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Room  作者: 揚羽(ageha)


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6/6

(最終章)

「……ドン」

 何も、起こらない。

 もう、

 気がふれそうだ。

 恐怖と緊張で、

 呼吸だけが、

 勝手に、続いていた。

 服を着る。

 ドライヤーをかける。

 ふらふらと、家を出る。

 マンションの玄関で、力が抜けた。

 たまたま通りかかった男が、抱きとめる。

「タバコを、ください」

「俺ので、いいのか」

 火を、つけてもらう。

 女は、タバコを吸ったことがない。

 むせる。

 また、むせる。

 吐く。

 男は、

 姫抱きにして、

 マンションのベンチまで運ぶ。

 そこで、休ませた。

 女が、目を覚ます。

 ベンチの冷たさが、背中に返ってきた。

 キャップの外れた、水のペットボトルがある。

 少し、減っている。

 管理人が、男と話をしていた。

 管理人は、

 その男が、信頼できる探偵だと告げる。

「何が、あった」

 二人は、

 心配そうに、

 女の話を待った。

 女は、

 こんな明け方に、

 人生のすべてを語るように、話し始めた。

 誘導は、しない。

 起きたことだけが、

 口から、出てくる。

 冷蔵庫の、ビールの位置。

 洗面台の、手のあと。

 郵便受けの、ラブレター。

 靴。

 お風呂場の、音。

 位置情報の、ズレ。

 探偵は、途中で遮らない。

 相づちも、ほとんど、打たない。

 話が終わると、

 少し、間があった。

「……まずな」

 静かな声だった。

「今の話を聞いて、

 俺は、侵入を疑ってない」

 心臓が、ひとつ、大きく鳴る。

「え……?」

「理由は、単純だ。

 侵入者は、痕を残す。

 たぶん、あんたの部屋は、残ってない」

 探偵は、淡々と続ける。

「電球の交換。

 寄りかかった、手の跡。

 全部、生活の延長だ」

「この間、電球を交換しまし、た」

「でも……」

「ビールが……」

「クレープとか、ケーキだろ」

 言い当てられ、

 言葉が、詰まる。

「潰れないように、

 よけたんだろうよ」

 否定できない。

 説明の、つく音だった。

「お風呂の音は?」

「湯があふれて、

 シャンプーのボトルが倒れた。

 音の高さも、重さも、説明がつく」

 探偵は、軽く息を吐く。

「それに、

 電気を点けようとして、

 手が震えて、換気扇まで押したんだろ」

「換気扇の風の流れが、

 余計に、怖さを煽った」

「GPSのズレも、

 このマンションじゃ、珍しくない。

 コンクリ、分厚いだろ」

「……知っていました」

「知ってた。

 でも、冷静じゃなかった」

 探偵は、少しだけ、うなずく。

「ラブレターは?」

「それは、あとで俺が確認する」

 声に、わずかに笑いが混じる。

「もし本物なら、

 不器用で、誠実な男だ」

 女は、唇を噛む。

「靴は?」

「新品の、パンプスだろ」

 即答だった。

「下ろしたての靴はな、

 人は、揃える。

 無意識で」

「揃えない癖がある人ほど、

 最初だけ、揃える」

 言葉が、静かに刺さる。

 女は、息を飲む。

「……全部、

 勘違いだったんですね」

「全部じゃない」

 探偵は、少し、間を置いた。

「不安を、

 ひとりで抱えたのが、間違いだ」

 責める響きは、ない。

「人はな、

 説明がつかないと、怖くなる」

「怖くなると、

 説明を探す」

「で、

 一番、悪い線を引く」

 女は、目を閉じた。

 やがて、視線が、地面に落ちる。

 指先が、無意識に擦れ合う。

「思い出しました。……あの、レシートも」

 声が、少し遅れて、形になる。

「同僚が、

 使っているボールペンが、

 すごく、可愛くて」

 一度、息を吸う。

「今度見かけたら、

 買ってきてほしいと、

 お願いして」

 言葉が、ゆっくり、ほどけていく。

「後日、

 買ってきてくれて」

「お金を渡して」

「……そのとき、

 ボールペンと一緒に、

 レシートも、受け取ったんです」

 探偵は、口を挟まない。

「引き出しの中も……」

「仲のいい人がいて」

「消しゴムとか、

 ペンとか」

「勝手に借りて、

 あとで、

『ごめん、借りた』って

 言われることが、

 あるんです」

 言い終えて、

 女は、小さく息を吐く。

「それなのに……」

「全部、

 知らない誰かの痕みたいに、

 見えてしまって」

 探偵は、静かに言った。

「冷静なら、

 判断できた」

 それだけだった。

「部屋は、調べる。

 盗聴器も、

 カメラも、

 全部な」

 胸の奥が、

 ゆっくり、緩む。

「……お願いします」

「鍵も、替える」

 黙っていた管理人が、口を開いた。

「明日、

 交換に伺いますよ」

「世話焼きの、おっさんだからな。

 喜んで、やるさ」

 少しだけ、

 笑った気配。

「今日は、もう寝ろ」

「お風呂も、入るな。

 水、飲んで、横になれ」

「……眠れないかも、

 しれません」

「それでも、横になれ。

 目を閉じてりゃ、十分だ」

 部屋の中まで、送る。

 部屋は、

 変わっていない。

 なのに、

 世界の輪郭が、

 はっきりしている。

 怖さは、

 消えていない。

 ただ、

 理解できる場所に、戻った。

 そして、

 女は、きちんと、深く眠った。

 探偵は、

 約束の時間より、

 少し早く、やって来た。

 エレベーターを降りる、

 足音が、落ち着いている。

「こんにちは」

 それだけで、

 この人に頼んでよかったと、分かる声だった。

 部屋に入り、靴を脱ぐ。

 無造作だが、音がしない。

「じゃ、

 見せてもらうかな」

 探偵は、

 リビングから順に、確認する。

 コンセント。

 換気口。

 照明。

 棚の裏。

 クローゼット。

 無駄な、動きがない。

「……ないな」

 風呂場。

 トイレ。

 寝室。

「全部、白」

「盗聴器も、

 カメラも、

 仕掛けた形跡も、ない」

 胸の奥が、

 また、ゆっくり緩む。

 管理人が、やって来る。

「いやぁ、

 心配かけちゃってね」

 鍵は、

 その場で、

 最新式に交換された。

 説明も、丁寧で、

 作業も、早い。

 探偵は、

 腕を組んで、見ている。

 この人、

 普通だ。

 それが、

 一番の、安心材料だった。

 帰り際、

 探偵は、玄関で立ち止まる。

「ひとつだけ、覚えとけ」

 振り返る。

「怖くなったら、

 誰かに、話す」

 それだけだ。

「頭の中で考え続けると、

 人は、必ず、悪い方へ行く」

 ドアが、閉まる。

 静かだった。

 後日、

 探偵は、外で、

 例のラブレターの男を確認したのち、

 再訪し、報告した。

 差出人は、

 近くの会社に勤める、若い男だった。

 通勤時間が、

 たまたま、重なっていただけ。

 それ以上の、意味はない。

 本当に、

 誠実な、一目惚れだった。

「悪い男じゃない」

 探偵は、そう言った。

「距離の、測り方を、

 知らなかっただけだ」

 靴に手をかけたまま、

 探偵は、ふと思い出したように言った。

「こんど、また何かあったら、

 あそこの駅前の事務所に来い。

 珈琲くらいは、出せる」

 女は、少しだけ、驚いた顔をして、

 それから、照れたように、目を伏せた。

「はい、ありがとうございます」

 女は、今も、

 そこで、暮らしている。

 翌朝。

 玄関で、靴を履く。

 新しい、パンプス。

 左右は、揃っている。

 でも、今日は、気にしない。

 外に出ると、

 空気が、冷たい。

 怖かった記憶は、

 消えない。

 だが、

 それはもう、

 そこに、留まらない。

 説明がつく恐怖は、

 恐怖では、なくなる。

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