第五章 雪の降る日の[5]
先輩と学校や図書館以外の場所で会ったのは初めてだ。それも私服姿の先輩なんて。
知らない人みたいで、少し緊張する。
「大丈夫か?」
心配そうに顔を覗き込まれて、ドキリとする。
「あ、うん、大丈夫」
「本当に大丈夫か。顔が少し赤いぞ。風邪引いたのか?」
僕は慌てて首を左右に振った。
先輩はVネックの濃いめの暖かそうな手編みのグレイのセーターと黒い綿のシャツを着て黒いコートをはおっている。下はジーンズと黒の革のベルトと、スニーカー。
そういえば、スニーカーをはいた先輩をこれまで見た事がなかったという事にも気付いた。
先輩は真っ黒で、こんな姿で暗いところを歩いていたら、見えにくいんじゃないかなと思った。
「先輩、大丈夫?」
「俺? 大丈夫だよ。塾の時間にはまだ間があるし。少し時間があるから、本屋かCDショップにでも行こうかと思っただけだったし。篠原はどうして……って愚問か。萩原と買い物でもしてたのか?」
「うん」
先輩って凄い。何で知ってるんだろう。超能力者みたいだ。
「楽しかったか?」
「……え?」
きょとんとした。
「買い物だよ。楽しめたかって。答えたくなけりゃ別に良いけど」
先輩はつまらなそうな、でもどこか照れ臭そうな、困ったような顔で小さく言った。
「楽しかったよ」
僕は答えた。
「そうか」
先輩は唇を綻ばせる。
「それは良かったな」
「うん」
先輩の笑顔に、僕の唇もゆるんでしまう。
「何を買ったんだ、って手ぶらだな。何か食べに行ったのか?」
携帯の事はまだ言えなかった。
なんとなく言い辛かった。
「うん」
僕が頷くと、先輩は僕の顔を心配そうに覗き込んでくる。
「篠原、本当に大丈夫か? 気分悪くないか」
「大丈夫だよ」
答えると、先輩は困ったような顔になって立ち止まる。
「……お前さ」
「え、何、先輩」
僕はびっくりした。
「どうしたの?」
先輩は僕と向かい合うように立って、僕の両肩に手を置いた。
「もっと俺を頼って良いからな」
「……どういう意味?」
聞き返すと、先輩は真っ赤になる。
「いや、その……俺がお前の力になりたいってそれだけ。迷惑だったら、すまん」
「へ?」
「悪い、どこの喫茶店だっけ?」
僕が喫茶店名を言うと、先輩は頷いた。
「じゃあ、そこだ。一人で行けるか?」
と、指を差した。
「行けるけど……先輩は?」
僕が尋ねると、何故か先輩は耳まで赤くなった。
「先輩?」
僕が声をかけると、慌てたように眼鏡を外して、
「目にゴミが入った」
と言って、顔を右手で隠してしまった。
「先輩、大丈夫?」
「……大丈夫。大丈夫だからこっちを見るな。頼むから見ないでくれ、篠原」
先輩の顔はますます赤くなっていく。
本当にリトマス紙みたいな人だと思う。
隠してるから、表情は良く判らない。
「見るなって言ってるのに」
先輩はそう言って、はぁと息をついた。
「先輩、大丈夫?」
先輩は諦めたように腕を外して、真っ赤な顔のまま僕を見て、困ったように笑った。
「大丈夫だ。だから安心しろ」
喫茶店はあと数歩の距離だ。だけど、折角久しぶりに会えたのに、まだ離れたくなかった。
「先輩忙しい?」
「それなりにな。まあ、受験済んだら暇になるだろうけど」
「久しぶりだね」
「そうだな」
先輩は言って、優しく笑う。
「どうした、篠原。疲れたのか? 足が止まってるぞ」
どうしよう、と思う。喫茶店の前まであと三歩くらいしかない。
「先輩」
「なんだ?」
「先輩、喉渇いてない?」
「……もしかして」
先輩の顔がこれ以上ないくらい赤くなる。
「もしかして、篠原、お前、俺を誘ってるのか?」
僕はきょとんとした。どういう意味か判らない。
「え?」
「あー、その、つまり、変な意味じゃなくて……喫茶店に一緒に入ろうって言いたいのかって」
別に、そんなつもりじゃなかったけど。
僕はまじまじと先輩を見上げた。
だけど、そうだな。先輩とお茶とか飲んで、もっと話したいなとは思った。
もうすぐ祖父ちゃんが来る頃だと思うけど。
だけど久しぶりに会えたから。
「えっと、その」
何故だか泣きたいような、それでいて嬉しいような気持ちになる。
「もっと話したいなって。あと先輩の話聞きたい」
僕が言うと、先輩は頷いた。
「俺も。だから、電話番号教えたつもりだったんだけど」
そうだったんだ。知らなかった。っていうか、先輩そんなこと考えてたんだ。
「でも、先輩忙しいんじゃないの?」
「本当に忙しい時は出ないから。俺、篠原が都合良い時間知らないし、自宅に電話して、篠原の家族出たら気まずいし。本当は俺からかけるべきなんだろうけど……」
先輩は困ったように顔を歪めた。
「悪い」
何故か謝られた。
「なんで先輩が謝るの?」
「……俺が謝りたいから」
そう言って黙り込んでしまう。
「ええと、先輩」
僕は困ってしまう。
「忙しい?」
見上げると、先輩は何だか少し泣きそうな顔になった。
「先輩?」
「……私服、可愛いな」
「え?」
びっくりした。
「小学生か中学生みたいだ」
ええと、それは。
「褒めてないよ」
「うん、そうだな」
先輩は頷いた。
「すまん」
先輩は言った。
「……褒め言葉とか、良く判らなくて、どう言ったら良いか判らないんだが」
僕はじっと先輩を見つめた。
「そうしてると、本当小さいよな、お前」
「…………」
何と答えたら良いか判らなくて、僕は困惑しながら見つめた。
「小さくて、触ったら握りつぶしてしまいそうだ」
「……そんなに小さくはないと思うよ」
「うん」
先輩は頷いた。
「だけど、制服着てる時より小さく見える」
本当に何と言ったら良いか判らない。
困ってしまう。
なんでそんなに小さいとか言うかな?
確かに先輩に比べれば、僕は小さいけど。
「大きい方が良い?」
僕が言うと、先輩は首を横に振った。
「そういう意味じゃなくて」
先輩は考え込むように、眉間に皺を寄せた。
「……なんていうんだろう。俺は、たぶん……恐いんだ」
恐い?
きょとんとした。
「いや、篠原が恐いって事じゃなくて、俺が」
「先輩が?」
なんで?
「……それでもお前のことが可愛いって思ってるから」
「え?」
「なんだか際限なく好きになってる気がするから」
優しい、だけどどこか辛そうな、悲しそうな笑顔。
どきん、とした。
「ヤバイなって」
先輩は視線をそらしてしまう。
「判ってるつもりなのに……理解しようとしてるつもりなのに、本当どうしようもないなって」
「先輩?」
「……お前は子供なのに」
ずきり、とした。
「僕は、子供なの?」
そう聞いたら、先輩は僕の頭のてっぺんのところをゆっくり撫でた。
「そういうところも含めて好きだよ。そのつもりだけど……お前は子供に見えない。だから、困る」
困る?
「なんで?」
「俺がバカだからだよ」
先輩は苦笑した。
「だから、篠原はあんまり気にするな。ただの愚痴で戯言だ」
「先輩、疲れてるの?」
「……疲れてないと言ったら嘘になるけど、そんなたいした事はない。お前の顔見られて良かったよ。たった数日顔見ないだけなのに、ずっと会いたかったから」
先輩、なんだか元気がない。
なんだかへにゃっとしてる。
いつものキレがない。
少し背中丸めがちに歩くのはいつものことだけど。
「あのね、先輩」
「なんだ?」
「甘い物好き?」
「嫌いじゃないけど、特に好きというわけでもない。どうした?」
「え?」
どうしたって。
聞かれても困るけど。
それにしても、好きじゃないのか、甘い物。
やっぱりバレンタイデーなんて必要ないんじゃないかと思う。
「ううん、なんでもない」
「は? 何でもないって、その顔違うだろう。いったいどうして……」
言いかけて、先輩は真っ赤な顔になる。
「あ、待て。もしかして、篠原……っ!」
その時、反対側から祖父ちゃんが歩いてきた。
「祖父ちゃん」
「え?」
先輩はびっくりした顔をした。
祖父ちゃんはゆっくりこちらに歩いてくる。
「待たせたな、彩花」
と、言ったところで、祖父ちゃんはそばにいる先輩を見た。
「こんばんは、初めまして。どなたかな?」
祖父ちゃんが声をかけると、先輩は真顔になって、背筋をぴんと伸ばしたかと思うと、深々と頭を下げた。
「初めまして、同じ学校の三年の、杉原克明と申します」
その瞬間、先輩が知らない人に見えた。