湖に浮かびし麗しの白鳥
しかし、生態系を壊さない程度にイワナを乱獲して、ウキウキで湖まで持ち帰ってきた、そのとき。
私は、美しい湖の真ん中を優雅に泳ぐ、一羽の黒く大きな白鳥に目を留めた。
「……あれは……?」
いや、わかっている。スワンボートだ。こう、なんか二人で頑張ってペダルを足漕ぎして、水面下でバタバタする白鳥の気分になるやつ。
でも、その中には、もう見慣れたミルクティー色の髪があった。
私はぽかんと口を開けた。
「……ぴゅぇっ……?」
間抜けな鳴き声を発した私に構わず、爽やかな風が湖畔を通り抜けて、大きなスワンボートの背をそっと押す。
中にいる旦那様の髪が、柔らかに揺れ動いている。
――あ、旦那様が笑ってる……。
私は目を見開いた。肩を震わせて、無邪気に楽しそうに笑われる姿は、私があまり見たことがないものだった。
けれど、その声を聞きたいと望むことは、できなかった。
だって、その横に寄り添うように――けっこう大柄な人影があった。
「……で、殿下……?」
第二王子殿下は、旦那様と何かを語らいながら、楽しそうに肩を揺らしていらっしゃった。
「……そんな……」
私は理解した。それはもう、即座に。
――旦那様の愛人が……殿下だったなんて……!
あっ……逆っ? 第二王子殿下はまだ未婚だけれど、婚約者様はいらっしゃるわけで、旦那様は私と既婚だけれど殿下のお側にいるわけで――つまり、旦那様が殿下の愛人ってことになるんだっけ?
「奥様、どうなされましたか?」
「……じゃあ、私は……」
トド。そう、トドだ。旦那様と政略結婚したウォーターハウス侯爵家の娘。
第二王子殿下に勝つのは、無理だ。……そもそも勝ちたいなんて一瞬でも思うことが間違っている。
「奥様? ネリネ様? どうかなされましたか? もしかして乗りたいんですか、スワンボートに」
「あっ……」
いつの間にか後ろから近寄ってきた侍女のエジェリーに、声を掛けられて、私はハッとした。
私はけっこう目が良いけれど、エジェリーには見えていないのだろうか、あの水上の中の甘い密会が。
「……えっと、甘い物も食べたいかもーって……?」
挙動不審な私に、エジェリーは軽く目を瞬かせたが、すぐに有能な侍女らしく頷いてくれた。
「でしたら、マジョラムたちと合流して、カフェにでも行きましょうか? 良さそうなスイーツを出すお店がありましたよ」
「そうする」
私は、ゆっくりとスワンボートから目を背けた。
……そうなんだ……お幸せに。
エジェリーが事前にリサーチしておいてくれたらしいカフェは、シトロンのフロマージュがさっぱりの濃厚で、私好みの味だった。合わせてみた深煎りのコーヒーも、苦い香りと味わいが、今はとても心地良い。
「美味しかったね……」
エジェリーとマジョラムも同席してもらって(さすがにヘンルーダには辞退されたので、別所で休憩してもらっている)個室で無礼講気味に女子会(?)をしたら、気分は少し上向きになった。
本当はカスタードたっぷりのパイも気になっていたけれど、選べなくても正解だったのかもしれない。きっと、あれは旦那様と殿下が仲良く食べられるほうが、似合っている。
――ああ、そうか。愛人が殿下というか、旦那様が殿下の愛人ならば、愛人の子供を正妻(私)との養子にすることができないのか。
だからあんなに悩んでいたに違いない。
なんてことを理解しながら、カフェを出る。
道の真ん前に旦那様がいた。
「……ネリネ?」
「あ、あ、あら、旦那様。……第二王子殿下まで」
どうしよう、ごめんなさい、逢瀬の邪魔をするつもりはなかったんですけれど!
しかし動揺する私とは反対に、殿下は陽気に笑いながら私に近づいてきてくださった。
「久しぶりだな、ネリネ。やっぱり日差しは苦手なんだな!」
「お久しぶりでございます、殿下。お見苦しい姿での拝謁をお許しください」
「いやいや、リゾート地でそんなに畏まることはないって! というか俺に畏まる必要があんまりないっていうかな! 相変わらず綺麗だし、ノアと仲良くしてくれているようで、俺も嬉しいし」
「もったいないお言葉でございます」
とりあえず最初に服装に突っ込んで、そこから諸々上げ下げして不問にしてくれる姿勢、私は好きですね。
なんて話してると、旦那様があからさまに何気なさを装ったご様子で仰った。
「ネリネ、今から予定はあるのか?」
「特には……宿を取っていないので、今から帰ろうかと思っておりましたが」
「だったら、泊まっていかないか? 試験運用中のホテルで、夕食を食べていってほしいんだ。味は悪くないはずだけど、君の感想も聞きたい」
思わず私は、旦那様の後ろに控えている従者のシモンを見た。とくに慌てている様子はない。今からでも問題なく用意できるのだろう。
「……ええ、ではお言葉に甘えて」
え、えぇー? 自ら邪魔者を引き込むの? 疑われないように一人で帰さない判断なのかな? 高度すぎない?
しかし旦那様は、「よかった」と、なぜか嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今から近くを散策に行くんだが、ネリネもどうだろう?」
「お、お邪魔ではありませんか?」
なぜそんなに自ら、二人のささやかな逢瀬を、トドたる私に邪魔させようとするんですか?
「むしろ男二人で散策するよりもよほど良いよな」
殿下もなぜか頷かれてるし……。
あっ、なるほど。カモフラージュかな? お邪魔トド一匹いたところで、二人の固い愛に支障はないみたいな、そういうこと?
「……では、ぜひ」
私が頷くと、ようやく旦那様が困ったように眉を寄せられた。
「よかった。ただ、もしかすると、少しぬかるむ場所があるかもしれないが構わないか?」
「そうなのですか? では、靴を変えてきても構いませんか?」
私は急いでブーツだけを、渓流にイワナを釣りに行ったときの物に履き替えることにした。
「なんというか、別に構わないんだが……よくそんな靴を持ってきていたな?」
合流すると、旦那様は思いっきり私の淑女らしいドレスの裾から見えている、ゴツいブーツに目を向けた。
そこでようやく私は気づいた。
……あー! これ、私のほうから、すみません滑らない靴を持っていなくて……とか言って辞退するところだったんですね? 滑らない靴で滑ることあるんですね!
「えっと……その、少々、渓流でイワナを釣ってきておりまして」
私は観念して白状した。
「……イワナを? ……そうか」
旦那様も諦観した様子で頷いてくれた。
「はい。何匹か、生きたまま持って帰ってきておりますので、よろしければ後でお召し上がりになってくださいね」
「良いのか?」
「ええ、もちろん」
ヤケである。まったく、どこのどんな伯爵夫人が、自分で食材調達してきて夫に食べさせようとするんだろうね?
「そうか、ネリネはイワナも好きなんだな」
しかし真剣に頷いてくださった旦那様は、どうやらトドの餌を把握してくださるつもりらしい。
「俺も、す……」
それから旦那様は、優しく微笑みかけてくださったが、ちらりと殿下を見て口を閉じた。
……なるほどね? 殿下の前では、たとえイワナの話でも、私に好きだなんて言えないよね。
それでも旦那様が手を差し出してくれたので、そーっと指先を置いて、エスコートをお願いする。
けれど旦那様は、露骨なくらい殿下から目を逸らしてしまった。
そうだよね……義務でやっているとはいえ、気まずいよね……。
あと殿下はニヤニヤしすぎだと思います。
もう、なんで私のことまで散歩に誘っちゃったんだろうね? ……あー、一応ウォーターハウスから来た正妻だからかー。旦那様、そういうの気遣うよね……。
私はもやもやと考えた末に、軽く首を傾げた。
「それにしても、お二人はなぜこちらに?」
そう、貴方がたの禁断の恋を察してますよ、なんて顔はしてはいけない。ということは、何もわかってない顔で、もっともな質問をしなければならないのだ。さすが私、わかっている。ふふん。
「ここも本格的に開業したら、警備の都合で俺はあんまり気楽には来られないからな! というか他の客の邪魔するからな! 今のうちに全力で遊ばせてもらってる!」
「初めて領内で高級リゾート地として運営するにあたって、改善点を殿下から指導してもらえるなら、もう怖いものがないからな」
あっ、すごく模範的な馴れ合い貴族の答えが返ってきた……。




