79話:全ては500年前から始まっていた(後編)
天界の神は死んだ。
それは、世界を震撼させるような出来事に間違いはなかった。
しかし、世界は変わらなかった。
魔王。
そう、それはこの世に蔓延る病魔とも呼べるべき存在。強い恐怖という名の常識だった。
そのはずだった。
実際のところ、魔王が悪事を働いた事実は存在していなかった。
誰も殺していない。
何も壊していない。
にも関わらず、魔王が恐れられたのは、恐怖という感情が、魔王は世界の敵だという新たな常識を生み出してしまったからだ。
だから、魔王は無慈悲に誰かを殺す。
むやみやたらに支配をして、思い出と共に全てを壊す。
そのような架空の魔王が形成されていった。
その恐怖は天界すら突き動かし、勇者の剣を持ってしまった少女は、人間たちの希望となる必要があった。
その時には既に魔王は人類にとって”滅ぼさなけらばならない”存在となっていた。
そして、グランシエルは大切な娘に”勇者”という呪いをかけた神々を酷く恨み、天界もまた魔王に牙を向けることになった。
だから、魔王に関わる全ての存在は敵だ。
そこには、魔王の恋人である天界の神がいた。
天界の神は人類、そして世界の敵となった。
「し、師匠‥‥何してるの?」
勇者にそう言われて、セルシエルは自分の行いにようやく気付く。
「‥‥‥」
黙って、天界の神の血がべっとりとついた天秤の剣を眺めた。
小刻みにカチャカチャと震える天秤の剣は、自分の体が強く震えていることを示している。
それは、正義に対する恐怖か? それとも、不安か?
ただ、今は信じるしかない。
「こ、これは‥‥正義だ」
信じるのだ。己の正義を。
震える天秤の剣越しに死んだ天界の神を見て、どうやって正気を保つのか。
―――無理だ。
セルシエルは膝から崩れ落ちる。しかし、天秤の剣を杖代わりにしてなんとか立ち続けた。
「こ、これは‥‥正義だ。そう、正義」
何度も、何度も、正義と復唱する。
「天界の神は人類を、ましてや天界を裏切った。だから、この行いは‥‥正義でなければ‥‥‥」
言葉で己の行いを正義にする。
しかし、頭では理解していた。
「こ、これは‥‥‥世界によって定められた、平等な‥‥せい‥‥せい‥‥ぎ‥‥‥‥」
そして、理解していた頭と、天界の神の死体が突きつける。
この行いは正義ではないと。
「余、余は‥‥いったい、なにをして‥‥‥」
「師匠!」
勇者がそう叫ぶ。しかし、遅かった。
天秤の剣の天秤が強く傾く。それは、セルシエル側ではない。天界の神側だ。
天秤の剣は、天界の神を正義とした。
一切の贔屓が存在しない平等な正義の測り。それが意味することは、セルシエルの行いが”正義ではなかった”ということだった。
その時、杖代わりにしていた天秤の剣が強くセルシエルを拒む。
「‥‥ッ!!」
天秤の剣の不思議な力にはじかれ、セルシエルは後退し、そのまま背中から倒れ込んだ。
天秤の剣の所有者は、正義でなければならない。何故なら、平等な正義を測る天秤の剣を持つものとして、誰よりも平等な正義を持つ必要があるからだ。
しかし、天秤の剣がセルシエルを否定した。まるで、貴様は悪だ、とでも言わんばかりの拒絶に、セルシエルは考える。
「余、余は‥‥正義?」
正義に疑問符が浮かぶ。それは、セルシエルの正義の”揺らぎ”だった。
―――その時だ。彼女が現れる。
「‥‥リーベル」
一瞬の出来事。
まるで本来あるべきだった映画のフィルムの一部が切り取られてしまったかのように、目の前に突然彼女が現れた。
数秒。勇者一行の思考が落ち着くまでの時間が経って、ようやく一行は驚きで縛られていた体を緩める。
「‥‥あ、あんたは‥‥」
勇者がそう聞く。
しかし、彼女が言葉を返すことはなく、ただ静かに死んだ天界の神を抱きかかえる。
「‥‥わたしは理不尽が嫌いだ」
その瞬間、勇者一行は感じる。生まれ持った消すことのできない絶対的な感情を呼び起こされるような感覚。
そして、すぐに理解する。
その”彼女”こそが、世界の影、またの名を、”魔王”だと。
「もう一度言う。わたしは、理不尽が嫌いだ。だが、多少の理不尽なら許してやる。それが、わたしという存在がこの世に存在するためのハンデというものだ」
依然として魔王は死んだ天界の神を抱きかかえる。
しかし、少しだけ変化が生じる。
魔王の紫色の瞳から、一滴の涙が落ちる。その一滴に続くように、また一滴、また一滴と、死んだ天界の神の頬を濡らしていく。
「リーベル‥‥お前が死んだら、わたしはもう、こんな理不尽を許せなくなってしまう。わたしの力だけじゃ、お前をゾンビにすることしかできない。‥‥生命の影があっても、わたしの魔力じゃ、お前を生き返らせることは‥‥できない。お前が生きてないと、お前の魔力がないと‥‥わたしは‥‥お前の笑顔を見ることが‥‥できない」
その姿は、勇者一行が想像していた魔王という存在からはかけ離れていた。
ただ、亡くなった愛しいものの姿を見て、悲しみに包まれる魔王は、ただの少女のようでしかなかった。
「‥‥なぁ」
突然、魔王の震える声が勇者一行に向く。
「もし、わたしに彼女と同じ魔力があったとして、彼女を蘇らせることができたとして、こんな理不尽に埋め尽くされた世界に蘇った彼女は‥‥幸せなのだろうか?」
「あ、あんた‥‥‥」
「なぁ、わたしが何をしたんだ?」
その問いに、勇者は言葉を失う。
「お前は何を知っている? わたしが誰かを殺したか? そもそも、誰かを殺すことは罪なのか? どうしてすぐに人間の尺度でわたしたちを測る? どうして、人間が魔物を殺すことは罪にならないのに、わたしたちが人間を殺すことは罪になる?」
依然として、勇者はその質問に答えられなかった。
「なぁ‥‥わたしとお前たちは初対面なのに‥‥何故、お前たちはわたしを悪だと決めつける?」
悲しみに震えていたその声は、次第に別の感情に乗っ取られていく。
「なぁ‥‥分かるか? なぁ‥‥このやるせなさが。なぁ‥‥なぁ‥‥なぁ!」
その時、どす黒い触手が地面から生えてくる。
「なぁ‥‥分かるか? この‥‥怒りが」
そのあとは語るまでもなかった。
それは、”蹂躙”だ。
* * *
「どうでしょうか? これが真実です。魔王様は、死者をゾンビにすることはできても、死者を蘇らせることはできなかった。死者を蘇らせるには、天界の神であるリーベルシア様の”最も純粋な光属性の魔力”が必要だったのです。その魔力と、魂に関する権限を手に入れることのできる”生命の影”が合わさって、ようやく死者を蘇らせるという神業が実現するのです」
セルシエルは全ての真実を語った。
「だからこそ、魔王様は自分にもできる”魂の流転”を選んだ。天界の神であるリーベルシアの魂も流転させ、そうして、500年が経った今、この世界に魔王と同じ”闇属性の魔力”と”最も純粋な光属性の魔力”を持つ者が現れたのです」
セルシエルは突然指をこちらに向けてくる。
「それこそ、あなた方」
それは複数形だった。それが不思議で、後ろを振り向く。
「‥‥ミリア」
そこには、リーベルと、他の皆もいた。
「恐らく、ここまではそちらの通話越しの大賢者に伝えられたのでしょう。そして、大賢者がそのことを知っていて、あなた方を勇者を蘇らせる計画に利用したことも、既に知っていることでしょう」
セルシエルは冷たく事実を伝えて、今度は自分の話に変える。
「同じように、余にも計画があります。それは、”魔王様を復活させる”計画。余は、正義が揺らいでしまったことにより、天秤の剣を握ることができなくなってしまった。その上、天界の神を殺した余は、間違いなく魔王様にとって許せない存在であったに違いありません。しかし、魔王様は余を許した」
「許したなんて、随分と呑気だね」
「‥‥そう、貴様の指摘を認めることは癪だが、正しい。余は、償いの為に魔王様の下についた。魔王様は余を許してはいなかった。ですが、それでも愛する天界の神の言葉、”全ての者に平等な償いを”、に従い、余に償いの機会を与えてくださった。だからこそ、余は償い、もう一度魔王様をこの世に蘇らせる。そして、余は魔王様を復活させる計画を立てた」
その時、セルシエルは、とある”仮面”を取り出した。
「魔王様、これを覚えていますか?」
あ、あれは‥‥‥
過去の出来事がフラッシュバックする。
それは、わたしが冒険者ギルドから追放され、途方に暮れて家に帰ろうとしてきた時に話し掛けてきたあの”奴隷商”が着けていた仮面だった。
「恐らく、たった今、思い出している時でしょう。ですが、それは重要ではありません。重要なのは、全ての真実です。余は、これまでの間、具体的には魔王様が転生を果たしてから、多くの準備をしてきました」
そして、セルシエルはこれまで自分がやってきたことを連ねていく。
「余は、勇者一行として四魔将を討伐する旅に出ていた時、魔王様が四魔将たちに預けていた魔王の残滓を回収していました」
それを前提として、一気に全ての謎が解かれていく。
「余は、紛争の影をエルフの里に隠しました。それは、天界の神の転生体がいる里です。魔王様がリーベル様をエルフの里に帰すことは容易に想像できました。そして、リーベル様を奴隷とする為に人間を仕向けて、リーベル様を拉致させたのも余です。もちろん、奴隷となったリーベル様と魔王様が出会えるように奴隷商を仕向けたのも余です」
エルフの里だけでも、多くのことが明かされた。しかし、まだ終わらない。
「地獄にあったあの水晶。あれは、生命の影による生成物ではありません。あれは、地獄の影による生成物です。生命の影を渡しておいたドルマンを討伐する為の導線として、ドルマンが魔王の残滓を持っているという伏線には、魔王の残滓の生成物であるあの水晶を見せることが有効だと考えたのです」
まだ、終わらない。
「つまり、王都で会った出来事は、初めから余が計画したものです。生命の影を魔王様に渡す為、ドルマンを利用しました。恐らく、ドルマンに協力者がいたことにも気付いているでしょう。その協力者こそが、余です」
まだ、終わらない。
「更に言えば、グラトニスの居場所を知らせたのも余です。あのダンジョンの存在を人類に知らせる為、余はダンジョンの入り口の一部を破壊し、人類が気付ける導火線を引いたのです。勇者一行だった頃にグラトニスとは戦っていませんので、魔物の影を渡すには、こうするしかなかったのです」
つまりは‥‥そういうことか。
「気付かれましたか? そう、全ての物語は余が計画したもの。魔王様が追放されることも、その後に奴隷となったリーベル様と出会うことも、エルフの里で紛争の影を見つけたのも、地獄でドルマンに繋がる情報を手に入れたのも、王都でドルマンを倒し生命の影を手に入れたのも、ダンジョンでグラトニスと出会うことも‥‥全ては、余の計画によって、500年前から決められ、そして始まった”魔王様が復活する物語”なのです」




