聖海巡礼シュノーケリング
そして……その日は来た。
「やっと来てくれたのね! アクアマリン伯爵夫人!」
入室するなり叫んでくださったのは、もちろんエメリーン王女殿下である。
眩しすぎる金髪碧眼の第二王子殿下や、威風堂々とされた白金髪に青紫の眼をお持ちの王太子殿下とよく似ておられながら、彼らよりも少し濃い蜂蜜のような金髪と天色の瞳を輝かせる、絶世の美姫である。つまりご兄妹でお並びになると大変高貴なグラデーションになる。
「どうぞそちらに座って! 気楽にしてちょうだい。今日はマナーにうるさい人たちは皆いないわ!」
そりゃもう、マナーに厳しい社交界歴戦のお姉様方の前で、シュノーケリングの話はできませんからね。
「このたびはお招きの栄を賜り、恐れ多く存じます」
引き攣りそうな頬で微笑んで従うと、エメリーン殿下はムッとしたように私を睨んできた。
「距離を感じるわ。そうね、ここではネリネと呼んでも構わないかしら?」
「……お気に召すままに」
早々に降伏しておくと、王女殿下は満足そうに頷いて、勢いよく向かいのソファに腰を掛けた。
「じゃあネリネ、私のことはエメリーンで構わないわ。なにしろ海のことに関しては、貴女に習うことばかりだもの」
さすがに私も黙って微笑みを返した。う、頷けない……。
しかし今年で十九歳になられる王女殿下は、明るい笑顔で言い放たれる。
「今日ここに呼んだのは、他でもないわ。私ね、ついにシュノーケリングに行ったのよ! このあいだ! ウォーターハウス侯爵領に!」
――おおおおおぉおぅ? おぅ?
「ウォーターハウス侯爵領で? シュノーケリングを? ウォーターハウス侯爵領で、なさったのですか……?」
王女殿下が? 地元の侯爵令嬢でも一応アウトだった気がするお転婆行為を、王女様がですよ? 私の実家で行われたのですか?
怖い――! 来年には外国に嫁がれる王女様に私の実家で何かあったら、経緯によっては私の家族の命が危ないレベルだよ! シュノーケリングで!
しかし王女殿下はキラキラとした顔で仰られた。
「だって、見たかったのよ。サンドルフィンが見ていた原風景が!」
「……サンドルフィン?」
私はその単語を思わず繰り返した。
まさか。
「これよ!」
王女殿下がすっと立ち上がり、壁際のサイドボードから何かを取り出した。
戻ってきたお手元にあるのは、小さな円盤の納められた薄い箱。
――Uranos Hi Bl-Uray――通常のBl-Urayを上回る最高級品質のレア物である。
あっこれ駄目なやつだ、第二王子であるいつもの殿下と同系統の匂いがする。
旦那様が以前、毎年殿下の解説実況付き五夜連続上演会に巻き込まれる悲惨なお話をされていたときに、お疲れ様です旦那様って大変なんだなぁなんて他人事で同情していたアレと、今の私、接触事故を起こしかけている気がする!
「この『MetaトロンSNOS―運命のダイアログ―』に出てくるサンドルフィン。私の最推しなの」
そうでしょうね! だって今さっき、そのUranos Hi Bl-Urayを優美な木細工のサイドボードから取り出されたときにチラッと内側に見えたの、サンドルフィンの強火推し活祭壇だったもんね!
「ネリネも、内容は知っているわよね?」
「はい……実家の領地で撮影されたものは、私が観ても問題ないものに限り、視聴するようにしておりましたので」
ここ一年間と少しは、バタバタ結婚準備して嫁いだから、最新作は未視聴作品もあるかもだけどね。見知った土地が異郷面で出てくるのはけっこう面白いから――
「――聖地! あまりにも聖地よ! 貴女の実家、素敵だったわ!」
「……お褒めに預かり光栄でございます」
聖地、つまりオタクが感動するロケーション撮影現場ということだけど、まあ私の実家ではあるウォーターハウスは、豊かな自然が魅力でして――
「貴女のお兄様であるリオナルドと、その奥方のアンスリアに、いろいろ案内してもらったのだけど」
ぴぃいいぃぃっ? よりによってその人選を王女殿下にぶつけたの私の実家? なんで? ねぇなんで? 他の人いないの? あっ、いないね? 我が家のまとも枠である可愛い弟リナスは、まだ王立学院の青年部に在学中だよ!
しかし内心泣き叫んで混乱する私に、王女殿下はにこやかに告げられる。
「とても楽しい二人だったわ!」
「あ……りがとう存じます」
良かった――! お兄様、まだ野生に帰っていないみたい!
「特にリオナルドは、自らシュノーケリングの作法を実演してくれたわ」
「え?」
「ゆっくりと水面を揺らさないように景色を楽しみつつ、獲物を見つけたら素早くシュノーケルを外して潜水して、そっと大きな魚を捕まえていたわ! 素手で!」
お兄様は野生に帰っていたみたい!
それ単なるフリーダイビングもとい素潜り漁ですね!
じゃあなんとかなったのはお義姉様のおかげだね!
「アンスリアも、素早くリオナルドから獲物を受け取って、控えている護衛に投げていたわ。それから、リオナルドの腹に膝を入れて抱きついて、思い切り腹部を圧迫して、しっかりと二酸化炭素を吐かせていたわ」
……お義姉様も駄目だったみたい!
それ潜水後の補助介助とかじゃなくて、普通に王女殿下の前で獲物を見つけて我を忘れて狩りに行ったお兄様を、王女殿下の前でお仕置きして正気に戻しただけです。
「ねえ、ネリネも泳げるのよね? シュノーケリングもしたことあるのよね?」
「はい。幼少期に、一通りのことを体験させていただきました」
十一歳で魔力玉を拾い食いするまでは、けっこう深めの海の底まで潜水して遊んでいたからね。そして、魔力過多になって外で遊べなくなったのは事実だけど、侯爵令嬢として、その遊び方はもう潮時の頃だったことも理解している。
でも、散々遊ばせてもらえたから、今の未練はそこまで強くない。
……まあ、一年前まではたまに水族館で馴染みのイルカやベルーガたちの水槽には入っていたけどね、職員にドン引きされながら。
などと、ついうっかりいろんな記憶に思いを馳せかけていると、王女殿下はぽつりと呟かれた。
「……海って、綺麗ね」
白く綺麗な手で大切そうに円盤のジャケットを撫でながら、ほんのりと美しい笑みを湛えられる。
ジャケットには、青い水中に光が差し込む中に、白い鳥の羽根が落ちているような――本当は浮かび上がるシーンだと、映画を観たあとならわかるけれど――が描かれている。
「本当に嬉しかったのよ。海を知るというにはほんの浅い場所に、たくさんの護衛と次期侯爵夫妻まで引き連れて、何ヶ月も前から準備させて、絶対に傷物にしてはいけない王女を連れ出すプレッシャーをかけさせて……大勢にとって迷惑だったことは、わかっているつもりなのよ」
私は黙ったまま首を横に振った。
ううん、本当はとても迷惑だった。でも、ウォーターハウス侯爵家は、そこまでして海を訪問したがる人を、好ましく思わずにはいられない。
「でもね。私は、あの世界を観られて……この世界がね、好きになれたの」
表情を緩ませた王女殿下が、窓の外に目を向ける。
「この国と、私が嫁ぐ国と、両国と関係ある国以外にも……人が生きていないところにも、世界ってあったのよね」
私は僅かに目を伏せた。私たちは、世界の全てを自分の目で見ることは叶わない。この王国のことすらも、知らないことだらけだ。そもそも危ない目に遭ってはいけない、その前提で生きているから、常に知っているのは氷山の一角だけだ。その氷山も見たことはない。
「……難しいわね。あなた方にとっては当たり前のものに、僅かに触れて感動している私は、滑稽に見えるかしら?」
ほんの少し目線を上げて、王女殿下を窺う。けれど王女殿下は、私のほうを見ずに、寂しそうに話を続けられた。
「でも、本当に……私が知らない世界が美しいことが、嬉しかったの。……ううん、違うわね。あなたのご実家の海が、とても綺麗で素敵だったの。青くて静かで、なのにたくさんの色が揺れている、映像の中でしか知らなかった海の中が」
天色の瞳が、ようやく私のほうを見た。私は微笑んで呼びかけた。
「エメリーン殿下」
「エメリーン。言ったわよね?」
怒られた。
「……エメリーン、様」
「……むぅ。仕方ないわね。なぁに?」
それでも唇を尖らせても可愛らしいエメリーン様に、私は一言分だけ、彼女を守りたくて本心を告げた。
「私も、海の中の世界が大好きです」
エメリーン様が、ぱっと目を輝かせる。
「……っ、そうよね! そうなのよ、そう思うのは私だけじゃないのに、王女が大っぴらにシュノーケリングしたなんて言えないし、私から皆に勧めるわけにもいかないから、全然共感してもらえる相手がいなくて……!」
確かに王女様が勧めたとなると、それは令嬢の枠から外れることを強要する状況になりかねない。
苦笑いしつつ頷いていると、エメリーン様はふと笑顔を止めて、困ったように眉を寄せた。
「……そういえば、今日来てもらったのは、シュノーケリングの話だけではなくて……いいえ、シュノーケリングが本題ではあったのだけど……」




