73.呪い
「お前らには新婚旅行に行ってもらう」
「は?」
アズィの第一声の意味が分からず、思考が一瞬止まった。
アズィは茶を啜りながら、俺の理解が追いつくのを待っている。
「えーと、今日からお父さんと呼べば……」
「面白くねえ。隣国の潜入工作の話を続けていいか?」
「はい」
「例のイセカイジンが亡命を打診してきた。今はあっちのクズ共に目をつけられて逃げ回ってる」
「それ俺の出番ないだろ」
「お前らは送迎のカモフラージュになってもらう。こっちの新婚旅行は親族友人と行くのが当たり前だ。あっちで一人すり替えて連れてくるだけだ」
「俺じゃないとダメなのは、あっちの注文か?」
「そうだ。保護されてる証拠がなきゃ来られねえんだとよ。面倒くせえ」
「なんか胡散臭い計画だな」
「お前の力はあてにしてねえし、隣国とうちの関係は悪くねえ。安心しろ。大体、俺がリッカをやべえとこに出すと思うか?」
漫画の打ち切りみたいな急展開が胡散臭いんだが、さしものアズィもそこまでは読めまい。
「分かったよ。村人に護衛頼んでもいいんだよな」
「どうせ、あの仲良し三人組だろ? いいぜ。ただ任務のことは言えねえから、村では本当に結婚しろ。リッカは泣いて喜ぶだろ」
ああ、先日の意趣返し込みか。クソ野郎が。
「リッカには何て言うんだよ」
「そいつは俺のお楽しみだ」
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俺はリッカと交代して、エルマの様子を見に行った。
薪の面倒を自分で見させるため、牢の中を自由に動けるようになったエルマは、
実験を繰り返し、早くも蜜蝋の配合バランスを掴んでいた。
硬さの違うものをいくつも作り、適量の塗布にはリップクリーム程度が最善だと話して俺を驚かせた。
香料についても、いくつかアイデアがあるようだった。
「ミントを絞った油もいいかも……」
さすがにここでは精製は無理だ。
「香料の研究は、自由になるまで待ってくれ」
俺はリッカに借りた貝殻容器を見せ、
消費期限とのバランスから少量売りの方が安全だと説明し、
夏場は傷みやすいから別の製品も考えるべきだと話した。
石鹸ができればいいが、俺に知識はない。
アロマオイルの需要でも教えて、エルマの知識で伸ばしてもらうしかない。
俺はエルマの目に光が戻ってきたのを確認し、満足して牢を出た。
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リッカのところに戻ると、難しい顔をしていた。
アズィはもう帰ったらしい。
「あのさ」
なるべく重くならないよう声をかけると、
リッカはソファに座るよう合図しながら、
「絶対に罠だわ」
と憎々しげに言った。
「なんて言ってたんだ?」
「あなたの仕事がうまくいったら、村を一緒に出て組ませてやってもいいって」
アズィが?
全然わからん。新しい実験か。
「結婚のことは聞いたか?」
「最悪……」
「リッカを一時的に村から出したい“何か”があるとも考えられるが」
「思い浮かばない」
「……飛躍しすぎかな」
思いつきを話せる雰囲気ではなかった。
「あのね……今まで聞かなかったんだけど」
「うむ」
「あなたの力って、なんなの?」
リッカはアズィから何か聞いてカマをかけているのか、
それとも純粋な疑問なのか分からず、返答に困った。
「今は言い出す勇気がない」
「そう」
「まずはアズィの思惑を考える」
「私が優先じゃなくて?」
「優先してるから警戒してるんだ」
「……」
長い沈黙が落ちた。
「呪いだな」
「呪いって何?」
「祓っても祓っても追いかけてきて、手足を引っ張る怪物」
リッカは体を丸め、肩を震わせていた。
その震えは寒さではなく、恐怖と疲労の混ざったものだった。
「助けて、カゾヤマ……」
リッカは目を閉じ、
その言葉を噛みしめるように震えた。
「あの人に、これ以上、私の人生を触られたくない……」
その呟きは、
まるで幼い子どもが悪夢から逃げようとする声だった。
俺はリッカの肩を抱き寄せ、
背中をゆっくりと撫でた。
「大丈夫だ。
俺がいる。
リッカをあいつの人形のままにはさせない」
リッカはしばらく何も言わなかった。
ただ、俺の胸に顔を埋め、
震えが少しずつ弱まっていく。
外では雪が静かに降っていた。
世界が音を失っていくような、深い静寂。
その中で、
俺たちは長い、昏い時間を漂った。
互いの呼吸だけが、
この世界に残された唯一の現実みたいに感じられた。
そして俺は、
リッカの髪に触れながら、
心の底で静かに誓った。
――アズィの呪いを消し飛ばしてやる。
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