第五章 雪の降る日の[7]
先輩は怒ってる時以外は大抵口数が少ない。自分から話すよりは、聞き役になる。時折突然何か言う、そういう感じ。
先輩に話したい事はいくらでもあった筈なのに、言葉が上手くまとまらない。久しぶりに会ったから忘れたのか、会えると思ってなかったのに会えたから混乱してるのか、考えてもよくわからない。
僕も普段からおしゃべりだというわけでもないので、なんとなく祖父ちゃんが主に話題振って、僕と先輩が話す。そういう繰り返しになった。なんだか変な感じ。
祖父ちゃんと先輩は今日初めて会った筈なのに、あまり違和感がない。先輩はいつもより少しだけ緊張してる感じだけど、最初の挨拶や何やらが済むといつもの先輩に戻った。いつもより優しくて、丁寧な口調だけど。
「ほう、杉原さんとこの正明君の息子さんなのかね」
祖父ちゃんは感心したように頷く。先輩は驚いた顔で、箸を置いた。
「……父を知ってるんですか?」
「ええ。わしは定年まで県庁に勤めてましてな。正明君とも、芳生君とも一緒に仕事した事があります。芳生君とはかつて同級でした」
「ああ」
先輩は頷き、なんとなく居心地悪げに肩をすくめた。
「ところで、本当にこの子の家庭教師をお願いしてもよろしかったかな?」
祖父ちゃんが言うと、先輩は頷く。
「できない事は約束しません。これまでも見てましたが、篠原はやる気さえあれば伸びると思います。かなりマイペースなので、慣れないと彼女に勉強させるのは難しいと思いますが、俺は慣れてきたので大丈夫です」
「……先輩、ひどいよ」
ぼそりと言ったのに、先輩には聞こえたらしい。
「ひどくない。言われて当然だろ。最初にお前の数学の答案見た時は眩暈がしたぞ。二百点満点のテストで十三点しか取れない人間は初めて見た。それでよく入学できたものだ」
入試は確か適当に書いた気がする。先輩に教えて貰うようになるまで、試験勉強はやった事がない。必要な理由がなかったから。
「ああ、わしは正直勉強は苦手でしてな。しかも今まで一度も勉強しろと言った事もありませんし。彩花はそういうところまで、わしに似てしまったかもしれませんな。いや、実に申し訳ない」
祖父ちゃんは僕達を見ながら小さく笑う。先輩は少し困ったような顔になる。
「あ、その、俺は正直勉強くらいしかできないので」
先輩はチラリと僕を見る。
「それに時折、篠原に学ばせて貰う部分も多少あります」
「ほう、そんな事もありますかな?」
「はい、俺はどうも見識が狭いので。もっと度量の広い、感情に振り回されない生き方ができればと思ってはいるのですが、修行が足りません」
「若い時はそのくらいで結構。落ち着くのは不惑を超えてからで良いでしょう。大体その年齢で完成した人間になられては、周りの人間がかえって苦労しますな」
祖父ちゃんはそう言って、くつくつと笑う。
「はぁ」
困ったように先輩が頷く。
「ところで、篠原。何か困った事やわからない事はあるか?」
先輩に聞かれて、僕は戸惑う。困ってる事はたくさんある。わからない事もたくさんある。
だけど、例えば志望校の事で担任に追い回される事や、 誰かが言う言葉の意味や態度がよく理解できなくなるといったような事は、先輩に相談してもたぶんどうにもならないし、先輩だって困るだろう。
バレンタインの事ならさっき既に聞いて、甘い物は好きじゃないってわかったから、たぶん要らないだろうし。
「篠原?」
とりあえず原の事を話してみようか。別にたいして困ったりはしてないけど。
「原が、進路希望の事でちょっとうるさいかな。最初に『未定』って書いて出した時もうるさかったけど、『城南大学医学部』って書き直してからも。一応大丈夫ですって言ったけど」
僕が言うと、先輩は眉間に皺を寄せて溜め息をついた。
「目上の人間には敬称をつけろよ。先生の名前を呼び捨てにするな。それはお前の日頃の行いが悪いから仕方ない。けど、一応俺からも原先生に言っておくから」
「え?」
きょとんとした。
「俺は一応実績と信用があるし、原先生とも面識があるから、効果があるかどうかは保証しないが口添えしておく。お前が実際に先生方を納得させる実績を叩き出さないと意味はないけど、少しは考慮してくれるだろう」
生真面目な顔で言う。
「……そうなの?」
僕が聞くと、先輩は苦笑しながら
「俺も春からだいぶ成績落としたから以前ほどの信用はないかもしれないし、確実にそうだとは言い難いが、お前がちゃんとやる気あるなら可能な限り協力する」
と、きっぱり言った。
「先輩、有り難う」
嬉しくて、僕が笑って言うと先輩もつられたように笑う。
「彩花のためにすみません」
祖父ちゃんの言葉に、先輩は首を左右に振る。
「いえ、乗りかかった船というか、何事も中途半端だと目覚めが悪い質なので」
そう言った後、しかめつらで、
「でも、お前が本気で取り組まないと、俺がいくら援護射撃しても無駄だからな。受験終わるまでなかなか時間とれないが、俺が見てない時もサボらずに頑張れよ」
と言った。本当に、いつも通り過ぎる。
「一応やってる」
「一応じゃ駄目だ。全力でやれ。お前は元々のんびりしてるから、自分でやり過ぎだと思うくらいで丁度良い。あと一年ちょっとしかないんだ。死ぬ気でやらないと、あっという間だぞ」
「なんで先輩、そんなに厳しいの?」
僕はしょげて溜め息つきながら尋ねた。
すると先輩は苦笑した。
「お前が医者になりたいって、城南大を受けたいって言ったんだろ? だからそのために俺ができる事をしてやる。どうしても嫌だって言うなら、そう言えば良い。自力でやれ。努力しないやつに付き合うのは時間と労力の無駄だからな」
それは困る。先輩のおかげで、今までサッパリわからなかった事がかなり理解できるようになってきた。
たぶん僕が知る限り、一番教え方が上手いと思う。これまで出会った教師に比べても、内容がわかりやすい。何より根気強く熱心に教えてくれる。
すごく怒りっぽいし、結構ひどい事も言われるけど、根本的にとても優しい。ちょっと真面目過ぎるのが難点だけど、たぶん僕の事を親身になって考えてくれてるからだって事もわかる。
先輩はすごく良い人だ。なんでこんなに良くしてるのか、わからないけど、僕はそれが嬉しい。
だから、できれば僕も先輩のために何かできる事があればしたいと思う。
だけど、僕は自分が何をしたら良いのか、サッパリわからない。
ノリなら、何をしたいか、どうしたいか、聞かなくても言ってくれる。行動に出る。
でも、先輩はちっともわからない。少しはわかる事もある。
だけど、何を考えているのか、何を望んでいるのか、読めない。
もっとわかりやすい人なら良かったのに。でなければ、もっとわかりやすく言ってくれる人なら良かった。
僕は先輩が好きだし尊敬してるけど、先輩の事を何一つ知らない。先輩が何を考えてるのか理解できない。
それは僕があまり賢くないせいもあるのかもしれないけど。
いつかわかるようになるんだろうか?
できれば理解したい、と思う。
先輩は面白い人だ。たぶん僕とは正反対の人。
僕は物事を順序立てて論理的に考える事が苦手だ。
それは昔からそうだ。たぶん、僕は幼い頃から『あまり頭の良くない子供』だったと思う。
皆が説明されるまでもなく理解できる事の大半が、理解できなかった。考えてもわからないんだから仕方ない。困ったなとは思うけれど、それだけだ。
時折、僕は変なのかな、と思う事がある。僕には何故そう言われるのか理解できないけど、時折変だと言われるから。
でもよくわからない。僕からしてみれば、周りの人達の方がずっと変だと感じる。
何かに固執して、それを押し付ける人。何かに悩まされ、振り回されてる人。見えない何かと戦ってる人。目の前にいるのに、どこか違う世界にいて理解し難い言動をする人。世の中には色々な人がいる。
理解できないのは困るけど、だからこそ世界は楽しい。
僕は幸せだ。とても幸せで、生きていて良かったと心の底から思う。
死んでたらノリにも杉原先輩にも、出会えなかった。
「篠原?」
先輩の声で我に返る。箸を握ったまま、つい考えこんでいた。
「どうした、気分でも悪いのか?」
心配そうに僕の顔を覗き込んで来る。
「ううん、大丈夫」
首を振ると、先輩は安心した顔になる。
「なんだ、驚かせるな。急に動かなくなったからどうしたのかと思ったじゃないか」
「……あのね、先輩」
「なんだ?」
生真面目な顔でこちらを見ている。
「僕は先輩に会えて、良かったと思うよ」
心底そう思う。
「先輩がいると楽しいし、嬉しいし、面白いし。たぶん先輩がいなかったら、どうやって勉強すれば良いのかちっともわからなかったし、きっと今でも進路希望は未定のままだったと思うよ」
笑ってそう言うと、先輩は何か言いたげな、困ったような、怒るべきか悲しむべきか笑うべきか悩んでるような顔で、僕を見つめた。
「……篠原」
心からの感謝の言葉を告げた筈なのに、何故か先輩は渋面になった。
「なに、先輩?」
「一応念のため尋ねるが、今の進路希望は間違いなく本気なんだよな?」
凍るような低温。
「そうだけど」
そう答えると、先輩は真顔で頷く。ちょっと恐い。
「……そろそろわかってると思うが、俺は物事に真面目に取り組まない、いいかげんな人間が嫌いなんだ」
そうなんだ? そういえば、前に言われた通り勉強しなかったら怒られた事あったかも。
「だから一生懸命頑張ってる人間、努力する人間は応援するし、協力を惜しまない」
「うん」
「仮定の話や、たら・ればは嫌いだからこの際置いておくが」
あれ? もしかしてこれ、怒ってる?
「俺がいようがいまいが、勉強くらい真面目にしろ。人間一人の存在の有無で揺らぐ信念なら、いくらでも揺らぐぞ。一度決めたら、何がなんでもやってやるくらいの気持ちで挑め。でないと、この先やってられないぞ。わかってるだろうが、今の成績じゃ城南大学はどの学部だろうと受からない。死ぬ気で頑張れ」
そうだ。先輩はそういう人だった。よくわからないけど、先輩には僕の言動の何かを不真面目だと感じたんだ。
本当にリトマス紙みたいな人だ。ちょっとしたきっかけで表情や感情が一変する。
たぶん気付かずにスイッチを踏んだんだろう。
なんて答えれば良いのか、よくわからない。でも、先輩は嘘やごまかしも嫌いだ。
「……なるべく努力して頑張る」
そう答えると、先輩は一瞬呆れたような顔をしたけど、溜め息ついて、それ以上続けなかった。
というわけで超然久々更新です。
久々過ぎてプロット及び設定書紛失して、思ったより執筆に時間がかかりました(汗)
最初の更新停滞時に母が癌で手術のため入院(幸い初期発見)、
手術が無事に済み退院したところで義父の癌が発覚(末期癌のため手術不可能)、自宅療養&通院。
今年の夏or秋に、ようやく新しくプロバイダー契約完了しました。
PCが代替わりした事もあり、ID&パスワードがわからなくなったものもいくつかありますが、
たぶん必要なところは念のため事前にメアド変更したはず。
とてもいいかげんで超テキトーな性格なので、少々あやしいですが。
今年中完結はたぶん無理ですが、来年早々には完結させたいと思います。
新旧PCデータをサルベージしましたが、何故かあると思ったいくつかの書きかけがないので、悩ましいですが。