90話:残る静けさ
暫く続く沈黙。
500年という長い時をたった一人の大切な妹の為に捧げた堕天使の物語は、その場にいる誰もに深い消失感を与えたことだろう。
わたしはその沈黙を切り裂く。
「あいつ‥‥いろいろとやってきたくせに、結局は自分の妹の為って」
わたしの声は少し震えていた。隣にいたリーベルは「ミリア‥‥」と心配そうに声をかけられるぐらいには。
「何が正義だよ。じゃあ、悪の意味を教えてくれよ。お前自身、自分が正義なのか悪なのか分からなかったのなら、お前が死ねば全ての諸悪が消えるかなんて分からないだろ」
それは、最悪な自己犠牲だった。
結果的には己を悪とし、それを裁かさせることで、裁いた相手を正義にした。それは、マルシエルが正義としての自覚を持たせるという意味では成功だったのかもしれない。
しかし、根本から間違えていた。
きっと、あの時、天界の神を殺すという間違いを犯してしまった時から、正義を諦めて家族と過ごしていれば、このような自己犠牲を払う必要は無かっただろう。
「死んだら‥‥全部終われるかもしれないが、死を選ぶことだけはするなよ」
追放された時から、ずーっとわたしが思っていたこと。
命と金銭を天秤にかけて、ダンジョンに潜ったあの新人冒険者パーティ。結果的に、金銭に眩んで命を落とした。
シリウスの戦いでも、どちらかが死ねば終わるなんて言ったのは、シリウスがそれを間違いだと指摘されることを待っていたから。
初めから、死を選ぶことに幸せは待っていないと分かっていた。
「死んだら、全部終わりなんだよ」
「ミリア」
その時、リーベルがわたしの手を握った。
「私ね、死者を蘇らせられるようになったの」
「‥‥え?」
「そういえばそうだったね。ケガレちゃんは気付いていないだろうけど」
シリウスは少し前にあったことを話した。
ロリエルたちと共にやってきたリーベルが初めに見たのは、セルシエルに殺されたわたしだったことを。
しかし、生命の影を通じてリーベルの魔力を流し込むことで死者蘇生を成功させ、わたしはこうやって生きているということを。
‥‥え? わたし、死んでたのか?
「もしかしたら、勇者が力を貸してくれたのかも」
「勇者‥‥そういえば、どうして勇者の剣を持ってるんだ?」
「それはあとで説明するけど‥‥その、なんていうか‥‥私、死者を蘇らせられるようになったから、その‥‥‥」
リーベルが「その」の先を渋っている理由が分からなかったが、すぐに分かる。
「まさか‥‥‥」
「そうなの。セルシエルを蘇らせることも‥‥‥」
それは、あくまで提案だった。
「‥‥正直、それが正解なのかは分からない」
「うん」
初めは魔王を蘇らせるなんて、簡単に言えたのに、いつの間にかそれは簡単なものではなくなってしまった。
いざ死者蘇生に現実味が帯びた時、ようやくその罪の重さに気付いたのだった。
―――その時、突然天界の門が開く。
天界の門を開いたのは、ロリエルだった。
「グランちゃん。全部終わりましたの」
ロリエルは門の先にそう呼び掛ける。そして、門から出てきたのはグランシエルだった。
「分かりました、ロリエル」
待て、どうしてここでグランシエルが出てくる。
いや、おかしなことでもないのか。元とはいえ熾天使が死んだのだから、天界のまとめ役であるグランシエルが出てくることは普通か。
グランシエルは横目で、首から上が吹き飛んだセルシエルを見ると、溜息をついた。
「セルシエルは死にました。そして、彼は多くの罪を犯してきた。彼の魂はあたくしが直々に回収します」
「待って、お兄ちゃんは‥‥‥」
グランシエルの判断に、マルシエルは酷く絶望した顔で訴えかけていた。
「マルシエル」
「い、嫌だ」
「分かっているでしょう。セルシエルは、大罪を犯したのです。諸悪である彼の魂を流転させることは、更なる最悪を引き起こす可能性があります」
「で、でも‥‥‥」
その時、「マルちゃん!」と強く声が響いた。
「ラ‥‥ヴィ‥‥‥」
「帰ろう‥‥な? 疲れたやろ。もうこれ以上疲れる必要はあらへんで」
ラヴィエルはマルシエルの手を引くと、「ほな」と言い残して一足先に天界へ帰って行った。
その場に残ったグランシエルはわたしたち、詳しくはリーベルが持っている勇者の剣に視線を移すと、また話し始めた。
「その勇者の剣、返してもらいましょう」
「え‥‥あ‥‥うん」
リーベルは少し残念そうだったが、大人しく勇者の剣を差し出した。
グランシエルは勇者の剣を受け取ると、天界の門へ歩き出す。しかし、そこでシリウスが「待つんだ」と足を止めさせた。
「まだ何か?」
「言ったよね。勇者の剣には勇者の魂が封印されている。たった今、この場には死者蘇生を可能にできる存在がいるよ」
そう言って、シリウスはリーベルの肩を掴むと、グランシエルに見せるように前に移動させた。
「え、え、え?」
「どうだい、グランシエル。ようやくボクたちの悲願が叶うんだ。これ以上に嬉しいことはないだろう?」
グランシエルはシリウスの希望に満ち溢れた瞳を見ながら暫く沈黙していたが、目を逸らした。
「‥‥どうしてだい」
シリウスの声が少し低くなる。思考を読んで、グランシエルがその提案を拒んだことに気付いたようだった。
「勇者の剣は、所有者に勇気を与えます」
「そうだね。でも、別に今はそんなこと関係ないだろう?」
「いえ、関係あります。今回、リーベル様が死者蘇生を行えたのも、勇者の剣によって勇気を与えられたから。それによって、潜在能力を引き出されたからです」
「‥‥論点がズレてるよ。ボクは今、セレスを蘇らせることを提案してるんだ」
「だからです。死者を勝手に蘇らせられても困りますが、それ以上に勇者の剣は危険すぎる。潜在能力を引き出す、そう言えば聞こえはいいかもしれません。ですが、潜在能力というのは、まだ心がその能力に追いついていないからこそ、体の中で眠っているものなのです。もし、それを無闇に呼び覚ませば、待っているのは破滅のみ。もはやそれは、勇者なのです」
途端にグランシエルの表情が暗くなり、「そう、この子のように」と言った。
「‥‥キミ、怖いのかい? またセレスを失うことが」
シリウスがそう言った瞬間、グランシエルは声を少し尖らせた。
「大賢者、あなたは確かに強いですが、それでもあたくしの一存でいつでも処刑できることをお忘れなきように」
「ふ~ん。できるものならね」
「そもそも、勇者の剣を盗んだことに関して咎めていないだけ‥‥なにより、あたくしのセレスに呪いをかけたあなた方を呪い返さないだけ、感謝しなさい」
グランシエルはわたしとリーベルを強く睨み、その心の中にある憎悪を露にした。
そして、次にロリエルを呼ぶ。ロリエルはセルシエルの死体を門を開いて移動させると、グランシエルと共に天界へ帰って行った。
ひとまず、これで終わりはしたのか。
なんて言えばいいか、物凄く長い時間が過ぎたように感じる。実際には一日程度しか経っていないはずだが、感覚的には500年が経っているようだ。
‥‥いや、経ってるのか。お前が死んでから始まったこの物語は。
「‥‥よし、気持ちを切り替えるか」
そう口では言ってみたものの、簡単にはいかない。
「そういえば、地獄の影はどこ行ったんだ?」
「地獄の影なら消えたよ。セルシエルが壊してしまったからね」
そうか。そういえばそうだったな。
にしても、どうしてわたしはここにきて魔王の残滓のことを気にしているんだ? 別に、もうこれ以上魔王の残滓を集める必要は無いはずなのに。
そうか、この計画‥‥終わったのか。
そう思うと、残ったのは寂しさだった。
どうしてだろうか。結局のところ、この【魔王復活計画】が無ければ、”ケガレつき”として虐げられはしたかもしれないが、少なくとも今回のように死を経験するなんてことは無かったはずだ。
この計画でわたしが受けた影響は、殆ど悪い方向に傾いている気がする。この計画のせいで、この計画のせいで、と並べていけば切りがない程だ。
でも‥‥寂しい。
やっぱり、不思議だ。
=魔王の影=
その時、わたしの意思を無視して触手が生えてくる。
「ど、どうしたんだ急に‥‥‥」
わたしがそう呼び掛けても、触手は言うことを聞かない。
触手はゆっくりと伸びていくと、ある一点を見つめるようにして止まった。
触手には目が無いから、具体的にどこを見ているのかは分からないが、触手の下には黒く輝く水晶の破片があった。
その様子から、地獄の影を気にしているような気がした。そんな気がした。
「もしかして‥‥悲しんでるのか?」
「‥‥どうして?」
リーベルは不思議そうに聞いてくる。
確かに。自分で言っていて変だ。
触手、もとい影が悲しむなんて‥‥おかしい。でも、何故だろうか‥‥‥
「‥‥なんとなく」
「‥‥?」
次の瞬間――――
=生命の影=
今度は、勝手に生命の影を使われる。
触手が薔薇のような姿になって、その花弁から一滴の”影”を滴らせる。
ポツンッ、と影が水晶の破片に落ちる。その瞬間、水晶の破片が黒い影に吞み込まれていく。
影の化物に捕食されるような光景は、到底”美しい”からはかけ離れているもののはずだが、何故かわたしはその光景を”神秘的”だと感じた。
「‥‥これは、驚いたね」
シリウスが言葉を失っていた。
「どうしたんだ?」
「ケガレちゃんなら気付けるんじゃないのかい? ほら、感じるだろう。この感じ‥‥‥」
この感じ‥‥‥
―――黒く燃える。
そんな感覚がする。
それに加えて、少し懐かしくすら感じる。
それが何なのかを知る前に、目の前に答えが示された。
「‥‥蘇った。地獄の影が‥‥‥」
摩訶不思議なことだ。
壊れたはずの地獄の影が蘇っていた。
影は、この為に生命の影を使ったのか。
こいつと長い間一緒にいたからか、分かる。
生命の影で生み出す影を永遠のものにして、それを地獄の影に渡す。そうすれば、その永遠の影を受けっとた地獄の影は再びその力を取り戻す。
そうして蘇った地獄の影は、再び水晶の形を取り戻し、目の前でふわふわと揺れていた。
「ミリア‥‥‥?」
その時既に、わたしの体は地獄の影の前まで動いていた。
まるで影に突き動かされるように、それこそ影自身がわたしに”これを取れ”と言っているような感じだった。
わたしは手を伸ばし、地獄の影に触れた。
触れた瞬間、地獄の影がわたしの中に吸い込まれるように消えてしまった。しかし、消えたわけではないことが分かる。
地獄の影が体内を巡る感覚がする。黒い炎が体を包むような、ただ熱くはない。むしろ、温かみすら感じる炎に包まれて、安心がある。
「ミリア!!!」
突然、背後から強い声で名を呼ばれた。
「‥‥?」
「だ、大丈夫なの!?」
リーベルは酷く驚いた顔をしている。隣にいるシリウスも、珍しく呆気に取られているようだった。
「大丈夫って、何が?」
「も、燃えてるよ!!」
燃えてる‥‥?
その言葉が引っ掛かって、わたしは両手を目の前に持って行った。すると、目に入ってくる。黒い炎に包まれた自分が。
「ま、まさか本当に燃えてるなんて‥‥‥」
燃えている”よう”ではなく、本当に燃えていた。
「と、とにかく大丈夫」
「本当に‥‥?」
大丈夫としか言えない。実際、痛みは感じない。
両手を見てようやく気付く程なのだから、本当に痛みはない。
ただ、変だとは思った。
紛争の影の時に感じたあの苦しみ。地獄の影も、紛争という名と同じでマイナスのイメージがある。
地獄の影を取ったら、それこそ地獄で味わうような苦しみを感じるかと思ったが、そうでもないらしい。
そんなこんなしていたら、次第に炎も収まってきた。どうやら、地獄の影にも適応できたらしい。
それと同時に感じる。
「‥‥終わったな」
もう、全部終わった。
長い道のりだった。
―――消失感。
感傷に浸るよりも、失ったものに目が向く。
これで良かったのだろうか。
世界の真実、というより魔王という存在が歩いてきた道のりを辿ってきて、自分が魔王の魔力を持っている理由も分かった。
「お嬢様。帰りましょう。ご主人様がご心配しております」
そこにいたグレイアがそう言った。わたしはそれに従って、帰路に就く。
「リーベル、帰ろう」
「うん」
もう一人、か。
「シリウス」
「何だい。そうだね、転移してあげるよ。ここからランタノイド邸は遠いからね」
「違う、分かってるだろ」
「‥‥はいはい」
結果的には、こうやって独りじゃなくなった。それはいい結果だ。個人的にも嬉しい。
「皆で一緒に帰ろう。せっかくだから、パーティでも開くか」
ただ―――寂しい。




