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君を愛することができないって言われたからペットのトドとして暮らそうとしてるんだけど、旦那様けっこう構ってくれる  作者: 鶴川紫野
第二章 海に秘密が溶けていく

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乖離した夢

「……え?」

 私と旦那様は、同時に殿下を見た。あの、今なんておっしゃいました?

「ん? なんで驚くんだ? リゾート地だろ? なんかこう、ロマンだろ?」

 しかし殿下は不思議そうに首を傾げられた。あれ?

 殿下って、私の恋敵……じゃなくて、旦那様の愛人、もとい旦那様が愛人なのでは? 

「あの、旦那様は、殿下をおもてなし中なのですよね? であれば、最後までご一緒されるのが自然かと……! 私は、その、今夜は侍女たちもおりますので!」

 背後から、エジェリーの「なぜそこで私たちを引き合いに出す?」という視線を感じたが、私はそのまま微笑んでおく。あのねエジェリー、女子会には夜間の部もあるんだよ。

「そうなのか? 本当にいいのか?」

 殿下はまだ念押しで確認してくださる。

 これはまさか『妻を大切にする旦那様を大切にする』という大人の男の余裕ポーズ……? それはもう恋なのか愛なのか……。

 私は困惑しながらイワナの串を置いた。それから旦那様に視線を向ける。

 ほら見てくださいよ、殿下。突然そんなことを仰るから、旦那様はずっと驚いて固まってしまわれております。

「いや、でもこの仕事人を、夜中まで奥方から取るわけにはな……ノアには円満であってほしいし」

 などと、殿下はありがたいお言葉を呟いていらっしゃいますけれど、旦那様の視線は、明らかに私と殿下の間の虚空を彷徨っておりますよ。

「……あ、なんか俺、他所のご家庭に首突っ込みすぎた感じ? ごめん」

 やがて旦那様のご様子に気づいてくださった殿下が、首を竦められる。その頃になってようやく起動した旦那様は、弱々しく頭を振った。

「……ネリネとは、後日ちゃんと時間を作りますので、お気になさらず」

「まあ、それならいいけどさ」

 と、殿下は軽く私と旦那様を見比べて、何かを考える素振りを見せた。

 そして、かなり真剣そうな表情になり、言った。

「なあ、このイワナ、三本目貰ってもいいか?」


 その夜。

「ねえ、エジェリー、マジョラム」

 ひと通り他愛もない笑い話が続き、ふと話題が途絶えた瞬間。私は甘い香りが漂う室内で、クッションを抱きながら呟いた。

「……殿下と旦那様ってどう思う?」

 この集まりのドレスコードである、緩くて楽なワンピースを着ているエジェリーとマジョラムは、とても怪訝そうな表情を浮かべた。

「どう、とは?」

「仲が良さそうですよね?」

 私はクッションをほんの少し押し潰した。

「もっと……何か思うところはない?」

「思うところ、ですか? 殿下は、上司部下というよりも、友人として旦那様を信用されている印象ですね」

 エジェリーの言葉に、マジョラムもうんうんと頷いている。なるほど。どうやら二人は、そもそも旦那様と殿下がどんな仲なのかなど、そこまで興味ないのかもしれない。

 私はクッションをぎゅっと折り畳んだ。赤ワインにたっぷりの果物を漬けた、美味しいサングリアのグラスを傾けて、ゆっくりと喉を潤す。そして、そっと本題に切り込んだ。

「あのね。じゃあ、男二人でスワンボートに乗るって、どんな仲なの……?」

 おつまみのミニクッキーを摘んでいたマジョラムが、きょとんとした顔になる。しかしエジェリーは、飲んでいたハーブワインをテーブルに置いた。

 私はごくりと息を飲んで、エジェリーに注視した。

「奥様。日中の旦那様と殿下のことでしたら、おそらくあれは、奥様が、奥様のお兄様とスワンボートに乗られるくらいの状況ですよ」

「……え?」

 事もなげに告げられた言葉に、私はサングリアを震わせた。赤い水面に沈む果物が、ぐるんぐるんと回る。

 お兄様とスワンボート――そう、あれはまだ私が、自分は白鳥の子だと信じていられた頃。子供ながら力が有り余ったお兄様が、隣に乗せた妹に良いところを見せようとしたのか、それとも単なる暴走だったのか、力いっぱいペダルを漕ぎまくり――水面を疾走するスワンボート、白鳥が自分を入れたまま飛んでしまうと泣く私、ベキンと壊れるペダル、深い湖の中央でぽつんと停まる白鳥。もうお家に帰れないと泣き叫ぶ私、とりあえず水の中に飛び込んでスワンボートを押そうと思いつく兄、ブチギレ気味に止める護衛隊長――。

「もしかして、そんなことを心配されていたんですか? 旦那様が、奥様よりも男友達のほうが大切なんじゃないかって」

 小首を傾げたエジェリーの落ち着いた声に、私はハッと我に返った。

 あっ、あんな阿鼻叫喚な状態というわけじゃなくて、ノリの良い相手に振り回される仲とかそういうこと?

 というか、やっぱりエジェリーも、あの密会が見えてたんだ? なのにそんな理解なの?

 なにか根本的なところから不安になってきた私に、マジョラムがふわふわと言う。

「もちろん殿下は殿下ですから、奥様と同じくらい大切な御方だとは思いますけど……奥様は、全然負けていませんよ! だって旦那様、奥様のこと大好きですもん!」

 蜂蜜酒のミルク割りのグラスを抱えたまま、ニコニコと無邪気に笑っているマジョラムは、もう酔っているのかもしれない。

 そう思うことにした私に、エジェリーは深く頷いてくれる。

「ご心配なさらずとも、奥様が旦那様のことを大切にお慕いしていらっしゃることは、皆がわかっておりますよ」

「……う……んん……?」

 なんて?

 ――お慕い? 私が、旦那様のことを。

 私は混乱して、とりあえずサングリアを傾けた。中の輪切りオレンジを口に入れて、もぐもぐと噛む。

 私、そういうのじゃない、よね? いや、私が旦那様を、人として慕っていることは確かだけどね? エジェリーは、その……私が恋愛的な意味で旦那様をお慕いしてると勘違いしてない? 大丈夫?

 じわじわとオレンジの皮の苦味が口の中に広がる。あ、これ美味しくない。そう気づいたけれど、今さら吐き出せない。

 というかマジョラムは、いやエジェリーも以前言ってくれたけどね。旦那様が私のことを……好き、というのはね。

 ええと、態度だけ見れば、わりとそうかもしれないけどね?

 勝手にわけがわからなくなってきた私は、ぐーっと一気にサングリアを飲み干した。甘いお酒のアルコールが、良い感じに喉を焼く。

 ――違うんだよ。

 私は旦那様に、『君を愛することができない』って言われてるんだよ……。

 ぺしょぺしょに萎びた気分で、グラスを置く。そのまま顔を上げられないでいると、エジェリーが不思議そうに声を掛けてくれた。

「奥様、大丈夫ですか?」

「うん、酔った……」

 甘えたことを言うと、マジョラムから水を渡してくれた。でも、私は旦那様ほどではないけどお酒にはけっこう強いから、本当はまだまだ全然酔ってない。

 でも、なんだか水を受け取る手が震えるし、視界がくらくらするし、顔が熱い。

 今さら――だって、政略結婚の相手なのに。問題ありませんよって、最初に言ったのに。

 ペットのトドで構いませんよって、ペンギンやカワウソだと思わなくていいですよって、言ったのに。

 ネリネ、って呼んでくださるだけで、満足しているべきだったのに。

「あれっ、奥様? 何か嫌なことがありましたか?」

 ――好きな人がいる人を、好きになんてなりたくなかった。

「お水、飲みましょう? 飲めますか? 甘くしますか?」

 マジョラムを焦らせてしまっている。

「……奥様、大丈夫ですよ。奥様は十分に頑張られていますよ」

 エジェリーが、何かを察したような声で言ってくれる。

 ――うん、わかってるよ。平気。大丈夫、ありがとうね。

 そう言わなければならないのに、口を開いたらなぜか泣いているみたいな声が出そうで、私は唇を閉じたまま震わせた。

 そのまま私が動けないでいると、ふいにエジェリーが、すっと立ち上がった。

 思わずそれを目で追った私に、エジェリーが言い放つ。

「――私、旦那様を呼んできますね」

 私はびっくりして泣き止んだ。

「え、エジェリー、大丈夫……ここにいて……」

 別の意味でも声が震える。

 殿下と旦那様の間に割り込んで、私情で旦那様を引っ張ってくるのは、まずいよ……恋愛関係なく。

 けれどエジェリーは、私の前にしゃがみ込むと、ゆっくりと言った。

「……本当に、呼ばなくてよろしいのですか? 今の私はネリネ様の侍女ですから、ネリネ様の答えを振り切って勝手な行動はできないのですよ?」

「うん。接待中の旦那様を呼ぶのは良くないし」

 私は慌てて目尻を拭きながら呟いた。

「……後日時間を作ってくれるって、言っていたから」

 旦那様、律儀だから、ああいう口約束未満でも、絶対に守ってくれるんだよね……。

「わかりました」

 エジェリーは、けっこう残念そうだったが、軽くため息をついて座り直した。

「では、飲み直しますか?」

「良いんですか?」

 マジョラムは驚いたように私を見たが、私はゆっくりと頷いた。

「……飲む」

 こんな変な空気にしちゃったまま、お開きは嫌だもんね。


 そして、散々飲み直して、ウォーターハウスの海の歌と、マジョラムから聞いたアクアマリンの港の歌を、二、三回ほど楽しく歌ったあと。

 寝支度を整えられてベッドに寝転がった私は、誰もいなくなった部屋で、ふわふわと目を閉じた。

 全身の力を抜いて、波の揺れを思い出しながら、もう何も考えないように――

 ――無理……!

 私は誰も見ていないのを良いことに、ゴロゴロと転がりまくった。

 大丈夫、これはホームシックで弱ってるだけ。失恋とかそういうショックの問題ではなく、ちょっと暴れたい気分なだけ……!

「……疲れた」

 朝から馬車移動でここまで来てるからね。

 天井を見上げて、はーっと息を吐くと、気怠い眠気が頭の斜め上くらいまでは訪れる。うーん、もう一声。

 こういうときこそ、ヒッポカムポスのヌエ先生の光らせるやつ、あれば良かったのにね。

 泊まるとは思ってなかったから屋敷に置いてきちゃった。まあ泊まると決まってから、『【朗報】本日、奥様帰ってきませんぜ速報』と『【悲報】今から奥様と侍女のお泊まりセットのご用意特急便』を走らせてもらったけどね。さすがに奥様の寝室のベッドサイドの引き出しに入ってるタツノオトシゴみたいな光る石はね、マジョラムなら荷造りしたときに気を利かせて入れてくれる可能性が一応ある程度だからね。エジェリーとヘンルーダはあえて無視するやつだからね。

 グニャグニャと何も今後の足しにならないことを考えながら、目を閉じる。

 ……エジェリーは、私がホームシックで泣いたと思ったのだろうか。

 うん、たぶんそう。私がホームシックを拗らせてすごすご実家に帰って、そのまま旦那様と離婚する可能性とか考えて、下手に拗らせる前に旦那様を呼ぼうとしてくれたのかもしれない。

 ……でも、違うし。別に旦那様と望みの仲になれないからホームシックにかかったわけじゃないし。

 殿下と旦那様が、仲睦まじく身を寄せ合って、ひそひそとお話してるのはいつものことだし。

 ――あっ?

 私は勢い良く身を起こした。 

 ……いや、もしかしてあれ、仕事の話の途中だったりした……?

 そう、スワンボートは――乗れる定員が非常に少なく、なおかつ湖の真ん中などの人目はあるが人気のない場所に堂々と迎えるのである。

 だから、護衛がたくさん集まりすぎて、誰が何の内通者かもわからない状況下において、ああ見えてスワンボートは秘密の話をするにはうってつけなのだ。

 つまり、もしかしてその仕事の合間に、殿下が小気味よいジョークを挟んで、ハハハとかなっていただけの可能性が……?

 いや、そんなまさか。

 それでは私の旦那様は殿下と愛人説が成り立たなくなってしまう。別に良いけど……。

 私はもう一度ドサリとベッドに倒れ込み、深く息を吐いた。

 ……いやー、急にポジティブになったり、やたらウジウジしたり……そんな人に、ついてきたくないよね。寝て起きたら改めよう。

 でも。と、私は少しだけ楽になった気分で、もぞもぞと掛け布団の中に潜った。

 ――もしも、旦那様と殿下が別に愛人関係とかそういうのじゃなくて、私の勘違いだったら……なんて。

 温かくて暗い、この世の贅沢を溜め込んだようなベッドの中で、うとうとと微睡む。

 そしてもう眠れそうだと思った私は、ふと、今晩別れる前の旦那様の様子を思い出した。

 ――ねえ、旦那様。

 私は、わからないんです。

 瞼の裏に、遠慮がちに微笑む旦那様の姿がふわりと思い浮かぶ。

 ――なんであの時……うん、夕食後にね。……私が釣ってきたイワナがまだあるなら貰っていいかって、聞いてきたんですか……?


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