

 この人、どうやら本気でそう思ってるらしい。

「本人が大丈夫って言ってるんですから、もう良いじゃないですか」

 僕が至極真面目に言ったのに、原はぽっかり間抜けみたいに口を開けて固まった。

 僕は眉をひそめる。

「先生の気にする事じゃないですから結構です」

 そう言って背を向けた。

「篠原!!」

 慌てたような原の声。

 面倒臭いけど振り返る。

「……篠原、あまり自棄(やけ)になるなよ?」

 きょとんとした。

 意味が判らない。

「は?」

「……その、色々と大変だろうが、あまり自棄になるな。人生は一度きりなんだぞ?」

 どうも、何かものすごく勘違いされてるようだ。

 僕は困った。

 ……この人しかも、真顔で本気っぽいし。

 どうかしてる。参ったな。

「自棄になってませんよ。じゃあ」

 焼け石に水、な気がした。

 僕はさっさと歩き出す。

 原は更に追い掛けようとしたらしいが、諦めてくれたらしい。

 良かった。

 煩わしい事はあまり好きじゃない。

 さて、何処へ行こうか?

 最近屋上はあまり行かない。

 ええとこの前会った……何だっけ?

 名前忘れた。

 何か僕の歌がどうとか言う人。

 あの人に出会う確率多いから、ノリと一緒の時以外行ってない。

 大体最近、屋上よりも教室の自分の席のが気持ち良い。

 ノリはバイトで早々に帰った。

 僕はまだ帰りたくない。

 家に帰りたくないわけじゃない。

 しばらくぶらぶら何をするでもなしにぼうっとするのが好きなだけ。

 普通教室と特別教室を結ぶ渡り廊下を、何の気なしに歩いていたら、人がいた。

 窓枠に腰掛けて寄り掛かって、文庫本を読んでる。

 眼鏡掛けた男の人。

 右足を立てて、左足をぶらんと窓の外へ放り出してる。

 どうしてそんな処で読んでるんだろう?

 不思議に思った。

 その人の身体は大きくて、窓枠一杯にぎゅうぎゅうに詰め込まれてる。

 窮屈そうに身を屈めて、右手に本を持ち、左手でページをめくってる。

 眉間に皺寄せて、一心不乱に読んでいる。

 ……変な人。

 僕が立ち去ろうと、足を階段へ向け掛けた時、その人が顔を上げた。

「!?」

 ぱさりと本が落ちた。

 廊下に。

 ぎょっとしたように、その人は立ち上がろうとして、窓枠にがつんと頭ぶつけた。

 ……痛そう。

「……大丈夫ですか?」

 大丈夫なわけないけど、一応声掛けてみる。

 その人はぶつけたトコを撫でさすり、呻きながら顔を上げる。

「……びっ……くりしたっ……!!」

「?」

 きょとん、とした。尖った視線を向けられる。

「……何でこんな処にいるの?」

 それはこっちの台詞だ。

 廊下歩いてるより、窓枠一杯に身体押し込める方がずっと変人で奇異だ。

 僕はその人の顔をまじまじと見た。

 その人はぎょっとしたように目を見開き、軽く眉をひそめ、それから僕を観察するように見つめた。

 無言のまま互いに互いを観察する。

 眼鏡の人はひょろひょろとしている。

 何だか栄養不良で背ばかり伸びたって感じだ。

 腕も下手すると僕より細そうだ。

 僕の腕の長さより1・5倍はありそうだ。

 大きな手の平。

 色は白い方。

 眼鏡を掛けた目は神経質そう。

 鼻梁が高い。

 顎が細い。

 唇が薄い。

 睫毛が結構長い。

「……何なの?」

 少し怒ったように、その人は言った。

 僕は意味が判らず、きょとんとした。

「君は一体何なわけ? どうしてこんな放課後誰もいない通路を利用目的も無い方角へ向かって歩いてる?」

 その人の口調は神経質的だった。

 早口で捲し立てる。詰問するように。

「理由がないといけないんですか?」

 組章から一年上と判った。

 3−A。

 国立文系クラス。

「……別に」

 眼鏡の人は僕から目を逸らし、ふんと鼻を鳴らして目を背けた。そして落ちていた本を拾う。

「もう五時になる。帰ったら?」

 そう言い捨てて、その人は立ち去った。

 良く判らない人だ。

 受験生で国立クラスだったら、そっちの方が早く家へ帰って勉強でもしてないと駄目じゃないか。

 思って、ふと、そう言えば三年生は既に午前中で授業終わってるのに気付いた。

 ……何なんだろう? あの人。

 絶対変。

 あの人がこんなところにいる事の方がおかしいじゃないか。

 それにしても今まで何処にいたんだろう?

 午後からの授業でこの特別棟も利用されるのに。

「……ま、いっか」

 僕は歩き始めた。



 今日は花を買って病院へ行った。

 フラワーアレンジメント。

 店の人がしきりに薦めるから「じゃあそれお願いします」と言った。

 緑のスポンジに不自然に突き立てられ造形された奇妙なオブジェ。

 会心の出来、と言わんばかりの表情だったけど、芸術を理解できない僕には良く判らない代物だった。

 ノリがいたら、きっともっと公正に評価できただろう。

 店員の人が可哀相になった。

 客である僕に、真っ当な評価して貰えない、努力が空回りしてる元気で明るい女の人。

 嫌いじゃないけど、好きにもなれそうになかった。

 悪いけど。

 ……たぶんもう二度とあの花屋へは行かない。

 母さんは今日も父さんとたわいのない会話を交わしてる。

 僕には見えない父さんと。

 もう四年も前に死んだ筈の父さんに。


 交通事故で父さんは死んだ。

 助手席に僕を乗せて。その日は大雨で、父さんが僕を学校まで送ってくれると言った。

 会社行く途中だから平気だ、と言って。

 僕はその時断れば良かったんだろう。

 だけど僕は、本当ひどい雨で、こんな日に歩いて行くのはいやだな、と思ったから。

 だから父さんの車に乗せて貰った。

『酷い雨だな。視界が悪い』

 しきりに動くワイパーの向こうを見ながら、父さんは言った。

『ひどい雨だね』

 僕は本当にそう思いながら、答えた。

 父さんは右折する為に車の流れを見ていた。

 右折信号が出て、向こうからくる車の列も途切れて、父さんはハンドルを切り始めた。

 その時だった。

 向こう側から、反対車線を逆走行して直進してきた大型トラックが、ものすごいスピードで突っ込んで来たのは。

『危ない!!』

 本当なら、助手席に座っていた僕の方が危なかった。

 だけど、父さんは反射的にハンドルを左へ切った。

 車は悲鳴を上げてぐるりと回転した。

 ブレーキの音が響き渡り、僕は思わず悲鳴を上げた。

 衝撃が来て、身体が浮く。

 シートベルトに締め付けられて、僕は一瞬息が止まりそうになった。

 車体が変形し、僕は眩暈と耳鳴りに襲われた。

 灼熱のような痛みと、シートベルトが締め付ける痛みと。

 車が止まったのを確認して、ゆっくりとシートベルトをまさぐった。

 早くこの呪縛を解きたかった。

 何故だか瞼が開かない。

 手探りでシートベルトを外し、それから身体を楽にしようと身をよじった。

 ぽたりと滴り落ちた雫。

 僕は顔を拭った。

 ぽたぽたと落ちる。額からだ。

 そっと手を伸ばし、そこに何か尖った痛い物が刺さっているのに気付いた。

 指先を切って、僕は脅えた。

『とっ……父さん……?』

 声が、震えた。

 何か刺さって血が出てる。

 僕はすごく恐かった。

『父さん!! 父さん!! 父さん!!』

 悲鳴を上げた。

 パニックに陥った。

 父さんは呻き声を上げるだけで、僕に返事を返さない。

 不安。

 強烈な不安。

 ものすごく恐くて。

『父さん!! 助けて父さん!!』

 結局、僕を助けて車から出してくれたのはまるで知らない人だった。

 僕は救急車に乗せられて、病院へ連れて行かれた。

 僕が父さんの死を知ったのは、父さんが実際亡くなって、五日ばかり経ってからだった。

 当時の状況が見えなくて良かった、と他人に言われた。

 ものすごく悲惨な状況だったと言われた。

 そんなものは見てみないとどんなものか判らない。

 状況的には、死ぬのは僕だった。

 父さんは僕を庇って死んだのだと聞かされた。

 僕を守るために、自分の危険を省みず、一度右へ切ったハンドルを左へ急旋回させた、と。

 僕は父さんの死に顔を見なかった。

 空の箱で葬式をし、お骨だけが後で病院から来た。

 母さんはしばらく放心状態だった。

 僕にも誰にも何も言わなかった。

 ただ泣き崩れて放心していた。

 毎日毎日泣いていた。

 僕達を心配して、祖父ちゃんと祖母ちゃんが来て同居する事になった。

 その頃はまだ、祖父ちゃんは働いていて、毎日母さんや僕の面倒を見てくれるのは祖母ちゃんだった。

 優しかった祖母ちゃん。

 ある日風邪で寝込んで肺炎になり、即入院してそのまま死んでしまった。

 母さんは僕を抱きしめて『浩之さん!!』と呼んだ。

 僕は驚いた。

 ものすごく驚いた。

『違うよ!! 母さん!! 僕は彩花だよ!! 彩花なんだよ!!』

 思わず母さんを突き飛ばした。

 母さんは信じられないものを見る目で僕を見た。

 その日以来、母さんの目には僕が映らなくなった。

 僕はとても後悔した。

 物凄く後悔した。

 だけど母さんは僕を見ない。

 今も見ない。

 母さんは僕が見るものと違うものを見て、僕の知らない世界にいる。

 僕には良く判らない世界。


 人は死ぬ。

 いとも簡単にあっけなく死ぬ。

 だけど僕の経験から言わせて貰えれば、人間はそう簡単には死なない。

 ちょっとした事くらいじゃ死んだりしない。

 あっさり死ぬのも、しぶとく生きるのも、本当の事で間違いないはずなのだけど、僕には実のところ、その違いというやつが判らない。

 何が人を殺し、何が人を生かすのか。

 僕にはまだそこのところが理解できない。

 まだ判らない。

 僕が存在する理由、僕が生きている理由。

 母さんに僕が見えない理由、母さんに父さんが見える理由。

 この世の中には判らない事だらけだ。

 一つだけ言えるのは、僕は僕自身が生きている事を好きだと思うって事だ。

 生きて存在するのはとても楽しい。

 だから僕は確認する。自分が生きている事を認識したくて、確認したくて、カッターナイフで傷を付ける。

 痛いのはあまり好きじゃないからほんのちょっぴり。

 淡い痛みが僕を刺激し、僕に僕を知覚させる。

 僕が僕を認識する。

 僕はとても幸せだ。

 母さんは僕を見ないけど、母さんに僕は見えないけど、それでも大好きな母さんの笑顔を見られる僕は幸せだ。

 本当は父さんの顔も見たいけど、それは仕方ないから我慢する。

 僕は幸せだ。

 とてもとても幸せだ。

 生きている事が楽しい。

 生きているのが嬉しい。

 だからとても幸せだ。

 僕は父さんと話し続ける母さんを残し、「さよなら」と告げて部屋を出た。

 母さんは僕を見ない。

 楽しそうに笑っている。

 僕はそっと笑った。

「また来るよ」

 あなたが僕を認識しなくても。

 それでも僕は存在するから。

 存在し続けるから。

 だからきっと生きてる限り、また来るよ。

 僕はそっと扉を閉めた。



 病院の表玄関へと向かう途中、ロビーの椅子にうずくまるように窮屈そうに身を縮めている見覚えのある姿を見つけた。

 今日ついさっき見たばかりの白いシャツ。

 何か苦痛を堪えるように腹を折って、眉間に皺寄せ指で押さえてる。

 本は読んでない。

 何してるんだろう?

 考える人?

 ポーズ的に似てない事もないけど、たぶん普通はこんなところでそんな事しないよね?

杉原(すぎはら)さん」

 という声で眼鏡の人は立ち上がり、精算所で精算して、薬の袋を受け取った。

 彼が振り返ったところで、僕としっかり目が合った。

「……何してるんだ?」

 眉間に皺を寄せて、神経質そうな口調で、睨むように僕を見た。

「見舞い」

「じゃあロビーは関係ないだろ。さっさと行け」

「終わった」

「じゃあ帰れ」

「……何怒ってるの?」

 疑問に思ったから、そう聞いた。

「うるさい!」

 苛々と怒鳴り散らす。

 僕は肩をすくめた。

 くるりと方向転換して、玄関へと向かう。

「……待てよ」

 僕は振り返った。

「……お前、つけ回してるのか?」

 きょとんとした。

「違うよ」

 言うと、眼鏡の人は顔をしかめ、それでも

「そうか」

 と言ったきり、黙り込んだ。

 用件はそれだけなんだろう。

 僕はまた玄関へと向かった。

 後ろから人の歩いてくる音が聞こえる。

 そっと振り返ると、眼鏡の人だった。

 人の事つけ回してるとか言って、そっちの方がそれみたいじゃないか。

 と思ったけど、良く考えればさっき精算して薬貰ってたから、後は帰るだけなんだろう。

 行き先がたまたま同じなだけだ。

 僕は病院前のバス停へと向かった。

 バス停で立ち止まると、後ろから付いてきていた眼鏡の人が、舌打ちをした。

 見ると、どうやら眼鏡の人もバスに乗るらしかった。

 僕と距離を置いた、病院の塀に寄り掛かって、腕組みをしている。

 眼鏡が()の光で反射してる。

 神経質そうな指が、その眉間辺りを押さえている。

 眉間を押さえるのは彼の癖なのだろうと思った。

 違ってても似たようなものだ。

 本当に白い顔だな、と思った。

 病気してるみたいに青白い。

 シャツの中で身体が泳いでる感じだ。

 僕よりずっと背が高いのに、僕よりずっと華奢な気がする。

 神経質そうな目が、僕を見た。

「……人を観察するのが趣味なのか?」

 うんざりしたような声で、眼鏡の人は言った。

「ううん。面白い人だから」

「は!?」

 眼鏡の人は目を見開いた。

 何を言われたか判らないって顔だ。

 だから僕は補足する。

「面白い趣味の人だなって思ったから。後はたまたま視界に入ったから。特に意味はない。いなかったらわざわざ見ない」

「……それはどういう意味だ?」

 胡乱げな目で眼鏡の人は言った。

「わざわざ探してまでは見ない。だから安心して良い」

 カッとその白い顔が朱に染まった。

「安心して良いだと!? 何考えてるんだ!! お前!!」

 激昂した。

 首筋まで赤くなる。

 ……リトマス紙みたいだ。

 その激変にびっくりした。

 目がぎらぎらと光っている。

「……気に触るなら見ないよ」

「そういう問題か!?」

 耳元で怒鳴られる。

 ……うるさい。

「……何怒ってるの?」

「これが怒らずにいられるか!! お前一体何考えてるんだ!! どういう教育受けてる!? 人の顔はじろじろ見るなと教わらなかったのか!?」

 僕だって人の顔をじろじろ見る習慣なんてない。

 でも窓枠にはまってるおかしな人がいたら、そりゃ顔くらい見るだろう。

 病院で会ったのはたまたまだし。

 この人どうしてこんなに怒るんだろう?

 わけ判らない。

「今度付きまとったら本当ただじゃおかないからな!!」

 どうもこの人、被害者妄想が激しいらしい。

 僕が何をしたって言うんだろう?

 良く判らない。

 この人、一体何なんだろう?

 理解できない。

「判ったのか!?」

「……付きまとってなんかないよ。ここには母さんがいるから毎日来てるだけだし、学校が同じだから校内で会う事もあるかも知れない。僕はいつも通りに行動しただけで、そっちがたまたま僕の行動に重なっただけで、文句は言われたくないよ」

 言うと、一瞬眼鏡の人は青ざめ、かぁっと赤面した。

 ……本当リトマス紙だ。

「……そっ……そうか……そりゃ……悪かった。てっきり……」

「……?」

「……いや、何でもない」

 首を振った。

 良く判らない。

 この人。

 急に怒りだしたり、謝ったり。

「俺の、勘違いだった。すまない」

 ぺこり、と頭を下げられた。

「別に気にしてないけど」

 言うと、怪訝な顔された。

「……お前、変わった奴だな?」

 ふと気付いた、って口調で。

 失礼な。

「そっちの方が変わってるよ」

 僕は答えた。

「……お前、 何て言うの?」

「へ?」

 きょとんとした。

「名前」

 不躾な人だ。僕はじいっと見上げた。

「俺、杉原克明(すぎはらかつあき)。そっちは?」

「……篠原彩花」

「篠原彩花ぁ!?」

 素っ頓狂な声を上げられ、僕は思わず耳を塞いだ。

「あの有名な二年か!! ……って事は年下じゃないか!! 確かに年下ぽい顔はしてるけど!! 年下だったらちゃんと敬語使え!! 敬語!! 目上の人間には敬語を使えよ!!」

 ムキになって年上を主張する。

「……今更使うの?」

 不思議に思って訊くと、がっくり肩を落とし、大きく溜息をつき、それからどっかとベンチに座った。

「……それもそうだな」

 呆れたように言った。

 ……面白い人だ。

 眼鏡、いやもとい杉原先輩。

「……ああ、そうだ。今日の事は誰にも言うなよ?」

「……え?」

「口外無用。良いな」

「判った」

 その時、丁度バスが向こうからやって来るのが見えた。

 同時に歩を進め、杉原先輩は僕をうんざりしたように見た。

「乗るバスまで一緒か? 念の為確認するけど降りるバス停は違うだろうな?」

 そこまで同じではなかった。

 彼はそれを聞いて安心したような顔になった。

「……それなら良い」

 嬉しそうな顔までした。

 ……良く判らない人だ。ますます思った。


 翌朝。

 生徒玄関の靴箱で、僕は内履きがない事に気付いた。

 あれ?

 おかしいな。

 間違えただろうか。

 そう思ってもう一度靴箱を確認する。

 ……合ってる。

 僕の指定の靴箱だ。

 不思議。

 家へ持って帰った覚えはないし。

 腑に落ちないけど、取り敢えず僕は靴を靴箱に入れ、来客用スリッパを履いてぺたぺたと教室へ向かった。

 窓際の机。

 僕の座る机が真っ赤だった。

「?」

 触ってみる。

 ねっとりした。

 絵の具。

 ……いやペンキ?

 それはマズイ。

 僕は慌てて洗い場へ行って手を洗う。

 ペンキは流れ落ちていった。

 良かった。

 ……あれ?

 でも。

 どうして机にペンキが?

 不思議に思いつつ、もう一度教室へ行く。

 やっぱり赤い。

 僕の机だけが赤い。

 赤いペンキが、机のパイプや椅子にまで点々とついている。

 今なら擦ったら取れるかも知れない。

 ……だけどそれは随分重労働だな。

 多少机が赤くたって取り敢えず椅子が綺麗なら別に良いや。

 そう思って、ロッカーから雑巾を出して椅子だけきれいにした。

 これでよしっと。

 そこで顔を正面に向け、びっくりした。

 黒板にでかでかと『篠原彩花はウリをやっている』とチョークで書かれている。

 何だろう。

 これ。

 判らないけど取り敢えず黒板消しで消した。

 ……こんな日もあるんだなぁ。

 ちょっと感心した。

 こんなにいろんな事あると、次に何が起こるんだろうって思うよね?

 取り敢えず机はまだ乾いてないから椅子だけ引き出した。

 座ろうと思って。

 ……あれ?

 きょとんとした。

 机の中が空だ。

 確か重い辞書とか入れてあった筈なのに。

 がらんとしてる。

 おかしいな、と思って僕は教室中探してみた。

 人の机の中まで見た。

 何処にもなかった。

 ……何だか変だなって思った。

 僕は持ち帰った覚えはないし。

 誰か持ってっちゃったんだろうか?

 でもどうしてそんな事するんだろう?

 判らない。

「ばぁーかっ」

 廊下から女の子の声が聞こえた。

 びっくりした。

 人がいたんだ。

 でも振り向いたらもういなかった。

 何なんだろう?

 これって一体何だろう?

 僕の心は疑問符で一杯になった。



「あんたバッカじゃない!?」

 ノリが耳元で怒鳴った。

 僕は慌てて耳を塞ぐ。

「……声が大きすぎるよ、ノリ」

「バカだからバカっつってんのよ!! そりゃ誰がどう考えてもイジメじゃない!! 厭がらせに決まってんでしょ!? ボケかましてんじゃないわよ!! あたしのサイに手ェ出そうなんて百五十億年早いのよっ!! 生まれてきた事を後悔させてやるわっ!!」

 ノリは顔を真っ赤にして激昂した。

 その声に教室中がぎょっとしたように振り向いた。

「……イジメなの? それ」

「ここで気付かないあんたって本当ボケね!! 抜け作よ!! まあそれがあんたのイイトコでもあるからここでそれを今更あげつらったりしないけど!! それで犯人の顔見た訳!?」

「……犯人?」

「バカ!! その廊下で罵声浴びせてった奴が犯人に決まってんじゃない!! 見たの!?  見てないの!? 背格好は覚えてない!? 知ってる顔だった!? 知らない奴!? 見つけだし次第、捕まえてとっちめて二度とこの萩原典香様に喧嘩売れないようにしてやるわ!!」

「って言われても……僕は背中も見てない」

「だぁーっっ!! どうしてあんたはそう肝心なトコが抜けてんのっ!! あたしがその場にいたら即とっ捕まえてふんじばってぐうの音も言えないくらいにしてやったのにっ!!」

 ノリは地団駄踏んで悔しがった。

「……何でそんなに悔しがるの?」

「あんたが怒らないから余計でしょ!! あんたがあたしの親友だって事は、全校中に知れ渡ってるのに、それでもあんたに手ェ出すバカがいるって事は、どう考えたってあたしをナメて挑戦してるとしか思えないじゃない!! そういう不心得者には天誅よ!! 二度とあたしに刃向かえないよう念入りに教育・指導してやるわっ!!」

「…………」

 憤然としてるノリ。

 ……僕にはどうしてそこまで怒る必要があるのか判らない。

「大した事じゃないよ」

「大した事あるわよ!! ふざけんじゃないわよ!! あったっしっをっ!! 怒らせた事を一生後悔させてやる!! クソ女!!」

 溜息をついた。

 ノリは完全に頭に血が昇ってる。

 何を言っても無駄だ。

 ひとしきり怒りを爆発させ、それからゆっくり息を吐いて、静かな表情で僕を見た。

「……で? 心当たりある?」

「ないよ」

「……即答しないでよ。急にこんな事あったってのは、何か原因がある筈なんだから。あたしが睨み利かせてて手を出して来るってのは、あたしかあんたに原因があるのに間違いないもの」

「だってないもん」

「そ。……何かあったらあたしを呼びな。それとあんたあんまりあたしの傍離れちゃ駄目だよ、サイ。何があるか判らないから。……少なくとも、あたしの目の前でサイに危害加える事は許さないわ」

 淡々とした口調で、目だけは異常にぎらぎらして、ノリは言った。僕は肩をすくめた。

「最近、変わった事無かった?」

 聞かれて、杉原先輩をふと何の気なしに思い出したけど、それは内緒って約束だったから首を振った。

 約束は守らないと。

「……絶対見つけたら半殺しにしてやる……」

 ノリは低く呟いた。

 僕はこれ程までにノリに思われる相手に少し同情して、肩をすくめた。


 ノリはその日の帰りまでずっと僕に張り付いた。

 その日一日、何も起こらなかった。

 ただ一つ、僕の靴が泥だらけにされていた事以外は。

「どうしてあんたは怒らないのよ!!」

 ノリは激昂した。

「……怒る事なの?」

「怒るでしょうが!! 普通は!!」

「……そう? 実害ないから良いけど」

「これの何処が実害ないのよ!! ふざけんじゃないわよ!! 十二分に害被ってるじゃない!! むかつく!! この萩原様に楯突こうなんてヤツは、永遠にこの世から抹消してやるわ!!」

「……人を殺したら犯罪だよ」

 そう言って、僕はハンカチで靴の泥を拭った。

 靴の中まで泥でねちゃねちゃ。

 僕はそれを掻き出し拭い、履こうとした。

「待ちなさいよ!! 履いて帰るつもり!?」

 きょとんとした。

「……靴下で帰れって言うの?」

「そういう問題じゃないでしょ!! そんな靴履いたら靴下汚れちゃうじゃない!! あたしが家まで送ったげるからそんな物は履かないの!!」

「…………」

「とにかくそのスリッパ履いたままおいで」

「……良いの?」

「良いわよ。非常事態だもの」

 きっぱりと言い切る。

 僕はそんなもんかな?と思いつつ、ノリに従って駐輪所まで行く。

 そこにはノリのバイクが置いてある。

 駐輪場から引き出しまたがった。

「乗って」

「うん」

 僕はノリの後ろに乗った。

 ノリは家まで送ってくれた。

「じゃあ、あたしはバイトだから行くけど、何かあったら携帯連絡しな。良いね?」

「うん、判った」

「じゃ」

「また明日」

 手を振り合って別れた。



 ノリが翌朝迎えに来た。

 僕はちょっとびっくりしたけど、ノリの後ろに乗せて貰う事にした。

「……内履きとビニール袋持った?」

「内履きは判るけどビニール袋って?」

「今履いてる靴を入れるのよ。持ち歩けば汚されないわ」

「成程」

 スーパーの袋を持って行く事にした。

 一緒に学校へ行く。

 靴箱に行ったら、スプレーで他の人の靴箱含めて『篠原彩花はインラン女』と書かれていた。

 隣のノリの肩が小刻みに震え始めた。

「……なぁんですってぇ!?」

 いきなり耳元で大音響で叫ばれ、僕は耳の鼓膜が破れるかと思った。

「何処のどいつよ!! そんな根も葉も無い事!! これはもう立派に犯罪よ!! 警察沙汰よ!! 黙ってんじゃないわよ!! ここまでバカにされて黙ってんじゃないわよ!! サイ!!」

 噛み付かんばかりの形相で。

「……そう言われても」

「良いこと!? これで黙ってたら相手の思うツボよ!! ていうかこれじゃもう学校すら敵に回したも同然ね!! 犯人は器物損壊四件目なのよ!? それもこんなに派手にやらかしたんだから、タダで済むと思ったら大間違いよ!! 警察が許しても、あたしが許さない!!」

 ノリが熱血してる……。

 昨日から、だけど。

 ものすごい熱の入りよう。

「……これはどうやら男絡みね」

 ぽつり、とノリが言った。

「……へ?」

「男絡みよ。間違いないわ。どっかのバカがサイに懸想して、それを嫉妬したバカ女がしでかしたんだわ。絶対よ。自信持って言えるわ」

「……何で?」

「あたしのカンに間違いないわ。こういう文句が出てくる辺り、その線よ。ふざけんのも良い加減にしなって感じね。サイに手を出した事一生後悔させてやるわ……」

 僕はつくづくその人に同情した。

 ノリがこれから相手にするだろう報復を考えると。

 怒りに震えるノリを見ながら、僕はそっと気付かれないよう溜息をついた。

 そこへ。

「ぶぅぅ〜〜すっ!!」

 女の子の声。

「待ちなっ!! クソ女!!」

 止める間もなかった。

 弾丸のようにノリはすっ飛んで行った。

 僕はびっくりした。

 女の子の悲鳴が響き渡った。

 僕はおそるおそる靴箱の向こうを覗き見た。

 ノリが小柄な女の子を下敷きにして、腕を背中側に捻り上げて絞り上げてる。

 女の子は泣き声のような悲鳴を上げながら抵抗してるけど、もうノリは絞め固めに入ってる。

「……さあ!! 吐きな!! 腕を折るよ!! 名前とクラス言いな!!」

 僕は眩暈がした。

 持ってきた内履きを履いて、靴をビニールに入れてそっちへ向かう。

 女の子は足で踏まれたゴキブリみたいにじたじたと暴れていたけど、どうにもならないと知ると、諦めたようにしょんぼりした。

「……い……1−C……く……しだ、きょう……こ」

 ノリはぱっと手を離した。

 しかし押さえつけたままだ。

 女の子はしょんぼりした犬みたいに項垂れ、でも目だけはぎらぎらしていた。

「もう一度言ってみな」

 ノリが言った。

「……一年C組、串田響子(くしだきょうこ)

「ソレ、本名だね? 間違い無いね? 嘘ついたら殺すわよ?」

 本名って……それ何?

 芸名?

 それともあだ名?

 源氏名?

 ペンネーム?

「……本名」

「あっそう」

 言うと今度は逆の腕を掴み上げる。

 ひっと女の子が軽い悲鳴を上げた。

 ノリはそれを脅すように肘の関節の辺りをそっと撫でた。

「……さて、何故こんな事したのか事情聞かせて貰おうか?」

 言わなかったらどういう事になるか判ってんでしょうね?って口調で。

 女の子はぶるりと身を震わせた。

「わっ……私の恋人に手を出さないでっ!!」

 こっ……恋人?

 目を丸くする僕を、「ほら、やっぱり」という風にノリが振り返った。

「……恋人って?」

 ノリが詰問する。

 そっと、関節辺りを指で押す。

「杉原さんよ!! 杉原克明さん!! 私のものなんだから手を出さないでよ!!」

 ……杉原、克明。

「……サイ、心当たりある?」

 ない事もない。けど。

「一度会ったきりの人だよ?」

 僕はびっくりしてそう言った。

「一度だけでもっ!! 私の私の私の私の杉原さんなんだから手を出さないで!!」

 僕は目を丸くした。

「……手を出すって……具体的にどういう事?」

 訊くと、ノリが呆れたように肩をそびやかした。

「色々よ!! 色々!! 私でさえまだ直接話した事ないんだから勝手に二人きりで話したりしないでっ!! 私の杉原さんなんだから絶対駄目っっ!!」

 僕とノリは思わず顔を見合わせた。

「「……『まだ直接話した事がない』?」」

 声が二つ重なった。

「うるさいわねぇ!! あんたが杉原さんとツーショットでちょっとくらい話したからっていいい威張らないでよっ!! イイ気になるんじゃないわよぉっ!! 杉原さんは理想高いんだからっっ!! あんたみたいなヘチャレブス絶っっ対っ好みじゃないんだから手を出さないでよっっ!!」

 ……悪いけど、言ってる意味が良く判らない。

「……訊くけど、あんた、その杉原って男と一度も話した事無いの?」

 眉間に皺寄せて、呆れたような顔でノリが詰問する。

「うううううるさいわねっ!! 今はまだっだけどそのうちちゃんとお話するわよっ!!」

 ノリは白い目になった。

「……それで杉原はあんたの存在は知ってる訳?」

「……うううううるさいわねっ!! 私はもう、ずっと入学してから杉原さんの事好きなんだから、ぽっと出のヘチャレなんかに奪われないわよっ!!」

「……ほほう、ヘチャレね。あんたの方がよっぽどヘチャムクレのチャウチャウみたいな顔してるけど」

 チャウチャウ。

 ……それは酷い。せめてチワワだよ。ノリ。

 女の子はノリの下でじたじた暴れた。

「ななななんですって!? チャウチャウ!? チャウチャウですって!? ヘチャムクレ!?」

「……それとも鼻の潰れたブルドック?」

「ぶぶぶブルドックぅ!?」

「……あんたストーカー?」

「なっ!! 何ですってぇ!? ストーカー!?」

 女の子は大音響で叫んだ。

 僕は慌てて耳を塞いだ。

 ノリも眉を顰めた。

「……ストーカーですってぇ!? そんな下等な存在じゃないわよ!! 私は彼を悪い虫から守るガーディアン・エンジェルなんだからっっ!!」

 暫し、沈黙。

「……ガ……ガーディアン・エンジェル……?」

 僕たちは顔を見合わせた。

 ノリの顔には「こいつバカ?」と書かれている。

 僕は……理解できない。

 悪いけど理解できそうにない。

「それで? 『守護天使』サマは? サイを? 悪い虫だと判断した訳?」

 ノリが意地悪な口調で言う。

「害になるものはその大小に関わらず排除するのが私の務めよっっ!!」

「…………」

 ノリがにやりと笑った。

「……それでその『排除』の事を当人は、その杉原サマはご存じな訳?」

「私は影ながら杉原さんを見守り守護するのよ!! 杉原さんに気付かれずにやるのが当然じゃないっっ!!」

「……気付いてないかは、当人と話した事が無い現状では確認できないんじゃないの?」

 ノリが冷たい口調で言う。

「私は判ってるから良いのよ!! 杉原さんはきっと私に感謝をしているわっ!! だって私は彼を守るガーディアン・エンジェルなんだもの!!」

「そこまで言い張るなら、本人の意向を聞いてやろうか?」

 ノリは意地悪くにやりと笑った。

「……なっ……!?」

 女の子は絶句し、ぴたりと抵抗をやめて固まった。

「来な!」

 ノリは女の子の制服の襟元を背中から掴み上げ、自分が立ち上がるのと一緒に起き上がらせた。

 女の子はハリネズミみたいに身を縮こまらせて、足を折り曲げてる。

「……いっ……いいい……っ!!」

「さあ、行くよ。足を伸ばしな。歩けないだろ?」

「厭っ!!!」

 甲高い大声で女の子は叫んだ。

 僕は勿論、ノリも思わず耳を押さえた。

 その隙に女の子は身を振り解き、ノリの腕を逃れた。

「あっ!! あんたっ!!」

 ノリが慌てて追い掛ける。

「あんたなんかに杉原さんは絶っっ対!! 相応しくないんだからっっ!!」

「待ちな!! 一年!!」

 物凄い勢いで女の子は走り、ノリが追い掛けて行った。

 僕はそれを呆然と見送る。

 ……疲れた。

 疲れた。

 理解不能。

 良く判らない。

 ……この世の中は不思議な事ばかりだ。

 僕には判らない。

 ……少なくとも短距離でノリに敵う女の子は殆どいない。

 ノリは結構執念深いし、たぶんあの子は追いつかれるだろう。

 でも僕は疲れたので追い掛けない。

 ノリが残していった鞄をのろのろと持ち上げ、教室へ向かった。

 赤い机は目印になって迷わなくて良い。

 僕は自分の席に座って、ぼんやりとノリを待った。

 机の上に頭を乗せて。

 思ったより早くノリが帰ってきた。

「……あっの一年!!」

 憤然として、ノリは言った。

「逃げ足だけは素早いのなんのって!! ウサギかって言うのよ!!」

 ……ウサギ。確かにウサギっぽい女の子だった。

「ノリが追いつけなかったんだ?」

「ムカつく!! あの一年!! 顔は覚えたから今度見掛けたら絶対ぶっ殺す!!」

 ノリは断言した。

 ……可哀相に。

 僕は思った。

 ノリを怒らせると恐いのに。

 きっとあの子は知らないんだな。

「……ところでサイ、あんたはどうしてそういう平和な顔してんのよっ!!」

「え?」

「あああっ!! ムカつくっ!! あたしが誰の何のために怒ってるか思ったら、余計ムカつく!!」

「……ノリが好きでやってるんじゃないの?」

 きょとんとすると、ノリは舌打ちした。

「……ああ、そうね。私が自主的に好んでやってるのよね」

 恨みがましそうな声で。溜息ついて。

「……ところで? 杉原っての誰? 何処で会ったの?」

 僕は顔を上げた。

 ノリは真面目な顔だ。

 ……どうしたものかな?

 内緒の約束なんだけど。

「……それに関しては口外無用と言われたので言えないのだけど、彼は窓枠にはまるのと眉間を押さえるのが趣味の眼鏡の人だよ」

「……は?」

 ノリはぽかんとした。

「……『窓枠』?」

「そう。窓枠にはまって本を読んでた」

「……『窓枠にはまって本』?」

 ノリの眉間に皺が寄った。

「……悪いけどもっと判り易い表現お願い」

「……だから、窓枠に寄り掛かってぎゅうぎゅうに詰め込まれて身を無理矢理縮めて本を読んでた」

「………………」

 ノリは何か言いたげに僕を見た。

「……それってただ単に、窓枠に腰掛けて本を読んでたってだけじゃあ?」

「だって一杯だったんだよ?窓枠。本当に窮屈そうで、変だったんだ」

「……変なのはあんたの方よ」

「ええっ!?」

 ひどい。ノリ。それはひどいよ。

 ノリは溜息をついた。

「……それで?どういう関係なの?」

「どういうって言われても……この前、一回会ったきりだし。会話しただけだよ? それが一体何?」

「……あんたに聞いても無駄そうね」

 ノリは言った。

「……それで? 杉原ってのどういう奴なの?」

「三年国立文系クラスでリトマス紙みたいな人」

「……は?」

「顔が赤くなったり青くなったりする人」

「……ふぅん、あっそう」

 あっさりと言った。

「……サイ、後で一緒に行くよ?」

 僕はきょとんとした。

「……何処へ?」

 するとノリは鼻で笑った。

「……杉原のトコよ」



 僕たちが3−Aへ行った時、杉原先輩はいなかった。

「……杉原? さっき担任に呼ばれて職員室行ったぜ?」

 クラスメイトの人が教えてくれた。

「……行くわよ」

 ノリは断言した。

 本当に? わざわざ?

 僕の言いたい事は判ってるだろうに、ノリは僕の腕を引いてずんずん歩く。

 僕は諦めた。

 ノリは怒ってる。

 果てしなく怒ってる。

 こういう時のノリには逆らわない方が良い。

 僕は残念ながらノリの怒る理由が良く判らない。

 悪いけど理解できない。

 ノリの事は好きだけど、大好きだけどそういうのが良く判らない。

 困ったな、と僕は思う。

 本当に困ったなと。

 判らないのは困るんだ。

 理解できないのは困る。

 判りたいのに、理解したいのに、どこか基本的なところで僕はきっと間違えてる。

 いつもそうだ。

 だから正解に辿り着けない。

 正解なんてものはないのかも知れないけど。


 職員室前の廊下に、ぽつんとひょろりとした背中が見えた。

 やたらと長い手足。

 白いシャツ。

 学生服、軽く肩に掛けて。

 神経質な手つきで眼鏡のフレームを押し上げる。

 レンズが逆光できらりと光った。

「……し……のはら……?」

 ぽつん、と言って、彼は僕の傍らのノリに気付いて、狼狽したような、何処か怒ってるような顔になった。

「……何か用か?」

 眉間に皺を寄せて。

 しかめっ面で。厳しい口調で。

「……この子、篠原彩花の事なんだけど」

 ノリが言った。

「……は?」

 杉原先輩は眉をひそめた。

 苛々したとがった声。

「この子、昨日から今朝に掛けて、物凄くタチの悪いイタズラされたんだけど」

 ノリの言葉に、杉原先輩は怪訝な顔になった。

「そんな事俺に言われたって……」

「それでそれやった女が、あんたの名前言ってたんだけど」

 杉原先輩の言葉を遮るように、ノリが淡々と言った。

 ノリの顔は無表情だ。

 ……こういう時のノリは……かなり結構怒ってる。

「……え!?」

 杉原先輩の目が大きく見開かれた。

「その女、あんたのストーカーみたいだからあんたはその女の名前とか知らないかも知れないけど、彩花はその迷惑な女の所為で、内履きも外履きも英和・和英辞書もダメにされて、机赤いペンキで塗られて、靴箱に酷い中傷スプレー書きされてそれでも別に平気だとか言ってるんだけど、あんたどう思う?」

「なっ……!!」

 杉原先輩は口元に手を当て、ぎょっとしたような顔して、顔を青ざめさせる。

「……何だって!? それ……本当か!?」

「嘘言ってどうするのよ。それで、本人は串田響子とか名乗ったんだけど、あんた心当たりある? 本人が言うには1−Eの所属らしいんだけど」

「知るか!! それより何で当人に言わずに俺に言いに来るんだ!? お前の意図は何だ!?」

「間接的にはあんたのせいなのよね?」

 ノリは冷たい口調できっぱり言い放った。

「……俺に謝れとでも言うのか!?」

 ムッとしたように、杉原先輩が怒鳴った。顔が真っ赤になっている。

「まさか」

 ノリは鼻で笑った。唇を歪めて。

「……それであんたも一緒に来て貰ったらてっとり早いんじゃないかと思って」

「……何を?」

 杉原先輩は訳判らないって顔した。僕にも判らない。

「それで最初にまず聞いておきたい事があるんだけど」

「は!?」

「確認のため聞かせて欲しいんだけど、あんたサイに手ェ出したり変な気持ってたりしないわよね?」

「はぁっ!?」

 杉原先輩は目を見開いて素っ頓狂な声を上げた。

「何だ!? そりゃ!! 大体お前っ!! 二年だろ!? 二年!! 年上にはちゃんと敬語を……っ!!」

「うるさい男ね。彼女いないでしょ?」

「放っとけ!!」

 杉原先輩は顔を真っ赤にして怒鳴った。ノリは軽く肩をすくめる。

「正直言ってあたしは好みじゃないわね」

「うるさい!! お前なんかに惚れられたくも無い!!」

 ノリは意地悪な笑みを浮かべた。

「……ああ、でも本当リトマス紙だわね」

「っ!?」

「からかうと面白そう」

 くすりと笑った。杉原先輩は下を向き、ふるふると肩を震わせ始める。耳が真っ赤になってる。顔は良く見えないけど真っ赤だろう。ぶるぶると震えてる。

「……それでその1年E組に行くのに付き合って欲しいんだけど」

 ノリの言葉にムッとしたように顔を上げる。

「何で俺が」

「あんたも関係あるでしょ? あんたも来れば話は一発で済むじゃない」

「何が」

「あんたバカ? ストーカー女の言う事が本当で本人なら、あんたストーカーの正体知る事出来るのよ? あんたが付きまとわれるの好きって変態なら、別に無理に誘わないけど」

「そんな訳あるかっ!! 四六時中付きまとわれて遠くから見られて、毎日家に電話されて、毎朝郵便受けに訳の判らない差出人不明の手紙突っ込まれて!! 俺はおかげで第一志望の推薦落ちて!! 眠れなくて成績までガタ落ちして担任まで『このままじゃ第三志望にも受からないぞ』なんてお小言食らって!! 俺が一体何したって言うんだ!! 俺がこれまで三年間努力して積み上げて来たものが崩れそうになってて!! 俺がっ……俺がどんなに苦しいか!! 警察に行ってもせせら笑われるだけで!! きっと医者も笑ってるんだ!! ただの被害妄想だと思ってやがるんだ!! 視線に付きまとわれるのは幻覚じゃなく事実だってのに!! 俺が、俺がどんな気分でいるかも知らない癖に勝手な事言うなよ!!」

 半分泣きそうな声で、大声で怒鳴った。真っ赤な顔で。疲れた顔で。

「じゃあソレ、ストーカー女に言ってやりな」

 けろりとした顔でノリは言った。

「あたしは無関係なんだからあたしに言ってもタダの無駄でしょ? あたしには所詮他人事でどうでもイイ話だし? 直接本人に言ってやれば、さすがのぶっ飛びバカ娘も、自分のバカさ加減自覚するでしょうし? その後あんたが刺されてもあたしには関係ないし。それで相手が諦めてくれたらあんたもすっきりするでしょ?」

「……は?」

「という訳であんたも来るのよ」

「えっ!? おい!?」

 驚いてる杉原先輩の腕を、僕の腕掴んでるのと逆の手でノリは掴み、ずんずんと歩く。

「なっ……何なんだ!?一体!!」

 杉原先輩は混乱してるようだ。

 僕はそっと耳打ちする。

「……先輩。こういう時のノリには逆らわない方が良いよ」

 杉原先輩は顔をしかめる。

「……何なんだ? 一体」

「……それが判れば僕も苦労しないよ」

 ノリは僕らの意向なんて完全無視ですたすた歩く。

 目的の1−Eに到着した。

「串田響子っている!?」

 大音響で叫んだ。

 僕はびっくりして空いてる方の手で耳を塞いだ。

 ものすごい大声。

 耳が痛い。

 教室の中から悲鳴が聞こえた。

 ……あの子だ。

 逃げようとした彼女を、ノリが素早く追い掛けねじ伏せる。

 呆気に取られて、杉原先輩が呆然とする。

 僕は肩をすくめた。

「さぁて今度は絶対逃がさないわよ?」

 ノリの下で、じたじたと彼女は暴れてる。

 その彼女の首に背中から両腕を回して、いつでも絞め技に入れるよう、しっかりと固定し、脇に抱える。

 起き上がらされた彼女は、僕の隣の杉原先輩に気付いて、大きく目を見開いた。

「さぁて、これがそのストーカー女なんだけどどう?」

 ノリがにやりと笑った。

 杉原先輩の肩がぶるぶると震える。

 両拳を握り締め、強く歯を噛み締め顔を真っ赤にして、彼女を強く睨み付ける。

 その表情に、彼女は真っ青な顔になった。

「お前のせいで推薦落ちたんだぞ!?」

 大きな声だった。

 僕は思わず飛び上がりそうになった。

 ぎょっとしたように教室中が振り返る。

「俺はっ……俺はお前のせいでっ……!!」

 歯ぎしりしそうな程、強く歯を噛み締めて、それきり先輩は何も言えなくなった。

 きつく睨み付けて、ぶるぶると震えて、握り締めた拳をだん、と壁に叩き付けた。

「絶対間違い無い筈だったんだ。俺はそのために努力したし、勉強したし、塾にも通った!! それなのに非難はされるし説教食らうし、嘲笑われるし!! 俺がっ……俺がっ……どんな想いを……っ!!」

 ぶるぶると震えて、俯いて。剣幕に女の子は脅えてる。

「……ごっ……ごめんなさっ……!!」

「今更謝られたくなんか無い!!」

 僕はまたびくりとした。

 凄く大きな声。

「お前が謝ったって推薦落ちたのは変わりないんだしな!! どうせ落ちたのなんか俺の集中力の無さのせいだろう!! どうせ俺なんかっ……どうせ俺なんかっ……皆で笑ってりゃ良いんだ!! くそぉっ!! 俺の気持ちなんかっ!! 誰にも判らないだろう!!」

「……ひっ……ごめんな……さ……っ!!」

「うるさい!! もうお終いなんだよ!! 俺は!! どうせ!! 溜息つかれて!! 舌打ちされて!! 結局何処の大学だって落ちて!! 就職だって出来なくて!! 家で一人悶々とまた一年受験勉強してりゃ良いんだよ!! うるさいよ!! 同情なんかするな!! どうせ鼻で笑ってるんだろう!! バカじゃねぇのって思ってるんだろう!! くだらねぇって思ってるんだろう!! 今更どうにも取り返しなんかつくかよ!! 謝られたってもうどうにもならないんだよ!! この春俺はベストの状態だった!! これまでに無いくらい調子良かった!! 学年トップに躍り出て!! それが今は百三十番台だ!! 今から勉強したってろくな処行けない!! 今からじゃどうにもならないんだ!!」

 がしゃん、と窓を叩き割って。

 破片が飛び散って、僕は悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。

 荒い、呼吸が聞こえた。

 下ろされた先輩の腕。

 指の付け根辺りから、血が滴り落ちている。

 僕はびっくりした。

 真っ赤な紅い血。

 どくどくと流れ出て、滴って、廊下に血溜まりを作っていく。

 先輩の身体はまだ小刻みに震えてる。

 もう一度、拳が振り上げられた。

「ダメっ!!」

 僕は慌てて立ち上がり、先輩の腕にしがみついた。

 ぎょっとしたように先輩が僕を見た。

 僕は腕をしっかり掴み、両腕で押さえ、必死にしがみつく。

「ダメだよ」

「……篠原……」

 血が滴り落ちる右腕。

 先輩の顔は切り傷だらけになっていた。

「痛いのはダメだよ」

 先輩が呆然としたように僕を見る。

「……サイ」

 ノリが呟く。

「痛くしちゃダメだ。痛いのはいやじゃない?」

 先輩を見上げる。

「……篠原」

「先輩は痛くないの? こんなに血が出てるのに」

 先輩は泣きそうな顔で笑った。

 それから不意にしゃがみ込んだ。

 僕はびっくりした。

 左手で、先輩は顔を覆った。

「……先輩?」

 左手の隙間から、水の雫が滴り落ちた。

 肩が細かに震えてる。

「……なっ……さけなっ……俺っ……」

 細かく震えてる。

「……情けない……俺……っ」

 ぽたぽたと雫が滴り落ちる。

「……誰のせいとか……そんなのより……俺っ……!!」

 僕は先輩の傍らにしゃがみ込んだ。

「……泣いてるの? 先輩」

 僕が右腕を離すと、先輩は両手で顔を覆った。

 涙が、血と混じり合いながら、腕を伝い、シャツを染め、廊下に滴り落ちる。

「……うっ……ううっ……くっ……!!」

 押し殺した声を上げて。

 ……泣いてるんだ。

 ……何故?

 どうしてだろ?

 ……痛いから?

 泣くほど痛いのかな?

 僕は先輩の右拳の傷を、そっと舌で舐め上げた。

 ぎょっとしたように先輩は顔を上げた。

 泣き濡れた顔で僕を見る。僕は更に傷を舐めた。

 ぺろぺろと舐める。

「……なっ……何をしてるんだ!?」

 ぎょっとしたような声で。

 僕はきょとんとした。

「舐めると血が止まるでしょ?」

「は!?」

 先輩は眉間に皺寄せて僕を凝視した。

「何言ってるんだ!? お前!!」

 ノリの溜息が聞こえた。

「傷が早く治ったら、痛くないよね?」

 先輩は目を真ん丸くして僕を見た。

 呆然としたように。

「痛くなかったら、泣かずに済むよね?」

 僕は真面目にそう言ったのに。

「お前!! 変!!」

 大声で叫ばれた。

 僕は顔をしかめた。

「お前絶対変!!」

「……それはひどすぎるよ」

 僕は口をとがらせた。

「絶対変だ!! お前どっかおかしいだろ!!」

 先輩が怒鳴ると、ノリがぱかんと先輩を殴った。

「あんたも変!! 人の事言ってる場合か!!」

「痛いな!! 何するんだ!! お前!! 二年のクセして態度でかいぞ!!」

「うっるさいわねぇ!! サイはこれで良いの!! あんたが悪い!!」

「何だと!?」

 先輩は真っ赤になって怒鳴った。

「何で俺が悪いんだ!!」

「サイはあんたを心配してるんだから、その暴言は撤回なさい!!」

「だってこいつ絶対変だろうが!!」

「指差す事ないでしょうが!! サイはこれで良いのよ!! あんたに指図されるいわれはないの!! あんたも被害妄想の塊で、とち狂ってるクセして、人の事文句つけるのは、天が許してもあたしが許さないわっ!!」

「お前態度でかすぎるぞ!? 何様のつもりだ!!」

「萩原典香様よ!!」

「誰が自分の名前に様を付けろと言った!!」

「あぁらご存じないと思ってわざわざ自己紹介して差し上げたのよ!! せ・ん・ぱ・い!!」

「何だその言い種は!!」

「あらあらお気に召さなかった? 我儘な人ねぇ!! 敬って欲しいみたいだからわざわざ敬語してあげたってのにねぇ!! あんたほど我儘な人間も滅多にいないんじゃない!?」

「お前にだけは言われたくないぞ!! 俺は!!」

「あぁら、あたしみたいな謙虚な女に対してなんて口振りかしら? この人口の利き方を知らないみたいねぇ!!」

「なっ……何だと!? 俺はこの世でお前にだけはその台詞言われたくないぞ!!」

「やぁねぇ!! 無知って!! 言葉の使い方も知らないみたいね!!」

 ノリの高笑いが廊下に響き渡った。

「くっ!! この女っ!!」

 何だか先輩はひどく元気みたいだ。

 もうすっかり泣きやんで、怒りまくってる。

 怒ってるんなら平気だ。

「……大丈夫?」

 僕はへたり込んで泣いてる彼女を見た。

 ……えぇと、名前。忘れた。

「…………」

 彼女は口をへの字に曲げて僕を見る。

「……どこか痛い?」

「べぇっだ!!」

 いきなりあかんべえをして駆け去った。

「待ちなさい!! 今の見たわよ!! あんたどういう神経してんのよっ!!」

 ノリが彼女を追い掛けすっ飛んでった。

 ……元気だ。

 僕はぽかんとノリを見送ってる先輩を見た。

 先輩は僕の視線に気付いて、振り返る。

「……何?」

 何処か穏やかな顔。

「もう痛くない?」

 先輩はくすりと笑った。

「……痛いよ。でも舐めなくて良いから」

「そう?」

「……じきに治る。時間が経てば」

「そう」

 僕は先輩の右手の傷を見つめた。

「……決めた」

「……え?」

 先輩はきょとんとした。

「僕、医者になる!」

「はぁ!?」

 先輩は素っ頓狂な声を上げた。

「医者になって痛いの治せば、皆幸せになれるよね?」

 先輩は何か言いたげな顔をした。

「僕、変な事言った?」

「……いや、そうだな」

 そう言って、先輩は何故だか苦笑した。

「医者になりたいんだ?」

 先輩の声が、ひどく優しく響いた。

「って言うか、今、そう思ったんだ」

 すごく、強く。皆が笑えたら良いなぁって。

「……幸せになれるかどうかはともかく、なりたいならなれば良いんじゃないか?」

「そうだね」

 僕は頷いた。楽しそうに、先輩が笑った。

「……しっかし、本当、お前、篠原、変な奴」

「先輩に言われたくないよ」

 そう言ったら先輩は傷付いた顔した。

「それは俺の台詞だ」

 至極真面目な口調で。……僕は嬉しかった。取り敢えず、先の事は判らないけど。

 外の天気は快晴で、空はとても青かった。


── 第三章 終 ──

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