第一章 傷
これは自サイト「夢を見る草原」にて公開した作品とほぼ同一内容です。
リストカットシーンがあります。
ご注意ください。
僕はキチキチとカッターの刃をスライドさせた。
左手首に当て、注意深く皮一枚だけをそっと切る。
ちりりと痛む傷口を、そっと舌先で舐め上げた。
仄かに広がる薄い血の味。
これは自殺未遂なんかじゃない。
僕が生きている事を確かめる為の作業。
僕の手の平の上で転がる采配。
今のところは『生』に傾いてる天秤。
これくらいじゃ人間は死なない。
人間てのは案外しぶとくてしたたかな生き物だ。
死なない事を僕は律儀に確かめる。
血が止まった事を確認して、カッターシャツの袖を下ろす。
リストカットなんて代物じゃない。
これは単なる形式。
僕が僕自身を確かめる、ただそれだけの。
僕の名前は篠原彩花。
友人はサイと呼ぶ。
色彩の彩だからサイ。
僕の性別は生まれた時から正真正銘、女だ。
良識ある大人は眉を顰めるだろうが、僕は自分を『僕』と呼ぶ。
一番しっくりくるからだ。
それにとりわけ意味はない。
それに意味を持たせたいなら「実は幼い頃のトラウマで」って事にするけど。
実際は理由なんてない。
僕の性癖、というより他にないだろう。
それ以上の詮索など無用というか無駄だ。
「危ないよ、サイ」
ノリが言うのに、笑って返す。
「平気だよ」
屋上の手摺りの上、平均台の要領でつつつと渡って飛び降りる。
内側へ。
「サァ〜イィ〜っっ!!」
真っ赤な顔で怒鳴るノリ。くすりと笑う。
「死なないよ、これくらいで」
「見てる方が寿命縮むんだってば!!」
「見なけりゃ良い」
そう言うと、ノリ──萩原典香──は呆れたように溜息ついた。
ノリは美人だ。
良く似た名前の芸能人よりは多少劣るが、それでもなかなかのものだ。
一言で言えば派手、と言われるタイプ。
何処にいてもひどく目立つ。
高校の普通教室なんかでは浮いてしまうような。
紅い口紅がひどくキレイ。
彼女の顔にとても良く映える。
少しウェーブを描いた癖毛の茶髪。
気の毒にその容貌と先入観から、天然とはなかなか理解して貰えない。
損な性分だ。
「あんたさぁ、サイ。一歩手前だよ。もう重症。救いようないよ」
ノリは周囲や本人が思ってるより普通でまともだ。
ちょっと個性的な部分があるだけ。
すごく面倒見が良くて、お人好しな姉御肌。
僕は笑った。
「そう?」
ノリは舌打ちした。
「反論くらいしなよ」
「……して欲しいの?」
首を傾げて尋ねると、ノリは僕の頭を引き掴んで、そのままぎゅうっと抱きしめた。
ノリの匂いはとても気持ち良い。
僕はそっと目を閉じる。
「……バカ」
それはたぶん本当の事だから、僕は反論しない。
「……あんた、本当に始末に負えないよ」
嘆息するように言った。僕はノリの胸の中、苦笑いする。
ノリはそんな僕の額を、拳で小突いた。
「痛いよ、ノリ」
「そりゃ良かった。生きてる証拠だね。あんた時々痛覚なさそうな顔してるから」
僕はあははと声を上げて笑った。
ノリがいやがる手摺り渡り。
単なる余興のつもりだったのだけど。
観客がノリだけで、その当人がいやがるというなら何か別の事考えなくちゃ。
「逆立ちってのはどう?」
「……まさか手摺りの上を、じゃないわね?」
「正にその通りだけど」
僕が答えると、ノリは恐い顔をした。
「絶対に駄目」
きつく睨まれて、肩をすくめた。
「じゃあどうしたら、ノリは喜ぶ?」
ノリは怪訝な顔をした。
「何、あんたあたしを喜ばせたいの?」
「うん」
真顔で頷くと、何故かノリはいやそうな顔になった。
「何もしないで」
一瞬絶句する。
ノリは冗談言ったつもりではないらしい。
「……それは酷いな」
正直に言うと、ノリはきつく睨んだ。
「サイが何か余計な事考えると、大抵ロクな事にならないからでしょ!」
僕は肩をすくめた。
「だって今日はノリと初めて友達になった日なんだよ?」
そう申し立てると、ノリは呆れ顔になった。
「……ジュースでも奢ってくれた方が嬉しいわ」
「……つまらないな、ノリの発想」
「あんたがおかしいのよ!! サイ!!」
そりゃ酷いよ、ノリ。もう少し言いようがあるじゃないか。
「じゃあね、歌う」
「……は?」
ええと歌詞は面倒くさいから無し。
突発で思いついたメロディー、ラララで口ずさむ。
大声で。
両手後ろに回して組んで。
多少音が外れたってその辺はご愛敬。
聞いてるのはノリだけ。
ノリのために、ノリに聞かせるためだけに綴るフレーズ。
バラード?
ポップス?
判らない。
明るい歌。
感謝の歌。
歌い終わってノリを見ると、ノリは真っ赤な顔で俯いていた。
「……ノリ?」
「……バカね、あんた」
少し掠れた声で。
「本当、バカよ、サイ」
そりゃ無茶苦茶酷いよ、ノリ。
「……最高」
泣きながら。
「……褒め言葉?」
聞くと、ノリは泣き笑いの表情になった。
「そうよ。最高の褒め言葉よ」
「ノリってば口悪い」
ノリは笑った。
「あんたは変。だけどあたしは好き」
『好き』って言葉が優しく響いた。
「僕もノリが好き」
素直な気持ちで言ったのに、ノリはぷっと吹き出した。
「……やっぱあんた、変」
幾ら僕でも傷付くよ、ノリ。
そんな僕を見て、ノリは高らかに笑った。
楽しそうなノリ。
僕は苦笑せざるを得なかった。
カーテンを閉め切った部屋。
生温い室温。
僕は一人椅子に腰掛け、カッターナイフの刃を左手首に静かに滑らせる。
薄く滲む血。
僕が生きている、証。
ちゃんと痛みを感じてる。
大丈夫。
僕はちゃんと生きている。
間違いでも幻想でもなく、現実に生きている。
僕は笑った。大丈夫。
まだちゃんと生きてる。
机の上の写真立て。
そこに映る小さい僕と、若い母さんと父さん。
家族三人で映る、ただひとつの写真。
幸せそうな母さん。
僕は思わず微笑んだ。
カッターの刃をしまい、僕はそっと写真に口づけた。
僕がこの世で愛してる存在。
コンコン、とノックの音が響いた。
「はい」
僕は返事して立ち上がった。ドアノブを回す。
「……母さん?」
泣いている、母さん。
「……に……るの……?」
僕は首を傾げた。
「……恐い夢でも見たの?」
震えながら、脅えながら泣いている、母さん。
「……どこにいる……の……?」
僕は苦笑した。
「……父さんは職場だよ。今日は、平日だから」
安心させようと、僕は言う。でも母さんの目は僕を見てない。
「……何処にいるの……? ……ここにも……いない……!!」
「……僕ならいるよ、母さん。父さんはいないけど、僕ならここに、いるよ?」
「いない!! ……どうして!! どうしていないの!! どうしてよぉっっ!!」
泣き叫ぶ、母さん。僕は困った。本当に困って。
「仕事に行ってるんだ。今日は、水曜日だよ。母さん」
聞こえないんだ。
知ってる。
本当はちゃんと知ってる。
母さんには僕が見えない。
僕の声が聞こえない。
そういう事になってる。
僕の声は幻聴で、僕の姿は幻覚なんだ。
少なくとも、母さんにとっては。
母さんの記憶の中では、僕はとうに死んでいる。
だから僕は亡霊なんだ。
いない筈のもの。
知っていても、僕にとって僕は死んでいる存在ではないし、僕には母さんの姿が見えている。
「母さん。部屋に戻ろう。……お薬は、飲んだ?気分悪いの?」
無駄な事だとは知っている。
ここ四年ほど確認して、良く判ってる事。
「……ねぇ、母さん」
僕は母さんの肩に手を置いた。
だけど母さんは僕に気付かない。
僕に気付かないで通り過ぎる。
僕は仕方無しに見送った。
そして無言でドアを閉めた。
自室へ戻る。
母さんには僕が見えない。
僕は存在しない筈のものだから。
彼女にとって、僕は見えない方が良いらしい。
判っていても、僕には見えてしまうから。
彼女の悲しげな声は、僕をも悲しくさせるから。
僕が見えない母さん。
母さんにとって、僕が見えるのと見えないのと、どちらが幸せなんだろう?
時折、考える、こと。
「……彩花」
祖父ちゃんが帰って来た。
庭先で、ぼうっとしていた僕に声を掛ける。
「……祖父ちゃん」
「……那由子はどうしたんだい?」
僕は苦笑した。
「……父さんを探しに行ったよ」
「……一人でか?」
「うん」
「……すまなかったな」
僕は祖父ちゃんを見上げた。
「どうして?」
笑って聞くと、困ったように祖父ちゃんは笑った。
「……いろいろとな」
僕は笑った。
「祖父ちゃんに謝られる事、何もないよ」
そう言うと、祖父ちゃんは苦笑した。
「……わしじゃ父親代わりにはならないからな」
「……それって祖父ちゃんのせい?」
聞くと困ったように笑う。
「……違うんでしょ?」
僕は判っていてわざとそう尋ねる。
「すまんな、彩花」
「……祖父ちゃんに謝られる事何もないよ」
「……そうだったな」
僕は笑った。
僕は庭先から縁側に上がり、そのまま部屋へと向かった。
途中で、仏壇の遺影にちらりと目を遣りながら。
……そこにはたった一人、笑う父さん。
一人なのに、幸せそうに笑ってる。
僕は自室のドアを開けた。
突然壊れた存在。
突然に失われた存在。
『世界』は不意に壊れたりする。
何の前触れもなく、防御する暇もなく。
それは全て人にとっての『世界』ではなく、僕一人に感じられる小さな狭い『世界』だったりするのだけど。
僕は生きている幽霊。
祖父ちゃんやその他の人にとっては存在するもの。
だけど母さんにとっては存在する筈のないもの。
彼女にとって、失われたのは僕一人で、彼女がこの世で最も愛する父さんは、この世に存在するもの。
僕はいる筈のないものだから抹消される。
それでも良い。
僕にとって母さんは存在するものだから。
母さんの目に、幻影の父さんがいる間は、幸せな笑顔を見られる。
それで良い。
その笑顔が僕に向けられたものでなくても。
幻影の父さんがいる間は、母さんは僕の傍にいてくれるから。
きっと、たぶん。
「……サイ?」
ノリが僕を呼ぶ。
「……何?ノリ」
まだ重い頭を机の上に乗せたまま、ぼんやり答えた。
……眠い。
「あんた本当、良い根性してるわよね。さっき授業中にアレほど寝ておいて、まだ寝たりないの? 次、体育だよ?」
「眠い。……生理休暇取る」
「忘れてない? 今月二度目だよ、それ。桂田ぶっちぎれるよ、ソレ」
「……んじゃあ、貧血でいーや……」
「素直に睡眠不足にしとけば?」
「……睡眠不足、サボりの理由に使える?」
「どうだろうね? 聞いてみたら?」
「誰に」
「桂田」
「……やめとく」
「んじゃどーすんの?」
「フケる」
呆れたように、ノリが僕を見る。
「ああ、判ったわよ。たっぷり休めば良いわよ。あんたの好きなだけね」
「……怒ってる? ノリ」
「怒ってないわよ。呆れてるだけ」
「そ。……そりゃ良かった」
ノリが笑った。
「何故だろうね。あんまり腹は立たないよね。困った事にね」
「……困った事なの? それ」
「あんまりあたし自身は困ってないけど」
「……ふうん?」
机とお友達。
ずるずると溶けてる。
「けどそろそろ場所移動した方が良さそうだよ」
「……何処で寝るのが気持ち良いかなぁ」
「保健室連れて行ってあげるわよ」
ノリは唇歪めて笑った。
「ん」
ノリの肩借りて、ずるずると歩く。
ああ、駄目だ。
溶けそうに眠い。
駄目な感じ。
すごく重症。
末期的な感じ。
「なぁに? 夜更かしでもした?」
「んぁ……いや夜更かしって程でもないけど……」
「……じゃ、ヤな事でもあった?」
「……ああ……うん……」
そうだね、そうかもだね。
ノリは曖昧に笑った。
「ゆっくり休みな、サイ」
「……ん……」
とろとろと眠りに意識引きずられる。
どんどん足が重くなる。
焦ったような声でノリが言った。
「バカ、サイ!! ここでじゃないよっ!! 保健室のベッドの上でだよ!! こんなトコで寝たら絶交するよっ!! サイ!!」
絶交されるのは困るな……。
ぼんやり思いながら、ノリの肩に寄りかかった。
本当駄目だ。
ものすごく眠い……。
足は、まだかろうじて動いてる……けど。
「だぁ〜からサイ!! 寝るなっ!! 我慢しろ!! 暫くの辛抱でしょうが!! バカ!!」
ノリの怒鳴り声が耳元に聞こえる。
今日も母さんは、父さんを探している。
家中歩き回って、探している。
今日は話し掛けない。
僕は幽霊だから。
僕は存在しないものだから。
黙って僕は母さんを見ている。
ちりりと痛んだ傷口を、そっと口に含んだ。
時折、こんな事は唯の無駄かも知れない、と思う。
僕が僕を認識しても、僕が僕を確かめても、母さんは一生僕に気付かないかも知れない。
それはとても恐い事だ。
とてもいやな考えだ。
でも今、母さんは僕に気付かない。
それが永遠だとしても何の違いがあるって言う?
母さんは見えない父さんを探す。
僕には見えない父さんを。
母さんは一体、何処に何を見ているんだろう?
存在する僕が見えないで、存在しない父さんが見える母さん。
母さんの視界は一体どうなってるんだろう?
僕と母さんはそんなにも違ってるんだろうか?
……ふと、疑問に思った。
「母さん」
その時、不意に母さんが僕の方を見た。
どきりとした。
一瞬、母さんが僕を見てる、と思った。
いや気のせいだ、と打ち消した。
だって母さんに僕は見えない筈だから。
なのに、母さんはゆっくりと僕に近付いてくる。
まさか、と思った。
だって母さんはこの四年、一度も僕に気付かなかった。
一度も僕を見なかった。
母さんは真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
……間違いようがない。
僕は一瞬、笑い掛けた。
母さんがようやく僕に気付いてくれた。
僕の存在に気付いてくれたんだ。
「……浩之さん?」
僕を見て、父さんの名を呼んだ。
一瞬にして幸福感は崩れ去った。
「……母さん?」
声が、震えた。
母さんは僕の目を見ている。
だけど、それは僕に向けられたものじゃないんだ。
身体が、震えた。
母さんは僕の肩に手を触れた。
あんなに求めていた、母さんの手。
僕は震えていた。
母さんは僕を見ていない。
僕を見てるのに、相変わらず母さんの中で、僕は存在しないままなんだ。
「……浩之さん……!!」
母さんはいきなり僕を抱きすくめた。
僕は母さんに突然キスされて真っ白になった。
「……母さんっ!!」
思わず、突き飛ばしてしまった。
突き飛ばしてから、はっとした。
しまった!!
あの時と同じだ!!
四年前と同じ事を、二度としないと思った事を、僕はもう一度繰り返してしまった。
僕を覆い尽くす後悔。
「いやあああぁぁっっ!!」
母さんは泣きながら、僕の首を絞めてくる。
僕は薄れゆく視界の中、母さんを見つめた。
どうしてそんなに苦しいんだろう?
どうしてそんなに悲しそうなんだろう?
僕に出来る事ってなんだろう?
僕には何も出来ないんだろうか。
何だかそれが一番悲しかった。
母さんはこんなにも苦しんでるのに。
母さんはこんなにも悲しんでいるのに。
僕はただそこに在る置物とさして変わらない。
何の役にも立たない。
僕はただ、慰めたいだけなのに。
母さんの救いになれれば良いのに。
「うわあぁぁぁっっ!! ああぁぁぁっっ!!」
母さんは本当に苦しそうだ。
僕の両目に、生理的な涙が溢れてきて、視界が滲んで見えなくなっていく。
喉が、苦しい。
呼吸が、段々にしづらくなってくる。
意識してないのに、呼吸はどんどん荒くなっていく。
顔が、喉が、ひどく熱い。
耳鳴りし始める。
母さんの顔が歪み揺らぎ、僕は喘いで宙を掻く。
ねぇ、母さん。
僕はあなたを傷付けないよ。
あなたを傷付けたりしない。
あなたはとても弱い人だから。
あなたはとても傷付きやすい人だから。
だからそんなに苦しいんだよね?
たぶんどこかで僕が間違えたんだ。
ごめんなさい、母さん。
僕はあなたを苦しめるつもりは毛頭ないのに。
僕の声はいつもあなたには聞こえなくて。
一番近くにいる人なのに、一番この世で守りたい人なのに、僕はいつも間に合わない。
僕の首を絞めながら、とても悲しそうな母さん。
とても苦しそうな母さん。
あなたが僕を殺したいわけじゃないのは知ってる。
だから嘆かなくて良いんだよ。
だから苦しまなくて良いんだ。
他の誰が何と言っても僕だけは知ってる。
ちゃんと知ってるんだ。
母さん。
泣かないで。
苦しまなくて良いんだよ。
母さん。
薄らいでいく視界。
遠のいていく声。
僕の目が見えなくなっていく。
母さんの形さえ捉えられなくなって、周りの音が耳鳴りに邪魔されて聞こえなくなっていく。
耳障りなノイズ。
真っ白に染まる視界。
首筋の熱さえ朧気になって遠のいていく。
母さん。
母さん、何処にいるの?
僕は……僕はここだよ。
ここにいるよ。
……母さんが望むなら、いつだって何処だってそばにいるから。
母さん。
……落ちていく、僕。
一人で。
あなたが傍にいてくれたら、何も恐くないんだよ、母さん。
首なんかどれだけ絞めたって構やしないんだ。
あなたが僕の傍にいてくれるなら。
僕の首が、その為にあるなら。
混沌とする世界。あなたが産み落としたこの世でただひとりの僕。
あなたが愛してくれると言うなら、僕にこわいものなんか一つもない。
僕はあなたの為にこの世に存在するから。
手首に傷を付けてみるのも、屋上から飛び降りたりしないのも、全てはあなたのために。
そして僕自身のために。
真っ白な世界。
全てが遠くて。
……ねぇ、あなたは傍にいてくれてる?
ちゃんと僕の傍にいてくれてる?
僕を置き去りにしたりしないで。
僕一人置いて、どこか行ったりしないで。
あなたのために僕は良い子になるから。
あなたが首を絞めても、声を上げたりしないから。
だからずっと僕の傍にいて。
僕の傍にいてよ。
僕はそのために生きてるんだから。
浮遊感。
宙に浮いてるみたい。
ふわふわと。
暖かくて。
夢見てるみたいに。
ひどく気持ち良くて。
僕は目に見えない空間を泳いでる。
誰かの体温。
人の気配。
何処かの夢の続き。
雑踏の中のようなざわめき。
見えない人込み。
僕は泳ぐ。
海の中の魚みたいに。
自由に。
力強く。
母さんの腕の中。
僕の居場所。
遠い記憶。
夢のような記憶。
僕はすいすいと泳ぐ。
何も見えない何もない空間。
僕は大きく息を吸った。
流れ込んでくる、新鮮な空気。
……空気、だって?
僕は目を開けた。
突如窓を開けたみたいに流れ込んでくるノイズ。
誰かの泣き声。
悲鳴。
甲高い母さんの叫び声。
誰かの話し声。
「……サイ」
泣きそうなノリの顔。
白い、消防服。
白い担架。
人だかり。
家の前の道路。
「……ノリ……」
「……サイレン、近かったから」
僕は笑った。
ノリがくしゃくしゃに顔を歪めて、僕の手を握りしめた。
「……僕は、大丈夫」
僕はにっこり笑った。
喉がまだ痛くて、掠れた声しか出なかったけど。
「……苦しいのは、母さん。母さん、苦しいって泣いてる。僕の声は、聞こえないらしいから、ノリ、伝えてくれる? 母さんに。僕は大丈夫、元気になって、笑ってねって」
「……サイ……!!」
ノリの両目から涙が溢れてこぼれ落ちた。
「……サイ、あんたバカだよ!! 本当、バカ!!」
酷いな、本当。
ノリって容赦ない。
「……僕は怪我人なのに、本当口悪いね。ノリ」
「本当バカなんだから!! あんたってば!! 救いようないよ!! サイ!!」
ノリの悲鳴のような声が、僕の耳を打った。
僕は困って、仕方ないから笑った。
「すぐまた戻るよ、ノリ」
ノリはしゃくり上げながら、僕を見た。
担架は運ばれ、僕は救急車に乗せられた。
「サイ!!」
ノリは泣き虫だ。
今生の別れみたいな顔して。
「大丈夫だよ、ノリ」
聞こえないと判っていて、僕は口の中で呟いた。
── 第一章 終 ──




