第二章 歌とナイフ
僕の名前は篠原彩花。
友人はサイと呼ぶ。
色彩の彩だからサイ。
僕は高い場所が好きだ。
高いところで風に吹かれるのが好き。
屋上の手摺りの外の外壁に腰掛けて、風に吹かれるのはとても気持ち良い。
こういう時こそ、僕は自分が生きてるんだって実感する。
自殺は何故いけないのか、僕には良く判らない。
まだ良く判らない。
でも僕は自殺したいわけじゃない。
僕の命が脆くて壊れやすいもので、なのにそう簡単には死なないって事が何故か心地良い。
死ぬ気なんて毛頭ない。
時折地面を覗き込んで、ここから落ちたら痛そうだな。
全然楽しくなさそうだねって思いながら、それを楽しむだけ。
足をぶらぶらさせて、宙を掻く感じがとても楽しい。
ぐらぐら揺れる感じ。
不安定な頼りなさがすごく快感。
友人のノリ、こと萩原典香は僕を変態って呼ぶ、時折。
『恐怖って感情ないの?』って言われた。
恐怖。
ないわけないじゃん。
でもこんなところから地面見下ろしたって全然恐くない。
全然平気。
ノリは何故恐いんだろう?
僕はその方が不思議だ。
こんなに楽しいのに。
ノリを誘ってもノリは絶対手摺りに近寄らない。
手摺りに触ったら落ちるとでも信じてるらしい。
人間はそう簡単には死にはしないのに。
何が恐いんだろう? ノリは。
見えないものに脅えてるとしか思えない。
僕はどう?
見えないものに脅えてる?
判らない。
僕は歌う。
その時々で適当な歌を。
思いつくままに、心のままに。
拍子も調子も気にしない。
好きに歌う。
自由に歌う。
だってこれは、誰に聞かせるためでも、誰かのために歌うわけでもないから。
言葉なんて要らない。
音だけを声に乗せて、僕は歌う。
僕の声が、遠く高く消えていく。
ここには誰もいないから。
だから僕は自由に歌う。
ぱちぱちぱち、と拍手の音が聞こえた。
ぐるりと首を回して、振り返った。
手摺りの内側に誰か立ってる。
制服を着た同級生くらいの男の子。
僕は訝しんだ。
誰だろう?
知り合いにいたっけ? こんな人。
「……すっげぇ! 初めて聞いた。それ、何て歌?」
記憶にない。
誰だろう。
「知らない」
僕は答えた。
「知らない? だって今、歌ってたろ?」
「だって適当に歌ったから」
「嘘!! 即興!? すげぇ!! 天才!? 俺、凄く感動した」
何だろう、この人。
「君、誰?」
尋ねると、彼はあっと声を上げた。
「ああ! ごめん!! 知らない奴に声掛けられて驚いたよね!! 悪い!! …俺、柳沢稲司。君は?」
「……篠原彩花」
「あ! 篠原!! 二年E組の!!」
誰?
知らない人。
僕のこと、知ってる?
「そうか!! 君が篠原か!! いや、良く噂には聞いてるけど!! ……確か、萩原と親しいんだよな!!」
「……ノリと知り合い?」
いや、たぶん違う。
ノリはこういうタイプと付き合わない。
お喋りで図々しくて気の利かない。
単純熱血系。
ノリの一番嫌いなタイプだ。
「ああ、いや、萩原とは中学の時一緒で。あの一匹狼がここ来て友人作ったってので物凄く有名……あ、これ悪口じゃないから」
わざわざ断らなくちゃならない辺り、十二分に誹謗中傷っぽいと思う。
「……何か用?」
「いや、用ってわけじゃないんだけど。ただ、声が聞こえたから。凄く、キレイな声で滅茶苦茶イイって思ったから」
「……そう」
柳沢、と名乗った奴は、その場から動こうとしない。
「君さ、本格的に歌とかやってるの?」
「……別に」
この人、いつまでここにいるつもりなんだろう?
「じゃあさ、俺と一緒に歌やらない?」
この人、初対面の人間にこんな事言っちゃうんだ。
恥ずかしげなく。
「……やらない」
「どうして?」
「……興味ないから」
「えぇっ!? 勿体ないじゃん!! やろうよ!! 篠原!! 病みつきになるぜ!? 絶対才能あるって!!」
「……悪いけど、本当興味ないから」
どうも引き際を知らない男だ。
「やってみようって!! やってからでも遅くないよ!! なっ、篠原!!」
「悪いけど、全く興味ないから。さよなら」
言い捨てると、僕はひょいと手摺り乗り越えて、足早に駆け抜け、非常ドアを押し開き、階段を走り降りた。
柳沢はついて来ない。
何なんだ? 一体。
わけ判らない奴。
とにかく、面倒な事は嫌いだ。
わけの判らない奴とは関わり合いたくない。
僕は息を切らせて走り降りた。
母さんを見舞いに病院へ行く。
相変わらず母さんは僕を見ない。
僕には見えない父さんに話し掛けてる。
近所の人は僕を『可哀相』って言う。
僕には良く判らない。
「……そうね。今日はとても良い天気ね。洗濯物が良く乾くわ」
母さんは父さんと会話してる。
僕はそれを傍らでぼんやりと見てる。
僕を見ない母さん。
幸せそうな母さん。
僕を見てくれないのは悲しいけど、母さんが幸せそうなのは良い。
僕は取り敢えずそれで満足しよう。
「母さん、ここにリンゴ置くね?」
果物ナイフで綺麗に皮を剥いたリンゴ。
母さんはそれを見て、これを剥いたのは誰だと思うんだろう?
くすり、と思わず笑みを洩らした。
母さんの考える事は、母さんにしか判らない。
僕は彼女の世界では存在しない幽霊。
見えもしないし、聞こえもしない。
存在すら認識されない僕がする事が、彼女にどう影響をもたらすのだろう?
母さんの瞳には僕は映らない。
映ってもそれは抹消される。
母さんはそうやって心の平穏を保っている。
僕の目には母さんは存在する。
僕自身には僕は存在する生き物だ。
だったら僕はどうしたら良いんだろう?
時折途方に暮れるけど、そんな事しても何の解決にもならないから、僕はその件に関して目を閉ざし耳を塞ぐ事にしてる。
だって僕にはどうにもならないから。
「また来るね、母さん」
聞こえないと知っていて、僕は言う。
話し掛けるのをやめても、話し掛け続けても、結果は変わらない。
母さんに僕が見えなくても良い。
母さんに僕が聞こえなくても良い。
諦めとかそういうんじゃない。
事実をありのまま受け止めるだけだ。
『サイ、あんた見てて凄く恐いんだよ』
ノリはそう言う。
僕は自分の何処が『恐い』と言うのか判らない。
手摺りの外側で遊ぶこと?
それとも僕が自分の手首を傷付けること?
ノリは指摘しないけど、時折僕の傷痕を見ている。
悲しそうに見ている。
心配性のノリ。
人間は、カッターでちょっと切っただけじゃ死なないのに。
こんな事くらいじゃ死んだりしないのに。
大丈夫。
本当に大丈夫なんだ。
僕は生きている。
僕はこの世に存在してる。
僕はそれを確認したいだけなんだ。
僕はそれを認識したいだけなんだ。
僕は僕でしか有り得ないし、母さんは母さんでしか有り得ない。
ノリがノリであるように。
皆がそれぞれの形で、それぞれあり方で存在する。
例えば空が青いように。
僕は歌う。
理由なんてない。
意味なんてない。
声を出すのは気持ち良いから。
屋上は風が吹き渡っていて良い。
閉じ込められてないから。
雨風の時はさすがに手摺りの外はキツイけど。
晴れた空の下でなんか本当気持ち良い。
大声で歌うのはとても気持ち良い。
意味なんて理由なんてない方が自由で良い。
目的なんかない方がずっと楽だ。
歌う事に意味や理由を付ける方がよっぽど不自由で面倒だ。
これは僕の自己満足だから、誰かに聞かせるつもりなんて毛頭ない。
聞いて欲しいとも思わない。
意味が、理由があるというならそれはきっと、僕の存在のため。
僕がこの世に存在するから。
僕が生きて存在するから。
僕が幽霊じゃないから。
たぶんきっと、そう。
気持ち良いのは、たぶんきっと、そういう事。
空の下で、屋根も何もない場所で、大声を出して気持ち良いのは、僕が生きているから。
誰のためでもない。
僕自身のため。
少なくとも、この空の下では『誰のため』なんて考えなくて良いから。
僕は歌う。
自由に。
何にも縛られずに。
好きなように歌う。
譜面も歌詞もない。
決まり切ったフレーズも小節もない。
僕は自由だ。
ただ声を張り上げ、自由に歌う。
意味なんて理由なんてない。
そんなものは要らない。
そんなものに縛られるのはごめんだ。
そんなものに縛られて動けなくなるなんて絶対にごめんだ。
「……やっぱりここだった」
その声に、ぎくりとして振り返る。
……うわ。
思わずげんなりした。
あれだ。柳沢、とかいう奴。
「……なあ、歌うの、好きなんだろ?」
どうだろうな。
この人。
懲りない、んだろうな。
ひどく、面倒な奴。
うざったい。
「歌ってみたくないか? 人前でさ。凄く気持ち良いぜ?」
十分気持ち良いから結構。
たぶんそう言っても、判らないんだろうな。
きっと。
「その件は断った筈だけど」
そう言うと、困ったように笑った。
「あのさ、考えてみてくれないか? 本当さ、篠原、お前凄いんだよ。こんなトコで埋もれさせたくないんだよ。やってみないか? 本当面白いんだって。歓声とか聞いてみたくないか? すげぇ気持ち良いんだよ」
それは君の主観。
僕のじゃない。
取り違えないで欲しいな、と僕は思う。
君と僕は違う人間だ。
だから感じる事も思う事も違う。
過ごした時間も。
「いらない」
僕は言った。
柳沢は怪訝な顔をした。
何ソレって顔。
「僕はいらない。君の好きな事は、君自身の中にとっておけば良い。僕には全く関係ない」
「……篠原?」
ぎょっとしたように、彼は僕を見る。
不思議な物を見るように。
「君のしてる事はね、『迷惑』ってやつなんだ。判ったらさっさと立ち去ってくれる?悪いけど。僕は僕のしたい事をする。君のために割く時間は残念ながらない。他を当たって」
「……篠原……?」
信じられないものを見るように、僕を見る。
こういうのは、いやだな。
「じゃあね」
僕はそう告げて、立ち去った。
きっと、君には判らないんだ。
僕にとっては、ここで誰にも何にも縛られずに歌う、その事が一番大事なのに。
僕にとって大切なものは、誰かにとって大切なものとは限らない。
僕が望むこと。
それは誰かの望むこととは違う。
手段とか方法とか、そういったものは人によって違うし、価値観もその比重も、まるで違うもので当たり前なんだ。
「……サイ?」
ノリの、ちょっと甘いハスキーな声。
僕は給水塔の上からノリを見下ろす。
「……何?」
「……どうしてそんなトコにいるの?」
呆れたような顔をされた。
「……手摺りのトコにいると時折変なやつにつきまとわれるから」
そう言うと、ノリが眉をひそめた。
「何ソレ。初耳。……誰よ、そのバカな男は」
僕はきょとんとした。
「……何故男だって判ったの?」
「男でしょ? サイ、自分じゃ判ってないみたいけど、カワイイもの」
「ふうん?」
「……あんた、本当興味ないのね」
嘆息するようにノリは言った。
「……ところでそのバカ何て言うの? シメたげるからさ」
「……イイよ。面倒臭い」
ノリは呆れたような顔をした。
「面倒なんでしょ? つきまとわれるの」
「……鬱陶しいけど、僕の視界に入らなければそれで良い」
言うと、ノリは溜息ついた。
「……あんたってさらっとキツイ事言うよね?」
「そう?」
聞き返すと、ノリは唇歪めて笑った。
「あたしは好きだけど」
「僕も好きだよ、ノリの事」
笑うと、ノリは苦笑した。
「……あんたって本当、不思議な『生き物』だよね?」
意味が判らず、きょとんとした。
「……ああ、そう。忘れてた。……サイ、あんた進路希望出した? 原が探してたよ?」
担任教師の名前。
「……それって必要?」
「……あたしらには必要ないけど、あの人らには職業柄必要なんだよ」
「……大変だね」
「他人事のように言ってる場合じゃないって、サイ」
進路希望。
思うのだけど、例えば僕が『宇宙飛行士になりたい』だの『文豪になる』だの非現実的な事を書いたらきっと「真面目に書きなさい」だとか言われるに決まってるのに、どうしてそんな物明確に示さなくちゃならないんだろう?
「どうして必要なの?」
「そりゃ『指導』しなくちゃならないからでしょ?」
「……それって必要なの?」
「……あんた、本当難しい事聞くわね。あたしに聞かないでよ。あたしだって判らないんだから」
それもそうだ。
「ごめん、ノリ」
「……謝られても困るけどね」
ノリは嘆息した。
「……ノリは書いたの?」
「ん。一応市内の短大書いた。推薦で行けそうだし」
「どういう基準で?」
「……それをあたしに聞くの?」
ノリは眉を顰めた。僕は頷く。
「理由なんてないわよ。あたしの学力で行けて楽そうだからよ。それ以上何の理由があるって言うの?どうせそんなのは適当書いておきゃ良いのよ。教師連に絡まれたくなかったら適当に穏便にね」
適当に穏便。
「……どうやって?」
「あたしに聞かれたって困るわよ。それでなくともあんた、色々面倒なんだもん。あんまり放って置くと、うるさくつきまとわれる羽目になるわよ?あんたって本当、構いたくなるんだもの」
「どうして?」
「そういうところが、よ。決められないの? 進路」
「……どういう基準で決めるのか、それが理解できない」
ノリは大きな溜息をついた。
「あんたみたいなのは哲学でもやった方が良さそうね。四大でも行ったら? 真面目に勉強すれば平気でしょ? ……やる気無さそうだけど」
「……哲学はあんまり好きじゃない」
「いちいち本気にしないの。……まあ、相談なら乗ってあげるけど……あんたの事だから相談できるほども考えてないんでしょう?」
「未来なんて判らないものだよ」
僕は言った。
「今、例えば『こうする』だなんて未来決めても、それはいつまでそう出来るかなんて判らない。ひょっとしたら明日には、もしかすると一分後には不可能になってるかも知れない」
「……普通はそんな難しい事は考えないんだよ」
ノリは言った。言いながら苦笑して。
「そんな厳密に考える必要ないんだ」
「じゃあ、進路決定って一体何?」
「さあね。あたしに聞いても困る。でも、きっと取り敢えず目標決めとけって事でしょ?そういう意味だと思ってる」
「……目標だなんてそんなに簡単に決められるもの?」
ノリは難しい顔をした。
「決められないけど、普通は適当に決めるのよ。そういうもんなの。そんなものはいくらだって変えられるんだから」
「……僕は今生きて存在していれば、それで良いけど」
ノリは苦笑した。
「そりゃ間違っちゃないけど、それを進路希望に書かれたら、原、頭抱えるね」
だってね、ノリ。そんな事言われたって僕は困るんだよ。
「……サイ、取り敢えず何処か進学したら? 就職は無理だよ」
その根拠って何?
「それとも同じ学校にする?」
悪戯っぽく笑って。
「それも良いね」
僕は言った。するとノリは首を振った。
「やっぱ、やめときな。ゆっくり考えりゃ良いんだよ。原には適当言って引き延ばさせるから」
僕はちょっぴり憂鬱になった。
「……祖父ちゃん」
祖父ちゃんは庭木の手入れをしていた。
「うん? 彩花か」
振り返る。
「……進路ってどうやって決めるの?」
「……そうか。進路相談か。二年の二学期だからな。……中学の時はどうだった?」
「担任の先生がここに行きなさいって言った」
「……そうか」
祖父ちゃんは縁側に腰を下ろした。
「……彩花は何したい?」
「さあ」
「……何もしたくないのかい?」
「判らない」
祖父ちゃんは笑った。
「そうか」
そう言って、腕を伸ばし、僕の頭をそっと撫でた。
「……じゃあゆっくり考えると良い」
ノリと同じ事言う。
「祖父ちゃんはどうしたの?」
「……わしか? ……参考にはなりそうにないな。兄弟が多かったから、すぐ働きに出た。今のように選択肢がそう多くは無かったからな。公務員試験を受けて役所に勤めた。今は定年してこの通りだが」
「……どうしても決めなくちゃいけないかな?」
「……決めないと言うのも選択肢の一つだな。どうするかは彩花の気持ち次第だ」
「決めなくても良いの?」
「……彩花は困るんだろう?」
確かに困る。困ってる。
「……ただ、そういう生き方は難しいのも確かだが。……彩花が好きなようにすると良い。お前がどんな選択をしても、祖父ちゃんだけはお前の味方だ」
「うん」
僕は大きく頷いた。
「……それでまさか何も決めないの?」
ノリは何だかいやそうな顔になった。
「どうかな? 判らない」
「……判らないって……」
頭痛そうに、ノリは顔をしかめた。
「だって判らないもの」
正直な気持ち、言ったらすごくいやそうな顔になった。
「原が可哀相……」
「……どうして?」
言ったら溜息つかれた。
「……まあ、サイらしいっちゃサイらしいんだけど。本気で同情するわ。ま、どうするか決まったら教えて。悪いけど面白いわ、サイ」
「……は? 何で?」
「判ってないから面白いのよ。あたしは友達だから別に良いけど」
ノリの言う事は時折良く判らない。
そう言うと、ノリは「あんたにだけは言われたくない」って言うけど。
僕は大声を張り上げた。
青い空に、声が吸い込まれてく。
それは見えないけど、気持ち良い。
ノリはちょっと顔をしかめて、耳を塞いだ。
「……何、絶叫してんの」
「何となく」
「……あんた、本当訳判んない子ね」
「酷いよ、ノリ」
僕は口を尖らせた。
「ごめん、ごめん、サイ」
嘘。悪いとか思ってない癖に。別に良いけど。
「……天気、良いなぁ……」
「……明日から崩れるって」
ノリの言葉に僕は肩をすくめた。
「それは残念」
ノリは苦笑した。
「そうね」
僕たちは笑った。
── 第二章 終 ──