益虫同盟
八月の終わり、ゴキブリが大量発生した。
いや、地下で繁殖していたものの一部が、地上に姿を現したと、表現するのが正しいのかも知れない。
場所は首都圏のA駅。
最初に発見したのは、始発電車を待っていた会社員である。
ホームの端で蠢いている、何やら黒いものが視界に入ったのだ。
ホーム下から這い上がった黒い帯が、点字ブロックを横切ろうとしていた。
目を凝らすと、ゴキブリの群れだった。
匹という単位で数えることはとてもできない。
そして、それが自動販売機の裏へ流れ込んでいく。
その会社員は、駅員を呼ぶ前に、動画を撮影した。
そしてSNSに投稿すると、瞬く間に拡散した。
翌朝、テレビ各局が一斉に「ゴキブリ大発生」と報じた。
画面では、遠目にゴソゴソと動く黒い帯が映し出され、それがアップになる。
......出演者が悲鳴を上げた。
「映像はA駅で撮られたものですが、B駅でも同じ状況のようです」
B駅のものは、夜に撮られた映像らしく、どこかの部屋の暗がりの中、壁を覆い尽くすほどのゴキブリが蠢いていた。
こちらは幸いと言うべきか、まだ人目につくところには出てきていない。
衛生害虫に詳しい大学教授が呼ばれ、駅構内の温度、飲食物、排水設備などについて解説した。
「下水道管やマンホール内など、ゴキブリにとって住みやすい環境はたくさんあります。なのに、これほどの数が地上に出てきたとなれば......」
教授は話を続けた。
「増えすぎて、地上に溢れ出たのかも知れません」
スタジオに息を飲む声が響いた。
「先生、駆除できるんですか」
「できるでしょう、ですが時間はかかるでしょうね」
「どのぐらいで?」
「それは分かりません。状況によりますから」
二人の男が、その番組を見ていた。
一人は八手家雲、五十八歳。
もう一人は夏至三十夫、六十一歳。
二人の交流は二十年近くになる。
知り合った場所は昆虫採集会だったが、二人ともただの昆虫好きではなかった。
八手は蜘蛛、特にアシダカグモを愛好していた。あの近未来的なフォルムに魅了されていた。
夏至はゲジ、特にオオゲジを愛好していた。あの深淵からの来訪者のような姿に魅了されていた。
僅かな食い違いはあれど、二人は意気投合したのである。
定食屋で、日替わり定食を食べていた八手は、箸を止めると言った。
「手ぬるい」
その目の前で、カツ丼を食べていた夏至も言った。
「手ぬるいな」
定食屋の店主が、急ぎ足でテレビの前まで来ると、チャンネルを変えた。
八手は鼻で笑った。
「薬剤でも散布する気か?人間というのは、すぐ薬に頼る」
夏至が言葉を継いだ。
「自然界には仕組みがある」
次に、二人の声が揃った。
「「捕食者だ」」
八手が言う。
「アシダカグモ」
夏至も言う。
「オオゲジ」
二人とも沈黙した。
それは、僅かな、とても僅かな時間だった。
だが後に、警察、鉄道会社、都庁、環境省、三つの大学、二つのテレビ局、四つの新聞社、そして推定三千万人のSNS利用者を巻き込む事件は、この僅かな時間のうちに誕生した。
八手が口を開いた。
「彼らに任せればいい」
「そうだな」
夏至も応じた。
二人は定食屋を後にすると、いそいそと準備を始めた。
この計画の用意には、手間暇がかかるのだ。
それから数日が経ち、A駅に新たな異変が起きた。
まず気づいたのは女子高校生だった。
午前十一時十三分。
改札近くの柱を、掌の大きさを超えるくらいの蜘蛛が、八本の脚をワキワキ動かして這い登っていった。
「うっわ、でっか」
彼女はスマートフォンを向けた。
蜘蛛は止まると、八本の脚を長々と放射状に広げた。
こちらが見ているのに気付いているのか微動だにしない。
「うーん、微妙?」
そう言うと、女子高校生は改札を抜けていった。
一分も経たないうちに、別の女性が同じ蜘蛛を発見した。
「アーッ!」
ただの悲鳴ではない。大絶叫である。
駅員が慌ててやって来た。
女性の指差す先を見て、駅員は言った。
「アシダカですね。益虫ですよ」
女性は般若のような形相で駅員を睨みつけた。
「益とかどうでもいいんです!」
駅員は震え上がったが、その隙に蜘蛛は、スススと柱の裏へ姿を隠した。
それで終われば、ただの日常の一コマだった。
十分後、二匹目が現れた。
さらに三匹目。
午後零時には一気に六匹が確認された。
午後零時二十分、売店の店員がバックヤードでゲジを発見した。
午後零時三十二分、別のゲジが女子トイレ前を素早く走り抜けた。
午後零時四十六分には、背広を着込んだ男性が、半狂乱になって駅員に訴えた。
「ゲジゲジが、ゲジゲジの群れがいる!動いている、動いている!」
駅員が急行すると、いた。壁に天井に、沢山いた。
「でっけぇ」
一匹一匹が掌近くある大きさだ。
駅員は呆然とした。
午後一時十五分、A駅は混乱状態となった。
利用客は蜘蛛とゲジを避けた。
ゲジは悠然と這い回っているが、蜘蛛は利用客を避けた。
乗客を避けた蜘蛛が別の乗客の方へ走り、その乗客が叫んだ。
ゲジが壁際を疾走すると、さらに叫び声が上がった。
鉄道会社は対応に追われた。
その日の夕方、テレビニュースは、「A駅、ゴキブリ騒動に続き、今度は大型の蜘蛛とゲジ大量出現」と報じた。
しかし、一方では幸いなことも起きていた。
目に見えて、ゴキブリが減っていたのだ。
三日も経つと、あれほど目撃されていたゴキブリが、姿を見せなくなっていた。
誰かがその事実に気づいた。
《あれ? ゴキブリいなくね?》
そうSNSに書いた。すると別の誰かが答えた。
《蜘蛛が食ったんじゃね》
さらに別の者が書いた。
《軍曹仕事した》
《ゲジも仕事してる》
《駅が生態系になってて草》
ある情報番組でコメンテーターが言った。
「一体どうなっているんでしょうか」
そのとき、各報道機関に一通の電子メールが届いた。
件名は、
《益虫同盟:第一次生物学的制圧作戦について》
であった。
新聞社は、その声明文を、全文公開した。
内容は次のとおり。
我々は益虫同盟である。
A駅およびB駅における衛生害虫の異常発生に対し、関係各機関の対応はあまりにも遅く、形式的であり、自然界の持つ自浄作用を軽視している。
よって我々は、まずA駅において、第一次生物学的制圧作戦を実施した。
投入した戦力は、以下の通りである。
アシダカグモ 一個分隊
オオゲジ 一個小隊
彼ら一匹一匹が、対衛生害虫戦における優秀な捕食者であり、A駅における作戦は、ひとまずの成功を収めた。
一般市民に告ぐ。
彼らを恐れてはならない。
彼らは敵ではない。
彼らは人類の味方である。
諸君の敵は、黒く光り、夜陰に乗じ、食料を汚染し、時に飛翔する。
彼ら益虫と手を取り合い、我らが敵を駆逐しようではないか。
と、声明文は締められていた。
テレビ局は困った。
どこまで真面目に扱えばよいのか分からなかった。
警察も困った。
駅構内へ人為的に蜘蛛やゲジを放ったことは間違いない。
だが、爆発物ではなく、毒物でもない。
被害者は多数いたが、主に恐怖による心理的ダメージだった。
そして、ゴキブリは実際に減ったようだった。
警視庁では翌朝、関係部署による緊急会議が開かれた。
会議室のスクリーンには、
《益虫同盟事案》
という文字が映っていた。
「名前がふざけているな」
刑事部長が言った。誰も反論しなかった。
「まず確認したい」
生活安全部の幹部が資料をめくった。
「アシダカグモ一個分隊というのは何匹だ」
誰にも分からない。
しばしの沈黙の後、誰かが口を開いた。
「八匹では?」
「なぜだ」
「蜘蛛なので」
幹部に睨まれると、その発言者は口をつぐんだ。
また別の誰かが口を開いた。
「十匹ぐらいでは」
「根拠は」
「分隊なので」
「それが根拠になると思うか?」
会議は五分ほど停滞した。
やがて、特殊事案対策室長の風中燭子が口を開いた。
「犯人側の用語です。こちらで定数を決めても意味がありません」
全員が彼女を見た。
風中は四十四歳。
冷静沈着で、判断が早く、現場経験も豊富。
過去に爆破予告、群集事故、動物脱走、化学物質漏洩など、分類困難な事件をいくつも処理してきた。
上司からの評価は高く、部下からの信頼も厚かった。
そんな彼女だが、蜘蛛が死ぬほど嫌いだった。
蜘蛛だけではない。
脚の多い生き物は、だいたい駄目だった。
ムカデ、ヤスデ、ゲジ。
中でもゲジは最悪だ。
蜘蛛は八本、ゲジは三十本。
多すぎるというだけで犯罪的に思えた。
彼女の職場でこのことを知るものは少ない。
「監視映像です」
部下が言うと、スクリーンにA駅の映像が映った。
柱の裏からアシダカグモが出てきた。
風中は一瞬硬直した。
映像の蜘蛛が壁を走った。
風中は資料を見た。
「室長?」
「見ています」
「画面を?」
「資料を見ながらでも映像は把握できます」
「今度はゲジが出ます」
「報告だけでいい」
「映像は?」
「報告だけでいいと言った!」
部下が音読を始めた。
「ゲジ一匹、画面右から左へ高速移動」
「二匹目が現れました。静止」
「三匹目......」
「もういい!」
風中は肩を震わせながら深呼吸をした。
刑事が発言した。
「益虫同盟の目的は何でしょう?」
風中が答えた。
「声明文通りなら、ゴキブリ駆除です」
部下と風中の問答は続く。
「本当にそう思いますか?」
「今のところ、それ以外の要求はない」
「政治的主張らしきものは......」
「益虫を尊重せよ」
「思想犯でしょうか?」
「それを思想と呼ぶべきかは、検討が必要です」
SNSでの世論は割れていた。
《よくやった益虫同盟》
《逮捕しろ》
《ゴキブリ減ったんだから有能》
《蜘蛛無理》
《ゲジだけはマジで無理》
《アシダカ軍曹に敬礼》
《駅で蜘蛛放つなゲジ放つな》
《行政より仕事してる》
《犯罪者を英雄視するな》
《そもそも蜘蛛やゲジは昆虫ではありません》
最後の指摘は、国立大学の昆虫学者によるものだった。
その学者は翌日、情報番組に出演した。
「まず前提として、蜘蛛やゲジは昆虫ではありません」
司会者が苦笑した。
「先生、今そこ重要ですか」
「重要です」
「事件の本質と関係ありますか」
「分類学上はあります」
「益虫同盟という名称がおかしい?」
「厳密には」
「でも本人たちは益虫と言っています」
「益虫という言葉自体、人間にとって有益かどうかという便宜的概念で――」
番組は急に難しくなった。
翌日、益虫同盟が再び声明を出した。
《我々は分類学的知見を尊重する。しかしながら名称変更の予定はない。我々の活動の本質は、学術的分類にはない。》
それを聞いた昆虫学者は、
「そうですか」
とだけ答えた。
なぜか少し残念そうだった。
警察は発信元を追った。
だが声明は複数の経路を経由して送られ、簡単には特定できなかった。
その間にも、A駅の状況は変わっていった。
ゴキブリの目撃件数は激減した。
アシダカグモも減った。
オオゲジも見えなくなった。
どこかへ移動したらしい。
駅員は安心した。
利用客も安心した。
一部の利用客は残念がった。
「軍曹もういないの?」
と、小学生が駅員に訊いた。
「軍曹?」
「蜘蛛のことだよ」
「仕事が終わったから、お家に帰ったんだろうね」
適当に駅員は答えた。
翌日、駅構内の掲示板に誰かが、《A駅防衛戦 勝利》と書いた紙を貼った。
鉄道会社はすぐ撤去した。
その夜、益虫同盟から更なる声明が発せられた。
《A駅における作戦は成功裡に終わった。しかしこれは前哨戦にすぎない。我々の真の敵はB駅に存在する。》
警視庁特殊事案対策室が騒然となった。
B駅。
首都圏最大級のターミナルの一つ。
一日数十万人が利用する。
地下街。飲食店。食品搬入口。古い配管。複雑な排水路。
長年にわたり改修を重ねた巨大迷路。
そして、関係者の間では、こう囁かれていた。
夜のB駅は危険である。ゴキブリ的な意味で。
その現状は、一部だけではあるが、既にマスコミに紹介されている。
益虫同盟の声明は続く。
B駅地下には、A駅とは比較にならない規模の敵性個体群が存在する。
夜間ともなれば、その一部は構内を河川のごとく移動するのだ。
そして飛翔を繰り返す個体も多数確認されている。
我々はこの事態を看過することは到底できない。
故に、ここに第二次生物学的制圧作戦の実施を宣言する。
投入予定戦力は、次のとおり。
アシダカグモ 二個分隊。
オオゲジ 一個中隊。
我々の持てる最大限の戦力を投入し、一気に駆逐する。
この益虫同盟の声明を、会議室の誰もが、聞いた、読んだ。
そして戦慄した。
誰かが言った。
「ゲジが、中隊になった」
それには、誰も言葉を返さなかった。
瞑目した風中に、部下が声をかけた。
「室長」
「何?」
「顔色が」
「正常です」
正常ではなかった。
「現地確認が必要です」
刑事が言った。
風中は目を開けると、皆に問いかけた。
「誰が行く?」
全員が風中を見た。
「なぜ私を見る」
「指揮官ですので」
正論だった。
風中は再び瞑目すると、天を仰いだ。
午前一時、終電後のB駅。
風中はホームに立っていた。
警察、鉄道会社、保健所、警備会社の合同調査である。
あたりを見回していた若い刑事が言った。
「意外と普通ですね」
風中はその若い刑事を見据えて答えた。
「油断するな」
本音では、このまま普通であってほしかった。
蜘蛛はいない。
ゲジもいない。
ゴキブリもいない。
綺麗で清潔感のある駅だった。
一行は地下通路を進んだ。
照明が一部落とされている。
遠くで清掃員が作業をしているのが見えた。
「例の場所は?」
「この先です」
鉄道会社の施設担当者は、そう答えて少し歩くと、金属扉の前で立ち止まった。
「ここから先は、普段は客が入らない区画です」
そう言ってから扉を開けた。
古い通路、配管、電気設備、排水溝。
油で汚れてはいるが、この駅にはなくてはならない施設だ。
「ここで夜間に大量に出ます」
「今はいないようだな」
風中はそう言った。
「灯りをつけてますからね」
施設担当者が答えた。
その瞬間だった。
通路の奥で何かが動いた。
一つ一つは、黒くて小さい。
だが、それが、十、二十......
風中は数えるのをやめた。
その黒い点が、排水溝から噴き出るように、溢れ出していた。
床に広がると、重なり、連なり、そして動いた。
もはやそれは黒い川だった。
「うわ」
隣にいた若い刑事が、押し殺したような声で叫んだ。
「これか」
別の者が、まるで諸悪の根源を見つけたように言った。
風中は言葉を失った。
蜘蛛は嫌いだった。
ゲジはもっと嫌いだった。
しかし、ゴキブリも大嫌いだった。
そして、この目の前の出来事。
一匹なら、まあ、とりあえず虫が出たで済む。
しかし、百匹を超えるとどうだ? もう、現象と言っていいだろう。
そして、千匹を超えたとなれば......これは、災害と言うべきだ。
その黒い川が、こちらに向かって流れてくる。
「室長、下がって」
部下が言った。
「私は大丈夫」
大丈夫ではなかった。
黒い川から、一匹が飛んだのだ。風中へ向かって。
人間は危機に際して本能的な行動を取る。
風中は、人生で一度も出したことのない声を出した。
「ぎゃあああ!」
部下全員が彼女を見た。
ゴキブリは壁に止まると、カサカサと音を立てて歩いている。
沈黙が降り、しばらくは誰も言葉を発しなかった。
風中は襟を正した。
「今のは忘れなさい」
「はっ!」
全員が答えた。
一つ分かったことがある。
あの災害級のゴキブリの大集団は、今のところ、あの金属扉を越えてこちらには来ない。
五匹、六匹がすり抜けてきた程度では、正直なところ脅威にはならない。
箒一本でなんとでもなる。
しかし、益虫同盟は違う。
掌より大きい蜘蛛、それより一回り小柄だが十分大きなゲジ。
高速で走り回り、人によっては、見るだけで硬直する。
彼らが放とうとしているのは、そういう存在だ。
それを何匹も、何匹も。
警察は対策を急いだ。
B駅周辺の監視を強化した。
防犯カメラ映像を分析し、ホームセンター、ペットショップ、昆虫イベントなどへの照会も行った。
そしてついに、一人の捜査員が、あるペットショップから取り寄せた記録に、異常があることに気が付いた。
それは、生き物の販売記録ではなかった。
不自然なほど大量の、昆虫用の飼育ケースが買われていたのだ。
購入者は八手家雲。
ほどなくして、夏至三十夫の存在も判明した。
警察は、二人の自宅を張り込んだ。
見れば見るほど、拍子抜けするぐらいの普通の男たちであった。
だが、一連の状況から判断すれば、彼らこそが「益虫同盟」の具体的な活動主体であると考えられた。
山に分け入り、洞窟に潜り込み、ゲジを大量に捕獲しているとの報告が上げられ、昆虫専門店の温度管理付きのレンタルスペースには、小型の飼育ケースが、幾つも積み上げられているとの情報も入っているのだ。
ある捜査員がポツリと言った。
「もっと、ちゃんとした組織かと思った」
風中は答えた。
「同盟だから、二人でも同盟でしょう」
その捜査員は、もう、この事件に従事するのに、生理的に耐えられなくなっていた。
だから言った。
「逮捕しましょう!」
風中は断腸の思いで答えた。
「まだ証拠が弱い。第二次作戦とやらを阻止し、現行犯で確保する」
その声は冷静だった。
だが、心の中では叫んでいた。
中隊だと?ふざけんな!
断固、阻止する。絶対にだ!
九月十三日、事態が動いた。
ネット通販で購入したと思しき折り畳み式台車が、八手と夏至の手元に届いたのだ。
彼らは、車に台車を積み込むと、どこかへと走り去っていった。
その報告を受けた風中が、誰ともなく訊いた。
「なぜ台車?」
隣にいた部下が答えた。
「中隊だからでは?」
風中は沈黙した。
向かった先は想像がつく。
蜘蛛とゲジを飼育している、温度管理付きのレンタルスペースだ。
今は、どれほどの大群か。
繊細な世話など、とてもできていないだろう。
故に、蜘蛛もゲジも長く持つとは思えない。
もはや決行は時間の問題であろう。
直ちに、B駅に私服警官が配置された。
警戒も厳となった。
B駅を守る陣容は、鉄道警察隊、鉄道会社の警備員、そして特殊事案対策室。
総勢は七十三名にもなった。
対する益虫同盟は二名。
戦力差は圧倒的だった。
だが、七十三名の誰一人として、蜘蛛二個分隊、ゲジ一個中隊と戦った経験はなかった。
午後十一時四十八分。
ついに八手と夏至が現れた。
二人とも帽子をかぶり、作業着姿だった。
台車を押している。
何かが積み上げられているようだが、布が被せられていて中は見えない。
風中は監視室で映像を見ていた。
部下が報告する。
「対象確認」
「八手、夏至で間違いありません」
風中が訊いた。
「箱の中身は?」
部下は不思議そうに風中を見た。
「不明です」
風中は苛立たしげに言った。
「そうね、見えないものね」
二人は改札を通過した。
私服警官達は気付かれないように囲むように動く。
二人は地下通路へ向かった。
もう、終電間近、利用客の姿は少ない。
八手が腕時計を見た。
夏至が頷いた。
風中が叫んだ。
「今です!」
何人もの私服警官が、二人に殺到する。
危機は去ったと、誰もが思った。
だが、その瞬間、無情にもB駅の地下で警報が鳴った。
火災警報ではない。
設備異常を知らせる警報だ。
施設担当者から無線が入る。
《地下第三管理区画、排水ポンプ停止》
風中が尋ねた。
「原因は?」
《分かりません》
「直ちに復旧を」
《やっています》
それに別の声が割り込んだ。
《室長!》
「なんだ」
《出ました!》
「何が?」
一瞬の沈黙。
《黒い川です!鉄の扉の隙間から、どんどん、どんどんと、溢れ出ています!》
それを聞いて、風中は立ち上がった。
《第三通路から中央コンコース方向へ流れていきます!》
「シャッター閉鎖!」
《閉まりません。設備停止の影響です》
「手動だ、手動で閉鎖せよ!」
《間に合いません》
監視カメラが切り替わった。
黒々とした床が、川の水面のように動いていた。
まるで、決壊した川のように、波を立てながら、ザワザワと広がっている。
それはゴキブリだった。
信じがたいほどの大群だ。前に見た時よりも多い。
終電前だ。
少数とはいえ、まだ利用客がいる。
風中が再び叫んだ。
「避難誘導!あれをホーム側へ流すな!」
駅員が走り、警官は通路を封鎖する。
そして、利用客は異変に気付く。
「なんだ?」
「ゴキだ!」
「うわああ!」
悲鳴が重なり合い、絶叫となった。
人が闇雲に走り出す。
走るなと放送しても効果はない。
迫り来る、黒い川が醸し出す恐怖には、誰も抗えなかった。
人が走れば、ゴキブリも走った。
そして、飛んだ。
断末魔のような悲鳴が駅構内に轟いた。
風中は現場へ向かった。
監視室でやれることはもうない。
行きたくない。だが、責任者だ。
急ぎ足で階段を下りる。
悲鳴、羽音、床を走る音、人間の足音、無線が耳に押し寄せてきた。
風中は現場へ着いた。
最初に見えたのは、黒い川のように迫ってくるゴキブリの大群だった。
次に見えたのは、それを悠然と眺める、八手と夏至。
二人に殺到せんとしていた、私服警官達は硬直していた。
風中は、八手と夏至を呆然と眺めた。
そうこうしている内に、八手が言った。
「来たぞ」
夏至も言った。
「来たな」
二人の顔には、これから事を成し遂げんとする決意、そして興奮があった。
「すごいぞ、想定以上だ」
と、八手が満足そうに頷けば、
「敵主力だな」
と、夏至はニタリと笑みを浮かべた。
「「今こそ」」
二人は声を合わせた。
夏至が台車の布を剥ぎ取り、八手が積み上げられた箱の一つに手を伸ばす。
「やめなさい!」
たまらず風中は叫んだ。
凛とした声が響き渡り、二人は振り返った。
「警察です!箱から手を離しなさい!」
八手は驚いて聞き返した。
「なぜ?」
風中は切羽詰まったような叫び声で返した。
「なぜじゃない!」
目の前の透明なプラケースの中で、蜘蛛やゲジが蠢いているのが見えるのだ。
冷静ではいられなかった。
夏至が言った。
「今やらなければ、突破されるぞ?」
夏至の視線の先、黒い川が、ゆるゆると近づいてくる。
飛沫が上がっているように見えるのは、フワリ、フワリと、跳ねるように飛んでいるゴキブリがいるからだ。
警官達は後ずさった。
その行動は本能から来たものに違いなかった。
八手が叫んだ。
「だから言ってるでしょう!我々にはあれに対抗できるだけの戦力があるのです!」
誰かが叫んだ。
「戦力って何匹だ!」
夏至が答えた。
「アシダカグモ二個分隊にオオゲジ一個中隊」
今度は風中が叫んだ。
「だから何匹だ!」
八手が答えた。
「今、それを議論している場合ですか!」
確かにそうだった。
「風中室長!」
現場責任者が駆け寄ってきた。
風中は、すぐに状況を確認した。
「避難は?」
「ほぼ完了。ただ一部の店舗に従業員が残っています」
「ゴキブリは」
「拡大中」
「薬剤は?」
「この規模では即効性がありません。設備区画なので大量散布も難しい」
八手が叫んだ。
「だから我々がいるでしょう!」
風中は無視した。
「シャッターは?」
「復旧まで十分以上かかる見込みです」
十分。
黒い川は十分も待ってくれない。
一匹飛んできて通り過ぎた。
風中は見なかったことにした。
二匹目が飛んできた。
見なかった。
三匹目。
いよいよ限界だった。
「室長」
部下が小声で言った。
「顔色が」
「正常」
「白いです」
「照明のせい」
八手がまた叫ぶ。
「このままでは、中央改札へ出てしまいますよ!」
風中は睨んだ。
「あなたが八手?」
「そうです」
「益虫同盟?」
「我々のことです」
「何を持ってきた」
八手は胸を張った。
「私はアシダカグモ二個分隊」
風中の眉が震えた。
夏至も胸を張った。
「私はゲジ一個中隊」
風中は目を閉じた。
「何匹?」
二人が黙った。
「何匹なの?」
夏至が言った。
「中隊規模だ」
「質問に答えて」
「戦力の詳細は作戦上――」
「逮捕するわよ」
「もう、そのつもりじゃないのか?」
「いいから何匹?」
ついに夏至は、小声で数を告げた。
風中は聞かなければよかったと思った。
「......そんなに」
「精鋭だ」
「精鋭とか要らない」
黒い川が近づいてくる。
現場の警官達は、足元にしか注意が向いていない。
全員が、じりじりと後退している。
「室長」
部下が上擦った声で言った。
「あれが、ここにくるまで、もう一分も持ちませんよ」
風中は考えた。
職務、法、安全、衛生、秩序。
そして、あの積み重なった箱。
視線を移せば、箱の中身が見える。
あの禍々しいフォルムをした存在が、一つ一つ、プラケースに収められていた。
そして眼前では、もはや災害級のゴキブリの大集団が迫ってきている。
また何匹か飛んだ。こっちへ来る。
風中は人生最大級の葛藤に直面した。
ゴキブリの川。
対する蜘蛛二個分隊とゲジ一個中隊。
選べと言われた。
なぜ自分が。
警察官になったとき、こんな選択をすることになるとは、考えてもいなかった。
八手が叫んだ。
「室長!ご決断を!」
風中は怒鳴った。
「あなたが言うな!」
怒鳴った勢いで、策が閃いた。
「第三通路限定!」
全員が止まった。
「え?」
風中は言った。
「第三通路内だけだ! ゴキブリ共を外へ出すな! 中央コンコース側に流すな!」
その意を解した、八手の顔が輝いた。
そして力強く叫んだ。
「作戦承認!」
風中はすぐに否定した。
「承認じゃない!」
「集結準備!」
夏至が、間髪入れずに叫んで、箱に手をかけた。
風中は後退した。
そして壁を見た。壁だけを見た。
這いずるものがいない白い壁は、まだ美しかった。
「私は見ない!」
風中の部下は困惑した。
「室長?」
「結果だけ報告して!」
「ですが現場指揮......」
「見なくても指揮はできる!」
八手が怒鳴った!
「諸君も手を動かせ!部隊の展開が遅れれば、あれに飲み込まれるぞ!」
「命令すんな!」
と、誰かが叫んだが、身体は素直に従った。
パカッ、ポンポン、ガラン。
あたりではプラケースが次から次へと床へ放り投げられている音が響いている。
「うわっ」
「でかっ」
「ぐぇっ」
そんな警官達の言葉が、壁を見続けている風中にも聞こえていた。
夏至が力強く言った。
「集結完了!」
八手が号令した。
「総員突撃!」
黒い川とは別の、何か軽いものが、幾つも、幾つも、幾つも走る音がした。
何匹もが、何匹もの、あれらが動いているに違いなかった。
風中は壁を見続けるのをやめ、目を硬く閉じた。
責任感は崩壊寸前、それでも指揮らしきものはできた。
「状況は!」
「アシダカ、展開!」
「何匹見えてる!」
「数えるんですかこれ!」
「数えなくていい!」
「ゲジも展開開始!」
「言わなくていい!」
「ゴキブリ群と接触!」
「そこだけ言って!」
現場は戦場らしきものに変貌した。
八手は飛来するゴキブリを払いながら、大満足の笑声をあげた。
「見たまえ、我がアシダカグモを!たかが二個分隊ではあるが、千切っては投げ、千切っては投げと獅子奮迅の働き。まさに精鋭と呼ぶに相応しい!」
一方、風中のところまで後退してきた夏至は、少し残念そうに言った。
「一個中隊では、ちと足りなかったか。大隊規模を確保すべきであった。味わって食べ過ぎだ。もっとバリバリいけ、もっとバリバリと」
大隊と聞いた風中は怖気を振るった。
蜘蛛は追った。
ゲジは走った。
そして、ゴキブリは散った。激しく散った。
人間は、ついに逃げ始めた。職務に後ろ髪を引っ張られ、中途半端に逃げた。
今の彼らには、自分たちが何をしているのか、よく分かっていない。
一匹のアシダカグモが警官の靴を越えた。
警官は、
「すみません!」
と謝った。
なぜ謝ったのか本人にも分からなかった。
ゲジが壁を駆け上がった。
若い刑事が叫んだ。
「速い!」
夏至が誇らしげに言った。
「これでもレンタルスペースの日々を耐え切った精鋭だからな」
それを耳にした風中は叫んだ。
「お前は黙れ!本当に黙れ!」
十分後。
排水ポンプが復旧した。シャッターも動いた。
地下第三通路は封鎖された。
ゴキブリの流出は止まった。
そして二十分後。
黒い川は消えていた。
完全に駆除されたわけではない。
多くは排水設備の奥へ逃げた。
だが少なくとも中央コンコースへの侵入は防がれた。
風中はようやく瞼を開いた。
五十歩も百歩も逃げていた部下に対して、彼女だけはその場から動いていなかった。
近づいてきた部下に風中が聞いた。
「終わった?」
「ひとまず」
「蜘蛛は?」
「散開しました」
「ゲジは?」
「散開しました」
風中は再び壁を見た。まだ冷静さは戻り切っていない。
「どうして散開するの?」
夏至が言った。
「君に一匹二匹は護衛に付けてもいいんだがね。今の彼らにはやるべきことがあるのだ」
「逮捕!」
風中は、即時に近くにいた部下に命じた。
翌朝、ニュースは全国を駆け巡った。
《B駅ゴキブリ大量発生》
《益虫同盟、現場で身柄確保》
《警察、蜘蛛・ゲジ投入を一時容認か》
警視庁は最後の記事を強く否定した。
「容認した事実はありません」
記者が質問した。
「投入を許可したとの情報もありますが?」
「緊急避難的な現場判断です」
「生物学的防除ですか?」
「その表現は適切ではありません」
「益虫同盟との共同作戦ですか?」
「断じて違います」
「現場では『作戦承認』との発言があったそうですが?」
「犯人側の発言です」
「警察側は?」
「承認ではない、と即座に訂正しています」
「つまり会話はあった?」
「ありました」
「共同作戦では?」
「違います!」
会見は長引いた。
SNSではさらに混乱した。
《警察と益虫同盟が共闘してて草》
《国家公認アシダカ軍曹》
《ゲジ中隊戦果確認》
《中隊の定数を教えろ》
《蜘蛛とゲジは昆虫ではありません》
例の昆虫学者がまたテレビに呼ばれた。
「先生、今回の件どう思われます?」
「まず蜘蛛とゲジは昆虫ではありません」
「そこからですか」
「そこからです」
なお、後の調査で、排水ポンプの停止は老朽化による偶発故障と判明した。さすがに、そこまで益虫同盟の仕業ではなかった。
八手と夏至は起訴された。
罪名は複数検討された。
法曹関係者の間でも、
「基本的には、駅に大量のアシダカグモとオオゲジを放つことを想定した法体系は作られていない」
という事実が確認された。
二人は反省しているかと問われた。
八手は答えた。
「確かに手続き上の問題はありました。今では反省しています」
夏至は言った。
「しかし作戦は成功した。手続きだけの問題だ」
これを聞いた弁護士は頭を抱えた。
検察側が、
「公共交通機関に故意に多数の節足動物を放ち、利用者に混乱と恐怖を生じさせた」
と主張した。
弁護側は、
「結果として衛生害虫の被害拡大を防止した」
と主張した。
裁判長は、
「結果が良ければよいという問題ではない」
と釘を刺した。
夏至が小声で、
「やれやれ、公正なはずの裁判長様は、姿がお気に召さないだけで、益虫を毛嫌いするのだな」
と言った。
それが裁判長に聞こえた。
「被告人」
「はい」
「今は黙っていなさい」
「はい」
判決は執行猶予付きとなった。
社会的影響、被害の程度。動機、結果。
さまざまな事情が考慮された。
二人は裁判所前で記者に囲まれた。
「益虫同盟は解散しますか?」
八手は答えた。
「活動形態を見直します」
「解散は?」
「する理由がありません」
「今後も何かする気ですか?」
「もちろん合法的な範囲で、です」
夏至が付け加えた。
「今後は啓発活動が中心になるだろう」
記者が訊いた。
「ゲジの?」
「益虫全般を対象にしている」
「蜘蛛やゲジは昆虫じゃないとの声がありますか?」
これを聞いた八手はため息をついた。
「それは重要なことではありません」
事件から半年経った。
B駅のゴキブリ目撃件数は大幅に減少した。
鉄道会社は老朽設備を改修し、排水系統を更新し、飲食店区画の衛生管理を強化した。
公式には、それが目撃件数の大幅減少の理由とされた。
蜘蛛とゲジについて、鉄道会社は一切コメントしなかった。
ただ、駅員の間では妙な慣習が残った。
バックヤードでアシダカグモを見つけても、追い払わない。
誰かが最初に、
「軍曹」
と呼んだ。
その名前は定着した。
一匹だけ、妙に人前へ出てくる個体がいた。
夜になると、地下通路の壁に現れる。
駅員は言った。
「巡回始まったな」
清掃員は言った。
「今日は東口担当か」
ある日、小学生がその蜘蛛を見つけた。
「お母さん、でっかい蜘蛛!」
母親が悲鳴を上げそうになった。
駅員が言った。
「大丈夫ですよ」
「大丈夫ぅぅぅっ?」
「益――」
駅員は言いかけて止めた。
この状況で、その言葉を発して、恐ろしい目にあった体験がある。
「......まあ、悪い奴じゃないです」
蜘蛛は壁を、のしのしと歩いていった。
風中燭子は、その後も特殊事案対策室長を務めた。
事件処理は、何故か高く評価された。
部下は誰も、B駅地下での彼女の挙動について、口外しなかったのである。
ただし風中は、B駅を利用しなくなった。
出張で路線検索をするときも、B駅乗り換えが表示されれば別経路を探した。
所要時間が二十分増えても構わなかった。
ある日、部下が訊いた。
「室長、B駅の方が早いですよ」
「知ってる」
「乗り換え一回です」
「知ってる」
「最近ゴキブリは出ないそうですよ?」
風中は顔を上げた。
「だから嫌なの」
「え?」
「何故ゴキブリが出ないと思うの?」
部下は理解した。
「ああ、なるほど」
「言わないで」
「はい」
その日の夕方、風中の机に一通の封筒が届いた。
差出人は八手家雲、夏至三十夫。
風中は嫌な予感がした。
封を開け、手紙を取り出し、一瞬だけ目を閉じた。
そして意を決して読み始めた。
《益虫同盟・合法化計画のお知らせ》
その下には小さく、
《現在、教育用・愛玩用の蜘蛛型ロボットを開発する企業を探しています》
と書かれていた。
風中は手紙を机に置いた。
少し安心した。
「これなら本物を放すよりマシか」
隣の机の部下が振り向いた。
「何か言いましたか?」
「何も」
風中は今一度、手紙を手に取った。
蜘蛛型ロボット。
八本脚。愛玩用。
封書の中には、手書きの完成予想図が添えられていた。
白い毛に覆われた、丸い蜘蛛。
つぶらな赤い目。
片方の前脚を上げている。
絵の横に名前があった。
《モフグモ・試作一号》
風中はしばらくそれを見ていた。
「......これなら、まあ」
少し間を置いて、
「......本物よりは」
と続けた。
そう思えたのは少し意外だった。
その瞬間、机の下から小さな黒い影が走った。
風中は椅子ごと一メートル後退した。
「室長!」
「何かいる!」
「何がです?」
「脚が多い!」
部下が机の下を覗いた。
「ああ、ただの蜘蛛ですよ」
「ただのを付けるな!」
「小さいですよ?」
「大きさの問題じゃない!」
部下が紙を一枚使って蜘蛛を外へ逃がした。
風中はしばらく椅子から降りなかった。
机の上では、白い蜘蛛型ロボットの絵が、片脚を上げていた。
敬礼しているようにも見えた。




