第五章 雪の降る日の[9]
寒い。
風呂上がり、布団に寝転びながら説明書を読んだり、ノリと電話してたのだけど。
壁にかかった時計の時刻は十時三分。
モソモソと布団の中に潜り込みながら、電話から聞こえるノリの声に耳を傾ける。
『で、超ムカつく客だったから会計の時に背中にこっそりガム付けてやったのよ』
「……それはさすがにマズイんじゃないかな?」
『だって店員だけじゃなくお客さんにもセクハラしまくりなのよ。うちはセクキャバじゃなくて喫茶店なんだから! 女の尻が触りたけりゃ、金出してそれ相応のとこ行けってのよ!!』
憤然として言うノリ。セクキャバの意味がよくわからないけど、喫茶店で誰彼構わずお尻をなで回すのは良くない事はわかる。そういう人が一人でもいたら、店員さんもお客さんも困るよね。
『正直ガムなんか生温いわ! バイト中じゃなかったら、問答無用で天誅くらわしてやったのに!!』
それもどうかと思う。
「ノリ、今のバイト先、気に入ってるんでしょ?」
あまり無茶するとまた首になるんじゃないかと思うけど、大丈夫かな。
『ええ、そうよ! だから余計ムカつくの!! 本当は法律が許すなら、吊して息の根止めてやりたいのに!』
さすがに殺人は、許して貰えないと思う。
『で、どう? 携帯買った感想は』
「良かったと思うよ」
今のところ。使うかどうかわからないけどノリのオススメ通りに、二千円分の無料通話付きとパケット段階定額とかいうプランにした。
「先輩が夜十一時過ぎならかけても大丈夫だって言ってたから、かける予定」
『えぇっ!? 何ソレ!? いつそんな話したの!?』
驚くノリに、偶然杉原先輩に会って三人で食事したことを話す。
『……なるほどね。サイか杉原が何かアクション起こしたかと焦ったけど、そういう事なら納得だわ』
「なんで焦るの?」
理解できない。
『友人や知り合いが、普段やらない事したら何があったのかと思うでしょ?』
そういうものかな?
『まぁ、杉原にそんな甲斐性があるなんて欠片も思わなかったけどね』
「嬉しそうだね、ノリ」
鼻歌でも歌いそうなノリに首を傾げる。
『そういえば最近会ってないけど、おじいちゃん元気?』
「祖父ちゃんはいつも通り元気だよ。暇な時はたいてい庭仕事か読書してる」
今夜は外食だったけど、祖父ちゃんの作ってくれる食事はおいしいし。
『また今度サイのおじいちゃんの作ったひじきの煮物食べたくなってきちゃった。今度バイト休みに遊びに行っても良い?』
「伝えておくよ。ノリが遊びに来てくれたら、祖父ちゃんもきっと喜ぶ」
『サイは?』
「もちろん歓迎するよ」
頷きながら答えると、ノリは嬉しそうに笑い声を上げた。
『わー、楽しみ! 次の休みは……明後日になるけど、良いかしら?』
「大丈夫だと思うよ。今日はもう祖父ちゃん寝ちゃったから、明日の朝訊いておくよ」
『さんきゅ、よろしくね!』
「うん」
ところで、とノリは急に低い声になる。
『杉原はどんな感じだった?』
なんだろう。一瞬ぞくっと来た。
「どんなって?」
『サイはどんな風に見えた?』
どんなって言われても困るけど。
「初めて私服見たから、ちょっとびっくりした」
先輩の姿を思い浮かべながら答える。
「真っ黒でキレイでかっこよくて、知らない人みたいだった」
僕がそう言うと、ノリは一瞬息を呑み、悲鳴のような声で叫んだ。
『はあぁぁああああぁぁっ!? 何ソレっっっ!!!』
あまりの大声に思わず耳から電話離したけど、それでも聞こえるとか。どんな声量なんだろう?
『……何ソレ何ソレ、あのぬぼーっしたヌリカベのような男がどんなマジックを使えばそんな風に見えるってのよ!! 嘘でしょ!? 冗談よね!! キレイとかかっこいいとか、あの男にこの世で一番似合わない言葉じゃないの!!!!』
前から思ってたけど、ノリはなんで先輩に関してそんな態度なんだろう? 別に嫌いってわけじゃないと思うけど──本気で嫌いな場合は会話しないし、場合によっては顔を合わせたとたん殴りかねないし──からかうのが楽しそうだから、本当は口で言うほど悪く思ってないんじゃないかと思うんだけど。
『どういう事よ!? そんなの有り得ないでしょ!?』
……えぇと、何故そこまで言うかな?
「あのね、知らなかったけど先輩って背筋ちゃんと伸ばしてキレイなお辞儀するんだよ?」
『……は?』
何ソレ、と言いたげなノリの声。
「ご飯の食べ方もすごくキレイだし、なんかね、いちいち仕草がキレイでかっこいいんだよ? たぶんノリも見たらびっくりすると思うよ」
『……そう言えば、あんたってそういう子だったわよね』
ノリは安心したような、ちょっとがっかりしたような口調で言った。
「どういう意味?」
『色々省略しすぎて誤解を招きやすいってことよ。まったく私とした事が……』
なんだろう。そんな変な事言ったかな?
『まぁ、でも安心したわ』
「どうして?」
『サイが成長するのは嬉しいけど、ちょっと淋しいもの。いつまでも私だけのサイでいて欲しい気持ちもあるし』
どういう意味だろう?
『独り占めしたいけど、それじゃダメだって事もわかってる。だけど私はサイが好きだから、できればずっと一緒にいたいのよ』
「僕もノリが好きだし、一緒にいると楽しいよ」
『うん、わかってる』
優しくてやわらかいノリの声。
『わかってるから、時折悩む事もあるのよ』
どうして? 僕にはわからない。
『私だけ見てて欲しいと思うけど、それだけじゃダメだって知ってるから。でも理性と感情は別物なのよ』
よくわからないけど。
「ノリは先輩のこと嫌いじゃないよね?」
『好きとか嫌いとかいう問題じゃないわよ。あえて言うならどちらでもないけど、私からサイを奪おうとする点で敵よ』
えぇ!?
「別に奪うとかそういうのじゃないと思うよ? っていうか敵なの?」
『ある意味では同志でもあるけどね。でも、あいつのせいでサイと一緒にいる時間が減った事も事実だし』
……それって。
「もっとノリといる時間を増やせば良いの?」
『そういう問題でもないんだけど、特に理由はないけどなんかムカつくのよ!』
それはちょっとヒドイ気が。先輩が気の毒な気がする。
「そういう理由でノリに当たられるのは、先輩が可哀相だよ?」
『わかってるわよ! 自覚はあるわよ。八つ当たりなのは重々承知。でもあの顔見るとイラッとするの。仕方ないでしょ。大丈夫よ、死なない程度にするから』
それもどうかと思うんだけど。っていうか死なない程度に何をするんだろう?
「ひどい事しないでね」
たぶん大丈夫だと思うけど、一応言っておく。色々前科あるし。
『サイはなんであいつが好きなの? わかるようでわからないんだけど。だって今はともかく最初はあいつ、すごく失礼で嫌な奴だったわよね?』
きょとんとした。
「先輩は面白くて優しい人だよ。真面目過ぎるのとちょっと怒りっぽいのが困るけど」
『……面白いかどうかはともかく、サイに対しては優しいとこもあるし、今までサイに近寄った他の連中よりはだいぶマシなのはわかるけど。でも、どこにでもいるようなやつじゃない?』
「そうかな?」
僕は首を傾げる。
「先輩って変で面白い人だと思うけど」
『……サイなりの褒め言葉だとは思うけど、たぶん本人含め大半の人は同意しないわね』
ノリは溜息混じりに言った。
「そうかな?」
『まぁ、サイはそう思うから好きなのよね』
そうなのかな? そうなのかも。でも、それだけじゃないと思うんだけど、上手く言えない。
僕が杉原先輩を好きな理由。よくわからないけど、たぶん初めて会った時からすごく気になったんだよね。それが何かはわからないけど。僕にはどこにでもいる人には見えないんだけど、ノリにはどこにでもいるように見えるのかな? でも、先輩みたいな人ってあまりいないよね?
「僕は先輩みたいな人って他に見たことないけど」
『まぁ、あの面倒くさくてからかいがいのある性格はともかく、容姿だけならそこら中にいるレベルよね』
容姿? そんなの気にしたことなかった。最近前よりよく観察するようになったから、先輩の顔や体格はだいたい覚えたと思うけど。だけどよく考えたら、僕は先輩のことほとんど何も知らないんじゃないかと思う。
僕が知ってる先輩のことって、名前とか、顔とか、制服や今日見た私服ごしの体格とかで。僕の目の前にいる時の事しか知らなくて、先輩に兄弟がいるのかどうかすら知らない。
志望校のことだって、ランク下げて城南大学にしたのは知ってるけど、どの学部に行きたいのかとか、ランク下げる前はどこを受験するつもりだったのかも知らない。その話になると、先輩が苦い顔になるのもあるけど。
「容姿って他の人と区別がつけば良いんじゃないの? それじゃダメなの?」
僕が尋ねると、ノリは笑った。
『サイはそういう子よね』
何故そんな事言われるのか理解できない。
『そういう子だから、私も好きなんだけど』
仕方ないわよね、と笑うノリ。何がおかしいのかわからないよ。
『そう言えばあとちょっとで十一時だけど、どうする?』
ノリの言葉に一瞬首を傾げて、先輩との約束思い出してどきっとする。
「あぁ、ご、ごめん。じゃあ、悪いけどそろそろ切るね、ノリ。また明日」
僕がそう言うと、ノリはフッと息を吐いて笑う。
『わかったわ。じゃあ、また明日ね、サイ。少し早いけどおやすみなさい』
「うん、おやすみなさい、ノリ」
携帯を耳から離して、ボタンを目で探して切る。ふぅ、と息をつく。喉の渇きを覚えて、携帯持ったまま台所へ向かう。静まりかえった廊下を素足でぺたぺたと歩き、台所の引き戸を開け、冷蔵庫へ向かう。
冷やしてある麦茶を取り出し、食器棚からグラスを出して注ぐ。それに口をつけようとした時、不意に携帯電話が鳴り響いた。
ビクッとして取り落としそうになって慌ててグラスを台に置いて、手の中の携帯を見る。そこに表示されてたのは、杉原先輩の名前。
あれ、僕がかけるって言ったと思ったのに。……そう思いながら通話ボタンを押した。
「も、もしもし」
『篠原?』
少しかすれた先輩の声。やけに近く聞こえてどきりとする。
『今、大丈夫か?』
急に喉が干上がるみたいに声が出なくなった。
『予定より早めに終わったから。……篠原?』
「あ……ごめん、先輩。びっくりした」
僕が答えると、先輩は苦笑するように笑った。
『さっきまで話し中だったけど、萩原と話してた? 今、何してる?』
「あ、うん。ちょっと喉渇いてお茶飲もうかと思って」
『そうか、悪かったな。大丈夫か?』
「……大丈夫」
ごくっと唾を飲み込む。
『それで話って?』
……そうだった。
「あのね、先輩」
深呼吸。
「電話しなくて、ごめんね?」
『そんな事か。それなら俺もだから。お互い様だろ』
そうだけど、そうじゃなくて。
「僕、電話とかあまりかけたことなくて、だからいつかけたら良いのかとか、そういうのわからなくて」
先輩と会えなくて淋しかったけど、声が聞こえなくて淋しかったけど。
「どうしたら良いかわからなくて。それに」
それに、たぶんきっと先輩は僕が携帯電話持ってないって知らなくて。なのに、言えなくて。
『それより、無理して買わなくても良かったんだぞ、携帯電話』
バレてる。先輩のいる前で買ったんだから、バレても仕方ないけど。
『たぶん持ってないだろうとは思ってたから、今日は驚いたぞ。言ってくれれば、俺からかけたし……』
「僕がそうしたかったんだ」
慌てて言った。
『え?』
「本当は家の電話からかけても良かったんだけど、うちは子機とかなくて親機が廊下に一台だけだし、それに先輩が教えてくれたのは携帯電話の番号とメールアドレスだったから」
先輩がそれを教えてくれた時、僕は嬉しかった。
「だから僕も携帯電話から、かけたかったんだ」
部屋でもどこでもかけられるし。先輩がかけてくれた時にも、こうやって一番に出られるし。
本当は家の電話でも何でも良かったはずなのに。
「前にノリに電話買いに行こうって言われた時は、別にいらないと思ったんだけど、先輩と話すなら携帯の方が良いなって」
『それって……』
「変かな?」
『……じゃない』
少しかすれた声。
『変じゃない、よ』
熱っぽくて、優しくて、心地良い声。
『……嬉しい』
先輩がそう言ってくれて、僕も嬉しくなって。それと同時に顔が熱くなって、麦茶を頬に当てる。
「メール、よくわからなくてごめんね。明日ノリに聞いて送るから」
『うん、待ってる』
優しくて、暖かくて、溶けそうな、よく響く声。
『篠原』
「何?」
『好きだ』
やけにその声が近くて。
「先輩?」
耳をくすぐるような吐息。身体の熱が上がるような気がして。僕はどぎまぎする。
『五日後だな、土曜日』
「そう、だね」
『受験とかなかったら、すぐにでも会いたいのに』
溜息をつくような声。
「……僕も」
毎日でも会いたい。学校に行っても先輩がいないのは、淋しい。
「学校行く日なのに先輩に会えないと、淋しいよ」
『……っ』
息を呑むような気配。
『……篠原……』
「何? 先輩」
首を傾げながら聞くと、先輩は深く息を吐いて、
『土曜、遅刻するなよ?』
いつもの声で。
「……努力する」
僕の言葉に先輩は笑う。
『あと宿題、忘れずにな』
「わ、わかってるよ」
言われなくてもちゃんとやってるし。
『本当に?』
「大丈夫だよ。最近はサボってないし、真面目にやってるよ?」
『そうか。じゃあ、その成果は見せて貰おう』
楽しそうに言われて、背筋が寒くなる。
「あの、先輩?」
『特別にミニテスト作っておいてやるから楽しみにしてろよ?』
う、わ、ちょっ……!
「テスト!? え、ちょ、それは困る! 宿題はしてるけど、そんなテストとか無理っ!」
『無理じゃない。宿題出したところをきちんとやってれば解ける問題しか出さない。それが解けないって事になれば理解できてないって事だからな。そうするとそこらへんは理解できるまでやらないと』
うわぁああぁ、先輩、鬼だ! 絶対無理。テストとかそんなの急に言われても困る。困るよ!
『楽しみだな、土曜日』
僕はちっとも楽しみじゃなくなったよ、先輩……。




