イワナの唐揚げのマリネ
「それにしてもたくさん作ったな」
置かれたお皿の上は、お洒落だった。カラフルなお野菜と、しっとりツヤツヤの黄金色の衣を纏ったイワナの唐揚げ。そして酸味のありそうな、透明なソースの香り。
でも、山盛り。
「すみません、つい張り切りすぎました。記憶の十分の一の量で作ったはずなんですが……余りますよね?」
「おう……これ何人前なんだ?」
「ボート部の夜食の二人前と半量ですね」
「つまり一般成人男性の朝食六人前とかじゃね?」
うん。待って、旦那様の夜食の概念って私と合ってる? 学生時代の旦那様って、今目の前にある山盛り皿の三分の一以上を、夜食だけで消化してたの? それはさすがに多くない?
「……余った分は、従者と侍女で分けてくれ」
旦那様は気まずそうな顔で、控えていたシモンにそう告げた。シモンは、でしょうね、と言う顔で頷いた。
「それにしても、よくこんなに釣ったな?」
殿下の矛先が、さらっと私に向けられる。
「釣りは上手いほうでして」
「釣果っていうか水揚げ量だったが……」
私は殿下から目を逸らした。殿下の向かい、つまり私の隣に座った旦那様のほうを見る。
「ところでこちらのお料理は何ですか? とても美味しそうですが、初めて見ました」
旦那様は軽く首を傾げた。
「イワナの唐揚げのマリネだよ。あれ、初めてだった? 先輩も実家で作ったと聞いていたんだけど」
「岩場の水揚げのネリネ……」
殿下がぼそりと何かを仰った。
しかし私はそれどころでないので、いかに殿下のお言葉といえど聞き流すことにした。
「え、これが正しいイワナの唐揚げのマリネだったんですか? お兄様が作ってくださったのと全然違うだけでした。その、見た目が……」
「ああ……先輩のは豪快だったからな……美味しかったけれど」
旦那様のアクアマリンの瞳が、少し遠いところを見る。
そう――たまに兄が作ってくれたアレは、カラッ! アゲッ! バァンッ! イワナァッ! という感じで豪快にマリネ液を弾いていたが、旦那様のイワナは、一口サイズの繊細そうな切り身が、しっとりと野菜に和えられている。控えめに言って別料理である。
殿下が、「じゃあ貰うぞ」と勝手にトングで自分の皿にマリネを盛り付ける。後ろで控えているスタッフたちは恐々と手を動かしたがっていたが、気にせずに野菜とイワナを良い感じに取り、私にトングを渡してくださった。
「ボート部は、二時間に一回食べないと飢えて死ぬ感じだったよな」
「俺はそんなことありませんでしたよ」
「でも四時間に一回は食べないと死にそうだったよな?」
「それは普通では……?」
私がイワナをお皿に頂いている間にも、殿下と旦那様は妙な会話をされている。
そういえば、私のお兄様やお父様が異様に食べるからあまり気にしてなかったけれど、旦那様も食べる量は平均よりもかなり多いような気がしてきた。弟の二倍くらいは食べてるかも?
「二時間に一回って、どんなスケジュールなんですか? 学校ですよね?」
私は旦那様にトングを渡しながら問いかけた。
「ああ、朝食前の早朝食としてパン粥と果物を食べてから、揚げ物の仕込みをして、朝練してから食堂で朝食。そのあとは午前中の中休みに食堂でパンを配給してもらって、昼食は争奪戦に勝って、午後からが鬼門でとりあえずビスケットとかで耐える」
待ってね、いま朝食以外全部おかしくなかった?
しかし旦那様は、口にした食事内容ごとにトングを控えめにカチ、カチ、としながら話し続ける。
「で、放課後はまず早朝に仕込んだ揚げ物を揚げて食べながら勉強会。赤点なんか取ると部活動に制限がかかるから、先輩が後輩の成績を保つのは責務だったんだ。それから部活動して、残りの揚げ物を食べて片付けて、食堂に辿り着く。夜は自主トレか勉強をして、揚げ物の油で炒めた野菜を齧ってから就寝準備して……って感じだったかな」
最後の食事いる? って思うんだけど、食べないと動けないんだろうな……。
「それ一日に何回食べてます?」
「九回かな」
「……胃が強すぎますね?」
そう言うと、旦那様はさりげなく目を逸らした。
「……俺が入部した当初は、朝から晩まで永遠に肉を食っていたんだ。これでも改善させたほうなんだ」
それ言い訳のつもりなんですかね。大健闘では? いや一日九食はやっぱりおかしいけどね?
殿下がしみじみと言う。
「身体を鍛えるのって才能だよな」
「ええ、本当に……」
私のお兄様なんて、体力仕事の息抜きに筋トレしてるからね。妹からみても、申し訳ないけれどちょっぴり気持ち悪い生態だと思う。
旦那様は若干気まずそうにイワナの唐揚げのマリネを皿に山盛りにしている。
私はつい旦那様を観察してしまった。
「……なんだ?」
旦那様の視線がこちらに向く。
私はたっぷり躊躇ってしまってから、眺めておいて何でもないというのも失礼だと思い、呟いた。
「……朝からかっこいいな、と」
途端に恥ずかしくなって、視線を逸らしてマリネをいただくことにする。
「……美味しいですね! 酸味がちょうどいいです! イワナが美味しい! お野菜も美味しいです! 美味しい……」
しっとりふわふわさっぱりジューシー甘酸っぱい!
魚の旨味と野菜の甘さが最高! 幸せ! 素敵! 盛大にそこはかとなく幸せ!
一口食べて、淑女らしく言語化することを放棄した私は、もぐもぐとイワナの唐揚げのマリネを頬張った。
「……作ってよかった……」
しみじみとした小さな声が聞こえた気がするけれど、食事に夢中で聞こえなかったことにする。でも、毎日が補給食に命がけだったらしいボート部では、いくら旦那様でもここまでしっかり下拵えされていなかったであろうことは、なんとなくわかる。
「俺も料理覚えるか……」
と、殿下が真剣そうな顔で冗談を仰られた。
「伯爵夫人。最近、領地内のいろんなところに寄付とかしてるだろ?」
キコキコ、キコキコ。
現在この国で一番高貴であろうスワンボート(陛下や王妃殿下や第一王子殿下はさすがに乗ってないでしょ)のペダルが軋む音を聞きながら、私は殿下の言葉に頷いた。
「はい。……いけませんでしたか?」
「いや、良いことだと思うんだ。ただ……」
殿下は言いづらそうになるのを、旦那様が引き継ぐ。
「アクアマリン伯爵領では、領地を立て直すときに、慈善団体のふりをしたカルト教団が、どこかに入り込んでいると思う」
「……そうなのですね」
殿下と旦那様が頑張ってペダルを漕いでいらっしゃるのを、私は呆然と後部席に座って眺めた。
実家ウォーターハウス侯爵領では、私の魔力過多が万が一にもその手の過激派に知られないように、全部無理やり追い出してくれた。でも、もちろん他所の土地ではそうはいかない。わかっていたはずのことだが、いざ告げられるとやっぱり怖い。
「だから、気をつけてほしいんだ。特定の団体を贔屓することがなければ、擦り寄ってくることもないと思うが……」
キコキコと軋む音が、やけに大きく聞こえる。あとこの人たち、本当にこういう内密の話をするために、護衛無しでスワンボートで湖の真ん中に来ていたんだ……。
駄目だ、ノイズが多すぎる。
まず公的な夫はともかく王子殿下にスワンボートを漕いで貰っている状況がシュールすぎる。キコキコ……じゃないよ。
え、また置いていかれるんですか? という顔で絶句したのちに岸に繋がれた救命ボートの側に控えてくれている、私たちのせいで苦労の多い護衛たちの姿に目を向け、私はため息をついた。
「……そのカルト教団というのは、ルイェールの再誕を支持する『祈海の凱旋』を指している、と考えてもよろしいのでしょうか」
念のため確認する。私が知っているルイェールに夢見ているカルト教団はそこだけだけど、一応ね。新しいカルト教が増えたとかではないよね?
旦那様と殿下の足元の音が、キコ……になった。
「そうだ。最近のあいつら、反王家どころか反王国派が加速してきているんだよな……さすがに困る」
「一時期おとなしかったのは、どうやら教団内部で、各地にいた指導者たちの序列争いをしていたかららしいんだ」
ということは、今はもう主導者が決まって、暴れる時期に入ったということだ。
「……そうでしたか。かしこまりました。私もできる限りの注意を払います」
「うん。そうしてくれると助かる」
殿下の足元から、キコキコが戻った。
けれど旦那様は「もう一つだけ」と、こちらを振り返った。殿下もまたキコキコを止めた。
「ミルテ侯爵家の令嬢のことなんだが。ネリネは最近、連絡を取ったりしているか?」
「いいえ。退席された夜会のあとに、見舞いの手紙を差し上げましたが、返信も無難なものでしたので、それ以降は特には……」
返信が素っ気なかったから、年上の知人にこれ以上絡まれても迷惑かなって、深入りは止めたんだよね。
それと……。
「そうか。それなら良いんだ」
旦那様が頷く。殿下が付け加えてくださる。
「それなら今後、もしも君を急に頼る手紙が来たら、必ずノアにも相談してやってくれないか」
「……承知いたしました」
私は頷いた。
もうこれ、一種の答えだよね。ジゼル様から届いた手紙の材質が、あまり侯爵家のご令嬢としての格を保てるものではなかった、ということ以上の実情を、二人とも既にご存知なのだろう。
その理由まではわからないけれど……ミルテ侯爵家は、殿下や旦那様が気にかけるのではなく警戒を匂わせる立場で没落寸前ということである。
「……ですが、ジゼル様は、フォンテイン子爵とご婚約されておりますよね?」
「ああ」
殿下の返答は、ため息混じりのものだった。
「……レナートには、苦労をかけることになるな」
「覚悟はできていますよ、レナートは」
殿下の隣に座る旦那様が、はっきりと告げる。素晴らしいことだ。旦那様とフォンテイン子爵と殿下は、王立学院で固い信頼関係を築かれたのだろう。
私は、湖の水面に視線を投げた。
でも……ジゼル様は、覚悟できているのでしょうか?
などと言う権利が、どこにあるかは見つからなかった。
だってミルテ侯爵家がもう沈んでしまっているのなら、私は私の身を守らなければならない。
「……お魚は、美味しい生き物……」
ちょうど岸のほうに飛んできた鷺も、丸呑みしてるし。
旦那様が、ちょっとだけ笑う気配がした。
「間違いない」
スワンボートを降りて昼食をご一緒してから、私はなかなか濃くて苦めの思い出を作り上げたリゾート地を御暇することにした。
これから旦那様は、殿下をアクアマリン伯爵領の端までお送りして、その後はようやく本邸に戻られるらしい。一週間後に、アクアマリン伯爵家の本邸に着く予定だそうだ。
殿下と旦那様にご挨拶して、私も帰ろうと馬車に乗り込む。
「奥様」
エジェリーが、馬車の扉の外から、私を呼んだ。
「どちらに帰られますか?」
「アクアマリンの本邸に帰るよ」
そう答えると、エジェリーは安心したようにふわりと笑ってくれた。
「かしこまりました」
それだけ言って、馬車に乗り込んで、私の隣に座る。
「聞いてくれてありがとうね、エジェリー」
「気が変わったら、いつでも教えてくださいね。たまには里帰りして心配させるのも手ですよ」
……うん。エジェリーはきっと、私がもう実家に帰る! とか、遊びたいから王都の屋敷に戻る! とか言い出だしても、それはそれで笑ってくれたのだろう。
「最終手段として覚えておくね」
たぶん旦那様は、私では最大の効果はないにしろ、多少は慌ててくださるはずだ。
そう思うと、あと一週間待つことも、気楽で楽しいことのような気がした。




