第128話 肩書きのないアルベルト
聖剣を失ったアルベルトを描く回です。
勇者という肩書きがなくなった後に、何が残るのかを見ます。
聖剣が折れた後、封印室はひどく静かになった。
さっきまで響いていた命令の声が消え、残ったのは人の呼吸だけだった。
倒れた聖都兵。
泣いている勇者候補。
壁にもたれた下働きの女。
盾を支えに立つセリア。
肩で息をするミュール。
観測板を抱えて座り込みかけるイリス。
台帳から手を離せずにいるロゼッタ。
刀を下ろしたナギ。
そして、折れた聖剣の前で膝をつくアルベルト。
誰も、彼を勇者とは呼ばなかった。
それが、何より大きな変化だった。
「俺は、何だったんだ」
アルベルトはもう一度呟いた。
その声には怒りがない。
代わりに、空白があった。
勇者という言葉で埋め尽くされていた場所が、一気に空になったような声だった。
俺はすぐには答えなかった。
答えれば、また俺が彼を定義することになる。
雑用係と呼ばれ続けた俺が、それをやるわけにはいかない。
セリアが近づき、アルベルトの前で止まる。
彼女は盾を下ろさない。
「アルベルト・グランディア」
その名を呼ぶ。
勇者ではなく、個人の名を。
アルベルトの肩が震えた。
「貴殿は、裁きを受けるべき者だ」
「俺は」
彼は何か言いかける。
だが、言葉が出ない。
以前なら、勇者だから、と言えた。
選ばれたから、と言えた。
聖剣があるから、と言えた。
今は、そのどれもない。
ロゼッタが折れた聖剣の破片を布で包む。
「聖剣管理契約は失効しました。勇者認定台帳も、少なくともアルベルト様に関しては無効です」
「様をつけるのか」
ミュールが小さく聞く。
「習慣です」
ロゼッタは淡々と答える。
「敬称は免罪ではありません」
その言い方に、アルベルトが少しだけ顔を歪めた。
侮辱されるより、淡々と扱われる方が痛いのかもしれない。
特別な憎しみも、特別な敬意もない。
ただ、事件の関係者として扱われる。
勇者でなくなった彼にとって、それは初めての扱いだった。
封印室の入口から、ふらつく足音が聞こえた。
聖都兵に支えられながら、かつての勇者パーティの一人が姿を見せる。
王都で証言した魔導師、リディアだった。
彼女はアルベルトを見て、言葉を失った。
「アルベルト」
その声にも、勇者という響きはなかった。
アルベルトは顔を上げる。
「リディア」
「あなた、本当に」
リディアは折れた聖剣を見る。
そして、俺を見る。
何かを責めるような目ではなかった。
ただ、長い時間をかけて信じていたものが崩れた人間の目だった。
「私たちは、何を見ていたの」
彼女の問いに、アルベルトは答えられない。
俺も答えない。
たぶん、皆が少しずつ違うものを見ていた。
勇者。
栄光。
報酬。
承認。
自分が正しい側にいるという安心。
そのために、見ないことにしたものもあった。
俺の仕事。
セリアの冤罪。
ミュールたちの刻印。
奴隷制度の奥にある命令。
見ないことにしたものが、今ようやく目の前に戻ってきた。
アルベルトはリディアから目を逸らした。
「俺は、勇者だった」
その言葉は、もう威張るためのものではない。
壊れた器に残った最後の欠片のようだった。
「だった」
ナギが短く言う。
アルベルトの肩がまた震える。
過去形。
それだけで、彼の顔が歪んだ。
ミュールが不思議そうに見る。
「今は?」
アルベルトは答えられない。
その沈黙が答えだった。
イリスが小さく言う。
「肩書きがなくなると、怖いんです」
彼女自身、実験体番号を奪われた後、空白に震えたことがある。
だから、その怖さを知っている。
だが、同情だけでは終わらせない。
「でも、怖いからといって、誰かを踏んでいい理由にはなりません」
アルベルトはイリスを見た。
初めて、彼女を所有物でも戦利品でもなく、人として見たような目だった。
遅すぎる。
あまりにも遅い。
それでも、その遅すぎる瞬間が来たことは事実だった。
「レオン」
アルベルトが俺を呼ぶ。
雑用係ではなかった。
俺は黙って彼を見る。
「俺は」
彼の口が動く。
謝罪の形を作りかける。
だが、言葉にならない。
すまなかった。
悪かった。
間違っていた。
どの言葉も、彼の喉を通れない。
謝るには、彼はまだ自分を守りたがっている。
勇者ではなくなっても、アルベルトという人間の弱さは残っている。
俺はそれを見て、怒りが消えたわけではなかった。
むしろ、はっきりした。
こいつは制度だけの被害者ではない。
自分で俺を見下し、自分で選んで傷つけた。
聖剣がなくても、その責任は消えない。
「許すとは言わない」
俺は言った。
アルベルトの顔が強張る。
「お前が俺にしたことも、セリアたちを見下したことも、消えない」
彼は何も言えない。
「でも、もうお前に俺の価値は決めさせない」
封印室の空気が、少しだけ変わった。
それは勝利宣言ではなかった。
別れの言葉に近い。
俺は、アルベルトの価値観から降りる。
追放された者としてではなく。
ざまぁを成し遂げた勝者としてでもなく。
ただ、自分の足で別の場所へ行く者として。
アルベルトは俯いた。
握りしめた拳が震えている。
悔しさか。
恥か。
恐怖か。
分からない。
分からなくていい。
それは、彼自身が向き合うものだ。
リディアが静かに言った。
「アルベルト、立てる?」
彼は返事をしない。
だが、少し時間をかけて立ち上がった。
立ち上がる途中で、彼は一度折れた聖剣の柄へ手を伸ばした。
反射のような動きだった。
けれど、柄はもう光らない。
アルベルトの指が触れても、何も起きなかった。
強化もない。
称賛の幻聴もない。
勇者としての姿勢を保たせる力もない。
彼はその事実に気づき、手を引いた。
その動作が、ひどく小さく見えた。
「剣も、俺を」
彼は言いかけて、やめる。
剣に見捨てられた、と言いたかったのかもしれない。
だが、本当は逆だ。
剣が彼を離したのではない。
俺たちが、彼を剣から剥がした。
その後に何が残るのかは、誰にも保証できない。
誰も手を貸さない。
誰も膝をつかない。
誰も彼を特別扱いしない。
その中で、アルベルトは初めて自分の足だけで立った。
ひどく不格好だった。
勇者らしさなど欠片もない。
けれど、今までで一番人間らしく見えた。
リディアは彼の隣に立ったが、肩は貸さなかった。
それが彼女なりの線引きなのだと分かった。
見捨てはしない。
だが、かつてのように彼を中心に世界を組み直すこともしない。
「私は、証言を続ける」
リディアは言った。
「あなたがしたことも、教会がしたことも、私たちが見ないふりをしたことも」
アルベルトは彼女を睨みかけた。
だが、睨みきれなかった。
「勝手にしろ」
弱い声だった。
それでも、昔の彼なら怒鳴っていたはずだ。
命令していたはずだ。
今は、勝手にしろとしか言えない。
その言葉は乱暴だったが、初めて他人の選択を認める言葉でもあった。
リディアは小さく頷いた。
「勝手にする」
封印室にいた勇者候補の少年が、折れた聖剣を見ていた。
「勇者に、なりたかった」
彼はぽつりと言う。
「皆に認められたかった。家族を楽にしたかった。強くなりたかった」
イリスが彼の近くへしゃがむ。
「それは、悪い願いではありません」
「でも、あれになるのは嫌だ」
少年はアルベルトを見た。
アルベルトの顔が歪む。
残酷な言葉だった。
だが、必要な言葉でもあった。
勇者になりたかった者が、勇者の末路を見て拒む。
それは勇者制度への、もっとも直接的な否定だった。
セリアが少年に言う。
「強くなれ。だが、肩書きに自分を預けるな」
少年は泣きながら頷いた。
その場にいる誰も、もう勇者という言葉を以前と同じ輝きでは見られない。
聖剣は折れた。
だが、それ以上に、勇者という物語が折れた。
その時、封印室の奥で白い光が揺れた。
エルヴィアが、折れた聖剣を見ていた。
悲しみとも怒りとも違う表情。
長い計画の一部が壊れ、それでもまだ諦めていない者の顔だった。
「聖剣を失いましたか」
彼女は静かに言う。
「ならば、仕方ありません」
床下の古代術式が、再び動き出す。
今度の光は、封印室だけではない。
神殿の上層へ。
聖都の地下へ。
もっと遠く、王都や魔塔や解放者の家の方角へ。
世界中の登録術式へ繋がっていく。
イリスの観測板が悲鳴のような音を立てた。
ロゼッタの帳簿が勝手にめくれ、白紙のページに見知らぬ契約文が浮かぶ。
セリアの誓約痕が熱を持ち、ミュールの旧所属刻印が黒く疼く。
ナギの鍵印は、まるでどこか遠くの扉に呼ばれるように震えた。
「世界契約が、完全起動します」
エルヴィアは俺たちを見た。
「勇者という管理装置を折ったのなら、世界そのものを起こすしかありません」
聖剣を折った勝利の余韻は、一瞬で消えた。
次の檻が、世界規模で目を覚まそうとしていた。
勇者という管理装置を折った勝利の余韻は、すぐに消えました。
エルヴィアは世界そのものを起こすしかないと告げ、次の檻が世界規模で動き出します。
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