グラトニスは安らかに眠る
「愛って、なんですか?」
魔王様にそう聞いたことがある。
すると、魔王様は困ったような顔をして「ど、どうしてわたしにそんなこと聞くんだ?」と聞き返してきた。
「それは‥‥知らないからです」
「愛を?」
「はい」
そこで一端会話が途切れると、魔王様は軽く溜息を吐いて、会話を繋いだ。
「‥‥はぁ、グラトニス。そうじゃなくて、どうして”わたし”なのか聞いてるんだ」
「‥‥あぁ、それは魔王様が愛を知っていると思ったからです」
「‥‥わたしが?」
「流石に魔王様とリーベルシア様の間にあるものが愛だってことぐらい、分かっています」
「‥‥‥」
魔王様は黙ってしまった。
魔王様はいつもリーベルシア様の名前を出すとこういう反応をする。そういう反応だと、まるで愛が恥ずかしいものと言っているようなものだ。
「答えは‥‥無いのでしょうか」
「‥‥まぁ、そうかもしれない」
世界には答えの無いものばかりだ。
だから答えを探そうとしたところで意味はない。探そうとすればするほど疲れてしまうだけだ。
* * *
森の中にぽつんと、一人の赤子が置かれている。
それは捨てられたということを、その赤子が知るのはまだ遠い先のことだ。
森には多くの種族が棲んでいる。
オーク。
ウルフ。
ゴブリン。
スライム。
他にも様々な種族が棲みつき、生態系を構成している。そして、中でもオーク族のハイオークと、ウルフ族のハイウルフはこの森の生態系の頂点だ。
この二種族間の争いは耐えず、日々ナワバリを広げる為に争っている。
そんな森の中で、その赤子は孤独を泣き叫ぶのだ。
「‥‥にん、げん」
その時、ある一匹のオークが赤子を見つけた。
そのオークはひと際体が大きく、言葉を話せるほどの知能を持っていた。それは、このオークが”オークロード”であるということだ。
周りにもいた普通のオークたちは赤子を見つけた瞬間、喰らおうとする。
しかし、オークロードがそれを止めた。
「にん、げん‥‥飼う」
オークロードは知っている言葉だけで行動理由をその赤子に告げる。
これこそが、後に四魔将<魔人>となる赤子と、その父親の出会いだった。
―――時は経ち。赤子はすっかり少年になっていた。
少年はオークロードの手によって、人間としてではなくオークとして育てられた。そのせいか、少年は人間の皮を被ったオークのようになっていた。
狩りをして。
外で寝て。
日が昇るよりも前に起きて、また狩りをする。
人間とはかけ離れた暮らしだったが、少年は不思議には思わなかった。
生まれてこの方、人間として生きたことが無かったからだ。
そんなある日、問題が起きた。
ウルフ族に”ロード”が生まれたのだ。
その日からオーク族とウルフ族の争いは激化した。
お互いにロードが生まれてしまったことで強さの均衡が取れたことが原因だった。
争いというものは、互いの実力が拮抗していなければ起きない。どちらか片方が圧倒的な強さを持っている場合、それは争いではなく蹂躙になるからだ。
そして、オーク族とウルフ族の実力は拮抗していた。だから、見苦しいほどの被害を生み続けることになったのだった。
―――少年は見た。
散りゆく肉片を。
―――少年は見た。
口から溢れ出る臓物を。
―――少年は見た。
暗く、そして悲惨な悲鳴を。
それは、孤独にすら似た絶望の一幕だった。
「‥‥‥‥」
少年は言葉を失った。いや、そもそも言葉を知らなかった。
もし、言葉を知っていたとしても言葉を失っていただろう。そして、こう思っただろう。
”こんなの‥‥間違ってる”
誰も幸せになれない絶望を。
不幸しか招けない争いを。
失われていく同胞を見届けることしかできないこのやるせなさは、誰が救ってくれるのだろうか。
―――魔王だ。
それは突然に起こった。
オーク族とウルフ族の争いが激化し、ついには正面衝突となろうとしていた時、”それ”は現れた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
その場にいる全ての者が言葉を失われた。
言葉すら知らない者たちですら、言葉を失うという不思議な感覚に陥れる程の異常的な存在が現れたのだ。
一目見れば、それはただの少女。
長い黒髪。漆黒に光る紫の瞳。
しかし、少女の周りを蠢いているものが、その少女がただの”少女”ではないことを物語っていた。
地面から生えた何本ものどす黒い触手。
それは心臓のように波打ち、その度にその場にいる全ての緊張を恐怖で握りつぶした。
少年もまた、強い恐怖に襲われた。
絶対に、彼女には逆らってはならない。
直感的に、そう感じ取ったのだ。
そして、争いは”魔王”という、一つの圧倒的な存在によって終わりを迎えたのだった。
それが、魔王との初めての出会い。
* * *
「もー、違うよ。あいあおう、じゃなくて”ありがとう”」
「‥‥?」
リーベルシアは必死に言葉を教えていた。
教えている相手はただのオークやウルフ、その他森の”魔物”たちだ。
魔王が森にいた生命全てを魔物にしたことによって、根本的に種族の違いというものが無くなった。それによって、森からは争いが無くなり、森は平和になったのだ。
そして、リーベルシアは森の魔物たちが言葉を覚えることができれば、もっと仲良くなれると信じていた。
「リーベルシア様は今日も頑張っていますね」
グラトニスは遠くの方からリーベルシアを見守っている魔王にそう聞いた。
「‥‥ん? あ、あぁ」
「どうしたんですか?」
「いや。グラトニス、お前話すの上手くなったなって」
「あぁ、そうですね。それもこれも、魔王様とリーベルシア様のおかげです」
グラトニス。
少年はいつの間にかその名を得ていた。
そう名付けたのは、魔王だ。
名前が無いと面倒だと、魔王は彼にその名を与えた。
「ふぅ、今日は終わり!」
リーベルシアはそう言って魔王のもとに駆け寄って来た。
「ミレイア、私今日も頑張ったよ」
「え? あ、あぁ」
リーベルシアは頭を少し下げて、魔王に向ける。
それは、頭を撫でろという意味だった。
魔王は少し恥ずかしがりながらも、優しく頭を撫でた。
「‥‥お二人は、いわゆる”友達”なんですか?」
グラトニスが突然そう聞く。
グラトニスがまだリーベルシアから言葉を教わっていた時に知った単語、”友達”。
その単語を今の魔王とリーベルシアの関係に当てはめたのだった。
「う~ん‥‥それはちょっと違うよ」
「そう、なんですか?」
「別に、間違いでもないけど、正しくは―――」
リーベルシアは魔王を抱き寄せる。
「―――”恋人”だよ」
その単語は知らないものだった。だから、グラトニスは首を傾げる。
「‥‥それは、どういう意味ですか?」
「う~んと、大切って意味」
「大切‥‥大切の意味は知っています。じゃあ、俺にとっての恋人は、お父さんということですか?」
その発言を聞いて、魔王は少し固まった。しかし、リーベルシアはグラトニスの滑稽にも思える思い違いを嫌味の無い笑いで和ませた。
「あはは、違うよグラトニス。ごめんね、大切だけだと意味が広すぎるもんね」
「でも、お父さんは大切です」
「そうだね。だから、訂正をすると‥‥”愛”、かな」
「愛、ですか? それの意味は知りません」
「愛っていうのはね、私は私、ミレイアはミレイア、グラトニスにはグラトニスみたいに、皆がそれぞれ違う意味を持っているから。だから、きっといつか見つかるよ、愛の意味」
グラトニスは更に頭を悩ませた。
だからだろうか、グラトニスは魔王に”愛とは何か”なんていう少し恥ずかしい質問をしたのだ。
―――時は経ち、赤子は少年となり、そしてグラトニスになってから暫く。
突然のことだった。
「お、おいグラトニス! おやっさんが!」
一匹のオークが酷く焦った様子でそう言った。
グラトニスは何か異変を感じ、そのおやっさんのもとへ走った。
「‥‥お父さん」
グラトニスが着くと、そこには日陰で腰を抑えながら休むオークロードの姿があった。
「お父さん!」
グラトニスはオークロードの側に駆け寄ると、痛みの原因を探るように体のあちらこちらを目で探る。
「馬鹿が」
「‥‥え?」
「腰いわしただけじゃアホ。こんぐらいことで、いちいちそんな顔すんじゃねぇ」
オークロードは異常なまでに心配するグラトニスにそう告げると、腰を抱えながら立って、再び作業に戻った。
「お父さん、もう休んだ方がいいよ」
「うるせぇ。お前は黙ってろ」
突き放すような言い方に、グラトニスは少し萎縮する。
しかし、その日からだ。
オークロードの体調は日に日に悪くなっていった。
「―――う~ん、歳、かな」
「歳‥‥ですか?」
葉を敷いて作った簡易的な寝床に横になるオークロードを見て、リーベルシアはそう判断した。
「歳って、治せるものですか?」
「‥‥その、なんていうか」
リーベルシアが回答に困っていると、魔王が「グラトニス」と少し低い声で呼びかける。
「歳は病気でもなんでもない。自然の摂理だ」
「‥‥どういうことですか」
未だに理解が追いつかないグラトニスを、魔王は少し離れた場所まで連れて行き、二人だけで話し合う場所を作った。
「グラトニス」
「お父さんは、お父さんは治るんですよね?」
「いいか、グラトニス。全ての生命には寿命がある」
「‥‥そんなこと、知ってます」
「なら、お前のお父さんはそれだ」
そう告げられた時、グラトニスの思考が凍り付く。
「オークの平均寿命は四十程。ロードとはいえ、お前のお父さんは最低でも六十は生きている。だから、もう限界なんだ」
「‥‥そんなこと、分かりません。知りません」
その時、グラトニスは「じゃあ」と終わってしまいそうな会話を無理やり続ける。
「蘇らしてください」
「‥‥え?」
「魔王様と、リーベルシア様の力を使えばできるはずです。昔、俺たちの同胞を蘇らしてくれたように、お父さんも‥‥‥」
「それはできない」
「どうして!」
少し興奮気味のグラトニスは、魔王相手に言葉を荒げてしまったことに気付き、すぐに「すみません」と謝った。
「‥‥お前たちの同胞を蘇らせたのは、あいつらが無駄な死を迎えてしまったからだ」
「‥‥どういうことですか?」
「無駄な死。争いによる死はそれに該当する。だが‥‥お前のお父さんが迎えようとしている死は、無駄じゃない。”正しい”死なんだよ」
「‥‥‥」
「もちろん、お前のお父さんが死んだあとに蘇らせることはできるかもしれない。その時は、お前のお父さんの体を若返らせる必要があるが、わたしの権能とリーベルの魔力があれば不可能じゃない。ただ‥‥それをすると、お前のお父さんは正しい死を迎えられなくなってしまう。それはお前も嫌だろ」
魔王の言葉に、グラトニスは納得はせずとも納得しようと自分を誤魔化した。
理解できない。
魔王の言葉は、グラトニスには難しすぎるものだった。しかし、自然と感じてしまうのだ。
魔王は正しい、と。
魔王とグラトニスは元の場所に戻る。
そして、グラトニスは依然の口荒くも元気な父親とは違う、酷く弱った様子の父親を見た。
「‥‥お父さん」
また弱々しい声でそう呼ぶ。
オークロードは背中でその呼び掛けを受け止めた。
「お父さん、ごめん。お父さんは、もう死ぬかもしれない」
グラトニスの言葉を背中で聞き届けていたオークロードが「はっ」と一笑して言葉を続ける。
「そんなこと知っちょるわ。俺のことは、俺が一番分かっとる」
「死にたくない、よね。正しい死だからといって、死は怖い」
グラトニスは死の恐ろしさを知っている。
以前、ウルフ族との争いが絶えなかった時に多くの死を見てきたからこそ、死がどれだけ醜く、無い方がいいと思えるようなものだということを知っている。
「なんだ。それで蘇らせるってか」
「‥‥どうして」
オークロードはグラトニスの心を見透かしたようなことを言う。
「お前の考えぐらい分かるわ。何年一緒にいると思っとる」
オークロードの背中は大きい。それはまるで父親の背中だ。
そして、それはグラトニスにとってオークロードの存在がどれだけ大きいなものなのかを物語っている。
そう、大きい。
オーク族を背負い、そして赤子の頃からグラトニスを背負ってきたから、その背中は大きいのだ。
「‥‥お父さん」
「なんや」
「‥‥‥」
「うじうじせんではよ言え」
グラトニスは感情を抑え込んでいた拳を開いて、ずーっと昔から抱いていた疑問を投げかける。
「どうして俺を育ててくれたの?」
その問いに、オークロードは少し回答を遅らせた。
「‥‥泣いてたからや」
「‥‥?」
「森の中で独り、救いのない暗闇の中で泣いてる奴をほっとくアホがどこにおる」
その回答は、偽りない真実を語っていた。
父親として、血は繋がっていない、ましてや種族の違う息子を想うこと。
そんなことがオークロードにできるのかと不思議に思う者も多いだろう。しかし、オークロードはリーベルシアに教わった”言葉”でようやく伝えることができたのだ。
『にん、げん‥‥”飼う”』
飼うという言葉が示す意味はそのままの意味じゃない。
言葉を知らないから、なんとなくのニュアンスでそう言っただけで、実際には”孤独を憐れむ”という意味があった。
グラトニスが孤独だったから。
だから、オークロードはグラトニスを育てた。
ただそれだけだった。
「そんなの‥‥おかしい」
グラトニスにとっては”それだけ”じゃなかった。
「たったそれだけで、こんなに長い時を一緒にいてくれるわけがない。俺は知ってる。相当な理由が無いなら、捨てられる。だからこうやって俺は人間にも関わらずこんな魔物ばかりの森にいるんだ」
グラトニスは俯いて顔を隠しながらそう言う。そしてまた、拳を握ってその感情を抑え込んでしまう。
「―――馬鹿が。いったいどこに子を見捨てる親がおるんや」
その時、グラトニスの頭に硬くも、温かい手が置かれる。
ごつごつとした手の平がグラトニスの髪をかき混ぜるように撫でる。
「お前は俺の息子やろ。家族は一緒にいるもんや」
そう言われた時、グラトニスの拳が緩む。
それと同時に抑え込んでいた感情が溢れ出して、それは涙となって瞳から流れ落ちた。
ぽつり、ぽつり、と。
雨のように滴り落ちる涙は止むことを知らない。
「見つけたんだね」
リーベルシアが遠くでその光景を見ながら言った。
「‥‥何をだ?」
魔王がそう問いかける。
リーベルシアはすぐに答えた。
「愛、だよ」
それから数日後、オークロードは安らかに息を引き取った。きっと、天国へ行ったのだと、天界の神リーベルシアは言う。
グラトニスはその言葉を信じた。
最後に、オークロードはグラトニスに言葉を残した。
『お前は守れ。全部、全部守れ。もし次、俺みたいな異常存在が現れたら、そいつは悪い奴かもしれん。だから、守れ。お前にはそれだけの力がある』
グラトニスはその言葉に従うように、ダンジョンを作り、ダンジョンの生態系を守る為に生き、そして四魔将<魔人>となった後‥‥‥
―――世界で最も人間を殺した大罪人となった。
* * *
あの戦いから暫くして落ち着いたあと、わたしたちは未開のダンジョンに訪れていた。
グラトニスのいた場所‥‥つまり影の木がある最下層に辿り着いた。
そして影の木がある部屋に入って、すぐに見つけたのだった。
しわしわになった老人の亡骸を。
そしてわたしはそれがグラトニスだとすぐに気が付いた。
「グラトニス」
「‥‥本当に死んじゃったんだ」
リーベルは悲しそうにそう言った。そして、「蘇らせた方がいいのかな?」と聞いてくる。
「いや、止めた方がいい。というより、無理だ。もう魂がどこかに行ってしまっている」
生命の影を通してみても、全く反応が無い。
恐らく、魂は既に天界へ行ってしまったのだろう。
「そう、だよね。グラトニスは、やっと休めるんだもんね」
「そうだ。こいつは、頑張った。頑張った奴は休んだ方がいい」
だから、せめてこいつが正しい死を迎えられたのだと証明する為。
ロリエルに、こいつの魂が流転できるように頼んでみるか。
「よし、終わったよ」
その時、シリウスが転移魔法で現れた。
「上から下まで一通り見てきたけど、生態系は特に問題なさそうだ。影の木がしっかりと機能している証拠だね」
それならよかった。
せめて、こいつが守ろうとしていたものが崩れないように、わたしたちが代わりに守ってやりたかったから。
「あとは、ギルドナイトの権限を使ってダンジョン探索権を独占すればいい。そうすれば、もう他の冒険者たちはこのダンジョンに入れなくなるからね」
「そうだな。その方がいい」
最後に、グラトニスが安らかに眠れるように墓を作って、わたしたちはグラトニスをそこに埋めた。
彼が守ろうとした魔物たちと一緒に安らかに眠れるように。
「‥‥お花」
「どうしたんだ?」
帰ろうとした時、リーベルが突然そう言って立ち止まった。
「お花あげないと」
リーベルの言うことは正しい。
確かに、墓参りをしにきたのだから、花がないとおかしい。
「今は持ってないな‥‥生命の影で花を作るか」
「待って」
リーベルはそう言うと、胸ポケットから一輪の花を出した。
「それ‥‥‥」
それは、以前わたしが渡した影の花だった。
「いいのか?」
「うん‥‥確かにミリアに貰った大切なものだけど、大切だからこそグラトニスが安らかに眠れるように、このお花には見守る役目を持ってほしいの」
「‥‥そうか」
リーベルはその影の花をグラトニスの墓の前に置くと、手を合わして安らかに眠れるように祈った。
その様子を見て、わたしとシリウスも墓の前で手を合わせて、グラトニスの安らかな眠りを祈った。




