スターゲイザー私
旦那様が本邸にお戻りになって、三週間が経った。
とても、平和な期間だった。
シモンが個人的な時間を得てマジョラムをデートに誘おうとするところにうっかり遭遇しかけて、エジェリーと廊下の角に隠れて応援する機会まであったくらいだ。
旦那様は、お変わりない。仕事は土地から永遠に湧き出るものだからこそ、休養日は週に二日分は死守されているらしく、そのうちの一日はなんと、屋敷にいる可愛げはあるはずのトドに構う日に当てられているらしかった。
だから――海近くの自然公園に行ってパラソルを立ててもらってパエリア&海鮮バーベキューパーティーをしたり。
せっかくの雨だった日には、良い感じのガラス屋根付き商店街を散策して、日中から少しだけ明かりを灯した明るい雨空の下で、シンプルなパンにチーズと生ハムを挟んで貰ったものをその場で齧ったり。
博物館巡りもしたり。海洋研究所とか海上技術研究所とか水産研究所とか、いろいろな機関から領民に必要な情報提供や交流を行えるように整えている最中らしく、アクアマリン伯爵領のことを勝手に誇らしく思えたり。
しかし、そんな浮かれた日々は、浮かれられない日々があるから浮上するのである。
「……すまない、ネリネ。来週から二週間ほど俺が王都に行く予定だっただろう? それに付いてきてくれないか?」
ある夕食の時間、旦那様はそう切り出された。
「……なぜでしょうか?」
私は、表情を変えずに問い返した。今までであれば、はい喜んで! と即答していた賢いトドだったかもしれない。けれど、今は違う。トドは、旦那様と第二王子殿下がスワンボートでいちゃつかれていらっしゃるのを、目撃して――泣いてしまったのだ。
あれは、誤解だったかもしれない。
でもトドは、いつの間にか無自覚に自分がオデットでありたいと高望みを抱いており、その結果、地に叩きつけられたのである。ペシャンコなのである。海獣は飛べない。ただ冷たい場所に隠れて、可愛い小魚やラッコを見つめる存在なのである。
だから、先に謝られたら普通に警戒する。
案の定、夕食のスターゲイザーパイを優雅にナイフで捌かれていた旦那様の表情が、かなり気まずそうになる。
「その……エメリーン王女殿下が、どうしてもネリネに会いたいそうだ」
「………………きゅ?」
私は人語を失った。今回はけっこう可愛い声が出たと思う。しかしもう慣れてしまわれたらしい旦那様は、そのまま話し続ける。
「実は、数カ月前から会わせるように言われていたんだ。でも、忙しいから難しいと誤魔化して、誤魔化して……すまない、難しくなってきた」
旦那様はため息をついて、そのまま力なくフォークとナイフを皿に置かれてしまわれた。イワシはまだパイの中で、温かいうちに食べてくれたほうが美味しいのにー! という無表情で、虚空を見つめている。
「だから、俺が登城している間、一度……おそらく一度、エメリーン王女殿下の招待を受けてほしい」
「エメリーン王女殿下が……私に何をお求めで……?」
私は呆然と旦那様に尋ねた。だって、私はエメリーン王女殿下には――凄まじい不敬を働いている。ねえ、一度って、今生がそこで終了するからとかじゃないよね?
旦那様は曖昧な微笑みを浮かべた。
「シュノーケリングの成果を聞いてほしいらしい」
……あ、もう来世の世界観が始まっていらっしゃる?
「シュノーケリングの……成果を? なぜ私に?」
そもそもなぜ王女様がシュノーケリングを嗜んでおられるのですか――? という当然の質問を呈することは、初速で王女様という概念がトップスピードで更新されることを許している世界観では諦めることにして、私は現実的な問いを持ち出した。
「おそらく君がウォーターハウス侯爵領にある水族館の名誉顧問だったからだろう」
「…………なぜご存知なのですか?」
王都にある水族館のほうでは、ノータッチとまでは言わないけど、そこまでやりたい放題してないよ? おかしいな、実家に置いてきたはずの私の過去が既知になってる……。
「すまない。俺が殿下に……エマニュエル殿下に話した内容が、エマニュエル殿下からエメリーン王女殿下に伝わったようだ」
だから、なぜ旦那様が、私の実家での水族館での立場をご存知だったのですか? と聞きたかったのですが……! 別に私、館長とかじゃないよ? 名誉顧問だよ? 名誉! ただの侯爵令嬢の暇つぶしの名誉職だよ?
私は困惑して視線を彷徨わせた。
食べかけのスターゲイザーパイと目が合う。とはいえ実家のオールスターゲイザーパイで強者の風格を放つサバやトビウオやカマスとは違い、このイワシは捕食者のほうをガン見せずに、慎ましくチラ見でスターをゲイザーしていた。上品なスターゲイザーパイである。でもこれ、未来の私の姿なのでは……?
「俺が王女殿下の宮殿に直接赴くことはできないが……その日は、必ず第二王子殿下の執務室にいるから、何かあればすぐに来てくれて構わない」
「ええ、焼き魚のタンパク質性白目はキモ怖いと言われがちですが、もしも存在した瞼を閉じて安らかに横たわっていたら、それはそれで嫌かもしれません……」
「うん? ……うん。本当にすまない。その……俺にできることがあれば、教えてほしい」
「え? ……できること、ですか?」
私は困惑しながらも、未来のスターゲイザー私を幻視するのを止めた。
たぶん、ここは何かしら頼ったほうが良いのだろう。何もありませんと無闇に遠慮するほうが、嬉しくないこともある。
つまり、そう。今ならわりと強欲な頼みでも許される可能性がある――。
「……あの。では」
私は静かに、しかし深く息を吸った。
「……王都の、水族館に……変装して、一緒に行ってくださいませんか?」
やはり口にしてみると、海の中に飛び込んで、強く水圧を受けたような気分になった。が、出した言葉は戻らない。
「………変装して?」
「はい。一度、職員に気づかれずに、一般の小貴族のように水族館を回ってみたいと思っていたのです。ウォーターハウス侯爵領の水族館では館内に常駐していたので、変装していてもバレそうですが……王都のほうの水族館であれば、さすがに一般職員は私のシルエットまで覚えてないはずです」
旦那様は不思議そうに私を見ていたが、魚の骨を飲み込むように頷いた。
「……なるほど。わかった。それで変装は、どんなふうにすればいい?」
「ありがとうございます。そうですね、差し支えなければ旦那様の分もヘンルーダたちと相談して、私が用意しても構いませんか?」
「ああ、そのほうが助かる」
「では、楽しみにしていますね」
私は淑やかに微笑んだ。
…………やっっったぁぁぁぁ!
フォークとナイフを意気揚々と操り、上品にスターゲイザーパイを解体しながら、私はニコニコニコニコと微笑み続けて、口の緩みを隠せなくなった。
「……ネリネは、スターゲイザーパイが好きなのか?」
「もちろん好きですが、スターゲイザーパイがここにあること自体が嬉しいのですよ」
「そうなのか」
旦那様は頷いて、再びフォークとナイフを手に取った。
「確かに、君と食べる食事は美味しいな」
私はそわそわと落ち着かなくなって、近くにいた使用人に頼んだ。
「……これに合う白ワインを持ってきてくれる?」
突然風味が強くなったスターゲイザーパイを示す。そうして爽やかな香りのワインが注がれたグラスを傾けると、胸が詰まるような感覚がアルコールにぐっと押し流されて、ぽかぽかと温かく収まっていく。
「あ、美味しい……。旦那様も、ぜひ」
「じゃあ、貰おうかな」
旦那様は頷いて注がれたワインを飲み、パチパチとアクアマリン色の瞳を瞬かせた。
「……美味しい……」
私は、瞼の存在意義を理解した。
表情が動いて輝くって、綺麗なんだね。




