孤独の昇華
次第に鳴き声は遠ざかり、海の奥へと消えた。前方にいた者たちにしか海面の輝きは見えなかったためか、人々のざわめきも静かなものにとどまった。
けれど貴賓席に戻った旦那様は、どうやら、難しいことを考えているようだった。
まあ、魚やイカや漂流物の輝き方ではなかったと思うけれど、本来そんなに難しく考える必要はないのだ。
――古代都市ルイェールは、それ自体は怖い存在ではない。ただ都市としての寿命を迎えて、それを受け入れただけの場所である。
私が怖いのは、今の時代にそれを悪用しようとする人たちだけだ。
あっ……私が無駄に光らせて遊んだりしたのは、カウントしないとしてね。別に輝かせて――奇跡! とかやって、人を騙したりはしてないし。
「――ネリネ。ウォーターハウス侯爵領でも、海難事故で亡くなった者の遺体が、綺麗な状態で帰ってくることがあるよな?」
ふと、他の人たちが献花するのを見つめながら、旦那様はそう呟いた。
「はい。海難事故自体を失くしたいところですが、なかなか完全なゼロには……」そう言いかけて、私は首を傾げた。そういう現実的な方向の話ではないのかもしれない。
「どうかされましたか?」
旦那様は、躊躇うように呟かれた。
「……それは、ルイェールの奇跡だと思うか?」
「単なる気遣いだと思います」
だって、古代都市よりも技術が劣っている後世の人を、ルイェール側が選別する義理なんてないよ。
いや、カルト教団とかがね? よく言うらしいんだよね……我々は海に選ばれたって。
でも、たぶんそういうのはね、たまたまルイェールの干渉地点に流れ着いた人を、可哀想だと思って律儀に故郷へ帰してくれてるだけだよ。
「そうだよな……」
しかし旦那様は、複雑そうな表情だった。
まさか海の領主がカルト教団側の思想に陥るとは思えないけれど、どうしたのだろう?
「海の密度って、明らかな生命体が無数にある宇宙ですよ?」
だから、人間にはどこまでいっても、宇宙と同じかそれ以上に、海のことをわからないと思うんだよね。
まあ研究が進んだ遥か未来なら、宇宙よりは論理的にわかるようになるんだろうけど、それでもね。
「海で起きることに、深い意味も浅い理由もありませんよ」
創世記では、神様が洪水を起こしてお眼鏡にかなわない生き物を消してしまうけれど――実際には、波が高くなった理由はあっても、高くなることに意味はない。だから生き物は、何かに選ばれなくても生き延びていい。降りかかった不幸に自罰的な理由を探さなくてもいい。ましてアイツは死ぬ運命だったなんて言ってはいけないのに。
「だけど……日頃から海に近くなければ、それが当たり前だと思わない者も、少なくはないのかもしれないな……」
旦那様は、困ったようにため息をついた。
式典はつつがなく終わり、あとはもう、今を生きている人々が、明日も生きるために食事を摂る時間となる。
予定通りに終わったおかげで、数時間前にチュロスを食べさせてもらった胃はまだ何も訴えていなかったけれど、旦那様が挨拶もそこそこに退席されるようなので、もちろんついていく。
とはいえ、わざわざ私を気遣って、ということだとよろしくはないので、一応「よろしかったのですか?」と聞いておく。
旦那様は「酒が入ると話が長いからな、あの人たち……」とこぼされた。
それは、うん。今のうちに帰りましょうか。
そうして夕食も海鮮でいいかとだけ確認されて、館に帰り、何も間違いのないこの港の主である旦那様が選んだ最高に美味しいお食事(どうやら普段の食事でもう完全には好みを把握されているらしい、すごい)をいただいて、デザートはベランダで、と言われた。
それは珍しい。というか、ベランダで食べるのは、嫁いでからは初めてだ。実家では、夏はよくそういうことをした。夏祭りとか行事のときは、特に。
……もしかして。
「花火……!」
ドォン――と打ち上がり始めた空の華を見て、私は即座にはしゃいだ。案内されたベランダにはテーブルが置かれていて、椅子に座って鑑賞できるらしい。至れり尽くせりの特等席である。
「綺麗ですね……!」
「この土地の恒例行事なんだ。といっても、十七年前ほどからだけど」
「なぜ、花火を?」
テーブルの向かい側に座る旦那様が、ちらりと私を見る。私は、黙って頷いた。
旦那様の言葉の続きを聞きたかった。
「ある年のこの日に、祖父から何かしたいことはあるかと聞かれて。俺は、自分の両親がこの世にもういないってことを、おぼろげに理解した頃で。それで……」
配膳係が、静かに白い果実酒を注いで去っていく。旦那様はそのグラスを手に取って、中を見つめた。
「……それでも、空の上で見守ってくれているんだっていう、屋敷の者たちの言葉を、真に受けてしまいたくて、花火なら両親も見てくれるんじゃないかって思いたくて、そう頼んだんだ」
視界の端で、空の色が変わる。旦那様の髪やワインの色がキラキラと変わり、遅れて大きな音が轟く。
「本当に、いくら掛かるとか、どれほどの準備が必要かとか……そんなことも考えずに、子供の考えで口にしたんだ。でも、祖父は俺の希望通りに花火を打ち上げてくれた」
旦那様は、照れたように微笑むと、花火に目を向けられた。
旦那様のご両親や先代伯爵様は、交通の要所であるその場所が崩れないようにと、毎年必ず整備するようにと指示をされていた、という噂がある。
だが、その地域を任せていた者は、そうしなかった、という噂も。
多くの者は、旦那様のご両親の急逝を悲しんだはずだ。
けれど自業自得だったと言う者も、多少はいただろう。
あのときこうしていれば、あのときああしていれば――そんな後悔や反省は、すべてが終わってからしかできない。
貴族の命令は基本的に絶対なもので、だからこそ、それが正しく履行されなかった責任もまた、貴族の監督不足であるともされる。
その苦しさを、旦那様はたぶん、もうずっと昔に乗り越えられている。
「最初は、たった三発だけだった。それでも、よく覚えている」
私にとって幼少期の花火は、ただ派手で楽しいだけのお祭りだった。
だけど旦那様にとってこの花火は、ご両親の追憶と同時に、長年唯一の肉親だったお祖父様との思い出でもあるのだろう。
……高齢によるご病気での衰弱死は、生物にとっては自然なことだ。お歳を考えればやや早いけれど、伯爵夫人やご子息とその妻を相次いで亡くされた身だと考えれば……妥当ともいえてしまうほどの負担があったことだろう。生物は、無理をすれば死ぬのだから。
でも。と、私はほんの少しだけ、自分のグラスを傾けて、唇を湿らせた。
まだ一年しか経っていない。
先代伯爵が亡くなられてすぐに領主を引き継いで、その三ヶ月後には私と婚約を決められて――いま思うと父や兄などはもっと前から打診を受けていて、顔合わせまでの調整期間に旦那様のお祖父様が亡くなられたのかも知れないけれど――それから約一年後に私と結婚して、さらに約三ヶ月後には王都の仕事を一通り片付けて、ここに来ている。
……悼む余裕はあったのだろうか。
私はなんの支えにもなっていないし、大切な人であるはずの愛人と会っている様子も、全然ないのに。
「……湿っぽい話だったな。今は、祭りとして気合いを入れていて、花火も年々豪華になっているんだ。ネリネに見せたかったのは、単純に花火がけっこう綺麗だからだよ」
光と音の合間の静寂と闇に紛れて、旦那様が呟く。
上手く気遣える言葉が出てこればいいのに、なにも言えなくて、その顔を、そっと見上げる。
再び光に照らされた旦那様は、ただ安らいだ表情をしているように見えて、私は、ちょっと困ってしまって、花火のほうへと視線を逃がした。
「旦那様のお話が聞けて、嬉しいです」
……つらそうな顔をしていてほしかったわけではない。
でも、そういう表情をされていると思ったのだ。
私は、旦那様を慰めるに足る存在ではないのに、思ってもみない表情だったのだ。
「……花火、綺麗ですね」
だって、当時三歳だった旦那様に、おそらくご両親の記憶はないだろう。
貴族の子女は、最低限のマナーを覚えるまでは乳母に育てられる。両親と食事も共にしないし、暮らす部屋も別だ。広い屋敷ならば、階層や建物自体が別だったりもする。
私は兄弟がいたし、ウォーターハウス侯爵家は盤石で、貴族らしさを無視してやりたい放題で、両親は子供たちの成長を気にかけてくれるほうだったから、兄が十歳になり私が七歳になった頃から、一つ下の弟も含めて両親と同席して食事する機会は増え、なし崩し的に家族で過ごすようになった。
けれど、小さな淑女として丸一日きちんとドレスを着ておとなしく過ごせるようになるまでは、父親とはほとんど会わなかったという子もいる。
両親が次期当主であれば、領地や王都を飛び回り、実子と触れ合う暇などないものなのだ。まして三歳で喪ったならば、顔すらも記憶ではなく肖像画から面影を補完していてもおかしくはない。
それでも旦那様は、ご両親を敬っているのだろう。現当主としては当然のことだ。
そして、ご存命だった肉親がお祖父様だけだった旦那様に、私のように「お母様は私の意思を無視して厳しいし、お父様はまったく私の趣味思考を尊重してくれないしデリカシーもないし、お兄様は単純にガサツだから嫌ーい!」などと思春期に甘えたことを言う選択肢は、最初から無かったはずだ。
だって、知らないのだから。
両親について知っているのは、肖像画や他人から語られる思い出と功績、領地の復興に尽力して亡くなったという事実だけだから。
純粋に敬愛している旦那様が、少しだけ羨ましくて、自分が恥ずかしくなる。
「……ネリネ。これ、食べてみてくれないか?」
「え? ……はい……?」
ふいに旦那様からそう言われて、私はいつの間にか伏せていた顔を上げた。
いつの間にかテーブルに届けられていた小皿には、レモンピールやチョコレートに混じって、やけに艶々としたオレンジが、一口大にカットされて載っていた。
「綺麗ですね。飴ですか?」
「うん。昔、好物だったんだ。当時は、凝った菓子は食べられなかったから。でも、今でも美味しいと思う」
宝石みたいにキラキラと輝く明るい色の果物に、私はそっとフォークを伸ばした。
「いただきます」
歯を立てると、パリッと薄い飴が割れて、じゅわりと爽やかな香りと果汁が口の中に広がる。
味は想像できていたのに、思わず笑い出してしまうような、楽しい味だ。
「……ふふっ、甘……酸っぱ……、甘っ……!」
旦那様が、安心したように笑って、自分のフォークをオレンジに伸ばす。
「美味しいですね」
「……うん」
だんだんと華やかに連続して咲き始めた花火を見つめながら、私は大きな音の合間に呟いた。
「私は……来年もこうして、この花火を観たいです」
今日ずっと付けていた、胸元のアクアマリンのネックレスに触れる。
どうか旦那様が――三歳で両親を亡くして、昨年にはとうとう育て親である祖父も亡くしたノア・クルーズという人間が――これ以上はなにも取り上げられることなく、幸福な生涯を過ごせますように。
それを願うことが一介のトドには不遜だったとしても、内心でそう望むことくらいは許されるといい。
そしてどうか、再来年も、その先も。
私はここで、大量の花火が打ち上げられるアクアマリン伯爵領を、目にしたいと思っている。




