憧憬ダイビング
そして私は平穏で静謐な水中にいた。
「……おお」
眠れた。夜は眠れなかったのに、やっぱりお昼寝(もしくはギリギリ朝の二度寝)の誘惑に人間は抗えないのだ。
しかしスーッと近づいてきてくれたヌエ先生は、怪訝そうな声で言った。
『君、今は昼間だぞ? 現実逃避は良くない』
……今は、ド正論は言わないで欲しいんだけどね。
「勉強の理由が現実逃避なのは、悪いことなんですか?」
私がムッと唇を尖らせたのを見て、ヌエ先生は瞳をぱちぱちとさせて、じっと私を見た。
『……何のために勉強をするのかを理解していないと、効率が悪い』
「……べつに、常に効率を求めなくてもいいじゃないですか?」
『今日の君は……』
拗ねているのか? とでも言いたかったのだろうか。
しかし途中で言葉を止めたヌエ先生は(たぶん私が本気でふてくされていることを察したようで)、下肢の尾をくにゃりと揺らすと、トントンと軽く前足を片方ずつ鳴らした。
『では今日は、効率の悪い学びの時間だ。眠る楽園都市ルイェールについて、少し話そうか』
「……ルイェールについて?」
さすがに私も自分の機嫌の不調を一瞬忘れた。
『興味があるのだろう? 君には理解しづらい価値観かもしれないが……』
ヌエ先生が、ゆったりと語り始める。
『――かつてルイェールの都市は、長命の種族による整った思想で築かれた、美しい幸福で満ち足りていた。先進的な性格でありながら、長命ゆえにどんな分野でも学び続けることができた彼らは、今の君たちでは理解できない技術を無数に生み出していたのだ。君たちの中で一分野を究めた偉人の人生を、彼らは全員が複数人ずつ経験することができたからな』
……わあ。本当に難しい話してきた……。
「ええと……学術書が厚くなかった古代の学者のように、建築と数学と芸術と物理学と神学を同時に学べたということですか? つまり、学問の分野を横断しながらの研究を、長命なルイェールの人々は、先人の分厚い学術書で学んだうえで行えていたと?」
現代の人間でいうと、頭が良くて品も良くて実はムキムキで他人にモテる、どの分野もしっかり育てた超人みたいな……そんな、旦那様みたいな人が大量に……?
『そうだ。農業をしながら音楽の作詞に励みつつ社会学を説いてランドスケープデザインを行うことも、生理学を学びながらあらゆる料理を習得し服飾デザイナーの技術を皿に持ち込むことも、彼らには造作もなかった』
私は眉を顰めた。なるほど、流行りの港領地の伯爵でボート部の主将経験者で王女様の愛人な旦那様……じゃなくて、えっと多才なルイェール人、それはちょっとずるい。というか羨ましい。
「それで、ルイェールは天才しかいない都市になったのですね?」
『正確には性格の良い秀才の集団だったのだけどね。そして彼らは穏やかで争いを好まないまま、平穏に理想郷に到達した』
「理想郷……?」
とは。なんぞや。
『不和も争いもない、すべての苦が取り除かれた、満ち足りた世界だよ。……だから、彼らはその美しい世界の中で、深く眠ることにしたんだ』
んんー? なんで? もったいなくない? じゃあなんでそんなものをつくったの?
「……本当に、自発的に眠ったんですか?」
『そうだ。自分たちよりも劣っている外の世界を支配しようとしない代わりに、完成された都市を、君たちには届かない場所に沈めて、夢の中で終わることにしたんだ』
そう言ってヌエ先生は、ちょっと寂しそうに両耳を下げた。ヌエ先生、たぶんルイェール人のためのデバイスとして作られて置いていかれた側だもんね。
「つまり……支配者になりたくないルイェールは、干渉すれば一方的に技術を与え続ける世界の不均衡を、良くないものと考えたのですね?」
『そうだ。君の住む大陸が宗教と戦争で領土を争う時代に、ルイェールの思想は早すぎた。だから、ルイェールこそが世界の歪みにならないように、自制するしかなかった』
……コメントしづらいけれど、それはちょっと助けて欲しかったかも。そうしたら、私もお魚料理が今よりもさらに発展した素晴らしい時代に生まれて……あ、でもそこまで前提が変わると、私が生まれてないかも……。
『とはいえ、当然ながら、ただ眠る終わり方を厭った者たちも多少はいた。そんな一部の者たちは、君がいま住む大陸に上がり、君たちと交わって、同等の寿命で死んだ。ルイェールは高度な医療技術を持っていたが、まだまだ未成熟な大陸の、衛生的とは言い難い環境の病に耐性があるわけではなかったからな』
……そんなふうに終わりを迎えた彼らは、望みが叶って苦しくなかったのだろうか。自らの選択に満足できたのだろうか。
……イワナはこの大陸に持ち込んでいたけども……。
「……隣の水のお魚はキラキラで新鮮……」
『そうだ。ルイェールは本当に、新鮮さを失ったのだ。だから、かつてルイェールに住んでいた彼らの一部の血は、今はおそらく君の故郷一帯に、貴族も平民も問わず極薄く、満遍なく入り込んでいるのだろうな』
なるほど。
『気晴らしになっただろうか?』
「いえ、まったく……むしろ頭が重くなりました」
つい首を横に振ると、ヌエ先生は鼻を鳴らして、それをぺとりと私の頭に押しつけてきた。冷やしてくれたらしい。うーん、水棲生物の感触。落ち着く。
『正直に話してくれてありがとう。では、そろそろ起きる時間だろう』
トンと優しく額を小突かれるように夢から追い出された私は、仕方なく天蓋を見上げた。
あー、私本当にスターゲイザーしてるね……。じゃなくて。
「……さすがに書き留めておこう」
額を抑えつつ、モソモソとベッドから下りて、書き物机の前に座る。メインノートを開いて、ヌエ先生に聞いたルイェールの歴史の一端を、思い出せる限りそのまま書いていく。
「……頭が良くても、虚無はあるんだ……」
つらい。でも、そうなると凡百な私が失恋してメソメソするのは当たり前のことではなかろうか?
……そもそも、冷静に考えたら、私、日光で髪が発光する、ヤバすぎる人間なんだった。こんな酷い隠し事を旦那様にしているのに、普通に愛してもらおうなんて高望みが過ぎる。
思い出しただけは書き終えて、ため息からさらに息を吐いて、強制的に身体に酸素を吸わせる。
――明日からは頑張ろう。ちゃんと、伯爵夫人としてできることくらいはしよう。
そう決めて、ベッドサイドテーブルに戻り、アクアマリンのネックレスを眺める。うん、水っぽくて瑞々しくて綺麗で、嬉しい。
そんな奇行をしていると、寝室のドアの向こうから人の気配がした。
「――奥様。御夕食をお持ちいたしました」
もうそんな時間だったかと、私は驚きながら、アクアマリンのネックレスをジュエリーボックスに戻してくることにした。
「ありがとう、そっちの部屋で食べるね」
いそいそと衣装部屋に向かって、戻ってきてノートもインクが乾いているのを確認しながら片付ける。うっかり中身見られると、貴族夫人としてはなかなか脳が浮かれた人だと思われかねないからね。
そうして、寝室から応接室(まあ誰もお友達は呼ばないからただの個人リビングだね、たまにエジェリーやマジョラムと無礼講ティーパーティーとかするけど)に出る。
使用人たちは持ち込んだ食事を、綺麗にセッティングしてくれていた。ふんわりと良い匂いがして、突然お腹が空く。そういえば、朝食と昼食をいただき損ねたかも。お水は、寝室に置いてくれている水差しから飲んでたけど……。
しかし、私の目が引き付けられたのは、冷めた状態で下げられていった昼食と三時のおやつ(本気でごめんね)の代わりに、そっと置かれた温かそうなメイン料理――ではなかった。
その奥に侍女長ヘンルーダが添えてくれた物を見て、私は首を傾げた。
「……それは、なに?」
可愛いコスモスのミニブーケと、ピンク色のリボンが掛けられた青い小箱。
もしかして。なんて、この期に及んで変な期待をしそうになった私に、ヘンルーダが微笑む。
「旦那様から、奥様にお届けするように仰せつかりました。仕事帰りに購入されてきたようですよ」
……もう一度ベッドに倒れてきていい?
「嬉しい。先に開封してもいい?」
むしろその場で卒倒しそうなのを、微笑んで自制しつつ、ヘンルーダに確認を取る。
「ええ、ぜひ。先に召し上がられるのでしたら、紅茶もご用意いたします」
私はニヤけないように頬を引き締めて小箱を手に取った。そう、これは旦那様が婚約時代によく手土産としてくださった、王宮近くの流行りのパティスリーの箱である。だって箱にロゴと名前が書いてある。つまり中身はお菓子で確定。
……レッドベリルで寝込んでいたのにお菓子で喜んでいる私が情けない気がしないでもないが、まあ市販のお菓子としては、購入の手間と値段はトップクラスだからね? 紹介でも購入枠に上限があるくらいだ。私がチョロすぎるわけではない。
そう言い訳しながら、リボンを解く。箱を開けると、香ばしいカラメルとチョコレートを丁寧に絡められたアーモンドが詰まっている。ふふ、持ったときに重かったから、そうだと思ったんだよねー(後出し)。
「一粒だけ、先に食べちゃうね。お茶は食後で大丈夫」
そう告げて、アマンドショコラを摘み、いそいそと口に入れる。
途端にじゅわりと香ばしい甘さが舌の上で溶けた。歯を立てると、カリッと割れて……美味しい――!
あからさまに相好を崩した私に、ヘンルーダが安心したように下がっていく。
ひとまず夕食のアクアパッツァ風スープ(食べやすくて美味しい)をゆっくりといただいて、それからカモミールティーを淹れてもらいつつ、ミニブーケに手を伸ばす。
こっちはピンクのラッピングペーパーと青いリボンで、ピンクと白のコスモスが大輪で五本、可愛らしく纏められていた。
「……かわいい」
花弁の色の柔らかさや葉の形のお洒落さに、いつになく感動して、私はそわそわと花束とヘンルーダたちを交互に見た。
どうしよう、これ。早く花瓶に入れてあげたいのに、解くの勿体なくない?
「えっと……花瓶、可愛いのあるかな?」
「似合いそうな物を、いくつかご用意してまいりますので、あとでお選びくださいね」
「うん、ありがとう。お願い」
さすがヘンルーダ。子供はいないと聞いているけれど、長年ウォーターハウス伯爵家を回してくれていただけあって、年下への察し力が高すぎる。
きっと、ヘンルーダが仕えていた旦那様のお母様も、素敵な人だったのだろう。
「……それと、旦那様に、私がとても喜んでいたと伝えてくれない?」
「ぜひお伝えさせてください」
「ありがとう。よろしくね」
安心した私は、蜂蜜入りのカモミールミルクティーを用意してもらい、再びアーモンドキャラメリゼと対面することにした。
そうしてお腹いっぱいになって、落ち着くお茶を淹れてもらって、甘いものを食べる。そうすると、肩の力が抜けて、ふわふわと穏やかな気分になる。
……明日からは、また頑張ろう。
そう決めて、甘味を噛み締めて決意した。花瓶も選んで、可愛く入れ替えてもらった。ついでにリボンも花瓶の口に結んでもらった。
そして。
……全然寝られないんだけど――?
眠る用意をした私は、スターゲイザーアゲインもとい再びベッドの天蓋を見上げて困惑していた。
これアレだね。昼食を忘れる勢いでお昼寝したせいだね。昼夜逆転しちゃったね。
「どうしよ……」
まったく疲れてない。つまり運動が足りないのでは?
ということは、不寝番に不審者だと思われない程度に室内運動したほうがいいのでは?
のそのそとベッドから這い出した私は、とりあえず身体を疲労させようと、寝室から応接室のほうに向かい、無闇にぐるぐるウロウロした。
――でも、こんな非生産的な状況を、している場合だろうか?
まずい。変に頭が冴えて、落ち込んできた。そう思って飾ったばかりの花の花瓶を探したのに、先にエメリーン様から賜ったばかりの推し缶が目に入ってしまった。
とりあえずチェストに飾ってあったそれを、肩を落として持ち上げる。赤い缶の縁が、控えめに付けた灯りでもキラキラと輝く。
……エメリーン様は、来年には嫁がれるはずだ。
だとすれば、たとえ旦那様がエメリーン様のことが大好きだったとしても、その後は、私のことを――
「……ぷぇぇ……」
……危ない、王女様から貰った物でなければ投げていたかもしれない。
私は缶を置いて、すごすごと寝室に戻った。困ったことに、私は、今すぐ旦那様の一番になりたいのだ。エメリーン様を押し退けてでも。
ベッドの中で頭から布を被って丸くなって、深くため息をつく。
……こんな考え、可愛くなさすぎる。
でも、最初から可愛ければどうにかなる状況ではないのだから、誰も見ていない場所で勝手に拗ねていても、迷惑ではないはずだ。急に仮病で休んだけど……。
やはり――伯爵夫人にすら向いてないのでは? 最初の最初で受け入れたはずの条件を受け入れられないなら――いや、私ちゃんと後ろ盾はヤバい意味で強い侯爵令嬢だったし、そこまで酷い人材では――でも……?
そんな考えにごちゃごちゃと脳内占拠された結果、やっぱり私はあまり寝られなかった。翌朝の日が昇り始めて、とうとう息苦しくなって頭から被っていた掛け布を退かしながら、私は力尽きて目を閉じた。
こんなの、脳みそだけのた打ち回って疲れたトドだよ……。




