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君を愛することができないって言われたからペットのトドとして暮らそうとしてるんだけど、旦那様けっこう構ってくれる  作者: 鶴川紫野
第二章 海に秘密が溶けていく

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フローラル・メソメソ・トド

 レッドベリル。

 アクアマリンやエメラルドに代表されるベリル系の鉱石の、赤。それなりの大きさと色で採掘されるアクアマリンや、内包物の難しさはあるが数が採掘されないわけではないエメラルドとは違う。

 ベリルの赤は、結晶化するための高温環境が安定しないため、ほんの小さな欠片までしか成長できない。見つからない。採掘されない。キラキラと輝く宝石に研磨した状態で五ミリもあれば高値がつく。

 ――それが激レア宝石、レッドベリルである。

 エメリーン様の石は、もしかすると五ミリはなかったかもしれない。でも、一目見てルビーやガーネットやスピネルとは違う輝きだとわかる大きさはあった。

「……奥様、そちらは壁ですよ!」

 マジョラムに強く手を引かれて、私は頷いた。

「……うん……壁……」

 つまり……どっちに歩けばいいんだっけ?

 首を傾げて、ぼーっと壁を見つめる。

 私の部屋、どこだっけ?

 ……伯爵夫人の私室に戻っていいんだっけ?


 ――あのレッドベリルの指輪を見たあと。

 私は一瞬鳴いたものの、気を取り直してきちんと退出して、エメリーン様の居住区の手前まで妙に慣れたご様子で迎えに来てくださった旦那様と合流して――「問題はなかったか」と問われて、笑顔で「とても楽しい時間でした」と頷いて、旦那様と同じ馬車で帰ったと思う。

 そのあとは、(私が旦那様の大切な人を傷つけるわけないじゃないですかー)なんて考えながら微笑みつつ夕食を食べた。

 食後に旦那様が、「エマニュエル殿下からチョコレートを頂いたんだ」と仰ったから、ちゃんと「素敵ですね。では私はお邪魔にならないよう、これで失礼いたします」と、できるトドとしてお返事して、退席した。

 そして私室に戻るところで、どうやら限界を迎えたらしい私は、壁に頭をぶつけかけていた。

「ありがとう、マジョラム……」

 咄嗟に手を引いてくれたマジョラムが、かなり顔色を悪くしているのを見て、微笑んでおく。

「お、奥様、お加減がお悪いのですか? あっ、熱を測りましょう? お医者様も呼べますよ! この時間ならまだ叩き起こすまでもないですよ!」

 マジョラムは焦っているようだ。ちょっと疲れて壁と物理的対話をしかけただけなのに。

「……ありがとう、マジョラム。でも、大丈夫だよ? ちょっと……その、眠いだけだから」

 あとお医者様も寝たいと思うし。

「本当ですか?」

 しかしマジョラムは、じとっと疑わしそうに私を見つめてきた。

「だから旦那様が一緒にチョコレートを食べようって誘ってたのに、お断りしたんですか?」

「……へ?」

 誘ってくださってたっけ?

「というか誘う前に奥様がぶった切ってしまわれたので、旦那様、びっくりされて何も言えなくなられていましたけど……」

「そんなこと……あっ?」

 記憶を辿り、気づく。

 もしかして、旦那様がチョコレートの話をされたのは、報告ではなく、だから一緒に食べようと続くはずだった――?

 私は頭を抱えて座り込んだ。やってしまった……いや、今はどんな顔で食べればいいかわからないし、これは戦略的撤退なのだけど。でも、自称できるトドとは……。

「……もしかして、お気づきでなかったのですか?」

 驚いた顔のマジョラムを、そっと見上げる。

「全然……どうしよう……嫌われたかな?」

「え? そんなことで嫌いませんよ! というか、どう見ても旦那様は、奥様のこと大好きですからね!」

 それは違うよ……。

 人として優しくて好意的で親切なのと、大好きは違う、はず。レッドベリルなんて高価な指輪は、エメリーン様にしか渡さない。

 でもそれくらい、初めからわかっていたことであって、こうして今ベコベコに凹んでる方がおかしいのだ。

「戻られますか?」

「ううん。今日はもう部屋で休むよ」

 気遣ってくれるマジョラムに、私は首を横に振って断り、マジョラムを待たずに自分で私室のドアを開けた。

「あの奥様、そこは客間です……本当に、お疲れみたいですね? 温まって、早めに寝ましょうか」

「うん……」

 私もう駄目かもしれないね……。


 そうして斜め下に呆けていた私は、明日は公的な予定はないはずなのに、気づけばなぜかやたら贅沢な蜂蜜ミルク風呂に浸けられて、ラベンダーの石鹸でもこもこと髪を洗われて、たっぷりの蜂蜜と砂糖で肌を磨かれて。奥様もう駄目っぽいからサービスしとこうかみたいな雰囲気で、使用人の皆に総出で全身バシャバシャと薔薇水をかけられて、スミレの精油でマッサージされて、すごくフローラル可愛い香りのツヤツヤなトドにしてもらって、頭からシルクに包まれてカモミールが香るホットミルクを与えられ、ふわふわと石鹸の清潔な匂いがする温かいベッドへ、丁重に放り込まれていた。

 しかし。

 いかにも落ち着いて安眠できそうな匂いに守られて、実際に瞼も重くて思考も鈍いのに、私は謎にベッドの天蓋を見上げていた。

 ――ね、眠たいのに、全然眠れない……。

 どうしようこれ。目を閉じると、なんだかあの大きくはないレッドベリルみたいな光が、目の奥でチカチカするんだけど……?

 たぶんこれは、うっかり今までの旦那様にされて嬉しかったこととか思い出したりすると、下降流で海底に向かって引きずり込まれる予感しかしないんだけど……?

 ……そうだ。こんなときは全身の力を抜いて――晴れた太陽の下で、波の穏やかな安全な海に出て、小舟に寝転がりながら、ゆらゆらと揺れる感覚を、脳内に思い描くべき(妄想なら髪も光らないね!)。

 これぞ代々実家ウォーターハウス侯爵家に伝わる『二分で爆睡!最強の睡眠導入メソッド』である。

 もともとは、嵐でも戦争でも寝るしかないときに寝るために開発された秘技だが、お兄様だって王立学院で先輩の面子を潰して、流石に寝てるあいだに報復にきたらヤベェな? と思ったときに、でもそうなったときのために勝つ体力が必要だな! とよく使っていたと聞く。

 だから、私が失恋……そう、失恋してモヤモヤしているときに使っても、たぶん無罪だろう。

 では――いざ、おやすみなさい!

 そして、ウォーターハウス次期当主も誇る『二分で爆睡!最強の睡眠導入メソッド』は、結局カーテンの先が薄ぼんやりと明るくなる頃になって、ついに僅かな効果を発揮した。つまり、朝番の使用人たちがもう働き始める気配を感じながら、私はようやくうつらうつらとできたのだった。


 やがて日が高くなってきた頃、私は――朝の身支度を整えようとしてくれる使用人たちを、全拒否した。つまり、今日は体調不良ですごめんなさい何もしたくなさすぎます無理、である。

 ……反省はしているが、後悔はできないくらいに疲れていた。自認がトドからクラゲになるかもしれない。

 というわけでカーテンの外の明るさと罪悪感から身を守るように、ぬくぬくと掛け布を頭から被っていると、また寝室のドアを叩く音がした。

「……奥様。おはようございます。少々お話をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

 エジェリーだ。妙な心配をかけてしまったのかもしれない。

「……うん。入って」

 もぞもぞと掛け布から這い出て、許可を出す。「失礼いたします」と言ってドアを開けてきたエジェリーは、どうやら一人のようだった。よかった。他の使用人五人くらい連れてきて叩き起こしに来たわけではないようだ。

「……王女殿下と、何かあったのですか?」

「……え……」

 安心してベッドに腰掛けた瞬間に、素早く右ストレートは先制攻撃の基本――?

「違うよ。王女殿下とは何もなかった。楽しくお話させていただいただけ」

「では、その後に? 旦那様と何かございましたか?」

 エジェリーは、私の前にしゃがみ込み、泉色の目を私に合わせてくる。

「……何もないの」

 私は半分だけ観念して呟いた。

 そう、何もない。私と旦那様の間には、私が望む関係はない。ただそれだけの話である。

「……奥様は」しかしエジェリーは、悩むように言葉を紡いできた。「もっと旦那様に甘えられてもよろしいのでは?」

 私は、ちょっと途方に暮れてエジェリーを見た。

「でも……」旦那様は、レッドベリルの指輪をエメリーン様に贈っていて、私はたぶんそれが欲しかったの。なんて、政略結婚でしかない身で、どんな甘え方をすれば我儘ではなくなるのだろうか?

「旦那様にお伝えしたいことがあるのでしたら、お伝えしても大丈夫だと思いますよ?」

 なのにエジェリーは、どうやら私の味方として私に甘いことばかりを言うつもりらしい。

「……じゃあ」

 私はそれに縋って、もそもそと告げた。

「今日はお休みしたいの。体調が悪くてね。でも、お医者様は呼ばなくていい。本当に、疲れが抜けないだけだから」

 うん。ほぼ仮病だし、原因は気分の迷走による徹夜である。

 けれどエジェリーは、何も言わずに頷いてくれた。

「かしこまりました。必要な物はございますか?」

「物はないけど。……旦那様に謝っておいてくれる?」

 エジェリーがにっこりと微笑んでくれる。

「良い感じに伝えておきますね」

「ありがとう。それで、今日は一日、誰も入ってこないでほしいの。一人にして。……締め出したいわけじゃなくて、落ち着きたくて」

「周知させておきます」

「それだけお願いするけど、あとはエジェリーも、今日はお休みだからね。あ、マジョラムにも、それは伝えてくれる?」

 そう聞くと、エジェリーは「お任せください」と、優雅に礼をして立ち上がった。

「……ネリネ様。それでは私たちも今日はお休みをいただきますが、別にいつでもお休みは取り下げて、呼んでいただいて大丈夫ですからね。――では、失礼いたします」

 そう言い残して部屋を出ていくエジェリーを見送ると、私はベッドに転がり直して、再び天蓋を見上げた。

 これは……自慢だけど。私の侍女、優秀すぎる……。


 それからしばらくぼーっとしていると、またノックの音が響いた。

 ……誰だろう? エジェリーたちではないはずだけど。そう考えながら、私はもぞもぞとベッドから這い出そうとして。

「……ネリネ。大丈夫か? いや、大丈夫ではないから体調不良なんだろうが……」

「んきゅっ」

 旦那様の声にびっくりしすぎて、微妙に可愛い小動物じみた声で鳴いてしまった。

 素早く巣の中、じゃなくてふかふかの掛け布の中に包まり直して、それから頭の布だけ、こっそりと上げる。いま布がバタバタした音、聞こえてなかったよね?

 おそるおそるドアの先の気配を窺っておく。ひとまず旦那様は押し入ってくる様子はなさそうだった。

「なにか、欲しいものはないか? あったら教えてほしい」

 ――エメリーン様に贈ったレッドベリルとかですかね? いらないけど……本命に贈った物の複製を貰うほど惨めなこともないし。

 無意識に片頬を膨らませていたことに気付いて、私は無音で息を吐いた。欲しいものくらい、たくさんある。貰えないから言わないだけで。

「……寝ているのか?」

 寝ています。

 という気持ちで居留守を使っています。

 掛け布を頭から被って、何も聞かないことにしているだけです。……恥ずかしい。情けない。そんな気持ちばかりで、海のほうが浮力があるだけマシなくらいに……なんだろう、心細い……?

 とにかくじっとして息を潜めていると、旦那様の気配は離れていった。寝室の前にある応接室の入り口のドアが閉まる音が、微かに聞こえる。それから、五秒を数えた。

「……いやだな」

 私はようやく、小さく言葉にした。

 ……旦那様の大切な恋人は、王女殿下だった。これは間違いないだろう。

 だって、私は強請ったら領地の夫人としてのアクアマリンのネックレスを貰えたけれど……王女様は、大したことない物として、レッドベリルの指輪を旦那様から貰っている。

 つまり――旦那様が、王女殿下の愛人なのだ。

 掛け布を閉じて丸まって、すぐに息苦しくなって亀のように首を出す。

 泣いたらまあまあ楽になれそうなのに、上手く涙が出てこなかった。

 よくわからないけど助けてほしい。

 私は応接室からのドアに内鍵をかけて、寝室の奥にある衣装部屋に向かった。

 一番良い場所に置かれている大きめのジュエリーボックスの中の、一番良い場所に収めてあるネックレスを取り出して、その中央にあるアクアマリンを眺める。

 ……この歳になってなんだが、失恋はおろか、私は恋も初めてしたようなものだった。

 澄んだ水を光の形に集めたような塊は、見るだけで落ち着く色のはずなのに、今は全然落ち着けない。無自覚に首元に当てて、途端に意味もなく笑おうとした唇が歪む。

 別に今まで誰にもときめかなかったわけではない。夏休みにお兄様が実家に連れてきたご友人が、珍しく紳士的だったときとか、ちょっと浮かれたことくらいはある。けれど、それを継続させて、恋だと名付けるしかなくなったのは、本当に、旦那様が初めてだった。

 ネックレスを持ったまま、寝室に戻って、ベッドの上に転がり直す。私個人の物というよりはアクアマリン伯爵家の家宝であるべきネックレスを、傷つけたいわけではない。アクアマリンやパールがサファイアとぶつからないように、そっとシーツの上に置く。

 ……レッドベリルが欲しかったんじゃない。アクアマリンじゃ嬉しくないわけでもない。

 でも足りない。私は、不毛にも、旦那様からの恋愛的な好意が欲しくなってしまっている。

「……ぅぇ……」

 旦那様に失恋して、旦那様の屋敷の妻の部屋に引き篭もるなんて。意味がわからない。

 私は、どこにいたらいいのだろう。

「……ぇ……ぅぅ……」

 どうしよう、下手にメソメソ泣いたら余計に惨めな気分になってきた。誰よ泣けば楽になれると思ったやつ。

 政略結婚じゃなきゃ、たぶん結婚自体してなかったくせに。貴族の娘である以上、結婚はしたほうがいいからすると、自分でも受け入れていたはずなのに。

 ……なんで皆、口を揃えて私が旦那様に愛されているなんて勘違いを口にしてくれるんだろう。

 そんなだから、私は愛されていないことをみんなに知られるのは、恥ずかしいんだよ。

 私、そんなに自尊心低くないよ。

 屋敷の使用人たちに実は愛されてないと知られるのは、もう致命傷なんだよ。

 なんだかんだ目的はあっても実家から私に付いてきてくれたエジェリーに知られるのは、もっと嫌なんだよ。

「……もうやだ……」

 こうやって引き篭もるだけで、現在進行形で皆に迷惑がかかるのに。

 せっかく昨日の夜だって、使用人の皆が総出で気遣ってくれたのに。

 さっさと立ち直ってしまうべきなのに。

 それでも立ち上がる気にはなれなくて、もぞもぞとヤドカリみたいに掛け布を纏ったまま、ベッドサイドテーブルに近づいた。未だに置きっぱなしの薔薇の飴細工の隣に、アクアマリンのネックレスを置き直す。

 そして、せめて休むなりにできることをして罪悪感を薄れさせようと、引き出しを開けた。中に入れていた、可愛いタツノオトシゴもといヒッポカムポスの置物を取り出す。

「……えい」

 置物に指を置き、やけくそ気味に魔力を注いでピカピカピカピカピカピカピカピカピカピカと連続でそれを光らせる。

 わあエレクトリカル大発光……だからなんだという話だけど。

 平時なら笑っていたくらいに壁やベッドやアクアマリンに乱反射する機械的な光を見ながら、私は力なくため息をついた。

「……おやすみなさい」

 目がチカチカして疲れてきたので、再び頭から掛け布を被る。

 寝るね。


少し立て込んでいるため、二月末まで週一投稿を目標にします。

気長にお付き合いいただければ幸いです。

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