カーネーション・クライシス
「奥様、おはようございます」
「お具合は……よろしくなさそうですね?」
今朝は、エジェリーとマジョラムの二人ともが来てくれたらしい。
「おはよう……うん、よくないかも……」
私は横たわったまま目を開けた。だらしないけれど、なんだかちょっと気持ち悪いのだ。たぶん水分不足だと思う。髪もぐしゃぐしゃだけど、もう干上がったトドだと思っておいてほしい。
「そうですか……残念ですね。では本日、旦那様と水族館に行かれるご予定はキャンセルとお伝えしておきます」
「っうえぇあぁぅっ?」
私は飛び起きた。そうだった。そんな大事な予定を忘れていたなんて……。
「行く……!」
「ですがネリネ様。明らかに顔色がお悪いですよ?」
「でも……」
「よろしいのですか? 水族館では、旦那様とお顔が近くなりますよ?」
エジェリーとマジョラムに畳み掛けられて、私はぼそぼそと呻いた。
「……水族館は、魚を見るところだし……」
とは思いつつも、ボロボロの姿を見せたいかといえば否である。
「奥様、体調を整えてからにしませんか? そのご様子だと、倒れちゃうかもしれませんし……」
私はしばらく押し黙ったあと、頷いた。周りに心配をかけたいわけではないのだ。
ただ旦那様と水族館に行きたかったのに、自分でふいにした馬鹿なだけで。
「旦那様なら後日でも快く行ってくださいますよ?」
「うん……」
そこは疑っていない。旦那様はそういう約束ごとを守ってくれる。でも私、自認トドのくせに約束の水族館にも行けないなんて情けなさすぎない?
「……あっ、そうだ! 昨日いただいたお休みの時間で、エジェリーと本屋に行ってきたんですよ! 奥様が以前読まれていた作者の新作小説も買っておきましたので、今から持ってきますね!」
「えっ、ありがとう?」
唐突なマジョラムの提案に、私は反射的に頷いた。
「では、持ってきますね!」
颯爽と駆け出していったマジョラムを、朝から元気……と見送っていると、エジェリーが優しく聞いてくれる。
「本をお読みになれるのでしたら、お顔を温められて、簡単にお召し替えなさいますか?」
「え、あ、うん」
そうするならそうだね?
あんまり展開を飲み込めてないまま頷いた私に、エジェリーはさらに微笑んで付け加えた。
「それにしても奥様、旦那様から可愛らしいお花が届いたんですね! やはり旦那様、奥様のことをとても大切になさっていますよ」
……そそっ、そっそそ、そうだったらいいのにねー……。
そうして私は楽な室内着に着替えて、軽い朝食を摂ると、また一人にしてもらって、マジョラムが持ってきてくれた気晴らしの本を読むことにした。
……正妻の地位に固執する悪役令嬢と、救国の聖女様と、幼馴染の聖女様と将来を誓い合っていたが悪役令嬢の家に弱みを握られているため仕方なく悪役令嬢と結婚した若い侯爵様の三角関係小説である。
「……あ、アグレッシブ……」
なんでこんなの渡してくれたのマジョラム……。
悪役令嬢と聖女様、なんか意中の侯爵様に手作り弁当を届けるために王城から侯爵邸まで魔法のジップラインで滑空し始めたんだけど……?
嘘……三角関係の話なんて今は読みたくないのに、ジップラインから落ちた二人がゴンドラレースしながら宝石を撃ちあっているせいで、つい読み進めちゃう……なにも意味がわからない……。
私はようやく二人がなぜか半壊している侯爵家についたところで、いったん本を閉じて、天井を見上げた。
「……手段はともかく、偉いなぁ……」
手段はともかく。ストーカー行為は論外として。
ちゃんと面と向かって好きだと告げて、好かれるように動こうとしている。いや追いすぎて駄目だけど。でも、後からどうして好きになってくれないんだって、逆恨みするよりはまだ健康的で建設的かもしれない。
また干上がらないようにお水を入れて、ゆっくりと飲む。
今日はヌエ先生の思考領域に入っても相手をしてくれないだろうし、本当に何も考えず娯楽に興じていたほうがマシかもしれない。
そうして夜によく寝て、明日からは何事もなかった顔をして旦那様にお会いしよう。
好きだと言えることはないけれど、好かれる努力は一応たぶんきっと私のためになる。
そう決めて、私は再び恋愛小説本のページを捲った。
……嘘……侯爵邸の地下から闇魔法で誘拐された侯爵様と復活した魔王が、魔王城でクロッケー決闘してる……?
クロッケー決闘とは?
正しいゲートにボールを通したとき、手にしているマレットを一度だけ相手に振りかぶっていいという紳士のスポーツである。そんなわけないでしょ。
本は侯爵様と魔王がクロッケー決闘の後遺症で記憶喪失になり、駆けつけた聖女ではなく悪役令嬢にダブル求婚したところで続刊を待つことになった。酷い……。
愕然とした私は、この消化不良を解消するために、エジェリーが差し入れてくれた恋愛小説を手に取った。
……真っ当にときめく身分差恋愛すると思ったら、ねぇこれ悲恋じゃん!
私は泣いた。うぅ……なんでヒロインが親指を立てて砂漠に沈んでいくの……? こんなのつらすぎるよ……。
悲しすぎて泣きじゃくっていると、夕食を持ってきてくれた使用人たちがギョッとしてヘンルーダを呼んできてくれちゃった。ごめんね、恋愛破綻小説で泣いていただけです。
しばらく怪訝そうな顔で恋愛小説の山(エジェリーとマジョラムは五冊ずつ買ったからと言って四冊ずつ置いていってくれたんだよね)を眺めていたヘンルーダは、私が泣き終えると無理矢理微笑みを作り、部屋に持ってきたという夕食の席に案内してくれた。
――そこには、ピンクとオレンジのカーネーションのミニブーケと、昨日とは別の老舗菓子名店の小箱が、そっと添えられていた。
私はヘンルーダを見た。
「旦那様からですよ」
そうじゃなかったらそれはそれで怖いけど、現状も甘やかされていて怖い。
これ、もしも明日も引きこもったら、明日も貰えるんだろうか。
「……な、七つ集めると離縁状になったり……?」
「奥様? 今なんと?」
「あっ、なんでもないの。開けるね!」
私はとりあえず小箱を開けた。……ダークチョコレートがかけられた、オレンジピールだ。
「……これ……」
旦那様の好物の一つである。たぶん。いや聞いたことはないけれど、お酒を飲まれるときに摘んでいる率が高いやつ。
おつまみ甘め派なんだちょっと可愛いかも、とかは全然思ったりなんかしていなかったけれど、たまたま覚えていただけでね?
「……一人で食べ切れない量だね?」
いや日持ちするから食べられるけどね? でも、心理的に、これを一人で食べ切るのは寂しい。
「ヘンルーダ。旦那様へのお礼に、お酒を用意しようと思うの。ウォーターハウス侯爵領にある醸酒所のちょっと良いアップル・ブランデーを購入できるように手配したいから、食後に手紙を書くね」
「ご用意いたします」
「ありがとう」
ふふふ、美味しいんだよね、あのブランデー。意外とお魚にも合うし。
そうしてもう枕元までミニブーケの花瓶を持ち込んで飾った私は、夕方に泣き疲れていた成果もあり、そこそこぐっすりと眠れた。泣くのって体力使うよね……。
というわけで、ついにちゃんと起きた私は、人が来る前にベッドの上でストレッチを終えた。
そして、いやーやっぱり二度寝して今日も虚無にしたいな……という誘惑に駆られかけて枕を眺めていると、見越したようにエジェリーがやって来てくれた。
「おはようございます、奥様。……夜中に読書をされたりはしていなかったようですね?」
「う、うん」
ねえ、エジェリー、泣く前提で目元が腫れてないかチェックしてきたんだけど。残りの本も悲恋系じゃないよね?
「もしお具合が優れなければ、早めにお伝えくださいね」
「大丈夫、ありがとう。二日間サボっちゃったから、やることも溜まっているし」
そうして着替えた私は、ついに朝の食堂に向かった。
そして思い出した。……あ、待って、まだ心の準備が! ――などとドアの前で立ち止まって深呼吸する暇なんて、使用人が流れるように案内してくれる空間にはないことを。
「おはよう、ネリネ」
眩しい。
私を見て記憶よりもはっきりと微笑んでくださる旦那様、眩しい。
うぅ、二日ぶりの旦那様、すごく胸にくる。
私は立ちくらみ誤魔化すように椅子に腰掛けた。
「……おはようございます。二日間もお休みをいただいてしまい、申し訳ございません。あの、花束と菓子の差し入れ、ありがとうございました」
「うん。その、もう平気なのか?」
あれ、旦那様が、チラチラと私の横を見ている気がする?
私はチラリと横を見た。
……あー! 誰かな、緊張して鏡すらまともに見てなかった私の横髪に、あのミニブーケのリボンを二本も編み込んだの!
……エジェリーだね? なんか旦那様に溺愛されながら頑張ってる若奥様みたいになってるね! ひぃ……これじゃ勘違い女だよ……。
「はい。おかげさまで」
「そうか。良かった。ネリネは、今日の予定は何か決まっているのか?」
「え、ええ、まあ二日間溜めたお仕事をなんとかしようかと……」
これ以上サボる気はないですよー働けるトドですよーとアピールすべく微笑むと、旦那様は頷いてシモンを呼んだ。
「――シモン。今日の俺の予定は全部キャンセルだ。王宮にも上がらない」
なんて?
「え?」
「承知しました」
シモンは、ですよねー、くらいの雰囲気で軽く頷いて、使いを出すように指示を出し始めた。
どういうこと? なんで旦那様がサボりを?
私が困惑していると、旦那様はじっと私を見つめて告げた。
「……ネリネ。この後、俺の部屋に来てくれないか? 君に話したいことがあるんだ」
「ぴゅっ……はい」
待って――まだミニブーケ二つしか受け取ってないのに離縁の相談――?
「その前に一つ謝っておくことがあるんだが」
「ぴっ……なんでしょうか?」
まさか部屋でするのは離縁の手続きだけで、今からこの麗らかな朝の食堂で「すまない、離婚しよう」と宣言をっ?
「昨日、俺が休日出勤をしたせいで。殿下たちに、ネリネの様子を聞かれて」
「あっ、はい」
「殿下たちから、今朝見舞いの品が届いたんだ。あとでネリネの部屋に届けさせるから確認してくれ。エマニュエル殿下からは紅茶で、エメリーン殿下からはアロマオイルらしい」
「大変……ありがたいことですね」
まだ謎の震えが残る手で、具だくさんのトマトスープを掬いながら、私はわりと現実的に恐縮した。
旦那様は、神妙な顔でパリふわ焼きたてパンを細かめに千切っている。
「ちなみに殿下の紅茶はチョコレートの香りだと言っていた。たぶんあれは感想を期待している。それと、お礼の品を考えるのを、手伝ってくれないだろうか。特にエメリーン殿下に贈る物を……」
「っ……はい」
私はギリギリ人語で鳴いて、鶏肉入りのオムレツを頬張った。
偉い人からの贈り物のお礼の品選びね、大変なんだよね……。いや気の病でのた打ち回っていた私のせいなんだけど。
……つまり!
どうしようね……。
「エメリーン殿下に、スキンケア用品をお返しするのは問題があるでしょうか?」
「いや、ネリネの選んだ物なら喜ぶと思う」
「そうですか? では、海風や塩水に勝つために生み出されたヘアケアアイテムなどをお贈りするのはいかがでしょうか。それなら心当たりがあります」
「なるほど。やはりウォーターハウス侯爵領製の良い物があるんだな」
旦那様は頷いて、それから微妙な顔になった。
「……実は、ウォーターマン先輩が、ボート部でどれだけ汗をかいても日差しを浴びてもかなり髪の状態が良いことが、ずっと疑問だったんだ。というか、ウォーターマン先輩でも洗髪後にオイルを付けようと思うほど良い物があるんだなと驚いた」
「あー……」
私の兄とて、効果がものすごくあるならその一手間は別に惜しまないからね。というか野生生物としてそのほうが異性ウケが有利に働くとわかってるんだよ……髪が健康的でサラツヤで見栄えがいいと、お義姉様に褒められるから……。
「旦那様の分も、ご用意しましょうか?」
「いいのか? 助かる」
私は優雅に頷いた。でも旦那様の分は、王女様ともお兄様とも違う香りにしておきますね。正妻権限で、旦那様と王女様の香りはペアリングにならないように、ね?
などと邪悪なことを考えていると、二個目のオムレツを嗜んでいた旦那様が「そういえば」と続けた。
「エメリーン殿下とは、何もなかったのか?」
「……素敵なお時間を賜りましたよ?」
私はパンを千切るのを失敗しながら答えた。旦那様の視線がたぶん若干鋭くなった。
「本当に、それだけか?」
「……え、エメリーン殿下のお気分を損ねてしまいましたか?」
あ、ヤバい。私の手元が鳩にパンくずをあげたい人になりかけてる……!
「いや、そうではなく」
旦那様は、震える手でパンを擦り合わせてパンくずを生産し始めた私を見て、困惑したように呟いた。
「ネリネが、エメリーン殿下に無茶振りをされて、無理をしたから疲れてしまったのかと思って……心配だったんだ」
……あれー?
だんなさま、わたしのしんぱいをしてる……?
だいぶ脳みそが溶けて頭の中が幼児になった私は、ただ首を傾げて、手にしていたパンをオリーブオイルの小皿の中に突っ込んだ。
その後、たぶんちゃんと食後のフルーツで口の中を潤したはずの私は、ひとまず旦那様の部屋を訪れる前に、エジェリーに介護されていた。
「奥様? 旦那様のお部屋に呼ばれるなんて、何のお話なんでしょうね?」
「……なん……だろうね……」
「あら、まだ顔色が優れませんね……少し頬の血色を足しておきますね」
「うん……うーん……?」
いや、そんな多幸感あふれる顔で聞いていい話をされるわけではないような……。でも、心配はされていたわけで。
首を傾げると、エジェリーにそっとまっすぐに戻された。チークブラシがファッサファッサと頬にのってきたので目を閉じる。
いったん整理しよう。
そのいち。旦那様は、エメリーン殿下が好き。
そのに。旦那様は、私にも優しい。
つまり、旦那様は博愛主義。
なるほどね。
ということは、離婚ではないね……?
「唇もツヤツヤにしておきますね。そうそう、アクアマリンのあのネックレスも付けないと」
そう言うより先に私の唇に色をぐにぐにと乗せてくれていたエジェリーが、ネックレスを取りに行こうとしてくれる。
目を開けた私はようやく鏡を見ながら告げた。
「エジェリー」
「はい」
「髪に、旦那様から貰ったカーネーションも挿してほしいかも」
そうだ、開き直ろう。
――実はトドは、けっこう可愛い。旦那様に気遣われる程度には。
つまりトドは、大変可愛げのあるトドになってもいいのである。
……そういうメンタルでいないと、今から旦那様の部屋に行くのが怖すぎる。
そして、いざ。
私は堂々と旦那様の執務室に乗り込んだ。
「来てくれてありがとう。そこに座ってくれ――」
こちらを見て一瞬微笑んでくださった旦那様は、明らかに私のカーネーションを足した横髪を見て、すっと目を逸らした。
「……帰ります」
「えっ?」
私は冬の海に突き落とされた心地で呟いた。
「……実家の海に帰ります……」
「待っ……なんで……?」
誰なの、調子に乗ってカーネーションを挿してきた浮かれたトドは!




