表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君を愛することができないって言われたからペットのトドとして暮らそうとしてるんだけど、旦那様けっこう構ってくれる  作者: 鶴川紫野
第二章 海に秘密が溶けていく

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/34

たとえ波長が違えども

 予定していた合流時間よりも、十五分ほど早く部屋まで来てくださった旦那様は……なぜかお皿を持っていた。

「いらなければ断ってくれて構わないんだが、今晩は食事が遅くなるはずだから、よければ」

「チュロス?」

 全身を清楚な伯爵夫人として整えた私は、そう言った。

 だって、お皿の上には、あまり見たことがない、一口サイズにカットされたチュロス――チュ/ロ/スが載せられていた。ピックも用意されていて、正装でもフルメイクでも食べやすそうだ。とはいえシナモンシュガーは控えめにまぶしてあるタイプだけれど。

「とても美味しそうですが、いただいてもよろしいのですか?」

「ああ。港街で一番人気の店で買ってきたんだ。君が見ていたのが、どの店舗だったのかはわからなくて……」

「……見ていた、というのは、まさか馬車での帰り道に?」

 あっ、あのね? 私だって、街を見てたんだよ? あー! チュロスの屋台がある! 美味しそう、食べたい! とかは、普通に思っていたけど長時間じゃないよ? だってエッグタルトも美味しそうだったし……。

「まさか、違ったのか……?」

「街の人々が、楽しそうだな、と……」

 旦那様が愕然とした表情になる。しかし私とて、実際以上に食い意地が張っている伯爵夫人だと思われすぎるわけにはいかないのである。食い意地が張っている伯爵夫人にも、限度というものが……。

「……で、でも、チュロスが美味しそうだなとは間違いなく考えていましたので! ありがたくいただきますね……!」

 考え直したら、やっぱり食い意地が張っているのは事実でしかなかったので、私は慌てて旦那様からお皿を受け取った。

「……すまない。気を遣わせて」

 肩を落としてしまわれた旦那様に、「いいえ」と首を横に振る。気を遣ったと気づいてくださるなら、それで十分です。

 そもそも、私が食べたいだろうと思って買ってきてくださったのなら、それはとても嬉しいことである。

 ――そう。たとえ理由がどんなものであってもね?

「でも、どなたと買いに行かれたのですか? シモンは休憩していたでしょう?」

「ああ、この街出身の護衛を一人な」

 なるほど。つまり……シモンではなく……その護衛だけが、旦那様の愛人の存在を知っている、ということ――?

 せっかく身を清めたのに、可愛げはない邪推を始めた私は、じっと旦那様を見上げた。

 だって、おそらくシモンは、旦那様は私のことがわりと好きなのだと、勘違いしているようだった。というか、エジェリーの言動からして、使用人たちの噂の主流は、旦那様は私を大事にしているから手を出さないみたいな、全力で斜め上の方向にまで行き着いている。

 つまり――旦那様の本心を知っているのは、私を含めて極僅か! 正体を知るものは極一部の護衛くらい! おそらくは……かなり禁断の恋なのだ。

「人気店だと、並んでから購入までに結構なお時間がかかったのでは? 旦那様は、もう食べられたんですよね?」

 名探偵的には――ずはり、愛人さんとの短い逢瀬をチュロス屋で楽しまれていたんですよね? ホットチョコレートに揚げたてチュロスを絡めて楽しいひとときを!

「え?」

 しかし旦那様は、ポカンとしたように私と、皿の上のチュ/ロ/スを交互に見た。

「……食べてない。護衛の奴は買って食ってたけど、俺は……食べ損ねた……というか、食べ忘れた……?」

「ええっ? なぜ?」

 旦那様自身がびっくりしてるんだけど。人気店にわざわざ並んで、食べ忘れるってどういうこと?

「その……君に、焼きたてを、届けようと思って、一本だけ買って……でも、もう着替えているだろうからと、キッチンで食べやすいようにカットしてもらって、その間に俺も着替えたりしていたから、結局もう冷めてしまったんだが……すまない」

 旦那様は、しどろもどろになって呻きながら、真っ赤になった顔を片手で覆ってしまった。耳どころか首筋まで赤い……。

「……あの」

 私はお皿を少しだけ旦那様のほうに向けた。

「半分こしませんか?」

 さすがにきっちり一皿分を食べるのはね、私でも多いと思う。この港街の新鮮揚げたてチュロス、とっても美味しそうだけど、豪快大盛りなんだよね。

 あと疑ってごめんなさい。



 というわけで、チュ/ロ/スは、急いで食べても美味しかった。

 口紅だけ軽く直してもらってから、ようやく旦那様と一緒に灯台広場のほうへと向かう。

 とりあえずは、夜に始まる慰霊祭の用意がつつがなく進行しているかを知るために、邪魔をしない程度に少しだけ港や慰霊祭の責任者と顔合わせである。

 なるべく穏便に――ボラやミズクラゲくらいの存在感の無難なドレス着た女が、アクアマリン伯爵である旦那様の近くにいたなぁ? くらいで終わってくれると有り難かったのだが……もちろん、私とて理解はしている。

 そう、私はアクアマリン伯爵領が占有する貿易港の恩恵を狙うのみならず、可能であればアクアマリン伯爵領ごと手に入れたい、ウォーターハウス侯爵家の差し金なのである! えぇー? 嫌だよそんなの。

 まあ、お父様とお母様は一応その手のことも考慮された上で、旦那様から届いた娘への求婚状にガッツポーズしたと思うよ?

 でもその跡継ぎであるお兄様は、たぶんそんなこと微塵にも考えてないよ。

 なので私は正直に――「アクアマリン伯爵領は海鮮魚が美味しいですよね! ウォーターハウス侯爵家は案外屋敷が内陸部にあって、川魚を食べる機会が多くて……いえ、川魚も大好物なのですが……! やはり魚介といえば海鮮ですから! お昼に旦那様が食べさせてくださった海鮮、とても美味しかったです!」

 という内容だけを、お淑やかに全力で伝えた。

 好きな物は、早めに自己申告しておくに限るのだ。向こうも今後の話題や賄賂に悩まなくて済むからね。

 そうしてしばらく話したり、多少注目されたり、にこやかに黙っておとなしく座っていたりして、いざ、慰霊祭が始まる。

 私は……慰霊に際しては、祈ることはできるけど、異邦者が中心に食い込もうとは思えない。

 被災者に心を寄せることはできるつもりだけれど、どんなに慮っても各々の正解全てには辿り着けない。

 だから、私がすべきことは、私が知らない光景を二度と再現させないために、この領地に尽くすことであって――そのために、今はこうして過去を想う時間を守るのである。

 旦那様は、今までお祖父様である先代伯爵がされていた儀式を担われるので、私は今まで旦那様が行われていた献花を手伝わせてもらえることになっている。

 港を任せている者たちの開式の辞と港の組合長などのスピーチの後に続いて、旦那様が一人で登壇される。

 周囲の街の指導者たちの、まだ半分の歳にも満たない若い新米伯爵を、全員が注視する。

 それでも、昨年に先代伯爵がお亡くなりになったばかりの時分にも、旦那様はこの儀式をこなされたのだろう。もう、何もかもが当たり前のことである姿勢で、まっすぐに周囲を見ながら、この領地の未来を約束された。

 そして、一度壇上から戻られた旦那様が、今度は私を連れて、広場の中央に作られた慰霊碑の前に向かう。

 慰霊碑の前に置かれた大きな酒杯に、旦那様がアクアマリン伯爵家の家紋を刻んだガラス瓶を傾ける。注がれていくブランデーの香りが、夜の海辺にふわりと広がって、潮風に紛れる。

 私は慰霊碑の前に、持っていたリースを捧げた。なにも私が組んだわけではない、ほんの数分前に係の者に渡されただけの献花である。

 それでも、灯台から光が灯る。

 船着場のほうから、あらかじめ決められた一隻が――今回はウォーターハウス侯爵家の紋章を刻んだ船が、厳かに低い汽笛を鳴らす。

 深く黙礼された旦那様に続いて、私も頭を垂れた。

 少なくとも私がこの地にいる間は、ウォーターハウス侯爵家は、アクアマリン伯爵領に友好的であろうとする。

 汽笛の余韻も消えてから、顔を上げる。

 しかし、私たちは慰霊碑の前から下がろうとして、ふと顔を見合わせた。

 遠くから、なにか、汽笛とは別の揺らぎを持った歌うような声が――風に乗って、沖合から聞こえたのだ。

「……クジラ?」

 海へと視線を向けた旦那様が、ぽつりと呟く。

 確かに、大きな……本当に大きな生物だとわかる鳴き声だ。私はさすがにクジラは見たことがないけれど、兄や弟はそれぞれ沖合漁業の船に数週間乗ったことがあって、そのときに見たという。

 あれが、そうなのだろうか。

 独特の揺らぎを含んだ鳴き声が、雄大に孤独な世界の鼓動を示すかのように、何らかの感情を陸にまでも届かせる。

 そして、夜の先にある海は――灯台が光を伸ばしていないはずの波の先は、青く、輝いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ