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君を愛することができないって言われたからペットのトドとして暮らそうとしてるんだけど、旦那様けっこう構ってくれる  作者: 鶴川紫野
第二章 海に秘密が溶けていく

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#%&@=夢の彼方

微シリアス回は今回でいったん終わりです。


 とても広く透明な青の世界に、私は訪れていた。

 頭上からは、明るい光が心地良く差し込み、風や波や呼吸のように、ゆらゆらと揺れている。

 ――夢見る海の中にいる。

 なぜだか、すんなりとそうわかった。

 周囲には、誰もいない。でも、怖いとは思わなかった。例えるならば、静謐な美術館に来たときの気配がする。 

『――君が、私の授業を受けに来た者か?』

 落ち着いた声がして、私は後ろを振り返った。

 泳ぐのが上手そうな、青白い馬? がいた。

「……ケルピー?」

 私は思い当たる種類の馬を思い出した。

『ヒッポカムポスだ』

 違ったらしい。真顔で訂正された。馬の表情はあまりわからないけれど、これは真顔だとわかった。

「ヒッポカムポス」

 そうよく言われてみると、馬ならば後ろ脚があるはずの部分が、にょろーっと長く魚みたいな尾ひれになっている。後ろ足が魚というか、魚に馬の頭部と前脚があるともいうか。ちなみに毛並みはだんだん硬い皮膚になって鱗が生えているようだ。全体的にパールカラーで綺麗である。……確かに、ケルピーはすごくしっとりしているだけの四脚の馬だから、さすがに人語は話せない。

 そしてこのヒッポカムポスだが、たぶん声帯で話しているというよりは、この空気か水かよくわからない空間に、振動を起こして伝播させて――うん、私の脳に直接言葉を語りかけている気がする。

『そう。名前はヌエベ・アルビ・イル・ラ・イラ・クトゥ・ヨハン・フィン・プロフェッサ・ヒッポカムポスだ』

「ヌエ……先生?」

 ごめん、そんなに長いと思って構えてなかった。

『ヌエで切れられると、逆に何か余計な要素が混ざるような気がするが……まあヌエでもいい』

 困った生徒を相手にするような雰囲気で、ヌエ先生(でもいいらしい)は頷いた。

 そして、記憶力はともかく理解力の高い私は気がついた。

「あっ、もしかして昼間貰ったタツノオトシゴの置物、実はヒッポカムポスの形だったの?」

『そうだ。君が魔力を流し込んだから起動した』

 ……なるほどね。

「さっき、授業を受けに来た者って言ってたよね? もしかして、私が起動させちゃったあのアイテムは……お勉強用の何かだったの?」

 ヌエ先生はコクリと頭を動かしてくれた。

 ……やっちゃったね!

『喜ぶといい。ルイェールの教育用デバイスは、現代の知識も記録し続けている。君に必要な特別授業してあげよう』

「ありがとうございます。せっかくですが辞退させていただきます」

 私はお淑やかに即答した。だって夢の中でまでお勉強したくないよ。

『……そうか……』

 しかしヌエ先生はいかにも悲しそうに俯いて、前脚をその場でくるくるトントンした。

『……久しぶりの起動だったのに……』

 私は、見なかったことにした。

『君が眠るのを、楽しみにしていたのに……』

「う……あの、す、少しなら……?」

 罪悪感に負けた。

『そうか! では、言語……は今とは異なるな。歴史もそれを主体にするとなると違うし、科学は……まだ今の君たちの文化レベルでは教えられないな!』

 譲歩した途端に、急に元気になってしまったヌエ先生は、嬉しそうに魚の尾をぐねぐねさせた。 

『となると、数学か!』

「あっそういうのは貴族夫人なだけの私には必要ないような」

『うん? 必要だろう? 君たちが弾き出す数字一つで飢える者が十人減ることも百人増えることもあるではないか』

「……はい」

 ご、ごもっともでございます。

 居住まいを正すしか無くなった私に、ヌエ先生は大きく頷くと、ふわぁっと全身を淡く発光させた。

『ではさっそく――近代における海難事故の統計とその改善率について。ここから、現代まで行われてきた対策の効果を振り返ってみよう』

 途端にその場に出現する、普通の木製らしきテーブルとペンとインクと謎の紙テキストの山。

「ぴゅぇ……」

『その中で効果が高かったものから順番に、実行に掛かった資金やその後の耐用年数を計算してみようか。それから対策後の経済成長率などもだな。それらがわかると、民意はわからずとも最低限やるべきことは判明するだろう』

 机に増える難しそうな本と計算機、記録ノートの山。

「きゅぅ……」

『それと、効果が見込めなかった政策は、まずなぜ数字として成功しなかったのか、だが……』

 やる気満々で輝く魔法生物、ヌエ先生。

「ぴきゅぇ……」

 これ本気のやつだ……。今夜の私、寝られるのかな? たぶん身体はもう寝てると思うんだけどね。精神も平時から四十八時間戦うのは身体に良くないよ……。

『まずは、先の戦争で亡くなった者のうち、湾岸で亡くなった者の人数から――』

 しかし起きて逃げることもできないまま、私の睡眠学習は始まった。


 やがて私の頭がくらくらと茹だった頃、ヌエ先生は、こう言った。

『勉強を頑張った褒美に、君の海馬きおくを整理してあげよう。なにせ睡眠学習だからな』



‡‡‡ ††† ‡‡‡


 古く質素な祭壇に置かれた棺の中に、若い青年の遺体が横たわっている。

 一目で貴族将校だとわかる装飾の多い軍服には、海軍の徽章が付けられていた。けれど、遺体に添えられているサーベルは、どうやら陸軍向けのものらしかった。だって、既に家紋もわからないほどに錆びている。

 ……最初から海軍として入隊する者ならば、塩害に負けない刀剣が選ばれただろう。

「――ああ、奇跡だ」

 誰かが……おそらく青年の血縁であろう壮年の男が、杖をついて足を引きずりながら、棺に近づく。

「まるで、生きているみたいじゃないか」

 壮年の男を支えている青年と同じ髪色の女が、涙ながらに頷いた。

「こんなに綺麗な姿で帰ってきてくれたなんて……ルイェールは素敵なところなのね……」

 少し離れた場所では、どこか集団は異なる雰囲気の若い娘が……傷んだ喪服で黙り込んで、左手の薬指に嵌めた指輪に触れていた。


 そして、ほんの少しだけ時が進む。

「――王国は、この子を殺した。しかしルイェールは、この子を守ってくれた」

 集まった人々の前で、壮年の男が静かに告げる。

 泣き続けても涙が止まらない女が、強く頷く。

「――愛する我が子を死地に送り出した王国を、私たちは決して許さない」

 彼の死が、けして海で特別なことではないのだと――この場で言える者など、どこにもいなかった。 


 後から視ている私さえも。


‡‡‡ ††† ‡‡‡



「……奥様? 大丈夫ですか?」

 優しく揺り起こされて、私はようやく意識を浮上させた。

「んん……マジョラム?」

「魘されていたみたいですが、何か怖い夢でも見ましたか?」

 ぼけーっと侍女の顔を見上げる私に、マジョラムは心配そうに聞いてくれる。

「えっと……すごく静かな数字の海に諭されたあと、感情の渦に燃やされる夢……?」

「そのギャップは整わなさそうですねー……」

 私のよくわからない説明に感想のレベルを合わせてくれたマジョラムは、湯気がふわふわしている洗面器の用意を止めて、首を傾げた。

「お加減が優れないようなら、今日のご予定はキャンセルされますか? 朝食もこちらにお運びしますよ」

「ううん、平気……」

 私は首を横に振って、ベッドから這い出ることにした。

 たぶん旦那様の顔を見たほうが、元気になれそうだった。


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