正式な婚約ではありませんでしたよね?
王都にある伯爵家の美しい庭園で、エリーゼ・ラングは幼馴染の侯爵令息、オスカー・バルマートを前に、小さく小首をかしげていた。
幼い頃から十数年。オスカーはエリーゼの前に立つたび、その手を取ってきた。
「エリーゼ。僕たちの未来は一つだ。大人になったら、必ず君を僕の妻に迎えるよ」
エリーゼがその言葉を疑ったことなど、ただの一度もない。
正式な婚約手続きこそまだ行われていないものの、二人が揃って夜会に顔を出せば、社交界の誰もが「婚約間近の初々しいカップル」として微笑ましく見守っていた。
エリーゼ自身も、自分が将来バルマート侯爵家に嫁ぐのだと信じて疑っていなかった。
だが、十八歳を迎えた今もなお、オスカーからは具体的な結納の話が出ないままでいた。
「ねえ、オスカー。そろそろ家同士で、正式な書面を交わす時期ではないかしら?」
エリーゼが控えめに尋ねると、オスカーは一瞬だけ視線を泳がせた。
しかしすぐに、端正な顔に憂いの色を浮かべ、エリーゼの小さな両手を包み込むように握りしめた。
「あぁ、エリーゼ。僕だって今すぐにでも君と夫婦になりたい。けれど……実は今、我が侯爵家は少しばかり財政が厳しくてね。父上が、対面を重んじる結婚式を今行うのは難しいと言っているんだ」
「まあ……そんなに深刻なの?」
エリーゼの瞳に、純粋な心配の光が宿る。
近年のバルマート侯爵家が、領地経営の失敗や放漫財政によって資金繰りに苦労しているという噂は、実はエリーゼの耳にも届いていた。
オスカーは苦々しく眉をひそめ、深くため息をついた。
「君を僕の妻として迎えるからには、それにふさわしい結婚式を挙げたいんだ。だから……正式な婚約は来年にしよう。それまでに必ず家を立て直してみせるから。僕を信じて、待っていてくれるかい?」
優しく見つめるその瞳には、エリーゼを愛おしむ情熱が満ちていた。
「――ええ、もちろんよ。オスカー」
エリーゼは胸を打たれ、愛おしい若者のために微笑んだ。
彼がこれほどまでに自分との結婚を真剣に考え、男のプライドを懸けて家を守ろうとしている。その決意を疑う余地などなかった。
「ありがとう、エリーゼ。君ならわかってくれると信じていたよ」
オスカーは安堵したように微笑んだ。
◇◇
それから数週間も経たないうちに、バルマート侯爵家からの「相談」は始まった。
「エリーゼ、本当に申し訳ない。僕としても、こんな格好の悪い話を君にするのは身を切られる思いなのだけれど……」
ラング伯爵家の応接室で、オスカーは痛ましげに顔を伏せていた。その隣には、バルマート侯爵家の使いである家令も控えている。
「どうしたの、オスカー? そんなに思い詰めた顔をして」
エリーゼが心配そうに身を乗り出すと、オスカーはすがるように彼女の手を取った。
「実は、次の収穫期までの資金がどうしても足りなくてね。このままだと、領民たちに配る穀物の蓄えすら危ういんだ。……君と僕は、もう婚約者同然の間柄だろう? 今だけ、ほんの少しだけ助けてほしいんだ」
「婚約者同然」という響きに、エリーゼの胸は高鳴った。
愛する人が困っている。
しかも、将来は自分が嫁ぐことになるかもしれない家なのだ。
「分かったわ。すぐにお父様に相談してみる」
エリーゼの熱心な説得を受け、娘に甘いラング伯爵は首を縦に振った。
「いずれ身内になるのだから」というオスカーの言葉を、伯爵もまた信じた。
これが、底なしの援助の始まりだった。
一度道が開通すると、バルマート侯爵家からの要求は徐々にエスカレートしていった。
「領内の治安維持のために、ラング家の優秀な騎士を一部、一時的に派遣してはもらえないだろうか」
「領地で使用する馬車を新調したいのだが、君の家の上質な良馬を数頭、譲り受けたい」
「次の冬を越すために、領民向けの穀物を安価で卸してほしい」
気がつけば、ラング伯爵家からバルマート侯爵家へと、莫大な金貨や物資、果ては人材までが流れていくようになっていた。
しかし、不思議なことに、バルマート侯爵家から「いつまでに返済する」という具体的な期限や、借用書の話が出ることは一度もなかった。
常に「私たちはもう家族のようなものだから」という、実体のない温かい空気に包まれて有耶無耶にされるのだ。
エリーゼの父である伯爵が、一度だけ怪訝そうにオスカーへ尋ねたことがあった。
「オスカーくん。これほどの支援だ、そろそろ正式な婚約の儀を進めても良いのではないかね?」
するとオスカーは、実に見事な困り顔を作ってみせた。
「お義父様、お言葉はごもっともです。ですが、今このような支援を受けている最中に婚約を発表しては、周囲から『ラング家の財力目当ての婚姻だ』と邪推され、エリーゼの名誉を傷つけてしまうかもしれません。バルマート家を完全に立て直したその時にこそ、堂々と彼女を迎えたいのです」
その殊勝な態度に、伯爵もそれ以上は追及できなかった。
エリーゼは、そこまで自分の評判を気遣ってくれるオスカーの優しさに、ただただ胸を熱くしていた。
「ありがとう、オスカー。私、待てるわ」
「あぁ、エリーゼ。君のような理解のある女性が未来の妻で、僕は本当に幸せ者だよ」
二人は優しく抱きしめ合った。
◇◇
ラング伯爵家からの支援が始まってから、さらに月日は流れた。
ある日、エリーゼはバルマート侯爵夫人に招かれ、侯爵邸のお茶会に席を置いていた。
テーブルに並ぶのは、ラング家が安価で卸した最高級の茶葉と、融通した金貨で雇われたお抱え職人の菓子だ。
侯爵夫人は、贅沢品に囲まれながら、さも当然のようにエリーゼへ微笑みかけた。
「エリーゼさん、いつも我が家のことを気にかけてくださってありがとう。まだ正式な形ではありませんけれど、私はあなたを本当の娘のように思っていますのよ?」
「もったいないお言葉です、おば様」
エリーゼはしとやかに頭を下げた。
夫人からの温かい言葉に胸を撫で下ろす一方で、エリーゼの心には小さな澱が溜まりつつあった。
夫人はいつも「家族」という言葉を口にするが、決して「正式に婚約しましょう」とは言わないのだ。
常に決定的な言葉だけを巧妙に避けている――そんな違和感が、かすかに頭をよぎる。
そんなモヤモヤとした思いを、エリーゼは夜会で親しい友人のカミラに打ち明けてみた。
「……そうなのね。でもエリーゼ、彼にも男としての事情があるのよ」
カミラはエリーゼの手を優しく握り、諭すように言った。
「バルマート侯爵家は今、懸命に立て直しを図っている最中でしょう? オスカーだって、完璧な状態であなたを迎えたいはず。彼の愛を信じて、今は黙って待ったほうがいいわ。それが内助の功というものではなくて?」
「ええ、そうね。私が焦ってはいけない——」
さらに、近くで聞き耳を立てていた社交界のご意見番、アーデルハイト侯爵夫人も、扇で口元を隠しながら会話に加わってきた。
「そうですわよ、エリーゼさん。殿方という生き物は、窮地にあるときに口うるさく結婚を迫る女性を嫌うものですわ。バルマート侯爵家ほどの歴史あるお家を支えるのですもの、もっと理解のある寛大な女性にならなくては」
「はい……。私、もっと我慢強くならなくてはなりませんね」
周囲からの「良妻たるもの、男を信じて待つべし」という無言のプレッシャー。
エリーゼは自らの違和感に蓋をることを決意したのだった。
社交界でも、二人の関係は「婚約秒読み」として完全に定着していた。
「ラング伯爵家がここまで肩入れしているのだ、明日婚姻届が出されてもおかしくない」と、誰もが噂し、疑わなかった。
「エリーゼ、今日も綺麗だね。僕のために待ってくれていて、本当にありがとう」
夜会のダンスフロアで、オスカーはエリーゼの腰を引き寄せ、耳元で甘く囁いた。
その言葉を聞くたびに、エリーゼは「これでいいのだ」と自分に言い聞かせ、安心しようと努めた。
周囲の誰もが信じている。オスカーも私を愛してくれている。だから、この我慢の先には必ず幸せな未来が待っているはず――。
◇◇
あの約束から、ちょうど一年が経った。
この一年の間に、ラング伯爵家からバルマート侯爵家へと流れた富は、もはや無視できない巨額に達していた。
それでもエリーゼは、「今日こそは」「次の夜会こそは」と、オスカーが約束を果たしてくれる日を指折り数えて待っていたのだ。
そして迎えた、王宮で催された盛大な秋の舞踏会。
煌びやかな光に満ちた会場の壇上に、バルマート侯爵夫妻、そして正装に身を包んだオスカーが姿を現した。
ついにこの日が来たのだと、エリーゼは胸を高鳴らせ、ステージを見上げる。
しかし、オスカーの隣に進み出たのは、エリーゼではなかった。
豪奢なドレスをまとい、誇らしげに微笑んでいるのは、国内でも屈指の権力を誇るルエラズ公爵家の令嬢であった。
会場にバルマート侯爵の朗々とした声が響き渡る。
「皆様、本日は我がバルマート侯爵家より、喜ばしい報告がございます。我が愚息オスカーと、ルエラズ公爵家のご令嬢、カタリナ様の婚約が正式に調いました!」
わっと沸き立つ会場。
その中央で、エリーゼは完全に呆然と立ち尽くしていた。
頭の中が真っ白になり、周囲の拍手の音が遠のいていく。
(え……? どういうこと……? オスカー、私を妻に迎えてくれるって、あれほど……)
ざわめく人混みをかき分け、エリーゼはふらつく足取りで、壇上から降りてきたオスカーの元へと歩み寄った。その顔は青ざめ、声は震えていた。
「オスカー……! これは、一体どういうことですの? 私とあなたは、大人になったら結婚しようと……。この一年も、我が家はあなた方を信じて、あれほどの支援を……!」
すがるようなエリーゼの問いかけに対し、オスカーはあらかじめ予想していたかのように、冷淡で平然とした態度を取った。彼はふっと鼻で笑い、周囲にも聞こえるような声で言い放ったのだ。
「何を言っているんだい、エリーゼ。僕たちの間に、正式な婚約はありませんでしたよね?」
「え……?」
「君が勝手に勘違いして、僕に付きまとっていただけじゃないか。幼馴染としての昔の軽口を、まさか本気にしていたなんて。思い込みが激しい女性は怖くていけないな」
その言葉は、エリーゼの心を鋭く突き刺した。
さらに、後ろに控えていた侯爵夫人も、扇で口元を隠しながら冷ややかに追従する。
「そうですわよ、エリーゼさん。我が家はラング伯爵家から『善意の寄付』をいただいただけで、婚姻の約束など正式なお約束ではありませんでしたわ。公爵家との格の違う婚姻に嫉妬なさるなんて、見苦しいですこと」
一年前、あんなにも優しく自分を抱きしめ、「家族だ」と囁いた人々の姿はどこにもなかった。
目の前にいるのは、ただラング伯爵家の富を吸い尽くし、用済みとなった自分を「勘違い令嬢」として社交界の晒し者にしようとする、冷酷な捕食者の顔をしたクズたちだった。
エリーゼは怒りと屈辱で全身を震わせながら、拳を固く握りしめた。その瞳から、みるみるうちに「恋の盲目」が消え失せ、凍りつくような冷徹な光が宿っていくことに、勝ち誇るオスカーたちはまだ気づいていなかった。
◇◇
舞踏会の翌朝、社交界はエリーゼの噂でもちきりだった。
「聞いたかしら? ラング伯爵令嬢、オスカー様に婚約破棄されたと大騒ぎしたそうですわよ」
「破棄も何も、最初から正式な婚約なんてしていなかったのでしょう? ただの『勘違い令嬢』じゃないの。恥ずかしいお話ですわね」
昨日まで「お似合いの二人」と囃し立てていた者たちが、一転してエリーゼを嘲笑った。
バルマート侯爵家が流した「ラング家が勝手に貢ぎ、勝手に婚約者面をしていた」という悪質な噂が、瞬く間に広がっていた。
だが、ラング伯爵邸の書斎にいるエリーゼの顔に、涙は一滴もなかった。
「お父様。バルマート侯爵家は、我が家の支援を『ただの善意の寄付』と言い切りましたわ。ならば、こちらもそれ相応の対応をいたしましょう」
「ああ、エリーゼ。我が家を、そしてお前を晒し者にしたこと、必ず後悔させてやる」
ラング伯爵が静かにベルを鳴らすと、控えていた有能な執事が、うやうやしく大量の書類の束を机の上に並べた。
翌日。ラング伯爵家は、社交界の主要な貴族たち、そして主要な商会や銀行へ向けて、「過去一年間におけるバルマート侯爵家への支援記録」をすべて一斉に公開した。
それは、あまりにも詳細で、あまりにも逃れようのない「物証の山」だった。
融通した金貨の額面と、引き渡し時の領収書。
譲渡した良馬の血統書と、侯爵家がそれを受け取ったサイン。
安価で卸した穀物の数量、市場価格との差額の明細。
派遣した騎士団の駐留費を侯爵家が負担していないことを示す記録。
バルマート侯爵家の「吸血鬼」のごとき寄生っぷりが一目瞭然だった。
さらに伯爵家は、これらの証拠をもとに「バルマート侯爵家による詐欺的行為」として、支援した全財産の返還請求の手続きを王室調停会議へ申し立てたのである。
形勢は、一瞬にして逆転した。
「おい、見たかあの記録を……!」
「『勘違い』どころか、バルマート侯爵家は婚約を匂わせて一年間も伯爵家に貢がせていたのか!?」
「婚姻の約束をしていないと言い張りながら、家族だから金をくれとは……なんという破廉恥な家柄だ!」
社交界は、ラング伯爵家への嘲笑から、バルマート侯爵家への猛烈な非難と嫌悪へと、一気に燃え上がった。
昨日まで勝ち誇っていたバルマート侯爵家は、自分たちが仕掛けた「噂話」など比較にならないほどの、本物の大炎上の渦中に叩き落とされたのである。
◇◇
ラング伯爵家が突きつけた「動かぬ証拠」の前に、バルマート侯爵家は大パニックに陥っていた。
彼らはすぐさま火消しに走ったが、それがさらなる大炎上を招く結果となる。
「エリーゼ! 頼むから話を聴いてくれ!」
数日後の夜会、騒動以来初めて姿を現したオスカーは、必死の形相でエリーゼにすがりつこうとした。
しかし、エリーゼの前に立つラング家の騎士たちに阻まれ、近づくことすらできない。
周囲の貴族たちが冷ややかな視線を送る中、オスカーは青ざめた顔で声を張り上げた。
「あ、あれは違うんだ! そんなつもりじゃなかった! 僕はただ、君との仲が良いことをアピールしたくて……詐欺だなんて誤解だ!」
「まあ」
エリーゼは扇で口元を隠し、冷ややかな視線を向けた。
「『正式な婚約はしていない』とおっしゃったのはオスカー様ですわ。婚約もしていない女性の実家に『婚約者同然だから金をくれ』と要求すること自体、貴族としてあまりにも破廉恥だとは思いませんの?」
「それは……っ!」
言葉に詰まるオスカーの後ろから、今度は侯爵夫人がヒステリックな声を上げた。
「誤解ですわ、皆様! あれはラング家が勝手に送りつけてきたものを、私共は親切心で受け取ってあげていただけですのよ! あんな端金を声高に請求するなんて、下品ですわ!」
「『端金』とおっしゃいましたか?」
エリーゼは静かに微笑んだ。
「では、我が家が融通した金貨二万枚、良馬三十頭、そして大量の穀物の代金は、今すぐ全額現金でお返しいただけますわね? 端金なのでしょう?」
夫人は顔を真っ赤にして絶句した。現在のバルマート家に、そんな大金を一括で返せる蓄えなどあるはずがなかった。
その様子を見ていた友人のカミラが、気まずそうにエリーゼに近づいてくる。
「ねえ、エリーゼ……そこまで大事にしなくてもいいじゃない。オスカーも反省しているみたいだし、穏便に済ませたら? なんだかオスカーが可哀想だわ」
一年前、あれほど「我慢しろ」と圧力をかけてきたカミラの言葉に、エリーゼは憐れむような視線を向けた。
「可哀想? ではあなたがバルマート侯爵家の借金を肩代わりして差し上げたらどうかしら? そこまで言うのですもの、あなたのご実家が助けて差し上げればよろしいわ」
「えっ、それは私の家には関係ないし……」
カミラは慌てて顔を引きつらせ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
さらに、かつて「理解ある女性になりなさい」と説教してきたアーデルハイト侯爵夫人も今や完全に手のひらを返していた。
「まあまあ、バルマート侯爵家も落ちたものですわね。わたくし、最初から怪しいと思っていましたのよ。婚約も結ばずに支援だけ受け取るなんて、あまりに品性を欠いていますわ」
昨日までの味方はどこにもいない。
オスカーたちの見苦しい言い訳は、社交界の格好の娯楽として消費され、バルマート侯爵家の名誉は完全に地に落ちたのだった。
◇◇
炎上した醜聞の代償は、バルマート侯爵家が想像していたよりも遥かに重く、そして迅速に彼らを破滅へと導いた。
最初に動いたのは、オスカーとの婚約を発表したばかりのルエラズ公爵家だった。
「婚姻を餌に他家から不当に利益を得るような、詐欺師紛いの家柄と結ぶ縁など我が家にはない。当然、この婚約は無かったものとさせてもらう」
公爵家からの冷酷な婚約破棄の通達。オスカーが手に入れたはずの「最高権力との繋がり」は、一瞬にして露と消えた。
それだけでは終わらない。 ラング伯爵家が公開した「あまりにも詳細な未払い記録」を見た他の貴族や商会も、一斉に手のひらを返した。
「バルマート侯爵家は、長年尽くしてくれたラング家にあれ仕打ちをしたのだぞ」
「あんな信用できない家柄と取引などできるか。我が商会との契約は今期で終了とさせていただく」
社交界からも経済界からも完全に孤立し、バルマート侯爵家の信用は文字通り「ゼロ」になった。
噂を聞きつけた銀行や投資家は、一斉にバルマート侯爵家への融資を停止。
そればかりか、貸し付けていた資金の「一括返済」を求めて怒涛のように押し寄せた。
ラング伯爵家への賠償金、銀行への返済、引き揚げていく商会――。 バルマート侯爵家には、もはや一刻の猶予も残されていなかった。
「お、おい、オスカー! どうにかしてラング伯爵家に許しを乞うてこい! このままでは我が家は破産だ!」
「そんなことを言われたって、父上だってエリーゼたちの支援を当然のように使っていたじゃないですか! 母上だって!」
「なんですって!? 私は知らされずにもらっていただけですわよ! 全部オスカー、あなたのせいですわ!」
かつて優雅にお茶を飲んでいた侯爵邸の応接室では、今や見る影もなく荒れ果てたバルマート親子の見苦しい擦り付け合いが、連日連夜響き渡っていた。
互いを責め立てるその声に、かつての高貴な面影はどこにもなかった。
◇◇
数年後――。
バルマート侯爵家の大炎上騒動も、今や社交界の古い昔話となっていた。
借金に追われ、爵位と領地を事実上失ったバルマート家の人々の行方を知る者は、もう誰もいない。
そんな中、エリーゼは王都から西方に遠く離れた、豊かな自然に囲まれた辺境伯領にいた。
彼女の隣には、かつての騒動の折、裏でバルマート家の悪事を暴くための法的支援を行い、傷ついたエリーゼをその大きな手で支え続けてくれた誠実な辺境伯、クラウス・ラインバートが立っている。
二人の結婚式の前夜、クラウスはエリーゼの前で、一枚の書面を差し出した。
そこには、二人の婚姻の条件と、エリーゼの権利を生涯守るという誓いが、理路整然と、かつ強い筆致で記されていた。
「エリーゼ。私は君を生涯愛し、大切にすると誓う。だが、約束は口約束ではなく、こうして書面で残すべきだ。これが君への、私の誠意の証だ」
生真面目な顔でそう語る夫を見て、エリーゼはクスッと小さく微笑んだ。
かつて口約束の甘い言葉に騙された自分を、これ以上ない形で安心させてくれる彼の不器用な優しさが、愛おしくてたまらなかった。
「ええ、ありがとう、クラウス。私もあなたを生涯支えるわ」
二人はしっかりと手を重ね合い、真実の幸福へと歩み出した。
◇◇
王都のうらぶれた酒場の片隅。
かつての華やかな衣装を失い、すっかりやつれた姿となったオスカーは、必死にある商会の主へ縋り付いていた。
どうにかして一旗揚げようと、商会の娘との縁談を無理やりねじ込もうとしていたのだ。
「頼む、社長! 娘さんを僕の妻に迎える準備はいつでもできているんだ! 僕が婿に入れば、元貴族の箔だって手に入る。悪い話じゃないだろう!?」
しかし、商会の主は冷ややかな目でオスカーを見下ろすと、差し出された手を容赦なく振り払った。
「……申し訳ありませんが、そのお話はお受けできません」
「なぜだ!? 君は前に、僕のような男が娘の夫なら心強いと言ってくれたじゃないか!」
必死に食い下がるオスカーに対し、商会の主はかつてオスカー自身が浮かべたものと全く同じ、冷酷で平然とした笑みを浮かべて言い放った。
「何を言っているんです? 当家とあなたの家の間に、正式な婚約はありませんでしたよね?」
「え……」
「あなたが勝手に勘違いして、私どもに付きまとっていただけでしょう。昔の社交辞令の軽口を、まさか本気にしていたなんて。思い込みが激しい方は怖くていけないな」
かつて自分がエリーゼを切り捨てた時に放った言葉が、鋭い刃となって自分の胸に突き刺さる。
オスカーは何も言い返すことができず、ただ愕然と口を開けたまま、その場に崩れ落ちた。




