89話:それがちっぽけの正義だとしても
「‥‥‥‥‥‥」
ミリアは長い沈黙の中で、その言葉の意味を噛み砕いていた。
”大好き”
リーベルに何度かそう言われたことはあった。ただ、その言葉の中に内包されているものは”友達”であって、それ以外のものはないはずだ。
「ミリア‥‥」
答えを見つけるよりも前に、リーベルが話を紡いだ。
「私ね‥‥泣かないって決めたの」
「‥‥?」
「でも‥‥ほら」
リーベルはその瞳から流れる涙を見せた。
「私、泣いちゃった」
リーベルは笑ってそう言った。ミリアはそれが自分を安心させる為のものだとすぐに気付いた。
「‥‥‥」
「ねぇ」
リーベルは呼吸を整えて、もう一度「ねぇ」と言う。
「私ね、気付いたの」
リーベルはミリアの腰を引き、更に顔を近づける。そして、口をミリアの耳元へ持っていって、囁いた。
「―――”大好き”だよ、ミリア」
その囁きは耳元から脳内に達し、震え上がらせる。
プシューと熱くなった顔から湯気が出るような感覚がミリアを襲った。
リーベルは、顔を戻してもう一度ミリアの顔をまじまじと見る。
少し顔を赤らめて、また顔を近づけた。
―――キスしてしまう!?
そう、ミリアは思った。
もちろん、ミリアはキスの意味を知っている。そして、それをしてしまうと、大好きの中に内包されているものが友達ではなく、愛になるということも分かっていた。
ただ、それほど嫌ではなかった。
むしろ、受け入れている。
段々と近づいてくるリーベルの唇を拒むことなく、ミリアは目を瞑った。
「―――コホンッ!」
その時、シリウスが咳払いをした。
「申し訳ないけど、流石にTPOをわきまえようね」
その言葉にミリアは目を見開いて、それと同時に皆の視線が自分たちに集中していることに気が付いた。
ボンッと軽くリーベルの体を押して立ち上がる。
そして、ほっぺたを揉んで心を落ち着かせようとした。しかし、リーベルに目を向けると心が慌てだす。
(ど、どうして‥‥リーベルが‥‥か、か、か、かわいい?)
ミリアの目には、リーベルのかわいさが五百倍増しで映っていた。
そもそもリーベルはミリアでも目を奪われるほどの美貌を持っている。しかし、長い間友達として一緒にいたからか、そのことを忘れていた。
ここにきて、思い出される。
(お、おかしい‥‥こんなの、絶対におかしい。リーベルは友達よ。だから、こんなの‥‥‥)
かわいいのは知っていた。
ただ、今回は違う。
宝石を見て、綺麗だと思うのは誰だって同じだ。しかし、宝石を見た時、ぎゅっと心を掴まれて、その宝石で全てが満たされるのは違う。
(リーベルは‥‥リーベルは‥‥かわいいけど、でも、それは友達としての感想で‥‥)
―――違う。
ミリアは気付いた。
ミリアはリーベルのことを綺麗だとは思ったことがある。しかし、かわいいと思ったことは無かった。
つまり、今のミリアの中では、リーベルの印象が変わったということになる。
それに気付いたミリアの手が握られる。
「ミリア、大丈夫?」
手を握って来たのはリーベルだった。
「だ‥‥」
大丈夫、と言おうとするが、声が出ない。
手を握っているという事実が、やけにミリアの思考を妨害して、会話すらままならなくなっていた。
「大丈夫かい、ケガレちゃん」
代わりにシリウスがそう言う。
「―――やはり、運命は変わらなかった」
その時、バサッと羽音と立てながら、漆黒の翼を持つセルシエルが現れた。地獄の穴から颯爽と出てきて、そう言い放つ。
「ほらね。ケガレちゃん、それにリーベルちゃん。今はそういう時じゃないよ」
「‥‥‥」
「うぅ、ごめんなさい」
セルシエルはミリアを見て、もう一度問い掛ける。
「魔王様――――いえ、小娘。あなたはどう思いますか?」
「どう‥‥思う?」
「その出会いを、どう受け取るか。それをお聞かせください」
それは、ミリアとリーベルの出会いが必然であったことを示していた。
運命的な出会いじゃない。セルシエルがそうなるように仕込んでいたから、計画の一環として‥‥いや、違う。
「お前‥‥どうして」
そこで、何となくそう聞いてしまうが、その言葉はミリアから放たれたというより、ミリアの中にいる”影”、つまり魔王が放ったようなものだった。
「地獄でのこと。覚えていますか?」
セルシエルはそう聞くが、もちろん覚えてはいない。
「覚えていないでしょう。だから、もう一度言います。余の真の計画は、魔王様を復活させ、そして”殺す”こと」
その真実に、その場に一同全員が驚いた。
「驚いたね。じゃあ、どうしてケガレちゃんをリーベルちゃんに合わせたんだい? それはいくらなんでも鬼畜だと思うけど」
思考が読めるはずのシリウスですら驚いた。
何故なら、セルシエルの言葉は思考を通じていない不確実なものだったからだ。
「‥‥それは―――なんてことのない。ただ、同情してしまったから」
その回答に、シリウスは苦笑する。
「大切な者の為、全ての計画の元を辿ればそこには大切がある。大賢者、貴様もそうだ。貴様は、勇者という大切の為」
その言葉に、シリウスは少し動揺した。
「余も同じだ。同じと言っていいのかは分からないが、それでも余は大切の為、この計画を進めてきた」
その時、初めてセルシエルは心の内を明かした。
「魔王様は正義だった。間違いなくそのはずだった。しかし、悪にされた。これは恐ろしいことだ。人々に限らず、全ての生命が持つ心というものは、美しいが残酷だ。心によって悪にされた魔王様は、余が制裁すべき対象となった」
結果として、それは悪とみなされた。
「悪だと思っていたものが、悪では無かった。その時、正義が揺らぐ。魔王様という存在はあまりに強大すぎる。神という立場であるにも関わらず、誰にも属さない。だから、人々が信仰しない神は、魔王になった」
魔王は信者を持たない神だった。
そして、神だからこその力は、人々にとっては理不尽な巨悪に見えたのだ。
「もし、魔王様が持つ影が世界に残り続ければ、きっと、魔王様以外にも様々な者が現れる。もしかすれば、そこの小娘以外にも、闇魔法を扱える者が現れるかもしれない。だから、それを解決する為の唯一の方法が、”世界から影を消す”ということだった」
セルシエルは「そして」と付け加えて、両手を頭上に掲げる。
「たった今から、それを現実にする」
セルシエルの両手の中に、渦巻く混沌とした魔力が現れる。
魔力が高速でうごめいて、一心に集まっていく。
魔力が圧縮されていく。そして、一つの黒い点となった。
「あれは‥‥まずいね。疑似ブラックホールだ」
シリウスは対処する為に魔力を集める。しかし、そこで気が付いた。
―――魔力が無い。
異常な魔力を消費する星魔法を使ったことが原因だともすぐに気が付いた。
「皆、逃げるよ」
そう言って、まだ使えそうな転移魔法を展開しようとする。しかし、上手くいかない。
「‥‥これは」
「そうだ。魔力が吸い込まれている。ブラックホールの中では光すら直進できない。無論、魔力もかき乱されて、この場では魔法を発動できない」
そして、放たれた。
「天界の‥‥いや、違う」
=地獄の虚無=
小さくも、圧倒的なエネルギーを持つブラックホールが投げられる。
全員が終わったと思った。しかし―――一人を除いて。
――――パンッ!!!
ブラックホールが強く握り潰される。
「‥‥危なかった」
「ミ、ミリア‥‥?」
ミリアは触手でそのブラックホールを包んで、そのまま取り込んでしまった。
「その力、地獄の影を通してるだろ? じゃなきゃ、”地獄の”なんてありえない」
地獄の影。つまり魔王の残滓を利用して放たれたその魔法は、強い”影”を帯びている。
それによって、ミリアの触手がそのブラックホールに触れた時、お互いに強く干渉し合って、その力を相殺した。
そう、シリウスと戦っていた時に起きた、魔力干渉の現象だ。
「‥‥‥えぇ、そうでしょう」
攻撃を無効化されたというのに、セルシエルは冷静だった。
「感謝します」
続く言葉は、感謝だった。
突然の感謝に、ミリアたちは頭を悩ませられる。
「やはり、余には魔王様を殺すことはできない。そう知れただけで、満足です」
セルシエルは空を見たあと、「だから」と話を繋げた。
「小娘‥‥いや、ミリア。あなたがその強大な力を、今度は勘違いされないように、そして変わらず正義として使うこと。そして、これ以上無駄な正義を生まないようにすることを誓って下さい」
「‥‥‥誓う」
セルシエルは意図はあまり理解できていないが、ただそう誓うことこそが正解なのだと、ミリアは思った。
「わたしは、決してこの力を悪い方向へは持っていかない」
ミリアがそう言い終えた瞬間だった。
=天秤の剣=
天秤が置かれる。
「―――ようやく使う気になったか、マルシエル」
「‥‥‥」
セルシエルが振り向くと、そこには天秤の剣を地面に突き立てたマルシエルがいた。
「もういいのか? その力には頼らず、自分の手で余を殺すのだろう?」
一度目の戦闘でセルシエルとマルシエルが戦った時、マルシエルは天秤の剣を使わなかった。
使えば確実にセルシエルに勝てたというのに、使わなかった。
その結果、マルシエルは敗北した。
「もう、いい」
「そうか」
「もう、これ以上は耐えられない」
マルシエルが天秤の剣を使わなかった理由。
「何が耐えられないんだ?」
「もう‥‥嫌だ」
「何が? 言葉にした方がいい」
「―――どうして自ら悪になろうとするんだよ!」
マルシエルが天秤の剣を使わなかった理由。
それは―――セルシエルを正義だと信じたかったから。
天秤の剣を使って、セルシエルが悪だと分かることが怖かったから。そのことに、セルシエルは気付いていた。
「余は悪じゃない」
「嘘つくな!」
「嘘じゃない。そもそも、初めから悪など存在していなかったのだ」
その言葉は、天秤の剣の存在を真っ向から否定するものだった。
「存在するのは、大きな正義と、ちっぽけな正義だけだった」
ちっぽけで、頼りないもの。
「余はちっぽけだ。孤独な正義を掲げて、それを証明しようとしている。人々はそれを悪と呼んだのだ」
「嘘だ」
「嘘じゃない。魔王様も同じだった。孤独な正義だから、悪となった。しかし‥‥ちっぽけではなかった」
「嘘だ」
「嘘じゃない。余はちっぽけな正義。ちっぽけな正義は、いずれ朽ち果てる」
いつだってそうだった。
それは、セルシエルが気付いていたことだった。
「だから―――余は正義になれなかった」
罪の告白。
「余は天界の神を殺した」
天秤が傾く。
「余は天界を裏切った」
天秤が傾く。
「余は勇者を裏切った」
天秤が傾く。
「余は‥‥これを何度続ければよいか」
ただ、罪の告白は続いた。
魔王の残滓を各地に配置して、様々な悪影響をもたらしたこと。
ミリアたちが辿ってきた道に置かれた多くの障害。それら全ての原因を生み出したのはセルシエルだ。
「余がいなければ、きっと今頃、誰も不幸ではなかった」
不幸の原因。
「余がいたから、誰かが悲しんだ」
問題そのもの。
「余こそが、変わらない―――悪だった」
悪は、いない。
自分でそう言ったにも関わらず、自覚してしまう。
己を悪だと自覚して、何を思う。
(初めからそうだった。魔王様を復活。魔王様を殺す。どれも二の次だ。そう、初め。初めから、ただ思う)
セルシエルは前に歩き出す。
マルシエルの前に立って、手を伸ばした。
「‥‥?」
マルシエルの頭に手を置く。
(もう二度と、余と同じようなことにならないように。この子が余と同じ、ちっぽけで、孤独な正義にならないように。全ての諸悪は消し去らなければならなかった)
―――そして。
(その諸悪こそ、余であった)
それこそが、魔王が諸悪だと考えていたセルシエルが辿り着いた結論だった。
「余には、大切な家族がいる。たった一人の妹だ。そうだろう、マルシエル」
「‥‥うるさい。今さら兄面するな。僕は‥‥マルシエルじゃない」
否定される。
「そうか」
受け入れることはできずとも、否定はしなかった。
マルシエルが自分を偽った理由。とっくに気付いているのに、気付かない振りをしなければ精神を保てなかった。
(そうだな。余も怖い。お前に否定されるのは、怖い)
たった一人だけ、もしくは一羽だけという表現が正しいのかもしれない。
そんな大切な何かを失うこと、それだけを恐れた。
「なら、どうか、伝えてくれないか。見知らぬ天使よ」
「‥‥‥」
「大切な妹なんだ。あの子は優しすぎる。きっと、どこかで勘違いされてしまう。あの子の掲げる正義は未だ不安定で、余と同じ運命を辿る可能性がある」
「‥‥‥」
「だから、忘れるなと。お前は独りじゃないと伝えてくれ」
(初めからだ。全ては、余の大切の為。ちっぽけな正義が多くの正義の中に埋もれてしまわぬように)
全部、妹の為。
(余が全ての諸悪となり、この世の悪と共にこの世界を去ろう)
そうすれば。
(そうすれば、お前は‥‥正義になれる)
それを信じて。
(これが‥‥余の掲げた、ちっぽけな正義だ)
セルシエルは手を後頭部に回して、マルシエルを抱き寄せた。
「伝えてくれ」
「‥‥‥」
「寂しくなったら、ラヴィエルを頼りなさい。彼女は、いつだってお前の傍にいてくれる」
「‥‥‥」
「グランシエルの言うことは聞きなさい。今、お前の親代わりになってやれるのは彼女だけだ」
「‥‥‥」
「余は世界を去る。魂も徹底的に管理されるだろう。だから、もう二度と会うことはできないが、それでも、余はお前の傍にいると、そう伝えてくれ」
その発言はおかしい。
「じゃあ―――」
おかしい。
「―――どうして、一緒にいてくれなかったの」
「‥‥‥」
マルシエルの声が柔らかくなる。
偽る為に固めていた嘘が溶けていく。中から出てきたのは、本来の彼女だった。
「ぼくを独りにしないでよ‥‥‥お兄ちゃん」
そう呼ばれた時、ハッとする。
心が震えて、明らかに動揺してしまう。
(いつぶりだろうか、そう呼ばれるのは)
フラッシュバックする。
過去に見た光景をもう一度見ている。それはまるで走馬灯のようだ。
―――マルシエル。大切な妹よ。
―――マルシエル。たった一人だけの家族よ。
―――マルシエル。誰よりも輝かしい。優しき子よ。
(そうか‥‥‥)
ようやく気付いた。
(馬鹿らしいな。余は、大切の為に動いて、大切を捨てたのか)
空の上を走り回る無邪気の姿は、いつの間にか天秤の剣を握る正義の姿へと変わり果てていた。
それまでの成長を見過ごして、彼女を独りにしてしまったのは誰だろうか。
(分かっていた。余がするべきことは、大切の為に悪を消し去ることなどでは無かった)
泣いているマルシエルを見て、気付いてしまった。
(余がするべきだったのは、正義を捨ててお前の隣にいてあげることだったのだな)
「何よりも罪だったのは。そうだな―――」
多くの罪を告白しても、それを上回る程の変えられない罪に気付いた。
「―――お前を孤独にしてしまったことだったのだな」
天界の神を殺す。
魔王を復活させて殺す。
他にも多くの罪を重ねても、それら全てが霞んで見える程、セルシエルにとっての罪はそれだった。
それは罪として、セルシエルに悪を自覚させた。
―――天秤が傾いた。罪を告白する度、天秤はマルシエルの方へ傾いていた。そして、ようやく終わる。
完全に天秤がマルシエルの方へ傾いた。
「‥‥嫌だ」
「マルシエル。いや‥‥マルスか」
「違う。ぼくは‥‥‥」
「どうした。天秤の剣が余を悪と断定した今、お前は余に何をもたらしてくれるんだ?」
マルシエルは最後に、本当の自分を明かしてくれる。
「ぼくは‥‥マルシエルだよ、お兄ちゃん」
「そうか」
「どこへも行かないでよ」
「そうか」
「独りにしないでよ」
「そうか」
もう、戻れない。
それがどれだけちっぽけな正義だとしても、悪だと断定されたとしても、それが正義だと信じている。だから、それを貫かなければならない。今さら正義を曲げることだけは許されない。
誰も許してくれない。
何より、自分で自分を許せなかった。
「お前は、まだ余を家族だと思ってくれるのか」
セルシエルは泣きじゃくるマルシエルを抱擁して、優しく頭を撫でた。
「髪を切ったのだな」
「‥‥‥」
「背も高くなった」
「‥‥‥」
「剣術も上手くっている」
今さら成長を噛み締めたところで、遅いことは分かっているのに、セルシエルは依然とは違うマルシエルから多くの大切を受け取る。
(これ以上は、よくないな)
別れを惜しまないように。
別れを惜しむ権利なんて、自分には無いのだからと。そう言い聞かせて、マルシエルを離した。
「じゃあな。いや、さよならを言える権利は、余にはないか」
セルシエルはマルシエルから十分に距離を取る。
「もう殺していいぞ。きっと、この子には余を殺せない」
その言葉を受け取ったのは、ディアベルだった。
「お兄ちゃ―――」
そう呼んで、手を伸ばす。
しかし、その時には既にセルシエルの首は吹き飛んでいた。
「契約を破った代償をこのようなことに使うとは‥‥実に不愉快」
大好きな殺しをしたというのに、ディアベルは酷く苛ついていた。
「もういい。ワタクシは帰ります。こんなことで地獄の影を手に入れても、何の意味もありません」
契約の内容。
それは、地獄の影を渡す代わりにセルシエルの計画に協力するというもの。
もし、それを破れば代償を伴う。それは、死だ。
だから、ディアベルはその代償をセルシエルに支払わせた。
殺しはディアベルの好きなことであるはずなのに、不愉快に感じるのは、セルシエルが代償ですら自分の計画に入れていたからで、最後まで利用されていたという感覚が残ったからだった。
「では、ミリア様。またお会いする機会があれば、お会いできれば良いですね」
そう言い捨てて、ディアベルは地獄へ帰って行った。
こうして、セルシエルの計画は幕を閉じたのだ。
500年も続いた計画は、セルシエルが望んだ通り、諸悪を消し去ることで妹を守る、ということを成し遂げた。
しかし、多くの代償を支払った。




