70.逆手
夜が明けた。
雪が残る広場に、馬の足音が乾いたリズムで響き、
まるでパワハラ上司の出勤チャイムのように、アズィの到着を告げた。
俺は階下に降りて茶を啜り、
事務局へ向かった。
先にリッカに会わせて、
“俺が何も話していない”と確認させるためだ。
リッカが呼びに来るのを待ち、
応接室へ入る。
濁った板ガラス越しに陽が射し込み、
そのわずかな熱を、
アズィが仁王立ちで全身に吸い込んでいた。
まるで、光すら支配しようとしているかのように。
「約束通り来たぜ」
アズィはニヤッと笑い、
ソファを顎で示した。
やがてリッカが入ってきて、
立ちのぼる湯気の中で茶を淹れ、
俺の隣に座った。
アズィが、笑みを崩さず言う。
「これは、どういう状況だ?」
宿題の提出を待つ教師のような、
いや、もっと悪い。
“答えを知っていて、相手の反応だけを楽しむ観察者” の顔だった。
リッカは不思議そうに俺とアズィを見たが、
やがて柔らかく笑った。
「状況か。アズィが突然やってきて、
リッカが俺を呼びに来て、
お茶会が始まろうとしている」
「ほう。しばらく付き合ってやる」
「まどろっこしいのは嫌いだろ? よろしく頼む」
俺は手紙をアズィに差し出した。
「それは、なんだ?」
「約束したろ? エリンヒャに手紙を届けてくれると」
アズィはリッカの表情が変わらないのを見て、
ゆっくりと首を振った。
「ダメだ。話すなと言ったはずだ」
リッカが眉を寄せる。
「アズィ、あなたたちが何の化かし合いをしているのか、よく分からないんだけど?」
アズィは、
“待ってました”と言わんばかりの笑みを浮かべた。
「化かされたのはリッカ、お前だぜ。
カゾヤマが裏でコソコソ俺にお願いした結果が今だ」
「そうなの?」
「済まない」
「別に構わないよ?」
その瞬間、
アズィの笑みが一瞬だけ固まった。
ほんの刹那だが、
“計算が狂った” という色が確かに浮かんだ。
俺はその表情を見逃さず、
内心でガッツポーズをした。
「きっと昨日、あんたが徹底的に否定した“感情”の効果じゃないかな?」
アズィは爆笑した。
だが、その笑いは腹の底からではなく、
“理解不能な現象に出会った科学者の笑い” に近かった。
「何をしようが信じてますってやつに賭けたのか。
勝負には負けたが……
愛がまともな思考を奪う毒だと、お前が理解してて嬉しいぜ」
「相手を疑わずにいられないあんたには、毒だろうな」
アズィの目が細くなる。
笑っているのに、
その奥にあるものは氷のように冷たい。
「何?」
「なあ、アズィ。
あんたは“騙される”のが絶対に許せない人間だ。
その信条が強すぎて、
鏡写しに育てたリッカが騙されても平気な馬鹿だとは思えなかった。
だから、必ず疑心暗鬼が芽生えると踏んで、この罠を仕組んだ」
「ちょっと馬鹿って何よ」
アズィはゆっくりと息を吐いた。
「なるほど。
俺は自分を疑わなかったから、リッカを読み違えたってわけだ」
「そういうことだ」
「やられたな。……約束は守るぜ」
「だから馬鹿って何よ」
アズィは立ち上がり、
俺を見下ろした。
その目は、
怒りでも悔しさでもない。
“興味深いサンプルを見つけた研究者の目” だった。
「俺はアズィの生き方は凄えと思うよ。
誰も彼もが敵に見えても、
ねじ伏せて楽しんで生きてんだからな」
「俺は折り合いってやつが嫌いだからな」
「……あんたは本当に強いな」
「ふん。無駄口は要らねえ。
また来る」
「ああ、頼むよ」
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アズィが去った後、
リッカに真相を話し、
“馬鹿”と言ったことを二十回ほど謝らされた。
「昨日遅くにミードを持って訪ねてきたのは、こういうことだったのね」
リッカは呆れたように笑った。
俺はその場で「信じてくれ」とだけ言い、
アズィとの約束は破らなかった。
「何もしなくても、リッカは俺を信じたとは思ってるよ」
「なんせ馬鹿ですからね」
そこから俺は、
ホスピタリティを余すところなく発揮し、
リッカの上機嫌を確認したところで、
次の行動へ移った。
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