76話:堕天使
これまで辿ってきた道にできた足跡が無慈悲な雨に消された気分だ。
わたしが魔王の転生者だとか、リーベルがリーベルシアの転生者だとか、そんなことはどうでもいい。
厳密にいえばどうでもよくないが、ただ、そんなことよりも裏切られたことに酷く心を苦しめられている。
わたしが【魔王復活計画】に手を貸していた理由は、確かに自分が魔王の魔力を持ってる理由を突き止めるため、というものではあったが、結局のところ、リーベルや、なによりシリウスと一緒に夢物語とも思えるこの計画を進めていることが楽しかったからだ。
それがたった今、失われた。
リーベルはいる。
だが、計画の首謀者であるシリウスがいない。
こんなことを考えさせられていることすら腹立たしい上に、強く孤独を感じる。
「ミリちゃん‥‥!」
そう呼び止めるロリエルを無視して、わたしは一目散に自分の部屋に向かった。
ベッドに顔を埋めて、行き場のない叫びを口から吐き出す。
「ああああああああ!!!!」
枕にわたしの声が吸われて、こもる。
意味のない文字の羅列のような叫びは、どこへ向かうこともなく、自分の耳に返ってくる。
「ふざけんな!」
ようやく意味のある言葉を放つ。しかし、それが届くべき相手がいない。
「ふざけんな……」
二度目、今度は少し弱く言う。
長かった。そのはずだ。
わたしがリーベルと出会ってから、今に至るまでですら半年が経っている。
シリウスが出会ってからは、更に二年が経っている。
二年半。
それは、長いとも短いともいえない時間かもしれない。
ただ、十五歳で家を飛び出して、もう十七歳になっている。そう考えると、長い時間だ。
その長い時間を、わたしはシリウスと過ごしている。その間、確かにお互いのことを殆ど知らずに過ごしていた。
わたしは、シリウスが何者なのかを知らない。
その素性も、秘密も、生まれた場所すら知らない。
でも、顔を知っている。
少しカールを巻いた茶髪。
いつも何かを見通しているような碧眼。
化学的な匂いのする黒いローブ。
いつもでかすぎる帽子を被っていて、確かに顔の全体像は見えない。それでも、なんとなく顔の全体像を想像できるぐらいには一緒にいた。
性格を知っている。
いつもからかってくる。
運動が嫌い。というより、研究にしか興味がない。
わたしを冗談で”ケガレちゃん”と呼ぶぐらい、デリカシーがない。
そんなことを知っている。
それぐらい知っていれば、せめて知り合いぐらいにはなれていたはずだ。
そんなシリウスが、実は最初からわたしが魔王の魔力を使えることを知っていて、その上で計画に利用していて、なんならリーベルがわたしと出会うことすら知っていた。
全てを知っていそう。そう思っていた時期があったが、正しくは全てを知っていただ。
そして、それをわざわざ全て言葉にまとめて、わたしに告げて、それで突き放した。
まるで、もうわたしはこの計画には不要だとでもいうように。
枕を殴る。
シリウスは殴れない。
もう一度、拳を大きく振りかぶって、枕目掛けて振り下ろす。
そうしようとした時、扉の方からノックが聞こえて、枕に当たる寸前でその手を止めた。
「お嬢様」
ノックの後、そう聞こえてくる。
わたしが了解を出す前に、扉からグレイアが入ってきた。
顔は枕に埋めているから、それがグレイアであるという確証はない。
ただ、慣れ親しんだ声だから、そうだと分かる。
足音が近づいてきて、ベッドの隣に来たあたりで止まる。そのあとすぐに、ベッドが少し揺れる。
埋めていた顔を少しズラして、目を向ける。ベッドに腰をすえているグレイアが見えた。
「お嬢様」
グレイアはもう一度そう言って、わたしの頭に優しく手を置いた。
わたしはその手を叩いて振り払う。
少し乱暴にしてしまったが、グレイアが怒ることはなく、凍り付いた喉を溶かすように声を出す。
「ロリエル様から、天界裁判のことをお聞きしていました」
「……」
「お嬢様たちのことが天界にバレてしまったと」
「……」
「天界裁判が行われることなど、そうありませんから、わたくしは、もうお嬢様がこの場に帰ってくることはないのかと、そう思ってしまったのです。どうか、お許しくださいお嬢様」
何故か許しを請うグレイアに、依然としてわたしは沈黙を貫いた。
「だからこそ、このようにお嬢様が帰ってきてくれたこと、わたくしは嬉しく思います」
グレイアはもう一度わたしの頭に手を置いた。
今度は、その手を振り払わない。
「以前、確かにわたくしも、ご主人様も、お嬢様が家を出ることを見送りました。ですが、それは見放したということではなく、言葉通り、見送ったのです。ですから、家に帰ってきてくれることをいつまでもわたくしたちは待ち望んでおります」
そう言って、グレイアはわたしの頭を優しく撫でる。
天界裁判が行われたことは知っていても、シリウスが裏切ったことや、わたしが魔王の転生者だったことは知らないはずだ。
それなのに、グレイアはわたしに何も聞かない。ただ、静かにお出迎えするだけだ。
しかし、それが心地いい。
今は、何も話したくない。何も話さなくていい環境を作ってくれる誰かと一緒にいることを望んでいる。
沈黙を望んで、孤独を拒む。
そんな矛盾を抱えるわたしを、グレイアは迎え入れた。
「全部、初めから仕組まれてた」
孤独を望んだのに、孤独に耐えられないわたしは口を開く。
「はい」
「あいつは、わたしが魔王の魔力を持っている理由も、端から魔王を復活させることが無理なことも、全部知っていた」
「はい」
「この計画のおかげでリーベルに会えた、なんて、そんなのリーベルと出会うことすら分かってたみたいだ」
「はい」
グレイアが端的に「はい」と答える度に、わたしの体温が熱くなる。
「そもそもわたしの特性を利用していたとか、そもそも魔王を復活させるということ自体が違ったとか、そんなの……どうでもいい」
「はい」
「腹が立つ。けど、全部を隠していたことに腹が立つんじゃなくて、これまでも道筋を踏みにじったことに腹が立つ」
「はい」
グレイアの撫でる手がより穏やかになる。
それは、わたしの感情を示しているようで、先ほどから熱くなっている体温の原因は、苛立ちと、強い孤独感だ。
枕を濡らして、それが涙だと気付いて、グレイアに鬱憤をぶつけて。
そんな自分に嫌気が差して、黙る。
以前として、グレイアはわたしの頭を撫でた。
「そろそろ、食卓に向かいましょう。久しぶりに、こちらで何か食べて、少し、心を休ませた方が良いと思います」
「……うん」
グレイアに連れられて、食卓に着く。そこには既に料理が用意されていて、お父様だけでなく、リーベルもいる。しかし、ロリエルはいない。
グレイアが椅子を引いて、わたしはそこに座る。
カチャカチャと食器を静かに鳴らして、皿に盛りつけられたサラダを口に運ぶ。
味がしない。
咀嚼する度、頭の中にシャキシャキという音が一定間隔で鳴って、無心になる。時計の音も鳴って、その音に頭が持っていかれて、次第にわたしは時計の音に合わせて咀嚼する。
妙に周りの音が気になって、おかしくなる。
「ミリア」
その時、隣に座っていたリーベルがわたしを呼んだ。
その呼び掛けに反応して、サラダを運ぶ手を止めた。すると、サラダがフォークから抜けて、膝に落ちる。
「‥‥ごめんなさい」
サラダに謝っているのか、それとも行儀に厳しいお父様に謝っているのか。
なにも分からず、暫く時が止まったかのようにぼーっとして、サラダを拾って、口に運ぶ。
「‥‥なに?」
「‥‥え?」
一連の動作をゆっくりとして、それと同じようにリーベルの呼び掛けにようやく答える。
「なにもないの?」
「えっと‥‥‥」
リーベルも暫く沈黙して、ようやく口を開いた。
「ミリア‥‥その、ごめんね」
「どうして謝るの?」
「私、その‥‥面倒くさいこと言っちゃって」
面倒くさいこと。
確かに、わたしの心配を”信用していない”に置き換えた上で泣きじゃくるリーベルは面倒くさかった。
まずい。そんなことを冗談ではなく、本気で思っている。
「私‥‥‥」
そう言って、もう一度会話を紡ぎ出す。
「私、その‥‥あんまり会話の内容を把握するのとか苦手だから、シリウスが言うことはあんまり分からなかったんだけど‥‥でも、思うの。シリウスは、多分、いや、絶対に私たちのことを利用してただけなんてないって。だって、そうじゃないと笑うなんてことしないよ。いつも笑顔で、私たちと一緒にいたのに、それで利用してただけなんて、そんなことないよ」
知っている。
シリウスはいつも笑顔だ。
ただ、それはまるで嘘で塗り固めた無理やりな笑顔で、なによりシリウスの行動がそれを証明した。
知っている。
シリウスはわたしたちを利用していただけだ。
「シリウス、無理をしてると思うの。だって、いつもみたいにふざけてなかった。多分、シリウスは‥‥‥」
「リーベル」
鋭くその名を呼んで、発言を遮る。
「今は、食事の時間よ」
そう言って、無理やり会話を終わらせた。
食事を済ませて、メイド達が皿を片付ける。そして、わたしは自分の部屋に帰ろうとした。
――――――不安。
突如として感じる出元不明の不快感に全身が震わせられた。
なんだこれ。
体の底から冷や汗が頭頂部まで走り抜ける。
「お嬢様」
グレイアが短くそう言って、わたしを庇うように手を前に出した。その不安は、その先から感じる。
そして、わたしはその庇う手を潜り抜けて窓を覗く。
あれは‥‥‥ディアベル?
ディアベルが見えた。
それに‥‥‥誰だ、隣のあいつは。
なんとなく気になって、わたしは走った。
「お待ちください! お嬢様!」
走って、邸宅から出て、外にいるディアベルと何者かの前に向かった。
「‥‥‥あら、お久しぶりですね、ミリア様」
「ディアベル? どうしてここにいるんだ? それに隣のやつは‥‥‥」
ディアベルの隣にいる何者かに目を向ける。
透き通った銀色の長髪。
目は細いが、微かにこちらを覗いた時に見える瞳には黄金の十字が刻まれている。
そして、六枚の翼。
天使‥‥? それも、熾天使だ。でも、どうしてディアベルと熾天使が‥‥‥
「あら、そういえばミリア様は初対面でしたね。代わりにご紹介しましょう。こちら‥‥‥」
「構いません」
その何者かはそう言ってディアベルの発言を遮った。
「余自ら自己紹介をさせていただきます。それこそが、”魔王様”への礼儀というもの」
「お前は‥‥‥」
声を聞いてようやく男性だと分かるほどの美麗な外見をした天使は言う。
「余は、<無欲>の天使セルシエル。またの名を、四魔将<堕天>でございます」




